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【1】

ー/ー



──ああ、雨だ。

 休日の朝。明るい着信メロディに眠りを妨げられた。
 成美(なるみ)はベッドの上にゆっくりと起き上がり、友人からの通話に応えようとスマートフォンを手に取る。
 窓の外から聞こえる慣れた音が耳に流れ込むのとほぼ同時に、記憶の蓋が(きし)みながら開いた。

    ◇  ◇  ◇
 成美には恋人がいた。
 大学に入ってすぐに告白されて、付き合い始めた彼。
 初めての交際で、経験がないからこそしばらくは誰かに話していいものかも判断できずに躊躇していた。
 学生時代の恋愛なんて、どこまで続くかわからない。
 舞い上がって吹聴したはいいが、すぐに別れてしまったら? 「別れた」といちいち報告するのは気が重い。かといって見栄を張るのも虚し過ぎる。
 自信がなくて、常に最悪の事態を想定して身構えてしまっていた。
 それでも丸二年の記念日を迎えたあたりから、自然と互いの友人にも会わせようという話になる。もしかしたらこのままこの人と、となんとなく感じ始めたのもその頃だった。
 成美も彼も、どこかで心を決めていたのかもしれない。
 中学時代からの親友だったあの子には、当然ながら真っ先に紹介した。
 大学は別になり会う機会も減ってはいたが、頻繁に連絡を取り合う仲に変わりはなかった。恋人がいることも彼女にだけは早いうちに打ち明けていた。「会わせて」という懇願には、簡単には頷けなかったのだけれど。
 だからこそ喜んでくれると思っていた。いや、喜んでくれてはいた。少なくとも表面上は。
 ──最も心を許した二人に裏切られるなんて、まったく考えてもみなかった。

「成美、ごめんね。でもあたしとあの人はもう……」
 涙声でテーブルに額がつくくらいに深く頭を下げる彼女。ついこの間までは大切な親友だった、泥棒猫。
 いつものカフェの奥まった席までは、外の激しい雨の音は聞こえて来ない。無意識に落とした視線の先には、濡れて爪先の色が変わった靴。
 ──大好きなお気に入りだった。彼と一緒に買い物に行って、二人で選んだ華奢なハイヒール。雨の日には絶対に履かなかったのに、何故今日に限ってこれを……?
 現実逃避しそうになった思考を、成美は強引に引き戻す。
 彼の様子がおかしいのには気づいていた。友人に改まって呼び出されて、知らされたその理由に愕然とする。
 衝撃が薄れるにつれ、静かに怒りが沸いて来た。哀しみではなく。
「どうでもいいわ。あんたなんか信用した私がバカだったのよ。大事な友達だと思ってたのに、本当に呆れた」
「なる──」
 ──謝られてどうしろって言うのよ。私が身を引いて、二人の行く末を祝福してくれるとでも?

 どちらにしても、彼とはもう終わりだ。
 真剣なら言うまでもないが、一時の気の迷いだったとしても今更受け入れられない。「彼女の友達」に、たとえ一瞬でも(なび)くような男なんて。
「まさか私の友達にまでやるなんてね。あんた、あいつにいくら貢いだの?」
 ちょっとした意趣返しのつもりで吐いた成美の台詞に、彼女はさっと蒼褪めた。
「何、……何、言って。あたし、だって、そん、そんなまさか──」
 目に見えて狼狽える彼女に溜飲が下がる。
 彼は女から金を巻き上げるような男ではなかった。
 それは確かだと胸を張って断言できる。二年以上付き合った、愛して信じていた成美の恋人は。
 ただ、少し注意力散漫なところがあるのは否めなかった。
 彼はよく財布やパスケースを忘れては、その場で必要な費用を安易に借りて済ませようとする。
 次に会ったときに丁寧な謝罪と礼と共に必ず返してくれるので、成美も「しっかりしてよね」と苦笑する程度でしかなかった。
 懲りずに何度も繰り返されて、もうこれは性格の問題で治らないと諦めていたのだ。
 それどころか、見た目もよくあらゆる意味でハイスペックと評して差し支えない彼の数少ない欠点も、可愛いとさえ感じていたくらいなのに。
 しかし彼女はそんな事情をまだ知らないだろう。そして、この様子だと彼に金を貸したことがあるのはまず間違いない。
 成美の出任せだというのはすぐに露見するだろうが、この二人に「騙した」と責められる謂れはないし、罪悪感など覚える筈もなかった。
 ──せめて短期間だけでも、苦しめてやらなければ気が済まない。

「最初はちょっとした金額ですぐ返すから、つい相手も油断しちゃうんだよね。今まで田舎の親がだいぶ後始末してきたみたいよ。だから大きな問題にはならなかったんだけど」
 そのうちエスカレートして行く、と成美は言外に告げた。
 我ながらよくもここまで、と思うほど、次から次へと滑らかに口をついて出る作り話。
 言葉を失くした彼女を内心で嘲笑いながら、自分はこういう人間だったのかと頭の片隅で他人事のように考えていた。
「──私、彼とはとても将来なんて考えられないし、いい加減逃げたいと思ってたの。殴られたら嫌だからなかなか切り出せなくて、あんたにも会わせたけど。察して早速乗り換え先見つけるなんて、さすが天然詐欺師ね。外面だけはいいのよ、彼。まあご愁傷様」
 畳み掛けられガタガタと震え出した『元友人』の姿を、成美は冷ややかに見つめる。
 少額を借りてすぐ返し、安心させる。
 彼のその行動に心当たりがあるからこそ疑いも抱かないのか。
 冷静に考えれば、いくらなんでもそんな男と二年も続くわけがないとすぐに見破れそうなものだが、今の彼女にはすべてにおいて余裕がないのだろう。
 あるいは、成美に対する負い目で判断力が鈍っているのかもしれない。
「あいつすぐキレて暴力振るうから、問い詰める時はくれぐれも注意してね。一応友達()への最後の思いやりよ」
 もちろん事実無根だ。彼はむしろ穏やかな性格なのだから。
 冷たく言い放ち席を立つ成美に、彼女は茫然自失の体で固まったままだった。
 一度も振り向くことなく、真っ直ぐ前だけ見据えて出口へ向かう。

 傘立ての中の見慣れた花模様の柄を掴み、ドアを押し開けると同時に一気に開いて成美は雨の街へ踏み出した。


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──ああ、雨だ。
 休日の朝。明るい着信メロディに眠りを妨げられた。
 |成美《なるみ》はベッドの上にゆっくりと起き上がり、友人からの通話に応えようとスマートフォンを手に取る。
 窓の外から聞こえる慣れた音が耳に流れ込むのとほぼ同時に、記憶の蓋が|軋《きし》みながら開いた。
    ◇  ◇  ◇
 成美には恋人がいた。
 大学に入ってすぐに告白されて、付き合い始めた彼。
 初めての交際で、経験がないからこそしばらくは誰かに話していいものかも判断できずに躊躇していた。
 学生時代の恋愛なんて、どこまで続くかわからない。
 舞い上がって吹聴したはいいが、すぐに別れてしまったら? 「別れた」といちいち報告するのは気が重い。かといって見栄を張るのも虚し過ぎる。
 自信がなくて、常に最悪の事態を想定して身構えてしまっていた。
 それでも丸二年の記念日を迎えたあたりから、自然と互いの友人にも会わせようという話になる。もしかしたらこのままこの人と、となんとなく感じ始めたのもその頃だった。
 成美も彼も、どこかで心を決めていたのかもしれない。
 中学時代からの親友だったあの子には、当然ながら真っ先に紹介した。
 大学は別になり会う機会も減ってはいたが、頻繁に連絡を取り合う仲に変わりはなかった。恋人がいることも彼女にだけは早いうちに打ち明けていた。「会わせて」という懇願には、簡単には頷けなかったのだけれど。
 だからこそ喜んでくれると思っていた。いや、喜んでくれてはいた。少なくとも表面上は。
 ──最も心を許した二人に裏切られるなんて、まったく考えてもみなかった。
「成美、ごめんね。でもあたしとあの人はもう……」
 涙声でテーブルに額がつくくらいに深く頭を下げる彼女。ついこの間までは大切な親友だった、泥棒猫。
 いつものカフェの奥まった席までは、外の激しい雨の音は聞こえて来ない。無意識に落とした視線の先には、濡れて爪先の色が変わった靴。
 ──大好きなお気に入りだった。彼と一緒に買い物に行って、二人で選んだ華奢なハイヒール。雨の日には絶対に履かなかったのに、何故今日に限ってこれを……?
 現実逃避しそうになった思考を、成美は強引に引き戻す。
 彼の様子がおかしいのには気づいていた。友人に改まって呼び出されて、知らされたその理由に愕然とする。
 衝撃が薄れるにつれ、静かに怒りが沸いて来た。哀しみではなく。
「どうでもいいわ。あんたなんか信用した私がバカだったのよ。大事な友達だと思ってたのに、本当に呆れた」
「なる──」
 ──謝られてどうしろって言うのよ。私が身を引いて、二人の行く末を祝福してくれるとでも?
 どちらにしても、彼とはもう終わりだ。
 真剣なら言うまでもないが、一時の気の迷いだったとしても今更受け入れられない。「彼女の友達」に、たとえ一瞬でも|靡《なび》くような男なんて。
「まさか私の友達にまでやるなんてね。あんた、あいつにいくら貢いだの?」
 ちょっとした意趣返しのつもりで吐いた成美の台詞に、彼女はさっと蒼褪めた。
「何、……何、言って。あたし、だって、そん、そんなまさか──」
 目に見えて狼狽える彼女に溜飲が下がる。
 彼は女から金を巻き上げるような男ではなかった。
 それは確かだと胸を張って断言できる。二年以上付き合った、愛して信じていた成美の恋人は。
 ただ、少し注意力散漫なところがあるのは否めなかった。
 彼はよく財布やパスケースを忘れては、その場で必要な費用を安易に借りて済ませようとする。
 次に会ったときに丁寧な謝罪と礼と共に必ず返してくれるので、成美も「しっかりしてよね」と苦笑する程度でしかなかった。
 懲りずに何度も繰り返されて、もうこれは性格の問題で治らないと諦めていたのだ。
 それどころか、見た目もよくあらゆる意味でハイスペックと評して差し支えない彼の数少ない欠点も、可愛いとさえ感じていたくらいなのに。
 しかし彼女はそんな事情をまだ知らないだろう。そして、この様子だと彼に金を貸したことがあるのはまず間違いない。
 成美の出任せだというのはすぐに露見するだろうが、この二人に「騙した」と責められる謂れはないし、罪悪感など覚える筈もなかった。
 ──せめて短期間だけでも、苦しめてやらなければ気が済まない。
「最初はちょっとした金額ですぐ返すから、つい相手も油断しちゃうんだよね。今まで田舎の親がだいぶ後始末してきたみたいよ。だから大きな問題にはならなかったんだけど」
 そのうちエスカレートして行く、と成美は言外に告げた。
 我ながらよくもここまで、と思うほど、次から次へと滑らかに口をついて出る作り話。
 言葉を失くした彼女を内心で嘲笑いながら、自分はこういう人間だったのかと頭の片隅で他人事のように考えていた。
「──私、彼とはとても将来なんて考えられないし、いい加減逃げたいと思ってたの。殴られたら嫌だからなかなか切り出せなくて、あんたにも会わせたけど。察して早速乗り換え先見つけるなんて、さすが天然詐欺師ね。外面だけはいいのよ、彼。まあご愁傷様」
 畳み掛けられガタガタと震え出した『元友人』の姿を、成美は冷ややかに見つめる。
 少額を借りてすぐ返し、安心させる。
 彼のその行動に心当たりがあるからこそ疑いも抱かないのか。
 冷静に考えれば、いくらなんでもそんな男と二年も続くわけがないとすぐに見破れそうなものだが、今の彼女にはすべてにおいて余裕がないのだろう。
 あるいは、成美に対する負い目で判断力が鈍っているのかもしれない。
「あいつすぐキレて暴力振るうから、問い詰める時はくれぐれも注意してね。一応|友達《》への最後の思いやりよ」
 もちろん事実無根だ。彼はむしろ穏やかな性格なのだから。
 冷たく言い放ち席を立つ成美に、彼女は茫然自失の体で固まったままだった。
 一度も振り向くことなく、真っ直ぐ前だけ見据えて出口へ向かう。
 傘立ての中の見慣れた花模様の柄を掴み、ドアを押し開けると同時に一気に開いて成美は雨の街へ踏み出した。