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【1】

ー/ー



 確か小学校の四年生、だったかな。
 気持ち悪い小父さんだった。
 学校帰りの僕に、やたらくっついて話し掛けて来てさ。肩に腕を回して、すぐ傍のマンションの方に連れて行かれそうになったんだよ。
 この辺りは大きなマンションが多いんだ。敷地も広くて公園があったり、木が植えてあったりするんだよね。いったんその中に入ったら、多分外からは見えない。
 びっくりして僕が逃げようと身体の向き変えたら、背負ってたランドセルがそいつの鳩尾(みぞおち)に直撃したみたい。なんか呻きながらうずくまって……。
 その拍子に視界の端で何かが縦に動いて、道路に顔を向けたらナイフが落ちていた。
 うちにあるようなごく普通の果物ナイフでも包丁でもないけど、間違いなく危険な刃物。

 何気なく拾って前を見ると、男が立ち上がろうとしてるところだった。
 僕は反射的に、そいつのまだ伸び切ってない背中にナイフを突き立てたんだ。
 薄い銀色の刃が男の身体に入って行く。
 僕は思い切り力を入れてなんかいないのに。特別力持ちでもないのに。
 すぅーっと何の抵抗もなく吸い込まれて、というわけでもない。だけど。
 刃から、柄から、何かが流れて来たような、──気がつくと掴んでいた柄は僕の手からすり抜けていた。
 崩れ落ちたその男の背中からナイフを引き抜いて、ポケットの中のタオルハンカチでくるんでそのままポケットに入れる。後ろは振り向かずに、僕は走って家に帰った。
 学校帰りは寄り道しないで真っ直ぐ帰ることになってるから。……僕は「寄り道」はしてないけど。

 家に着いて、ランドセルから鍵を出そうとして初めて気がついた。手に、血がついてる。たくさん。まだ、乾いてない。
 どうしよう、と思ったけど、仕方がないから僕は着ていたシャツで手を拭いた。
 なるべくランドセルを汚さないように気をつけて蓋を開ける。
 鍵はリールキーホルダーでポケットのファスナーに着けてあるから、中の教科書には触らなくて済んでよかった。
 お母さんは仕事で、毎日六時頃にならないと帰って来ない。お父さんはもっと遅くて、僕が寝てからになることもよくあるんだ。 
 ベルトに腕を通して持ってたランドセルを、玄関先でいったん下ろした。

 いつもの習慣で、僕は洗面所に手を洗いに行く。帰宅したら手洗いとうがいは、お母さんにうるさく言われてるから。
 ハンドソープで何度も洗って、掌の皺まで入り込んでた血は全部落とせた。あとは、さっき手を拭いたこの服。
 ううん、きっとそれだけじゃない。
 だってナイフを抜いちゃったら血がいっぱい出るって、前にドラマで観たことあるし。
 ……抜いても噴き出したって感じはしなかったんだけど、いっぱいにもいろいろあるからさ。
 どっちにしても他のものと一緒に洗濯したら駄目だよね。
 僕の服は、お母さんの趣味で大抵シンプルなモノトーン基調。つまり、血がついても目立たないってこと。

「お風呂場のバケツに洗剤入れて漬けておいて。お風呂入るときにお母さんが下洗いするから」
 以前に何度か、学校で図工の絵の具や書道の墨汁で服を汚した経験があるんだ。そういう時、いつもお母さんが言う。
 だから同じように漬けておこう。
 だけど服だけじゃないかもしれない。あのドラマでは、お医者さんが「血は危険だ」って言ってた、気がする。
 思い切ってシャワー浴びようかな。お母さんには「絵の具が結構染み込んで身体にもついちゃった」とか言えばいいか。
 汚した服は、僕が夜お風呂に入った時に洗えばいいし。そうしよう。

 ──僕はさっき人を刺した。死んだ、かもしれない。

 なのに、僕の中に怖いって気持ちはなかった。だからって別に、楽しくも気持ちよくもないんだけど。
 いつもとあんまり変わらなくて、こんな風に服の心配したりしてるんだよ。お母さんに見つからないように、とか。
 でも同時に、銀色が肉に埋もれて行く感触が、僕の手に、腕に、……脳に伝わって来たんだ。火のような熱さで、じんわりと。
 そう、ナイフの柄を通じて流れて来た、何かの正体がちらりと過る。揺らめく。
 そのときはそうとしか思えなかったけど、『火のような』じゃない。
 あれは、まさしく『炎』だった。

 死体(・・)はすぐに見つかったらしい。

「たぁちゃん、学校の行き帰りで危ないことない? 何かおかしいと思ったら、すぐ先生とお母さんに言ってね。……嫌だわ、このあたり落ち着いて安全だと思ったから越して来たのに」
 翌朝、お母さんが不安そうに声掛けて来たから。
 物静かな優等生で通ってる僕は、疑いを向けられることもなかった。むしろ心配される方。日頃の行いって大事だよね。
 本当に、よくお母さんが言ってるとおりだ。

「うん、わかった。それよりお母さん、僕もう十歳だよ。『たぁちゃん』なんて子どもっぽいから、ちゃんと(たくみ)って呼んで欲しいな」
 茅島(かやしま) 巧。それが僕の名前。
 自分でも気に入ってるから、できたら幼稚な愛称じゃなく本名の方が嬉しいんだよね。

「そうよね、たぁ、巧ももう大きいものねぇ。ついつい赤ちゃんの頃からの癖が出ちゃって。気をつけるわ」
 死体、か。そうか、やっぱり死んだんだ。

 ──僕が、殺したんだ。そ、っかぁ。

 それ以来。
 何年かに一度、僕はどうしても『人を殺したい』欲求が抑えられなくなる。
 一回やるとすっきりするんだけどね。勢いよく燃え上がり、身体の隅々まで行き渡っていた炎が小さく(しぼ)むように。
 だけど、炎は決して消え失せることはない。火の手が上がらないだけで、燻ったまま僕の中のどこか奥で眠ってるんだ。
 あの(・・)ナイフは、一般に『狩猟用(ハンティング)ナイフ』で想像するような大仰な代物でもなかった。ただ、小型のその(たぐい)ではあるのかな。
 当時はまったく知らなかったけど、今の僕なら理解できるからさ。よく切れるしね。

 ──そう、まさに。いかにも動物を狩るために作られた道具らしく。 



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 確か小学校の四年生、だったかな。
 気持ち悪い小父さんだった。
 学校帰りの僕に、やたらくっついて話し掛けて来てさ。肩に腕を回して、すぐ傍のマンションの方に連れて行かれそうになったんだよ。
 この辺りは大きなマンションが多いんだ。敷地も広くて公園があったり、木が植えてあったりするんだよね。いったんその中に入ったら、多分外からは見えない。
 びっくりして僕が逃げようと身体の向き変えたら、背負ってたランドセルがそいつの|鳩尾《みぞおち》に直撃したみたい。なんか呻きながらうずくまって……。
 その拍子に視界の端で何かが縦に動いて、道路に顔を向けたらナイフが落ちていた。
 うちにあるようなごく普通の果物ナイフでも包丁でもないけど、間違いなく危険な刃物。
 何気なく拾って前を見ると、男が立ち上がろうとしてるところだった。
 僕は反射的に、そいつのまだ伸び切ってない背中にナイフを突き立てたんだ。
 薄い銀色の刃が男の身体に入って行く。
 僕は思い切り力を入れてなんかいないのに。特別力持ちでもないのに。
 すぅーっと何の抵抗もなく吸い込まれて、というわけでもない。だけど。
 刃から、柄から、何かが流れて来たような、──気がつくと掴んでいた柄は僕の手からすり抜けていた。
 崩れ落ちたその男の背中からナイフを引き抜いて、ポケットの中のタオルハンカチでくるんでそのままポケットに入れる。後ろは振り向かずに、僕は走って家に帰った。
 学校帰りは寄り道しないで真っ直ぐ帰ることになってるから。……僕は「寄り道」はしてないけど。
 家に着いて、ランドセルから鍵を出そうとして初めて気がついた。手に、血がついてる。たくさん。まだ、乾いてない。
 どうしよう、と思ったけど、仕方がないから僕は着ていたシャツで手を拭いた。
 なるべくランドセルを汚さないように気をつけて蓋を開ける。
 鍵はリールキーホルダーでポケットのファスナーに着けてあるから、中の教科書には触らなくて済んでよかった。
 お母さんは仕事で、毎日六時頃にならないと帰って来ない。お父さんはもっと遅くて、僕が寝てからになることもよくあるんだ。 
 ベルトに腕を通して持ってたランドセルを、玄関先でいったん下ろした。
 いつもの習慣で、僕は洗面所に手を洗いに行く。帰宅したら手洗いとうがいは、お母さんにうるさく言われてるから。
 ハンドソープで何度も洗って、掌の皺まで入り込んでた血は全部落とせた。あとは、さっき手を拭いたこの服。
 ううん、きっとそれだけじゃない。
 だってナイフを抜いちゃったら血がいっぱい出るって、前にドラマで観たことあるし。
 ……抜いても噴き出したって感じはしなかったんだけど、いっぱいにもいろいろあるからさ。
 どっちにしても他のものと一緒に洗濯したら駄目だよね。
 僕の服は、お母さんの趣味で大抵シンプルなモノトーン基調。つまり、血がついても目立たないってこと。
「お風呂場のバケツに洗剤入れて漬けておいて。お風呂入るときにお母さんが下洗いするから」
 以前に何度か、学校で図工の絵の具や書道の墨汁で服を汚した経験があるんだ。そういう時、いつもお母さんが言う。
 だから同じように漬けておこう。
 だけど服だけじゃないかもしれない。あのドラマでは、お医者さんが「血は危険だ」って言ってた、気がする。
 思い切ってシャワー浴びようかな。お母さんには「絵の具が結構染み込んで身体にもついちゃった」とか言えばいいか。
 汚した服は、僕が夜お風呂に入った時に洗えばいいし。そうしよう。
 ──僕はさっき人を刺した。死んだ、かもしれない。
 なのに、僕の中に怖いって気持ちはなかった。だからって別に、楽しくも気持ちよくもないんだけど。
 いつもとあんまり変わらなくて、こんな風に服の心配したりしてるんだよ。お母さんに見つからないように、とか。
 でも同時に、銀色が肉に埋もれて行く感触が、僕の手に、腕に、……脳に伝わって来たんだ。火のような熱さで、じんわりと。
 そう、ナイフの柄を通じて流れて来た、何かの正体がちらりと過る。揺らめく。
 そのときはそうとしか思えなかったけど、『火のような』じゃない。
 あれは、まさしく『炎』だった。
 |死体《・・》はすぐに見つかったらしい。
「たぁちゃん、学校の行き帰りで危ないことない? 何かおかしいと思ったら、すぐ先生とお母さんに言ってね。……嫌だわ、このあたり落ち着いて安全だと思ったから越して来たのに」
 翌朝、お母さんが不安そうに声掛けて来たから。
 物静かな優等生で通ってる僕は、疑いを向けられることもなかった。むしろ心配される方。日頃の行いって大事だよね。
 本当に、よくお母さんが言ってるとおりだ。
「うん、わかった。それよりお母さん、僕もう十歳だよ。『たぁちゃん』なんて子どもっぽいから、ちゃんと|巧《たくみ》って呼んで欲しいな」
 |茅島《かやしま》 巧。それが僕の名前。
 自分でも気に入ってるから、できたら幼稚な愛称じゃなく本名の方が嬉しいんだよね。
「そうよね、たぁ、巧ももう大きいものねぇ。ついつい赤ちゃんの頃からの癖が出ちゃって。気をつけるわ」
 死体、か。そうか、やっぱり死んだんだ。
 ──僕が、殺したんだ。そ、っかぁ。
 それ以来。
 何年かに一度、僕はどうしても『人を殺したい』欲求が抑えられなくなる。
 一回やるとすっきりするんだけどね。勢いよく燃え上がり、身体の隅々まで行き渡っていた炎が小さく|萎《しぼ》むように。
 だけど、炎は決して消え失せることはない。火の手が上がらないだけで、燻ったまま僕の中のどこか奥で眠ってるんだ。
 |あの《・・》ナイフは、一般に『|狩猟用《ハンティング》ナイフ』で想像するような大仰な代物でもなかった。ただ、小型のその|類《たぐい》ではあるのかな。
 当時はまったく知らなかったけど、今の僕なら理解できるからさ。よく切れるしね。
 ──そう、まさに。いかにも動物を狩るために作られた道具らしく。