【1】①
ー/ー
「なんか最近視線感じるんだよね、あたし。見張られてるっていうかぁ」
「何それ? 気のせいじゃないの? あんた、そんな鋭くないでしょ」
気味悪げに切り出した綾に掛けられた、隣席に座る同級生の裕美子の興味もなさそうな声。
「違う! そんなんじゃないわ! 帰り道とか尾けられてるような感じもするし、……今も見られてる、みたいな」
「今、って。綾、それこそ気にし過ぎじゃない? こっち見てる子は多くても、別にあんたが目的とは限らないよ? ただ私たちより後ろの席の子が前向いてるだけで」
講義開始前の大教室で、彼女は周囲を見回しこちらに胡乱な目を向けた。
釣られるように後ろを向いた綾も、確かに誰とも視線はぶつからない。
すぐ後ろの卓の同じ位置に座る白いシャツに不格好な黒縁眼鏡の地味な男子、二つ置いた隣に綾とよく似た流行りのファッションの女子。
その横の友人らしき女子も含め全員がマスクで表情もよくわからなかった。
そして皆こちらを向いてはいるが、裕美子の言う通り「教室の前方を見ている」だけなのだろう。しかし──。
「でもぉ……!」
口を開き掛けた綾に、裕美子が呆れを隠そうともせずに言葉を被せる。
「ねえ、それってさ、この大学の学生が外でもあんたを追い回してると思ってるの?」
そんなわけないでしょ、と言わんばかりの彼女に言い返す。
「学生かどうかはわかんない。だって入口でいちいち学生証のチェックするわけじゃないし、誰でも入れるじゃん?」
「そりゃそうかもしれないけどさ、もしかしてなにか心当たりでもあるの? ──まさかまた不倫とかじゃないわよね?」
「……」
黙り込んだ綾に、裕美子は頭を振って大きな溜息を吐いた。
「ホント懲りないね、あんたって。他人の男ばっか欲しがってさ。……今は何があるかわかんないし、心配なら警察に相談に行けば?」
「ダメよ! 警察なんて……、バレたらあたしの方が──」
「へえ。あんたでも自分が悪いことしてるって自覚くらいあるんだ。意外~」
彼女の辛辣な台詞には返す言葉もない。
罪悪感などはまるでないものの、世間一般的に自分が悪く見られる側であることくらいは綾も理解している。
人のモノは素敵に見えるのだ。理屈ではない。『今まで』もずっとそうだった。
恋人よりも夫の方が序列は上だ。その付加価値があるだけで、ただのくたびれた中年男も輝きを放つ。
誰かの男を奪うことで優位に立てた。相手の女に、妻に、「勝った」という明白な結果を得られた。
綾に「負けた」相手がどうなろうと知ったことではない。そんなものは所詮、負け犬の遠吠えに過ぎないのだから。
──たかが夫が浮気したくらいで「人生終了」なんてさ。男なんて掃いて捨てるほどいるじゃんね。あたしのせいじゃない。だって、……何もしてないわけじゃないけどあたしが直接殺したわけじゃないもん!
けれど。「今は何があるかわからない」という裕美子の台詞が頭の中を駆け巡る。
「お願い、裕美子! そんなこと言わないで助けてよ。あたし、どうしたらいい?」
最初はただの愚痴だった。
しかし彼女の話を聞いて唐突に恐怖に襲われる。不倫相手の妻が逆上したら……。
負け犬にも、牙はある。
「どう、って。まず別れたら? 全部そこからでしょ?」
冷静極まりない裕美子の言葉は役に立たなかった。
それだけは嫌だ。綾はまだ勝っていない。今別れたら己の敗北を認めることになってしまう。
別れること自体ではなく、自分の方こそが敗残者の立場に立たされるのだけは我慢ならなかった。
手に入れさえすればいつでも捨てることに躊躇いはない。──「他人のモノ」ではなくなった男が急激に色褪せて見えるのは何故だろう。
「それは別なの! もっと今すぐなんかさあ!」
往生際悪く、彼女の腕を掴んで迫る。微かに嫌悪が滲んだようなその表情は、都合が悪いので見ない振りをした。
「……私も聞いた話で詳しくはないのよ。でも『不倫専門の占い師』がいるんだって。なかなか『良い』アドバイス貰えるんだとか」
「占い師? 不倫、専門の?」
食い下がられて仕方なさそうに話し出した彼女に、首を捻ってしまった。
「そう。だから口コミだけらしいよ。──大々的に宣伝したりしたら、出入りする人間が『不倫してる』ってバレバレだもんね」
「そんなの、……ホントに大丈夫なの?」
不安そうに尋ねる綾に、同級生はわざとらしく肩を竦める。
「さあ? 信用できないと思ったら行かなきゃいいじゃない。私は『行け』って勧めてるわけじゃないわよ」
投げやりな口調に一瞬鼻白んだものの、結局は他に方法も思いつかない。
「信用、できないんじゃないけど、でも……、評判はいい、のよね?」
「私が小耳に挟んだ限りは、ね」
裕美子は何故この大学に来たのかと不思議がられるほど優秀な学生だ。
明らかに学力が見合わないにもかかわらず受験したのは、研究者として高名な女性教授にどうしても師事したかったためだというのは学科内では周知の事実だった。
しかも学年に二人しかいない授業料免除の特待生でもある。
あまり裕福な家庭の育ちではないのは、金の絡む付き合いを避けることからも透けて見えていた。
おそらく彼女にとっては、周囲の学生は対等な会話相手にさえならないのではないか。
……その筆頭が綾なのかもしれないと薄々感じてはいる。
それでも「頭のいい」裕美子は、媚びることまではしないがあからさまに周囲を見下すような言動を取ることもなかった。
レベルを下げてでも、適当に話を合わせて大学内でも上手くやっている。
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「何それ? 気のせいじゃないの? あんた、そんな鋭くないでしょ」
気味悪げに切り出した|綾《あや》に掛けられた、隣席に座る同級生の|裕美子《ゆみこ》の興味もなさそうな声。
「違う! そんなんじゃないわ! 帰り道とか|尾《つ》けられてるような感じもするし、……今も見られてる、みたいな」
「今、って。綾、それこそ気にし過ぎじゃない? こっち見てる子は多くても、別にあんたが目的とは限らないよ? ただ私たちより後ろの席の子が前向いてるだけで」
講義開始前の大教室で、彼女は周囲を見回しこちらに胡乱な目を向けた。
釣られるように後ろを向いた綾も、確かに誰とも視線はぶつからない。
すぐ後ろの卓の同じ位置に座る白いシャツに不格好な黒縁眼鏡の地味な男子、二つ置いた隣に綾とよく似た流行りのファッションの女子。
その横の友人らしき女子も含め全員がマスクで表情もよくわからなかった。
そして皆こちらを向いてはいるが、裕美子の言う通り「教室の前方を見ている」だけなのだろう。しかし──。
「でもぉ……!」
口を開き掛けた綾に、裕美子が呆れを隠そうともせずに言葉を被せる。
「ねえ、それってさ、|この大学《うち》の学生が外でもあんたを追い回してると思ってるの?」
そんなわけないでしょ、と言わんばかりの彼女に言い返す。
「学生かどうかはわかんない。だって入口でいちいち学生証のチェックするわけじゃないし、誰でも入れるじゃん?」
「そりゃそうかもしれないけどさ、もしかしてなにか心当たりでもあるの? ──まさかまた不倫とかじゃないわよね?」
「……」
黙り込んだ綾に、裕美子は頭を振って大きな溜息を吐いた。
「ホント懲りないね、あんたって。他人の|男《モノ》ばっか欲しがってさ。……今は何があるかわかんないし、心配なら警察に相談に行けば?」
「ダメよ! 警察なんて……、バレたらあたしの方が──」
「へえ。あんたでも自分が悪いことしてるって自覚くらいあるんだ。意外~」
彼女の辛辣な台詞には返す言葉もない。
罪悪感などはまるでないものの、世間一般的に自分が悪く見られる側であることくらいは綾も理解している。
人のモノは素敵に見えるのだ。理屈ではない。『今まで』もずっとそうだった。
恋人よりも夫の方が序列は上だ。その付加価値があるだけで、ただのくたびれた中年男も輝きを放つ。
誰かの男を奪うことで優位に立てた。相手の女に、妻に、「勝った」という明白な結果を得られた。
綾に「負けた」相手がどうなろうと知ったことではない。そんなものは所詮、負け犬の遠吠えに過ぎないのだから。
──たかが夫が浮気したくらいで「人生終了」なんてさ。男なんて掃いて捨てるほどいるじゃんね。あたしのせいじゃない。だって、……何もしてないわけじゃないけどあたしが直接殺したわけじゃないもん!
けれど。「今は何があるかわからない」という裕美子の台詞が頭の中を駆け巡る。
「お願い、裕美子! そんなこと言わないで助けてよ。あたし、どうしたらいい?」
最初はただの愚痴だった。
しかし彼女の話を聞いて唐突に恐怖に襲われる。不倫相手の妻が逆上したら……。
負け犬にも、牙はある。
「どう、って。まず別れたら? 全部そこからでしょ?」
冷静極まりない裕美子の言葉は役に立たなかった。
それだけは嫌だ。綾はまだ勝っていない。今別れたら己の敗北を認めることになってしまう。
別れること自体ではなく、自分の方こそが敗残者の立場に立たされるのだけは我慢ならなかった。
手に入れさえすればいつでも捨てることに躊躇いはない。──「他人のモノ」ではなくなった男が急激に色褪せて見えるのは何故だろう。
「それは別なの! もっと今すぐなんかさあ!」
往生際悪く、彼女の腕を掴んで迫る。微かに嫌悪が滲んだようなその表情は、都合が悪いので見ない振りをした。
「……私も聞いた話で詳しくはないのよ。でも『不倫専門の占い師』がいるんだって。なかなか『良い』アドバイス貰えるんだとか」
「占い師? 不倫、専門の?」
食い下がられて仕方なさそうに話し出した彼女に、首を|捻《ひね》ってしまった。
「そう。だから口コミだけらしいよ。──大々的に宣伝したりしたら、出入りする人間が『不倫してる』ってバレバレだもんね」
「そんなの、……ホントに大丈夫なの?」
不安そうに尋ねる綾に、同級生はわざとらしく肩を竦める。
「さあ? 信用できないと思ったら行かなきゃいいじゃない。私は『行け』って勧めてるわけじゃないわよ」
投げやりな口調に一瞬鼻白んだものの、結局は他に方法も思いつかない。
「信用、できないんじゃないけど、でも……、評判はいい、のよね?」
「私が小耳に挟んだ限りは、ね」
裕美子は何故この大学に来たのかと不思議がられるほど優秀な学生だ。
明らかに学力が見合わないにもかかわらず受験したのは、研究者として高名な女性教授にどうしても師事したかったためだというのは学科内では周知の事実だった。
しかも学年に二人しかいない授業料免除の特待生でもある。
あまり裕福な家庭の育ちではないのは、金の絡む付き合いを避けることからも透けて見えていた。
おそらく彼女にとっては、周囲の学生は対等な会話相手にさえならないのではないか。
……その筆頭が綾なのかもしれないと薄々感じてはいる。
それでも「頭のいい」裕美子は、媚びることまではしないがあからさまに周囲を見下すような言動を取ることもなかった。
レベルを下げてでも、適当に話を合わせて大学内でも上手くやっている。