最接近8時間前
ー/ー数日前から、昼間でも空に浮かぶ黒い点。
最初は米粒みたいだったのに、今では指で隠せないほど大きくなっていた。
佐野ユウゴは校庭の真ん中で、汗をぬぐいながらそれを見上げた。
「…なんか、変だよな」
見慣れた空に現れた異物に、胸の奥がざわついていた。
ウルゴス。
ユウゴがまだ保育園児だった5年前に発見され、以来ずっとニュースで見てきた“あの星”。
衝突の危険はない。
天文学者たちはそう言っていた。
だからこそ、誰もが天体ショーだと信じていた。
だが、日ごとに近づいてくるその姿に、本当に衝突しないのだろうか、という不安が脳裏をかすめる。
その時、休み時間の終わりを告げる予鈴が校庭に響いた。
「やべっ!」
ユウゴは慌てて足元のサッカーボールを拾い上げ、道具小屋の籠に放り込むと、教室へ駆け出した。
教室に入る直前、廊下の窓からもう一度だけ空を見上げる。
ウルゴスは、まるでこちらを見返すように、黒々とした姿を浮かべていた。
教室に戻ったユウゴが椅子に腰を落ち着けるより早く、前の席のシンがくるりと振り向いた。
「空、見た?」
「おう。どんどんでかくなってるよな」
そう返すと、シンは少しだけ声を落とした。
「…姉ちゃんがさ。
ぶつかるかもしれないって言ってた。
非常食とか準備しておいた方がいいって…」
ユウゴは思わず眉をひそめた。
「マジで?ぶつからないんだろ?
テレビでもそう言ってるじゃん」
口ではそう言いながら、胸の奥がざわつく。
ここ数日、そんな噂を何度も耳にしていた。
“軌道がずれているらしい”
“専門家が隠してる”
“衝突の可能性がゼロじゃない”
でも、テレビでは毎日、専門家らしい大人が笑顔で言い切っていた。
『衝突の危険はありません。これは安全な天体ショーです』
ユウゴは不安を吹き飛ばすように、少しだけ声を張る。
「だいじょーぶだって!
もし本当に危ないなら、もっと大騒ぎになってるだろ」
シンは納得できない顔で、机の上のシャープペンシルを取り上げると、指先でくるくる回した。
「…でも、なんか変なんだよ。
昨日の夜、ウルゴスの縁が光ってた。あれ、ただの反射じゃない気がする」
「光ってた?気のせいだろ」
「気のせいじゃない。
姉ちゃんも言ってた。“あれは普通じゃない”って」
ユウゴは言葉に詰まった。
シンの姉は大学で物理を学んでいる。
“ちょっと詳しい大人”の言葉は、子どもにとって妙に重い。
その時、教室のスピーカーからチャイムが鳴り、担任の足音が廊下に響いた。
シンは前を向き直り、ユウゴも慌てて教科書を取り出す。
担任の小谷先生が教室に入ってくる。
先生は教卓に教科書を置くと、頭を巡らせて教室を見回した。
「お、なんだか不安そうな顔がちらほら見えるな。
言っとくけどな、小惑星が地球にぶつかるなんてデマだぞ。
先生、こう見えて学生の頃は天文部だったからな。分かるんだ」
小谷先生はいつものガラガラ声でそう言うと、岩みたいな顔に満面の笑みを浮かべた。
それだけで、教室に漂っていた漠然とした不安が少し薄れるようだった。
「ん?」
小谷先生が教室の後ろの方を見る。
「どうした貝塚」
いつの間にか手を挙げていた貝塚ユズが立ち上がり、おずおずと口を開く。
「でも、ウルゴスの軌道計算には何通りかあるって聞きました…」
ユズは、胸の前でぎゅっと手を握りしめながら言った。
声は小さいのに、教室の空気が張りつめる。
小谷先生は一瞬だけ目を丸くした。けれどすぐに、いつもの豪快な笑顔に戻る。
「おお。貝塚、よく知ってるな。
確かに軌道計算には何パターンかある。でもな―」
先生は黒板の前に立ち、チョークで何かを書こうとしたが、結局何も書かずに続ける。
「それは、あくまで“通り道の幅”みたいなもんだ。
ぶつかるかどうかは、もうとっくに計算されてる。
NASAもJAXAも、衝突の可能性ゼロって言ってるんだ。
安心しろ」
そう言って、先生は軽く笑った。
しかし、ユズは座らない。
まっすぐ先生を見つめたまま、静かに続けた。
「…でも、昨日の発表では“誤差が少し広がった”って…。
それって、予測が安定してないってことじゃ…」
ユウゴは思わずシンの背中を見る。
シンは固まったまま、ユズの言葉を聞いている。
小谷先生は、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。その“ほんの一瞬”を、ユウゴは見逃さなかった。
だが、先生はすぐにいつもの調子に戻る。
「貝塚、心配なのは分かる。
でもな、ああいう発表は“安全側に広げて言う”もんなんだ。
大人ってのは、そういうもんだ」
そう言って、先生は手を叩いた。
「よし、授業始めるぞー!」
ユズは小さく「…はい」と言って席に座った。
その横顔は、納得しているようには見えない。
そして、ユウゴ自身も先生の言葉だけでは不安が消えなかった。
窓の外。
青空の中、太陽の隣に浮かぶ黒い影は、さっきよりも、ほんの少しだけ大きく見えた。
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