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第9話:不敵な挑戦状

ー/ー



「……500億の再開発案件に、うちが『元請け』として入札する。……犬飼さん、正気か?」


相模原の国道沿い、新しく借りたプレハブ事務所の会議室。 真治が、広げられた分厚い図面を前に、裏返った声を上げた。窓の外では、朝の通勤ラッシュの喧騒が聞こえる。


「正気ですよ、真治くん。……相沢社長。あなたが望む『職人が報われる、新しい時代の建設会社』を作るなら、いつまでも下請けの椅子に座っている暇はありません」


犬飼幸太郎は、几帳面に整えられたネクタイを指でなぞりながら、冷徹なまでに冷静な口調で答えた。彼の前には、最新のノートパソコンと、相模原市が公示した『駅前複合再開発ビル建設事業』の入札要項が置かれている。


「……大和建設。……俺を切り捨て、山崎さんの事故の全責任を押し付けた、あの野郎どもの本拠地か」


恒一は、パイプ椅子に深く腰掛け、鋭い眼差しで図面を見つめていた。 手元には、かつてのボロボロの作業着ではなく、理恵が選んでくれた仕立ての良い紺色のスーツ。だが、その袖口から覗く手首には、今も職人の証である無数の傷跡が刻まれている。


「そうです。大和建設は、既にこの案件を『自分たちの指定席』だと確信しています。地元の有力議員とも繋がっており、他の大手ゼネコンも、大和の顔色を伺って辞退を始めている。……実質的な無風入札、出来レースです」


犬飼が眼鏡を押し上げ、画面を恒一に向けた。 「ですが、入札条件の隙間に、一箇所だけ風穴が開いています。……『環境配慮型・超高効率電気設備システムの導入』。これだけは、彼らのような巨大組織が、旧態依然とした下請け構造で丸投げするやり方では実現不可能な数値が設定されている。……つまり、現場を熟知し、最新の施工技術を直に叩き込める『本物の技術集団』にしか、この条件はクリアできない」


「……あいつらが一番苦手な、『現場の真実』で勝負を挑むってわけか」


恒一の唇に、不敵な笑みが浮かんだ。 かつてのトラスト・アイは、大和建設の下請けとして、彼らの「駒」でしかなかった。 だが、今の自分には源さんから教わった「魂の技術」があり、犬飼という「組織の裏表を知り尽くした軍師」がいる。そして、どん底を知った真治たちがいる。


「……面白い。……大和の奴らに、思い知らせてやろうぜ。相模原の電気屋をナメると、どうなるかってな」


その日の午後。 恒一と犬飼は、横浜にある大和建設・神奈川支社の重厚な門を潜った。 かつては、工事車両の通用口から頭を下げて入っていた場所だ。だが今日は、正面玄関の受付で、恒一は迷うことなく自分の名刺を差し出した。


『株式会社トラスト・アイ 代表取締役 相沢恒一』


受付の女性が、一瞬、不審そうな表情を浮かべた。 「……あの、失礼ですが、お約束は……」


「ない。……支店長の金子に伝えてくれ。……相沢が、あの時の『落とし前』をつけに来た、とな」


恒一の放つ圧倒的な威圧感に、受付の女性は言葉を失い、慌てて内線電話を手に取った。 数分後。 応接室に現れたのは、かつて恒一を「ゴミ」のように扱い、事故の会見で全ての罪を恒一に着せた張本人――支店長の金子だった。


「……ほう。自己破産したと聞いていたが、まだ生きていたのか。相沢くん」


金子は、高級な革張りのソファにふんぞり返り、鼻で笑った。 「せっかく拾ってやった恩も忘れ、事故を起こして我が社の泥を塗った。……そんな男が、何の用だ? 恵んでもらう金など、一銭もないぞ」


恒一は、怒りを表に出さなかった。 かつての自分なら、その場で机を蹴り飛ばしていただろう。だが、今の恒一の心は、冬の湖のように静まり返っていた。
彼は無言で、犬飼から手渡された一通の封筒を、金子の前に叩きつけた。


「……これは?」


「挑戦状だ。……相模原駅前再開発。……うちが、元請けとして参入させてもらう」


一瞬の沈黙の後、金子は腹を抱えて笑い出した。 「……ははは! 傑作だ! 従業員数名の零細企業が、500億の案件を? 身の程を知れ。入札資格さえ、お前たちにはないんだぞ!」


「……資格なら、既にクリアしています。金子支店長」


犬飼が、冷静に沈黙を破った。 「……我々は、県内の有力な中堅企業三社とコンソーシアム(共同企業体)を組む合意を取り付けました。彼らは技術力はあるが、今回の特殊な電気設備案件に二の足を踏んでいた。……そこに、我々の『施工技術』が加わった。……書類上、我々は正当な入札参加者です」


金子の顔から、余裕の笑みが消えた。 「……犬飼。……お前、あの事故で失脚したはずの……」


「失脚したからこそ、見えた景色があるんですよ、金子さん。……大和建設が、いかに現場を軽視し、数字だけを捏造してきたか。……その証拠も、我々の手元には揃っている」


恒一が立ち上がり、金子の鼻先に顔を寄せた。 その瞳には、かつて相模原の夜を支配した「狂犬」の鋭さと、百戦錬磨の「職人」の重みが同居していた。


「……出来レースは終わりだ、金子。……現場のプライドってやつを、その高い椅子の上で震えながら見てな。……あんたが一番恐れている『真実』で、お前の城を根こそぎ焼き払ってやるよ」


事務所に戻る車中。 恒一は、震える自分の掌を見つめていた。 怒りではない。武者震いだ。


「……犬飼さん。……これで、もう後戻りはできねぇぞ」


「望むところです、社長。……これから、大和建設による猛烈な『潰し』が始まります。資金、資材、そして人員。彼らはあらゆる手段で、我々の足を止めにくる。……ここからが、本当の地獄です」


「……ああ。……だが、俺には見えるぜ。……相模原の空に、俺たちの本当の看板が上がる日がな」


その夜。 トラスト・アイの事務所に、一本の脅迫めいた電話が入る。 さらには、翌朝の現場に、得体の知れない男たちが姿を現した。
大和建設の仕掛けた、卑劣な「宣戦布告」だった。


大和建設・金子支店長への宣戦布告から三日。 再起したばかりの「株式会社トラスト・アイ」を襲ったのは、物理的な暴力ではなく、巨大資本による冷酷な「兵糧攻め」だった。


「……社長、大変です。昨日発注をかけた電線、それから照明器具のメーカー三社から、突然『納入できない』と連絡が入りました」
真治が、受話器を握りしめたまま、真っ青な顔で報告してきた。 「理由を聞いても『在庫がない』の一点張りです。ですが、裏では大和建設が手を回して、相模原周辺の資材を買い占めているという噂があります……」


さらに追い打ちをかけるように、事務所の前に黒塗りの車が数台居座り、現場へ向かおうとする協力会社の職人たちを無言で威嚇し始めた。


「……姑息な真似を」 恒一は、デスクの上で拳を握りしめた。 入札まであと一週間。資材がなければ、技術力を証明するための試作品(プロトタイプ)さえ組み上げられない。大和建設は、土俵に上がる前にトラスト・アイを窒息死させるつもりだ。


「犬飼さん、どう動く。……金で解決できる相手じゃねぇぞ」


犬飼は、冷汗を拭いながらタブレットを叩いていた。 「……彼らの圧力は、正規のルートをすべて塞いでいます。ですが、社長。大和建設がコントロールしているのは『数字』と『権力』だけです。……彼らが決して触れられない場所が、まだ残っています」


「……現場の、横の繋がりか」 恒一の瞳に、かつての野良犬のような鋭い光が戻った。


その夜。恒一は一人、かつて自分が自己破産し、日雇いで泥を啜っていた頃に世話になった「源さん」のプレハブ小屋を訪ねた。 「……源さん。力を貸してほしい」


「……龍司から聞いてるよ。また無茶な喧嘩を売ったらしいな、恒一」 源さんは、古びたストーブで沸かした茶を差し出した。
「大和が動いてる。地元の卸はみんな震え上がってるぞ。お前に資材を流せば、明日から商売ができなくなると脅されてるんだ」


「……わかってます。でも、このままじゃ、現場の人間が一生、あいつらの使い捨ての駒で終わっちまう。……俺は、それを変えたいんだ。職人が、自分の腕に誇りを持って、堂々と元請けと対等に話せる……そんな場所を作りたいんだよ」


恒一の声は、夜の闇を切り裂くように熱かった。 源さんはしばらく沈黙した後、ニヤリと笑った。 「……相模原の職人をナメるなよ、小僧。……あいつらに首根っこ掴まれて喜んでる奴ばかりじゃねぇ。……龍司に連絡しろ。それから、街の小さな電気屋の親父どもを集めろ。……在庫の電線一本、コネクタ一個、みんなで持ち寄れば、戦えるはずだ」


翌朝。トラスト・アイのプレハブ事務所の前に、不思議な光景が広がった。 大和建設の差し向けた黒塗りの車を囲むように、数十台の、年季の入った軽トラが集結したのだ。
荷台には、それぞれが現場で余らせた電線の束や、大切に保管していた器具が積まれている。


「……おい、相沢。これを使えよ。うちの倉庫に眠ってたやつだ」 「俺のところからも、応援を二人出す。大和の顔色なんて、もう飽き飽きだ」


かつて恒一が自己破産した時、石を投げた者もいたかもしれない。だが、どん底から這い上がり、再びペンチを握って小児科の命を救った恒一の姿を見ていた男たちが、そこにいた。


恒一は、集まった職人たちの前で、プレハブの階段に立った。 冷たい朝の空気の中、彼はマイクも使わず、心の底からの言葉を吐き出した。


「……みんな、聞いてくれ。……俺たちは今まで、大きな会社に言われるまま、安い手間賃で、ただ線を繋いできた。……事故が起きれば、俺たちのせいにされ、利益が出れば、あいつらの懐に入る。……そんな時代を、俺たちの代で終わらせよう」


社員の真治、犬飼、そして集まった職人たちが、恒一を注視する。


「……俺たちが信じるのは、図面じゃない。現場だ。……俺たちが守るのは、納期じゃない。そこに住む人の安心だ。……俺たちは、電気を売ってるんじゃない。……『信頼(トラスト)』を灯してるんだ」


「一、我々は、一本の線に魂を込める。その光は、誰かの絶望を照らす唯一の希望であると心得よ」 「二、現場の真実は、常に指先に宿る。数字に惑わされず、自らの腕と誠実さを証明せよ」


「……俺たちの『トラスト・アイ』は、ここから始まる! ……大和建設に教えてやろうぜ。……本当の光を灯しているのは、誰かってことをな!」


「おおおおお!」 相模原の空を揺らすような、職人たちの咆哮。 黒塗りの車に乗っていた男たちは、その圧倒的な熱量に圧され、逃げるように去っていった。


集まった資材と、地元の職人たちの「意地」を結集し、恒一たちは不眠不休で入札用のプロトタイプを組み上げた。 犬飼が作成した緻密な計算書と、恒一たちが魂を込めて組み上げた実機。
それは、大手ゼネコンがどんなに金を積んでも再現できない、現場の執念が結晶化したものだった。


入札当日。 相模原市役所の入札会場。 高級なスーツに身を包んだ金子支店長は、恒一が姿を見せると、余裕の笑みを浮かべて近づいてきた。


「……無駄な足掻きをご苦労様。資材も集まらず、まともな提案など作れなかっただろう? ……大人しく、我々の軍門に降ればよかったものを」


恒一は、金子の言葉を無視し、犬飼と共に静かに席に着いた。 その背中には、事務所に集まった数十人の職人たちの想いが、そして「一本の線に魂を込める」という新しい信念が、重厚なオーラとなって纏わりついていた。


「……これより、開札を行います」


職員の声が響く。 会場を包む、張り詰めた緊張感。 金子は勝利を確信し、ふんぞり返っていた。


だが、封筒が開かれた瞬間、職員の表情が強張った。 「……第一順位……。……株式会社トラスト・アイ、共同企業体。……提案評価点、満点」


会場が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 「なっ、何だと!? 何かの間違いだろ!」 金子が立ち上がり、絶叫した。


「……間違いじゃねぇよ、金子」 恒一はゆっくりと立ち上がり、金子の瞳を真っ向から見据えた。
「あんたたちが『数字』をいじくっている間に、俺たちは『未来』を繋いじまったんだ。……これが、現場の力だ」


入札会場の外には、理恵が待っていた。 彼女は、結果を聞く前から、恒一の顔を見てすべてを察していた。 「……お疲れ様。……相沢さん。……ここからが、本当の始まりね」


「……ああ。……でも、俺一人じゃない。……俺たちには、もう揺るがない『信条』がある。……これを信じてついてくる仲間がいる限り、俺たちはどこまでも行ける気がするんだ」


恒一は理恵の手を握り、ゆっくりと歩き出した。 夕暮れの街に灯り始めた街灯を見つめながら、彼は心の中で、自分たちの「信条」をもう一度反芻した。


この勝利は、巨大な壁に穿った小さな風穴に過ぎない。 だが、その穴から差し込む光が、この先、どれほど多くの人々の人生を照らしていくのか。
恒一は、まだ知らない。 ただ、明日もまた、一本の線を繋ぐために現場へ向かう。その覚悟だけが、彼の足元を強く、真っ直ぐに支えていた。



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次のエピソードへ進む 第10話:組織の産声


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「正気ですよ、真治くん。……相沢社長。あなたが望む『職人が報われる、新しい時代の建設会社』を作るなら、いつまでも下請けの椅子に座っている暇はありません」
犬飼幸太郎は、几帳面に整えられたネクタイを指でなぞりながら、冷徹なまでに冷静な口調で答えた。彼の前には、最新のノートパソコンと、相模原市が公示した『駅前複合再開発ビル建設事業』の入札要項が置かれている。
「……大和建設。……俺を切り捨て、山崎さんの事故の全責任を押し付けた、あの野郎どもの本拠地か」
恒一は、パイプ椅子に深く腰掛け、鋭い眼差しで図面を見つめていた。 手元には、かつてのボロボロの作業着ではなく、理恵が選んでくれた仕立ての良い紺色のスーツ。だが、その袖口から覗く手首には、今も職人の証である無数の傷跡が刻まれている。
「そうです。大和建設は、既にこの案件を『自分たちの指定席』だと確信しています。地元の有力議員とも繋がっており、他の大手ゼネコンも、大和の顔色を伺って辞退を始めている。……実質的な無風入札、出来レースです」
犬飼が眼鏡を押し上げ、画面を恒一に向けた。 「ですが、入札条件の隙間に、一箇所だけ風穴が開いています。……『環境配慮型・超高効率電気設備システムの導入』。これだけは、彼らのような巨大組織が、旧態依然とした下請け構造で丸投げするやり方では実現不可能な数値が設定されている。……つまり、現場を熟知し、最新の施工技術を直に叩き込める『本物の技術集団』にしか、この条件はクリアできない」
「……あいつらが一番苦手な、『現場の真実』で勝負を挑むってわけか」
恒一の唇に、不敵な笑みが浮かんだ。 かつてのトラスト・アイは、大和建設の下請けとして、彼らの「駒」でしかなかった。 だが、今の自分には源さんから教わった「魂の技術」があり、犬飼という「組織の裏表を知り尽くした軍師」がいる。そして、どん底を知った真治たちがいる。
「……面白い。……大和の奴らに、思い知らせてやろうぜ。相模原の電気屋をナメると、どうなるかってな」
その日の午後。 恒一と犬飼は、横浜にある大和建設・神奈川支社の重厚な門を潜った。 かつては、工事車両の通用口から頭を下げて入っていた場所だ。だが今日は、正面玄関の受付で、恒一は迷うことなく自分の名刺を差し出した。
『株式会社トラスト・アイ 代表取締役 相沢恒一』
受付の女性が、一瞬、不審そうな表情を浮かべた。 「……あの、失礼ですが、お約束は……」
「ない。……支店長の金子に伝えてくれ。……相沢が、あの時の『落とし前』をつけに来た、とな」
恒一の放つ圧倒的な威圧感に、受付の女性は言葉を失い、慌てて内線電話を手に取った。 数分後。 応接室に現れたのは、かつて恒一を「ゴミ」のように扱い、事故の会見で全ての罪を恒一に着せた張本人――支店長の金子だった。
「……ほう。自己破産したと聞いていたが、まだ生きていたのか。相沢くん」
金子は、高級な革張りのソファにふんぞり返り、鼻で笑った。 「せっかく拾ってやった恩も忘れ、事故を起こして我が社の泥を塗った。……そんな男が、何の用だ? 恵んでもらう金など、一銭もないぞ」
恒一は、怒りを表に出さなかった。 かつての自分なら、その場で机を蹴り飛ばしていただろう。だが、今の恒一の心は、冬の湖のように静まり返っていた。
彼は無言で、犬飼から手渡された一通の封筒を、金子の前に叩きつけた。
「……これは?」
「挑戦状だ。……相模原駅前再開発。……うちが、元請けとして参入させてもらう」
一瞬の沈黙の後、金子は腹を抱えて笑い出した。 「……ははは! 傑作だ! 従業員数名の零細企業が、500億の案件を? 身の程を知れ。入札資格さえ、お前たちにはないんだぞ!」
「……資格なら、既にクリアしています。金子支店長」
犬飼が、冷静に沈黙を破った。 「……我々は、県内の有力な中堅企業三社とコンソーシアム(共同企業体)を組む合意を取り付けました。彼らは技術力はあるが、今回の特殊な電気設備案件に二の足を踏んでいた。……そこに、我々の『施工技術』が加わった。……書類上、我々は正当な入札参加者です」
金子の顔から、余裕の笑みが消えた。 「……犬飼。……お前、あの事故で失脚したはずの……」
「失脚したからこそ、見えた景色があるんですよ、金子さん。……大和建設が、いかに現場を軽視し、数字だけを捏造してきたか。……その証拠も、我々の手元には揃っている」
恒一が立ち上がり、金子の鼻先に顔を寄せた。 その瞳には、かつて相模原の夜を支配した「狂犬」の鋭さと、百戦錬磨の「職人」の重みが同居していた。
「……出来レースは終わりだ、金子。……現場のプライドってやつを、その高い椅子の上で震えながら見てな。……あんたが一番恐れている『真実』で、お前の城を根こそぎ焼き払ってやるよ」
事務所に戻る車中。 恒一は、震える自分の掌を見つめていた。 怒りではない。武者震いだ。
「……犬飼さん。……これで、もう後戻りはできねぇぞ」
「望むところです、社長。……これから、大和建設による猛烈な『潰し』が始まります。資金、資材、そして人員。彼らはあらゆる手段で、我々の足を止めにくる。……ここからが、本当の地獄です」
「……ああ。……だが、俺には見えるぜ。……相模原の空に、俺たちの本当の看板が上がる日がな」
その夜。 トラスト・アイの事務所に、一本の脅迫めいた電話が入る。 さらには、翌朝の現場に、得体の知れない男たちが姿を現した。
大和建設の仕掛けた、卑劣な「宣戦布告」だった。
大和建設・金子支店長への宣戦布告から三日。 再起したばかりの「株式会社トラスト・アイ」を襲ったのは、物理的な暴力ではなく、巨大資本による冷酷な「兵糧攻め」だった。
「……社長、大変です。昨日発注をかけた電線、それから照明器具のメーカー三社から、突然『納入できない』と連絡が入りました」
真治が、受話器を握りしめたまま、真っ青な顔で報告してきた。 「理由を聞いても『在庫がない』の一点張りです。ですが、裏では大和建設が手を回して、相模原周辺の資材を買い占めているという噂があります……」
さらに追い打ちをかけるように、事務所の前に黒塗りの車が数台居座り、現場へ向かおうとする協力会社の職人たちを無言で威嚇し始めた。
「……姑息な真似を」 恒一は、デスクの上で拳を握りしめた。 入札まであと一週間。資材がなければ、技術力を証明するための試作品(プロトタイプ)さえ組み上げられない。大和建設は、土俵に上がる前にトラスト・アイを窒息死させるつもりだ。
「犬飼さん、どう動く。……金で解決できる相手じゃねぇぞ」
犬飼は、冷汗を拭いながらタブレットを叩いていた。 「……彼らの圧力は、正規のルートをすべて塞いでいます。ですが、社長。大和建設がコントロールしているのは『数字』と『権力』だけです。……彼らが決して触れられない場所が、まだ残っています」
「……現場の、横の繋がりか」 恒一の瞳に、かつての野良犬のような鋭い光が戻った。
その夜。恒一は一人、かつて自分が自己破産し、日雇いで泥を啜っていた頃に世話になった「源さん」のプレハブ小屋を訪ねた。 「……源さん。力を貸してほしい」
「……龍司から聞いてるよ。また無茶な喧嘩を売ったらしいな、恒一」 源さんは、古びたストーブで沸かした茶を差し出した。
「大和が動いてる。地元の卸はみんな震え上がってるぞ。お前に資材を流せば、明日から商売ができなくなると脅されてるんだ」
「……わかってます。でも、このままじゃ、現場の人間が一生、あいつらの使い捨ての駒で終わっちまう。……俺は、それを変えたいんだ。職人が、自分の腕に誇りを持って、堂々と元請けと対等に話せる……そんな場所を作りたいんだよ」
恒一の声は、夜の闇を切り裂くように熱かった。 源さんはしばらく沈黙した後、ニヤリと笑った。 「……相模原の職人をナメるなよ、小僧。……あいつらに首根っこ掴まれて喜んでる奴ばかりじゃねぇ。……龍司に連絡しろ。それから、街の小さな電気屋の親父どもを集めろ。……在庫の電線一本、コネクタ一個、みんなで持ち寄れば、戦えるはずだ」
翌朝。トラスト・アイのプレハブ事務所の前に、不思議な光景が広がった。 大和建設の差し向けた黒塗りの車を囲むように、数十台の、年季の入った軽トラが集結したのだ。
荷台には、それぞれが現場で余らせた電線の束や、大切に保管していた器具が積まれている。
「……おい、相沢。これを使えよ。うちの倉庫に眠ってたやつだ」 「俺のところからも、応援を二人出す。大和の顔色なんて、もう飽き飽きだ」
かつて恒一が自己破産した時、石を投げた者もいたかもしれない。だが、どん底から這い上がり、再びペンチを握って小児科の命を救った恒一の姿を見ていた男たちが、そこにいた。
恒一は、集まった職人たちの前で、プレハブの階段に立った。 冷たい朝の空気の中、彼はマイクも使わず、心の底からの言葉を吐き出した。
「……みんな、聞いてくれ。……俺たちは今まで、大きな会社に言われるまま、安い手間賃で、ただ線を繋いできた。……事故が起きれば、俺たちのせいにされ、利益が出れば、あいつらの懐に入る。……そんな時代を、俺たちの代で終わらせよう」
社員の真治、犬飼、そして集まった職人たちが、恒一を注視する。
「……俺たちが信じるのは、図面じゃない。現場だ。……俺たちが守るのは、納期じゃない。そこに住む人の安心だ。……俺たちは、電気を売ってるんじゃない。……『信頼(トラスト)』を灯してるんだ」
「一、我々は、一本の線に魂を込める。その光は、誰かの絶望を照らす唯一の希望であると心得よ」 「二、現場の真実は、常に指先に宿る。数字に惑わされず、自らの腕と誠実さを証明せよ」
「……俺たちの『トラスト・アイ』は、ここから始まる! ……大和建設に教えてやろうぜ。……本当の光を灯しているのは、誰かってことをな!」
「おおおおお!」 相模原の空を揺らすような、職人たちの咆哮。 黒塗りの車に乗っていた男たちは、その圧倒的な熱量に圧され、逃げるように去っていった。
集まった資材と、地元の職人たちの「意地」を結集し、恒一たちは不眠不休で入札用のプロトタイプを組み上げた。 犬飼が作成した緻密な計算書と、恒一たちが魂を込めて組み上げた実機。
それは、大手ゼネコンがどんなに金を積んでも再現できない、現場の執念が結晶化したものだった。
入札当日。 相模原市役所の入札会場。 高級なスーツに身を包んだ金子支店長は、恒一が姿を見せると、余裕の笑みを浮かべて近づいてきた。
「……無駄な足掻きをご苦労様。資材も集まらず、まともな提案など作れなかっただろう? ……大人しく、我々の軍門に降ればよかったものを」
恒一は、金子の言葉を無視し、犬飼と共に静かに席に着いた。 その背中には、事務所に集まった数十人の職人たちの想いが、そして「一本の線に魂を込める」という新しい信念が、重厚なオーラとなって纏わりついていた。
「……これより、開札を行います」
職員の声が響く。 会場を包む、張り詰めた緊張感。 金子は勝利を確信し、ふんぞり返っていた。
だが、封筒が開かれた瞬間、職員の表情が強張った。 「……第一順位……。……株式会社トラスト・アイ、共同企業体。……提案評価点、満点」
会場が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 「なっ、何だと!? 何かの間違いだろ!」 金子が立ち上がり、絶叫した。
「……間違いじゃねぇよ、金子」 恒一はゆっくりと立ち上がり、金子の瞳を真っ向から見据えた。
「あんたたちが『数字』をいじくっている間に、俺たちは『未来』を繋いじまったんだ。……これが、現場の力だ」
入札会場の外には、理恵が待っていた。 彼女は、結果を聞く前から、恒一の顔を見てすべてを察していた。 「……お疲れ様。……相沢さん。……ここからが、本当の始まりね」
「……ああ。……でも、俺一人じゃない。……俺たちには、もう揺るがない『信条』がある。……これを信じてついてくる仲間がいる限り、俺たちはどこまでも行ける気がするんだ」
恒一は理恵の手を握り、ゆっくりと歩き出した。 夕暮れの街に灯り始めた街灯を見つめながら、彼は心の中で、自分たちの「信条」をもう一度反芻した。
この勝利は、巨大な壁に穿った小さな風穴に過ぎない。 だが、その穴から差し込む光が、この先、どれほど多くの人々の人生を照らしていくのか。
恒一は、まだ知らない。 ただ、明日もまた、一本の線を繋ぐために現場へ向かう。その覚悟だけが、彼の足元を強く、真っ直ぐに支えていた。