第8話:光の轍
ー/ー自己破産から一年。相模原の空は、あの日と変わらずどこまでも高い。 だが、その下を走る相沢恒一の姿は、かつての高級SUVではなく、源さんから譲り受けたボロボロの軽トラだった。
「……よし、山崎さん。今日の点検は終わりです。エアコンの効き、悪くないですか?」
「ああ、恒一くん。おかげさまで快適だよ。……リハビリの先生も、この部屋の明かりが明るいからやる気が出るって言ってたよ」
車椅子に座った山崎さんが、穏やかに笑う。 あの日、絶望のどん底で罵倒された山崎さんの息子とも、今では現場の情報を交換し合う仲になっていた。恒一は一年間、無償で山崎家の電気設備を世話し続け、リハビリの送迎まで買って出た。
「償い」という言葉では足りない。それは、恒一が職人として、一人の男として、自分の「轍(わだち)」をもう一度引き直すための、祈りにも似た時間だった。
「……じゃあ、また来週来ます。無理しちゃダメですよ」
軽トラに乗り込み、恒一は深呼吸をした。 今の彼は、源さんの元を離れ、再び一人親方として歩み出していた。屋号は変えていない。「株式会社トラスト・アイ」。かつて虚飾で塗り固められたその名前を、今度は「誠実」というペンチで、一から叩き直すと決めていた。
そんなある日の午後。 恒一の携帯電話が鳴った。登録されていない番号。だが、その末尾の数字に、恒一の指先がわずかに震えた。
「……はい、相沢です」
『……お久しぶりです。相沢さん』
冷徹で、感情の起伏がない、しかしどこか神経質な声。 「……犬飼、さんか」
かつて元請けの厳しい社員として、マニュアル至上主義を掲げ、恒一と激しく対立した男・犬飼幸太郎。 彼もまた、あの足場事故の責任の一端を問われ、一時は現場から外されていたはずだった。
「何の用だ。……俺はもう、あんたが相手にするような『社長』じゃねぇぞ」
『わかっています。……ですが、今の相模原で、この「無理難題」を形にできる男は、あなたしかいない。……柴崎さんからも、あなたの腕は「死んでいない」と聞きました』
犬飼の言葉には、かつてのような傲慢さはなかった。 彼もまた、あの事故を通じて「現場の真実」を突きつけられ、苦悩した一人なのだろう。
「無理難題、だと?」
『相模原中央病院の、受変電設備の緊急更新工事です。……老朽化が進み、このままだといつ大停電が起きてもおかしくない。だが、病院側は「一分の停電も許さない」と言っている。……無停電でのバイパス結線、そして新旧盤の完全な同期切り替え。……マニュアルを超えた、「神業」が必要です』
恒一は、ハンドルの革を強く握りしめた。 病院の無停電工事。それは三年前、佐藤が見せたあの「景色」の再来だ。 今の自分に、あの領域に辿り着く資格があるのか。
「……なぜ、俺なんだ。他にも大きな会社はいくらでもあるだろ」
『数字を追うだけの会社には、このプレッシャーは耐えられません。……相沢さん、あなたは一度、すべてを失った。だからこそ、「守るべき光」の重さを、誰よりも知っているはずだ』
犬飼の言葉が、恒一の胸の奥に眠っていた「火」を激しく煽った。 かつては反目し合った二人。一人はマニュアルを、一人は直感を。
だが、共にどん底を味わった今、二人の視線は同じ「光」を見つめていた。
「……わかった。引き受ける。……ただし、条件がある」
『条件?』 「……道具は、俺が選ぶ。そして、俺のやり方に、一切の口出しはさせねぇ」
『……了解しました。それが「プロ」の仕事なら』
一週間後。 深夜の相模原中央病院。 投光器の光が、巨大な受変電盤を白々と照らし出している。 恒一の隣には、かつての盟友・真治の姿があった。
「……恒一さん、またあんたの背中が見れるなんて、夢みたいっすよ」 「喋るな、真治。……一瞬でも気を抜けば、この街の命が止まるぞ」
恒一の腰には、柴崎から譲り受けたあの古いペンチ。 そして背後には、図面を抱え、鋭い眼差しで計器を見つめる犬飼。
外は、季節外れの激しい雷雨が降り始めていた。 「……不吉な天気だ。……始めるぞ」
恒一が、活線(電気が流れている状態)のケーブルに手を伸ばした。 その指先には、もはや慢心も、恐怖もなかった。 あるのは、この一本の線が、病室で眠る子供たちの、そして理恵が守る街の明かりに繋がっているという、静かな、しかし確固たる「信頼(トラスト)」だけだった。
だが、その時。 地を揺るがすような落雷と共に、病院全体が不気味な震動に見舞われた。
「……緊急事態です! 外部系統が遮断されました! 予備電源に切り替わりません!」
犬飼の叫び声が、嵐の音をかき消した。 暗闇に包まれる病院。パニックが広がる病棟。 恒一は、漆黒の闇の中で、柴崎のペンチをかつてないほど強く握りしめた。
「……真治! 予備回路のCTを開放しろ!
犬飼さん、手動切り替えのタイミングを俺に合わせろ!」
真っ暗闇の受電室。非常用発電機が唸りを上げるが、落雷の衝撃で制御基板がショートしている。病院の命ともいえるメイン電源が完全に断たれ、予備電源への自動切り替えも機能していない。
「無理です! 制御が死んでる! 手動で落としたら、二度と本線との同期が取れなくなります! そんなの、マニュアルには載っていない……!」
犬飼の声は、激しい落雷の音と雨音に打ち消されそうだった。エリートとして歩んできた彼にとって、目の前の光景は「計算不能な破滅」でしかなかった。
「……マニュアルを捨てろ、犬飼!」
恒一の鋭い怒声が、湿った空気の受電室に響き渡った。ヘッドライトの細い光が、盤の奥深くに潜む巨大な銅バー(バスバー)を白々と照らし出す。
「今、この瞬間のマニュアルは、俺たちの指先だ。……真治、お前は絶縁ゴムを二重にしろ。俺がバイパスを手動で、活線のまま叩き込む」
「……本気ですか、恒一さん!? 六万六千ボルトの活線ですよ。もし一瞬でもアーク(放電)が飛んだら、あんたの腕どころか、体ごと消し飛ぶぞ!」
恒一は、柴崎から譲り受けたあの古いペンチを、右手に強く握りしめた。 かつて佐藤が見せた、あの「無停電の神業」。あの時の自分は、ただその背中を見上げるだけのガキだった。
だが、今の自分は違う。 三年前の屈辱、独立の狂乱、そして全てを失った絶望。 地べたを這い、源さんの下で泥にまみれて再確認した「職人の魂」。 その全ての経験が、今の恒一の指先に、一ミリの狂いもない「精度」と「静寂」を与えていた。
(……龍司さん。見ててくれ。俺の仕事は、ここにある)
恒一は、ゆっくりと呼吸を整えた。 耳元で鳴り響く警報音、犬飼の震える息遣い、嵐の轟音。それら全てが、遠くの波音のように遠のいていく。
目の前にあるのは、ただの金属と電気の塊ではない。 この導線の先にいる、人工呼吸器をつけた子供。手術台の上で執刀を待つ患者。そして、リハビリを経て明日を夢見る山崎さん。
一万人の、十万人の、この街で生きる全ての人々の「命」が、自分のこの一振りに懸かっている。
「……犬飼さん。三、二、一で、お前はメインブレーカーを物理解放しろ。……俺がそのコンマ一秒後に、バイパスを直結する。……信じろ、俺の『目』を」
犬飼は、眼鏡の奥で震える瞳を、恒一に向けた。 かつては「現場の荒くれ者」と蔑み、マニュアルこそが正義だと信じて疑わなかったエリート。だが今、漆黒の闇の中で、犬飼は初めて「本物のプロフェッショナル」の気迫に圧倒されていた。
「……了解しました。……相沢さん。あなたの技術を、いや、あなたの『意地』を信じます」
犬飼の手が、巨大な解放レバーにかかった。 恒一は、絶縁防護服越しに、バイパスケーブルの先端をペンチで掴んだ。 死神の鎌を素手で掴むような、極限の緊張。
「……いくぞ。三! 二! ……一ッ!」
ガツン、という腹の底を抉るような衝撃音。 次の瞬間、恒一の視界が、凄まじい放電の閃光(フラッシュアーク)で真っ白に染まった。
雷鳴よりも激しい衝撃波が全身を駆け抜け、防護服越しでも分かるほどの高熱が、右腕の筋肉を焼き切るような痛みに変える。
だが、恒一はペンチを離さなかった。 かつて恐怖で電線を放り出し、佐藤に「資格がねぇ」と突き放されたあの日。 あの日から、彼はこの瞬間のために、何度も、何度も、泥水を啜りながら立ち上がってきた。
自分の不始末で人を傷つけた罪も、慢心で失った信頼も、全てはこの一本のケーブルに託して、未来へ繋ぐ。
「……繋がった……! 電圧、安定しました!」
真治の叫び声が響くと同時に、病院の窓という窓から、次々と明かりが灯り始めた。 廊下の非常灯、ナースステーションのモニター、手術室の無影灯。
闇に沈み、死の予感に支配されていた病院が、再び力強く「呼吸」を始めたのだ。
恒一は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。 右手のペンチからは、過負荷による微かな紫煙が上がっている。 だが、その感触は、かつてのどんな札束よりも重く、誇らしかった。
一時間後。 嵐が去り、相模原の空に静かな月が顔を出した。 復旧を確認し、緊急事態を脱した犬飼が、泥だらけの恒一の前に立った。
彼は無言のまま、かつて恒一を「オタク気質」と鼻で笑わせたあの几帳面な姿勢で、深く、深く頭を下げた。
「……負けました、相沢さん。……マニュアルを超えた『信頼』。その正体を、今、見せつけられました」
「……よせよ、犬飼さん。あんたのあの正確な物理解放のタイミングがなきゃ、俺は今頃真っ黒焦げの炭になってた。……これは、俺たちの仕事だろ」
恒一は、震える手で犬飼の肩を叩いた。 そこには、かつての敵対心など微塵もなかった。 共に闇を払い、命を救った、同じ「職人」としての魂の共鳴があった。
「犬飼さん。……あんた、今の元請け会社で腐ってんなら、俺と一緒に来ないか」
恒一の言葉に、犬飼が目を見開く。
「俺は、また会社をデカくする。今度は、あの頃のようなハリボテじゃねぇ。あんたのその緻密な管理能力と、俺たちの現場の熱量。それが合わされば、相模原どころか、この国全体の電気を書き換えられるはずだ。……俺は、下請けで甘んじるつもりはねぇんだ。俺たちが『元請け』になって、現場の職人が一番報われる、新しい時代の巨大ゼネコンを創り上げる」
犬飼の瞳に、かつてない知的な、しかし狂おしいほど熱い火が灯った。 「……面白い。……建設業界のマニュアルを、根本から破壊して再構築する。……いいでしょう。相沢社長、あなたの『軍師』として、私の全てを賭けましょう」
数日後。 相模原の国道沿いに、新しく塗り替えられた看板が掲げられた。 かつての名をあえて捨てず、十字架のように背負い続ける覚悟。
『株式会社トラスト・アイ』。
その事務所開きの日、一人の男が訪ねてきた。柴崎龍司だ。 彼は、新しくなった看板をじっと見つめ、事務所の中で忙しく電話を取る真治や、最新のCADソフトと格闘する犬飼の姿を目にすると、満足そうに鼻を鳴らした。
「……いい看板だな、恒一。……だが、忘れるなよ。大勢の社員とその家族達に飯を食わせるつもりなら、お前はもう、ただの腕の良い電気屋じゃいられねぇぞ。……お前がこれから戦うのは、現場のトラブルじゃねぇ。政治、利権、そして嫉妬に狂った巨大な組織だ。……一歩間違えれば、またあの奈落に落ちる」
「わかってますよ、龍司さん。……でも、俺の仕事は、いつだってこの『手元』から始まって、この街の隅々まで繋がってる。……見ててください。俺がこの国の建設業界に、本物の『正解』を灯してやりますから」
恒一は、腰袋に差されたあのペンチを、愛おしそうに叩いた。
事務所の窓の外、夕闇に包まれ始めた相模原の街に、街灯が一つ、また一つと灯っていく。 それは、かつて自分がただの「成功」のために支配しようとした無機質な光ではない。一本の線を丁寧に繋ぎ、一人の安心を守り抜く。その当たり前の積み重ねが作り上げた、宝石のような「光の轍」だった。
「……よし、行くか」
恒一は、デスクに置かれた軽トラの鍵を手に取った。 行き先は、今日もどこかで明かりを待つ、名もなき現場だ。 かつての「相模原のモヒカン」は、もういない。
だが、その背中には、数千、数万の命を背負う覚悟を決めた、一人の「経営者」の揺るぎない輪郭が刻まれていた。
「……よし、山崎さん。今日の点検は終わりです。エアコンの効き、悪くないですか?」
「ああ、恒一くん。おかげさまで快適だよ。……リハビリの先生も、この部屋の明かりが明るいからやる気が出るって言ってたよ」
車椅子に座った山崎さんが、穏やかに笑う。 あの日、絶望のどん底で罵倒された山崎さんの息子とも、今では現場の情報を交換し合う仲になっていた。恒一は一年間、無償で山崎家の電気設備を世話し続け、リハビリの送迎まで買って出た。
「償い」という言葉では足りない。それは、恒一が職人として、一人の男として、自分の「轍(わだち)」をもう一度引き直すための、祈りにも似た時間だった。
「……じゃあ、また来週来ます。無理しちゃダメですよ」
軽トラに乗り込み、恒一は深呼吸をした。 今の彼は、源さんの元を離れ、再び一人親方として歩み出していた。屋号は変えていない。「株式会社トラスト・アイ」。かつて虚飾で塗り固められたその名前を、今度は「誠実」というペンチで、一から叩き直すと決めていた。
そんなある日の午後。 恒一の携帯電話が鳴った。登録されていない番号。だが、その末尾の数字に、恒一の指先がわずかに震えた。
「……はい、相沢です」
『……お久しぶりです。相沢さん』
冷徹で、感情の起伏がない、しかしどこか神経質な声。 「……犬飼、さんか」
かつて元請けの厳しい社員として、マニュアル至上主義を掲げ、恒一と激しく対立した男・犬飼幸太郎。 彼もまた、あの足場事故の責任の一端を問われ、一時は現場から外されていたはずだった。
「何の用だ。……俺はもう、あんたが相手にするような『社長』じゃねぇぞ」
『わかっています。……ですが、今の相模原で、この「無理難題」を形にできる男は、あなたしかいない。……柴崎さんからも、あなたの腕は「死んでいない」と聞きました』
犬飼の言葉には、かつてのような傲慢さはなかった。 彼もまた、あの事故を通じて「現場の真実」を突きつけられ、苦悩した一人なのだろう。
「無理難題、だと?」
『相模原中央病院の、受変電設備の緊急更新工事です。……老朽化が進み、このままだといつ大停電が起きてもおかしくない。だが、病院側は「一分の停電も許さない」と言っている。……無停電でのバイパス結線、そして新旧盤の完全な同期切り替え。……マニュアルを超えた、「神業」が必要です』
恒一は、ハンドルの革を強く握りしめた。 病院の無停電工事。それは三年前、佐藤が見せたあの「景色」の再来だ。 今の自分に、あの領域に辿り着く資格があるのか。
「……なぜ、俺なんだ。他にも大きな会社はいくらでもあるだろ」
『数字を追うだけの会社には、このプレッシャーは耐えられません。……相沢さん、あなたは一度、すべてを失った。だからこそ、「守るべき光」の重さを、誰よりも知っているはずだ』
犬飼の言葉が、恒一の胸の奥に眠っていた「火」を激しく煽った。 かつては反目し合った二人。一人はマニュアルを、一人は直感を。
だが、共にどん底を味わった今、二人の視線は同じ「光」を見つめていた。
「……わかった。引き受ける。……ただし、条件がある」
『条件?』 「……道具は、俺が選ぶ。そして、俺のやり方に、一切の口出しはさせねぇ」
『……了解しました。それが「プロ」の仕事なら』
一週間後。 深夜の相模原中央病院。 投光器の光が、巨大な受変電盤を白々と照らし出している。 恒一の隣には、かつての盟友・真治の姿があった。
「……恒一さん、またあんたの背中が見れるなんて、夢みたいっすよ」 「喋るな、真治。……一瞬でも気を抜けば、この街の命が止まるぞ」
恒一の腰には、柴崎から譲り受けたあの古いペンチ。 そして背後には、図面を抱え、鋭い眼差しで計器を見つめる犬飼。
外は、季節外れの激しい雷雨が降り始めていた。 「……不吉な天気だ。……始めるぞ」
恒一が、活線(電気が流れている状態)のケーブルに手を伸ばした。 その指先には、もはや慢心も、恐怖もなかった。 あるのは、この一本の線が、病室で眠る子供たちの、そして理恵が守る街の明かりに繋がっているという、静かな、しかし確固たる「信頼(トラスト)」だけだった。
だが、その時。 地を揺るがすような落雷と共に、病院全体が不気味な震動に見舞われた。
「……緊急事態です! 外部系統が遮断されました! 予備電源に切り替わりません!」
犬飼の叫び声が、嵐の音をかき消した。 暗闇に包まれる病院。パニックが広がる病棟。 恒一は、漆黒の闇の中で、柴崎のペンチをかつてないほど強く握りしめた。
「……真治! 予備回路のCTを開放しろ!
犬飼さん、手動切り替えのタイミングを俺に合わせろ!」
真っ暗闇の受電室。非常用発電機が唸りを上げるが、落雷の衝撃で制御基板がショートしている。病院の命ともいえるメイン電源が完全に断たれ、予備電源への自動切り替えも機能していない。
「無理です! 制御が死んでる! 手動で落としたら、二度と本線との同期が取れなくなります! そんなの、マニュアルには載っていない……!」
犬飼の声は、激しい落雷の音と雨音に打ち消されそうだった。エリートとして歩んできた彼にとって、目の前の光景は「計算不能な破滅」でしかなかった。
「……マニュアルを捨てろ、犬飼!」
恒一の鋭い怒声が、湿った空気の受電室に響き渡った。ヘッドライトの細い光が、盤の奥深くに潜む巨大な銅バー(バスバー)を白々と照らし出す。
「今、この瞬間のマニュアルは、俺たちの指先だ。……真治、お前は絶縁ゴムを二重にしろ。俺がバイパスを手動で、活線のまま叩き込む」
「……本気ですか、恒一さん!? 六万六千ボルトの活線ですよ。もし一瞬でもアーク(放電)が飛んだら、あんたの腕どころか、体ごと消し飛ぶぞ!」
恒一は、柴崎から譲り受けたあの古いペンチを、右手に強く握りしめた。 かつて佐藤が見せた、あの「無停電の神業」。あの時の自分は、ただその背中を見上げるだけのガキだった。
だが、今の自分は違う。 三年前の屈辱、独立の狂乱、そして全てを失った絶望。 地べたを這い、源さんの下で泥にまみれて再確認した「職人の魂」。 その全ての経験が、今の恒一の指先に、一ミリの狂いもない「精度」と「静寂」を与えていた。
(……龍司さん。見ててくれ。俺の仕事は、ここにある)
恒一は、ゆっくりと呼吸を整えた。 耳元で鳴り響く警報音、犬飼の震える息遣い、嵐の轟音。それら全てが、遠くの波音のように遠のいていく。
目の前にあるのは、ただの金属と電気の塊ではない。 この導線の先にいる、人工呼吸器をつけた子供。手術台の上で執刀を待つ患者。そして、リハビリを経て明日を夢見る山崎さん。
一万人の、十万人の、この街で生きる全ての人々の「命」が、自分のこの一振りに懸かっている。
「……犬飼さん。三、二、一で、お前はメインブレーカーを物理解放しろ。……俺がそのコンマ一秒後に、バイパスを直結する。……信じろ、俺の『目』を」
犬飼は、眼鏡の奥で震える瞳を、恒一に向けた。 かつては「現場の荒くれ者」と蔑み、マニュアルこそが正義だと信じて疑わなかったエリート。だが今、漆黒の闇の中で、犬飼は初めて「本物のプロフェッショナル」の気迫に圧倒されていた。
「……了解しました。……相沢さん。あなたの技術を、いや、あなたの『意地』を信じます」
犬飼の手が、巨大な解放レバーにかかった。 恒一は、絶縁防護服越しに、バイパスケーブルの先端をペンチで掴んだ。 死神の鎌を素手で掴むような、極限の緊張。
「……いくぞ。三! 二! ……一ッ!」
ガツン、という腹の底を抉るような衝撃音。 次の瞬間、恒一の視界が、凄まじい放電の閃光(フラッシュアーク)で真っ白に染まった。
雷鳴よりも激しい衝撃波が全身を駆け抜け、防護服越しでも分かるほどの高熱が、右腕の筋肉を焼き切るような痛みに変える。
だが、恒一はペンチを離さなかった。 かつて恐怖で電線を放り出し、佐藤に「資格がねぇ」と突き放されたあの日。 あの日から、彼はこの瞬間のために、何度も、何度も、泥水を啜りながら立ち上がってきた。
自分の不始末で人を傷つけた罪も、慢心で失った信頼も、全てはこの一本のケーブルに託して、未来へ繋ぐ。
「……繋がった……! 電圧、安定しました!」
真治の叫び声が響くと同時に、病院の窓という窓から、次々と明かりが灯り始めた。 廊下の非常灯、ナースステーションのモニター、手術室の無影灯。
闇に沈み、死の予感に支配されていた病院が、再び力強く「呼吸」を始めたのだ。
恒一は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。 右手のペンチからは、過負荷による微かな紫煙が上がっている。 だが、その感触は、かつてのどんな札束よりも重く、誇らしかった。
一時間後。 嵐が去り、相模原の空に静かな月が顔を出した。 復旧を確認し、緊急事態を脱した犬飼が、泥だらけの恒一の前に立った。
彼は無言のまま、かつて恒一を「オタク気質」と鼻で笑わせたあの几帳面な姿勢で、深く、深く頭を下げた。
「……負けました、相沢さん。……マニュアルを超えた『信頼』。その正体を、今、見せつけられました」
「……よせよ、犬飼さん。あんたのあの正確な物理解放のタイミングがなきゃ、俺は今頃真っ黒焦げの炭になってた。……これは、俺たちの仕事だろ」
恒一は、震える手で犬飼の肩を叩いた。 そこには、かつての敵対心など微塵もなかった。 共に闇を払い、命を救った、同じ「職人」としての魂の共鳴があった。
「犬飼さん。……あんた、今の元請け会社で腐ってんなら、俺と一緒に来ないか」
恒一の言葉に、犬飼が目を見開く。
「俺は、また会社をデカくする。今度は、あの頃のようなハリボテじゃねぇ。あんたのその緻密な管理能力と、俺たちの現場の熱量。それが合わされば、相模原どころか、この国全体の電気を書き換えられるはずだ。……俺は、下請けで甘んじるつもりはねぇんだ。俺たちが『元請け』になって、現場の職人が一番報われる、新しい時代の巨大ゼネコンを創り上げる」
犬飼の瞳に、かつてない知的な、しかし狂おしいほど熱い火が灯った。 「……面白い。……建設業界のマニュアルを、根本から破壊して再構築する。……いいでしょう。相沢社長、あなたの『軍師』として、私の全てを賭けましょう」
数日後。 相模原の国道沿いに、新しく塗り替えられた看板が掲げられた。 かつての名をあえて捨てず、十字架のように背負い続ける覚悟。
『株式会社トラスト・アイ』。
その事務所開きの日、一人の男が訪ねてきた。柴崎龍司だ。 彼は、新しくなった看板をじっと見つめ、事務所の中で忙しく電話を取る真治や、最新のCADソフトと格闘する犬飼の姿を目にすると、満足そうに鼻を鳴らした。
「……いい看板だな、恒一。……だが、忘れるなよ。大勢の社員とその家族達に飯を食わせるつもりなら、お前はもう、ただの腕の良い電気屋じゃいられねぇぞ。……お前がこれから戦うのは、現場のトラブルじゃねぇ。政治、利権、そして嫉妬に狂った巨大な組織だ。……一歩間違えれば、またあの奈落に落ちる」
「わかってますよ、龍司さん。……でも、俺の仕事は、いつだってこの『手元』から始まって、この街の隅々まで繋がってる。……見ててください。俺がこの国の建設業界に、本物の『正解』を灯してやりますから」
恒一は、腰袋に差されたあのペンチを、愛おしそうに叩いた。
事務所の窓の外、夕闇に包まれ始めた相模原の街に、街灯が一つ、また一つと灯っていく。 それは、かつて自分がただの「成功」のために支配しようとした無機質な光ではない。一本の線を丁寧に繋ぎ、一人の安心を守り抜く。その当たり前の積み重ねが作り上げた、宝石のような「光の轍」だった。
「……よし、行くか」
恒一は、デスクに置かれた軽トラの鍵を手に取った。 行き先は、今日もどこかで明かりを待つ、名もなき現場だ。 かつての「相模原のモヒカン」は、もういない。
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