第1話
ー/ー岬小学校の壁には、血管が通っている。
正確には、光ファイバーだ。
髪の毛よりも細い透明な繊維が、校舎の壁の中を縦横に走っている。
コンクリートの奥に、石膏ボードの裏に、床材の下に。
田中志保がはじめてそれを知ったのは、赴任して三年目の冬、業者が壁の一部を補修したときだった。
剥がされた石膏ボードの断面から、白い糸のような繊維がほつれ出ていて、業者の男が「ああ、これですか」と気のない声で言った。
「情動記録システムです。古い学校にはたいてい入ってますよ」
文部科学省が試験的に導入を始めたのは、二十年ほど前のことだという。
人が強い感情を持ったとき、その場の空気はわずかに変容する。呼気の成分が変わり、体温が上がり、皮膚から微細な電気信号が放出される。
それらを壁や床に張り巡らせたセンサーが拾い、光ファイバーを通じて蓄積していく仕組みだ。何の役に立つのかは、当初からはっきりしていなかった。
建物が解体される前にデータを回収し、「場所の記憶」として保存しておくのだと、文書にはそう書いてあった。
志保はそのことを、それ以来ずっと忘れていた。
廊下を歩くとき、教室に立つとき、体育館の床を踏むとき、この建物の中に何かが蓄積されているとは、普段は考えない。
ただ、ときどき、ふとした瞬間に、空気の質が変わることがある。
それが気のせいなのか、それともシステムが何かを放出しているのか、志保には判断がつかなかった。
たとえば、朝の廊下。
まだ陽向が登校する前の、がらんとした廊下を歩いていると、ごく稀に、遠くから足音が聞こえてくることがある。
複数の、軽い足音。
走り回る子どもたちの気配。
振り返ると、誰もいない。窓の外の風が、枯れた草を揺らしているだけだ。でも確かに、一瞬だけ、廊下の空気が賑やかだった。
それが記憶の漏れ出しなのか、ただの幻聴なのか、志保には確かめる術がなかった。
三月の終わり、九年目の春が来ようとしていた。
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