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第62話 秋雨に啼く鬼

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 雨が降っていた。柔らかく音もなく降る秋雨だったが、身体が芯から冷えるような冷たい雨だった。

 ぞくりと全身の毛が逆立つような感覚を覚え、京極御言(きょうごくみこと)は数百メートル先を見据えた。

 灯りがなく真暗な闇の中にぼうっと蜃気楼のように浮かび上がる赤橋の奥に「何か」がある。「何か」、とあえてそのものの判断を避けたのは、下手な先入観から起こる不意打ちを避けるためだ。

 京極家の技は守りの技。ゆえに相手を冷静に分析してからことを運ぶのが最良の手。幼い頃から叩き込まれたその術を、図らずも御言は実践していた。

 紅の塗られた唐傘をそっと閉じる。まさか一日のうちに二回も怪異に出逢うとは、と己の運命を呪いながらも、その足は躊躇うことなく前へ歩んでいた。

 「何か」が動く気配はない。足音に気づかれていないのか、あるいは聞こえない種類のそれなのか。

 御言は先刻、まさにあやかしに取り憑かれた、自分とさほど年の変わらない思春期の少女と対峙していた。この頃の年齢で、それも少女とくればさほど珍しいことではない。占いや都市伝説など、多感な少女の時期には、そういった類いのものに接近しやすいからだ。

 案の定、京極家へヒステリックに依頼をしてきた老舗呉服屋のその娘は、占いにどっぷりはまっていたようだった。数え切れないほどの占いを試していくうちに、それらの者に接近され、入り込まれていた。

 なるほど、確かに目は鋭利な刃物のようにつり上がり、常に奇妙な笑いを浮かべたその顔は、生来の人のそれとは違ったが、中に潜んでいたのは低俗なものたち。結界陣を指先に纏い少女に触れただけで、それらは少女の体から逃げ出し、すぐに塵となっていった。

 事前に写真で見た通り、黒髪の似合う可愛い娘だった。幼さの残るその顔をじっと見ていると、随分と自分よりも年下に見えた。やはり、育った環境がまるで違うから、か。

 その橋へと足を掛けるとさすがに音が響く。「何か」の影も音に気がつき、夜闇からその姿が分離した。御言は白装束の袖の下から細長い手を引き出すと、傘を投げ捨て、走り始めた。

 影もこちらへと体の向きを変えて身構える。それは驚くほどの巨体だった。2mは優に超え、膨れ上がった筋肉が威圧感すら漂わせてくる。何よりも特徴的なのは、その頭部に備わった二本の──おそらく、角。

 その正体を知るや否や、御言は風を切るような勢いで右手を突き出した。

 刹那。見えない方陣が押し寄せそれを縛り上げる。

 京極家が、妖怪と対峙してきたその長い歴史が編み出したのは、敵を殲滅する剣ではなく、人間を守るための盾だった。それは、しばらくするとなぜか記憶から抜け落ちるという妖怪の特徴とも合致して、妖怪を人間世界から遠ざけることに役立っていた。

 妖怪封じのその技術──結界陣は、陣に入った妖怪の力を著しく減少させる。弱い者ならば形を保てずに消滅してしまうほど。

 だが、御言の目の前のあやかしは、その結界を破った。

 間近で発せられた咆哮が鼓膜にダメージを与えて、耳から血が飛び出る。 痛みに顔をしかませながらも、橋の上に着地すると同時に御言は次の行動に移った。

 結界陣は、その面積に応じて封じる力が変わってくる。小さければより強力に、大きければ弱まる。

 だから御言は脚だけに狙いを定めてもう一度濡れた地面を滑らせた。

(動きを封じれば応援を呼んで対処できる……!!)

 再び手をかざした御言の動きは、はたと止まった。瞳が眼前の出来事を正確に処理しようと大きくなる。同年代からは気味が悪いと言われるその深い黒色の瞳の中で、確かに二筋の涙が光った。

 鬼が、泣いている。

 そう、二本の角を持つ巨体の妖怪──それは紛れもなく鬼だった。数ある妖怪のなかでも、象徴的な存在。その力、残虐さにおいては他に例のない最強最悪の妖怪、それが鬼。

 情けの欠片すらないはずの鬼が、今、大粒の涙を流して泣いている。

 急速に痛みが和らいでいくとともに雨が、戻ってきた。その涙に呼応するかのように絶え間なく降り続く霧雨の中、気がつけば御言はその手を下ろしていた。そして、気がつけば──。

「なぜ、泣いている?」

 自分の口が勝手に動き、(かたき)のはずのその存在に、問うていた。それは、とっくに失くしたはずの涙の理由が聞きたかったからなのか、過去、幾多受けてきた傷を思い出したからなのか。

「……わからない」

 鬼は答えた。思いの外高いその声は、雨粒を辿って御言の耳に入り込む。

「わからないんだ、自分がなんなのか。誰も傷つけたくないのに、みんなが傷ついていく。君も、すまない、耳が……痛いだろう?」

 痛みなど忘れてしまうほどの、まさに雷に打たれたような衝撃が、御言の身体を貫いた。鬼が謝るなどという事象は今まで身につけてきた判断の外にあった。

「お前、名は何と言う?」

 男はゴツゴツとした太い手を額に当てると、苦しそうに首を横に振った。

「わからない。名前なんて付けられたことがない」

 名前が……ない……? 親がいないということか。御言の脳裏に浮かんだ疑問は、すぐに自身の経験によって打ち消された。そもそも、妖怪が人間と同じように種を育む存在なのか明確になっていない。だからこその妖怪なわけで、何を考えているんだ、私は。

 しかし、その思いとは反対に御言の足は一歩前に進んでいた。

「ならば、なぜここにいる」

 見上げるその瞳には強い意志が宿っていた。批判でも攻撃でもない、純粋な強い興味。こんなにも誰かに興味を持ったのは久しぶりのことかもしれない。──その相手がまさか鬼とは皮肉なことだが。

「わからない。本当に何もわからないんだ。今の君の不思議な力で意識を取り戻したんだけど、またすぐにわけがわからなくなってしまう。そしたら、また君を攻撃してしまうかもしれない」

「人を傷つけることを恐れる鬼か……」

「なに?」

「いや、なんでもない。それよりここで話していては目立つ」

 不思議な気持ちだった。本来ならすぐにでも駆除あるいは封印しないといけない対象にも関わらず、御言はもっとこの鬼らしくない鬼と話をしていたいと思ってしまっていたのだから。

 おそらく、今の話からすると妖怪の力を弱める結界陣の効果で、鬼の力が抑えられ、男の意識や理性といったものが発揮されている状態に置かれている。そのことを口早に説明すると、男も納得したのか、御言の後に続いて橋の下へくだっていった。


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 雨が降っていた。柔らかく音もなく降る秋雨だったが、身体が芯から冷えるような冷たい雨だった。
 ぞくりと全身の毛が逆立つような感覚を覚え、|京極御言《きょうごくみこと》は数百メートル先を見据えた。
 灯りがなく真暗な闇の中にぼうっと蜃気楼のように浮かび上がる赤橋の奥に「何か」がある。「何か」、とあえてそのものの判断を避けたのは、下手な先入観から起こる不意打ちを避けるためだ。
 京極家の技は守りの技。ゆえに相手を冷静に分析してからことを運ぶのが最良の手。幼い頃から叩き込まれたその術を、図らずも御言は実践していた。
 紅の塗られた唐傘をそっと閉じる。まさか一日のうちに二回も怪異に出逢うとは、と己の運命を呪いながらも、その足は躊躇うことなく前へ歩んでいた。
 「何か」が動く気配はない。足音に気づかれていないのか、あるいは聞こえない種類のそれなのか。
 御言は先刻、まさにあやかしに取り憑かれた、自分とさほど年の変わらない思春期の少女と対峙していた。この頃の年齢で、それも少女とくればさほど珍しいことではない。占いや都市伝説など、多感な少女の時期には、そういった類いのものに接近しやすいからだ。
 案の定、京極家へヒステリックに依頼をしてきた老舗呉服屋のその娘は、占いにどっぷりはまっていたようだった。数え切れないほどの占いを試していくうちに、それらの者に接近され、入り込まれていた。
 なるほど、確かに目は鋭利な刃物のようにつり上がり、常に奇妙な笑いを浮かべたその顔は、生来の人のそれとは違ったが、中に潜んでいたのは低俗なものたち。結界陣を指先に纏い少女に触れただけで、それらは少女の体から逃げ出し、すぐに塵となっていった。
 事前に写真で見た通り、黒髪の似合う可愛い娘だった。幼さの残るその顔をじっと見ていると、随分と自分よりも年下に見えた。やはり、育った環境がまるで違うから、か。
 その橋へと足を掛けるとさすがに音が響く。「何か」の影も音に気がつき、夜闇からその姿が分離した。御言は白装束の袖の下から細長い手を引き出すと、傘を投げ捨て、走り始めた。
 影もこちらへと体の向きを変えて身構える。それは驚くほどの巨体だった。2mは優に超え、膨れ上がった筋肉が威圧感すら漂わせてくる。何よりも特徴的なのは、その頭部に備わった二本の──おそらく、角。
 その正体を知るや否や、御言は風を切るような勢いで右手を突き出した。
 刹那。見えない方陣が押し寄せそれを縛り上げる。
 京極家が、妖怪と対峙してきたその長い歴史が編み出したのは、敵を殲滅する剣ではなく、人間を守るための盾だった。それは、しばらくするとなぜか記憶から抜け落ちるという妖怪の特徴とも合致して、妖怪を人間世界から遠ざけることに役立っていた。
 妖怪封じのその技術──結界陣は、陣に入った妖怪の力を著しく減少させる。弱い者ならば形を保てずに消滅してしまうほど。
 だが、御言の目の前のあやかしは、その結界を破った。
 間近で発せられた咆哮が鼓膜にダメージを与えて、耳から血が飛び出る。 痛みに顔をしかませながらも、橋の上に着地すると同時に御言は次の行動に移った。
 結界陣は、その面積に応じて封じる力が変わってくる。小さければより強力に、大きければ弱まる。
 だから御言は脚だけに狙いを定めてもう一度濡れた地面を滑らせた。
(動きを封じれば応援を呼んで対処できる……!!)
 再び手をかざした御言の動きは、はたと止まった。瞳が眼前の出来事を正確に処理しようと大きくなる。同年代からは気味が悪いと言われるその深い黒色の瞳の中で、確かに二筋の涙が光った。
 鬼が、泣いている。
 そう、二本の角を持つ巨体の妖怪──それは紛れもなく鬼だった。数ある妖怪のなかでも、象徴的な存在。その力、残虐さにおいては他に例のない最強最悪の妖怪、それが鬼。
 情けの欠片すらないはずの鬼が、今、大粒の涙を流して泣いている。
 急速に痛みが和らいでいくとともに雨が、戻ってきた。その涙に呼応するかのように絶え間なく降り続く霧雨の中、気がつけば御言はその手を下ろしていた。そして、気がつけば──。
「なぜ、泣いている?」
 自分の口が勝手に動き、|敵《かたき》のはずのその存在に、問うていた。それは、とっくに失くしたはずの涙の理由が聞きたかったからなのか、過去、幾多受けてきた傷を思い出したからなのか。
「……わからない」
 鬼は答えた。思いの外高いその声は、雨粒を辿って御言の耳に入り込む。
「わからないんだ、自分がなんなのか。誰も傷つけたくないのに、みんなが傷ついていく。君も、すまない、耳が……痛いだろう?」
 痛みなど忘れてしまうほどの、まさに雷に打たれたような衝撃が、御言の身体を貫いた。鬼が謝るなどという事象は今まで身につけてきた判断の外にあった。
「お前、名は何と言う?」
 男はゴツゴツとした太い手を額に当てると、苦しそうに首を横に振った。
「わからない。名前なんて付けられたことがない」
 名前が……ない……? 親がいないということか。御言の脳裏に浮かんだ疑問は、すぐに自身の経験によって打ち消された。そもそも、妖怪が人間と同じように種を育む存在なのか明確になっていない。だからこその妖怪なわけで、何を考えているんだ、私は。
 しかし、その思いとは反対に御言の足は一歩前に進んでいた。
「ならば、なぜここにいる」
 見上げるその瞳には強い意志が宿っていた。批判でも攻撃でもない、純粋な強い興味。こんなにも誰かに興味を持ったのは久しぶりのことかもしれない。──その相手がまさか鬼とは皮肉なことだが。
「わからない。本当に何もわからないんだ。今の君の不思議な力で意識を取り戻したんだけど、またすぐにわけがわからなくなってしまう。そしたら、また君を攻撃してしまうかもしれない」
「人を傷つけることを恐れる鬼か……」
「なに?」
「いや、なんでもない。それよりここで話していては目立つ」
 不思議な気持ちだった。本来ならすぐにでも駆除あるいは封印しないといけない対象にも関わらず、御言はもっとこの鬼らしくない鬼と話をしていたいと思ってしまっていたのだから。
 おそらく、今の話からすると妖怪の力を弱める結界陣の効果で、鬼の力が抑えられ、男の意識や理性といったものが発揮されている状態に置かれている。そのことを口早に説明すると、男も納得したのか、御言の後に続いて橋の下へくだっていった。