第17話 噂の店に来た人間が一番うるさい夜
ー/ー月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな日常の断片が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がる。
その交差点から一本入った細い路地に、小さな赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな店だ。
その夜、店主のタケさんは開店して二十分で、妙な胸騒ぎを覚えていた。それは、嵐の前の静けさというよりは、「これから面倒な珍客がやってくる」という直感に近い。
「……今日は来るな。間違いなく来るぞ」
カウンターの中でグラスを拭きながらそう呟くと、右奥に座っていた神様が静かに琥珀色の液体を揺らした。
「何が、ですか。幸運ですか? それとも、また新たな厄災ですか?」
「後者に決まってるだろ。“見て来ました”っていう顔に、全身をガチガチに固めたやつらだよ」
マユ姐がハイボールを豪快に煽り、プハッと息を吐く。
「来るわね。この数日、空気の振動がいつもと違うもの。外にいる連中の視線が、ドアの隙間から漏れる赤い光を品定めしてる」 「来ますね。検索流入のキーワードに『マスター
困り顔』や『月見橋 哲学 暴走』が急増しています」とマウス。
「来るわよ♡ 昨夜、あたしの店に来たお客さんも言ってたわ。“噂のバーに行って、マスターに『OKダンディ』って言わせてみたい”って!」
「……俺は拡声器じゃないんだぞ」
麗子嬢がグラス越しに、冷ややかな、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「あなた、自分が今、夜の街でどんな風に語られているか分かっていないのね」
「知りたくもないし、関わりたくもない」
「そこが一番の『映えポイント』らしいわよ。“巻き込まれているのに、魂が別の場所にあるような顔でグラスを拭くマスター”。それが、都会の喧騒に疲れた大人たちの好奇心を刺激しているの」
「俺は、魂を抜いてるだけだ。そうしないと、お前らの相手は務まらないからな」
ナツキが笑いながら言う。
「でもタケさん、外で広がってる噂って、もっと“ちょっといい感じ”ですよ?」
「その“ちょっと”が一番曲者なんだよ。誰がそんな無責任な噂を……」
その時だった。工藤ちゃんが、帽子のつばを指先でクイッと押し下げた。
「……バックシティ〜♪ バックシティ〜♪」
「何だよ、その開幕を告げるファンファーレみたいな歌い方は」 「事件が、ドアの向こうまで来ている。……自意識の足音が聞こえるぞ」
「違う、ただの客だ。……いや、客なのか?」
カラン、とドアが鳴った。
店内の空気が一瞬で、肉食獣が獲物を見つけた時のように研ぎ澄まされる。
入ってきたのは、三十代前半と思わしき男と女の二人連れだった。恋人同士というよりは、会社の同僚か、あるいは「今夜は少し背伸びした場所へ行こう」と約束した知人同士、といった微妙な距離感。
男の方は、入る前からジャケットの襟を正し、背筋を不自然なほどピンと伸ばしている。対する女の方は、周囲を警戒するように、「本当にここで合ってる?」という不安と好奇心が混ざった顔をしていた。
タケさんは、プロの仮面を被り、いつもの調子で声をかけた。 「いらっしゃい、セクシー。……OKダンディ」
女が目を丸くし、男の方は一拍遅れて、どこか誇らしげに会釈した。
「ど、どうも。こんばんは」
「ほら、見て」とリンが小声で囁く。
「初動の筋肉が硬すぎる。完全に『自分たちが今、特別な場所にいる』って思い込んでるわ」
「典型的な“見て来ました”の挙動ね」と麗子嬢が品定めするように見る。
「かわいいわねぇ、あの緊張感。初心(うぶ)だわ♡」とミルクちゃん。
「お前ら、営業妨害だぞ。静かにしろ」
店内はすでに常連で埋まっていたが、マウスやりょうちんが少しずつ席を詰め、神様が椅子を一つ回すことで、どうにか二人分のスペースが確保された。
男が、カウンターに浅く腰掛けながら言った。
「あの……ここ、先日発売された雑誌の記事を見て来たんですけど」
「「「「「出た!!!」」」」」
常連たちの声が重なる。
「出ましたね、ソース元が」とマウス。
「来たわね、聖地巡礼」とマユ姐。
タケさんは動じず、普通にチェイサーの水を二つのグラスに注いだ。
「ありがとうございます、OKダンディ。……で、何にしますか?」
男は少し困ったように、しかし嬉しそうに笑う。
「本当に言うんですね、『OKダンディ』って。記事に書いてあった通りだ」
「記事にはどう書いてあったんだ?」とヒロが横から口を挟む。 「ええと……『月見橋の闇に灯る、一軒のバー。そこではマスターの“OKダンディ”という呪文と共に、夜の哲学が始まる』って」
店が数秒間、水を打ったように静まり返り、その後、爆発した。 「呪文!?
アホか!」とリン。
「哲学!? どの口が言ってるのよ!」とメグぽよ。
「編集長、盛りすぎよ。あれはただのマスターの照れ隠しなのに」と麗子嬢。
女の客が、周囲の熱量に圧倒されながらも、くすっと笑った。 「でも、なんだか楽しいですね。もっとこう……静かで、隠れ家的な、格式高い店だと思って緊張してたんですけど」
「違うのよ、セクシー」とメグぽよが身を乗り出す。
「ここは隠れ家じゃなくて、吹き溜まりよ!」
「落ち着いてるのは看板の色だけ」とリン。
「中はただの、大人になりきれないアホたちの避難所よ♡」とミルクちゃん。
「ひどい言い方だな」とタケさんが溜息をつく。
工藤ちゃんが、低い声で謎めいた一言を放った。
「……これは、歴史的乖離事件だ」
「乖離って言いたいだけだろ」
「いいや。今、この OKダンディとセクシーは、『理想のバー』という虚像と、『騒がしい現実』という実像の、ちょうど断層に落ちているんだ。……見てみろ、あの男の顔を。まだ哲学を期待している」
男の客は苦笑いしながら言った。
「いや、でも本当に皆さん、雑誌に載ってた通り……いや、それ以上に個性的ですね。本当に、普段からこういうやり取りをされてるんですか?」
「もっとひどいわよ」とマユ姐。
「今日なんて、タケさんがまだ『人間に見せようとしてる』から、かなり上品な方ね」と麗子嬢。
「えっ、これで上品なんですか?」と女の客。
「これで」と、常連全員が一点の曇りもない顔で頷いた。
メグぽよが突然、パンッ!と手を叩いた。
「はい! 今日の議題決定!! 噂の店に来た新規客の心得選手権!!」
「くだらねぇ。普通に飲んでくれればそれでいいんだよ」
「だめよタケさん。噂を聞いて来たからには、彼らにも『参加する義務』があるわ」とリン。
「選手権のタイトルはこれよ! 『噂の店に来た OKダンディは、最初の三分で何をすべきか!』」
ナツキが控えめに手を挙げる。
「あの、普通に……自分の好きなものを注文して、静かに待つのが一番じゃないですか?」
「浅い!」とメグぽよがバッサリ切り捨てる。
「正論すぎて、この店では反則よ」とマユ姐。
「ナツキちゃん、それは『普通』のバーの話。ここは『伝説(自称)』のバーなのよ?」
ゴウちゃんが、ぐいっと顎を引いて立ち上がった。
「違うな。OKダンディが最初の三分でやるべきことは……『店内の戦力分析』をやめることだ」
「何だよそれ」
「いるんだよ。噂の店に入った瞬間、周りの常連を見て“俺の方が落ち着いて飲める”“俺の方がこの店の雰囲気に馴染んでる”って、謎の勝負を仕掛けてくる男。
……さっきの君も、一瞬だけ神様のグラスをチェックしただろ?」
男の客が、ギクリとした顔をした。
「あ……いや、どんなお酒を飲まれてるのかな、とは……」
「それが自意識の火種よ!」とリン。
メグぽよが実演を開始した。
「はい、これが“普通の OKダンディ”。……普通に座る」
メグぽよはすとんと座る。
「で、これが“噂の店に来て、一目置かれたいと思っている OKダンディ”!」
メグぽよは、一度立ち上がり、ジャケットのボタンをいじり、誰も見ていないのに店内のポスターを深く頷きながら眺め、椅子を引く音を最小限に抑え、座った瞬間にふぅ……と、なぜか「深い歴史を背負ってきた」かのような溜息をつく。
店内が、爆笑で揺れた。
「いるぅぅぅぅ!! その無駄な重厚感!」とミルクちゃん。 「“俺は分かってます”って顔が、逆に一番分かってないのよね」と麗子嬢。
男の客は顔を真っ赤にして、「……ちょっと、意識してたかもしれません」と白状した。
マウスがスマホを片手に補足する。
「噂の店における新規客の失敗行動、トップ3を発表します。
一つ、メニューを見る時間が長すぎる。これは知性を演出したい心理の現れです。
二つ、マスターの『OKダンディ』に対して、独自の『OK』で返そうとする。これは同調欲求です。
三つ、連れの女性に、頼まれてもいない解説を始める」
「あ……」と、女の客が男の顔をチラリと見る。
「それさっきやってたわね」とリンがニヤリと笑う。
「“ここは月見橋でも特殊な地場でさ……”って小声で言ってたわよね」とマユ姐。
「やめてください、恥ずかしすぎる!」と男が頭を抱えた。
「じゃあ、セクシーはどうすればいいの?」とナツキが聞く。 マユ姐が、少し意地悪な顔で答えた。
「セクシーが最初の三分でやるべきことは、一つ。
……男の顔色を伺うのをやめることよ」
「えっ?」と女の客。
「店に馴染もうと必死な男を助けてあげようとして、自分まで『静かな名店好きの女』を演じ始めちゃう女がいるの。あれ、一番つまんないわよ」
「そうね」と麗子嬢が続く。「自分がこの場所を面白いと思ったら笑えばいいし、変だと思ったら『変ね』って言えばいい。店に合わせるんじゃなくて、自分の感情に正直でいること。それが、この店で生き残る唯一の方法よ」
「……今の、めちゃくちゃ格好いいですね」と女の客が目を輝かせる。
「この人は、こういう時だけいいことを言うの。でも本質はただのドSよ」とリン。
「褒め言葉として受け取るわ」
ミルクちゃんが、にやにやしながら二人に提案した。
「ねえ、せっかくだから“この店流の、噂の店っぽい客の入り方”をもう一回やってみなさいよ!」
「ええっ、また!?」
「今度はあたしたちが採点してあげるから。ねえ、タケさん!」 「俺を巻き込むな。……まあ、面白いからいいけどな」
「マスターまで!」
男と女は、一度店の外へ出された。
ドアを閉めた後、店内の全員が息を潜めて入口を見つめる。 工藤ちゃんが、ボソリと呟いた。
「バックシティ〜♪……自意識の、再教育だ」
ガチャ、とドアが開いた。
まず、女の客が一歩入ってくる。彼女は、さっきの「静かな名店好き」の仮面を脱ぎ捨て、少しだけ肩をすくめて笑いながら言った。
「……なんか、ここ、思ったよりちゃんとバカですね!」
店内に、今日一番の、快哉を叫ぶような爆笑が響き渡った。 「合格!!」
「最高よ、セクシー!」
「そう、それが正解よ!」
リンが手を叩いて喜ぶ。
「“ちゃんとバカ”。この店のキャッチコピーにしましょうよ、マウス」
「検討します。データ的にも、アホとバカの比率が9対1ですから」
続いて入ってきた男の客は、もうジャケットの襟を直すこともなかった。彼は少し照れながら、タケさんに向かって真っ直ぐに言った。
「……マスター。僕も、ここでバカになってもいいですか?」
タケさんは一瞬だけ驚いた顔をし、それから今夜初めての、本当に心からの笑みを浮かべた。
「……もちろんだ、OKダンディ。そのためにみんな、ここに集まってるんだからな」
工藤ちゃんが、静かに帽子を直して歌い始めた。
「バックシティ〜♪ バックシティ〜♪」
「何だよ今度は」
「解決した。この店が噂になる、本当の理由が」
全員が、工藤ちゃんを見る。
「この店は、“特別な店”という看板を掲げているわけじゃない。でも、一歩中に入れば、誰もが『特別なバカ』になれる。外の世界で背負わされている“ちゃんとした大人”という重石を、この赤いランプの下に置いていけるんだ。
……来た人間が、帰り道に『なんか特別だったな』と錯覚したくなる。それが伝説の正体だ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ヒロがポツリと言った。
「……工藤ちゃん、たまにだけ、本当に名探偵みたいなこと言うよね」
「たまにだけな」とリン。
「一年に一回のアニバーサリーだわ」と麗子嬢。
「常に、だ」と工藤ちゃんが張る。
タケさんは、新しく入った二人の前に、新しいグラスを置いた。 「まあ、セクシーも OKダンディも。噂なんてものは、所詮外側の皮に過ぎない。中身が腐ってるか、熟成してるか、自分の舌で確かめていけ」
「はい!」と、二人は清々しい返事をした。
その顔には、もう「見て来ました」という緊張感は一ミリも残っていなかった。
外は相変わらず静かだった。
信号の音、タクシーの気配、夜の冷たい空気。
でも、この小さな赤いランプの下だけは、相変わらずうるさくて、相変わらず支離滅裂で、相変わらず「ちゃんとバカ」だった。
誰かが言い出し、誰かが盛り、誰かが壊し、誰かが時々だけ、とびきり真面目な顔をして真理を突く。
そんな騒がしさが、今夜も月見橋の夜を少しだけ、温かく変えていた。
「マスター。次、誰か連れてきてもいいですか? 僕の周りの、真面目すぎて疲れちゃってる奴らを」
男の客が、酒を一口飲んで言った。
タケさんは少しだけ笑い、グラスを棚へ戻した。
「もちろんだ。いつでも連れてこい、OKダンディ。……ただし」 「ただし?」
「ここに来たら、そいつが誰だろうと、俺は『セクシー』か『OKダンディ』としか呼ばないけどな」
店内に、また新しい笑い声が広がった。
そして今夜もまた、RedLight Bar で何かが起こっていた。
――この店の夜は、まだ終わらない。
(続きは22時)
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドア、遠くを走るタクシーの重いタイヤ音。そんな日常の断片が混ざり合って、この街の夜の空気がゆっくりと出来上がる。
その交差点から一本入った細い路地に、小さな赤いランプを灯す店がある。――Red Light Bar。カウンター八席だけの、小さな店だ。
その夜、店主のタケさんは開店して二十分で、妙な胸騒ぎを覚えていた。それは、嵐の前の静けさというよりは、「これから面倒な珍客がやってくる」という直感に近い。
「……今日は来るな。間違いなく来るぞ」
カウンターの中でグラスを拭きながらそう呟くと、右奥に座っていた神様が静かに琥珀色の液体を揺らした。
「何が、ですか。幸運ですか? それとも、また新たな厄災ですか?」
「後者に決まってるだろ。“見て来ました”っていう顔に、全身をガチガチに固めたやつらだよ」
マユ姐がハイボールを豪快に煽り、プハッと息を吐く。
「来るわね。この数日、空気の振動がいつもと違うもの。外にいる連中の視線が、ドアの隙間から漏れる赤い光を品定めしてる」 「来ますね。検索流入のキーワードに『マスター
困り顔』や『月見橋 哲学 暴走』が急増しています」とマウス。
「来るわよ♡ 昨夜、あたしの店に来たお客さんも言ってたわ。“噂のバーに行って、マスターに『OKダンディ』って言わせてみたい”って!」
「……俺は拡声器じゃないんだぞ」
麗子嬢がグラス越しに、冷ややかな、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「あなた、自分が今、夜の街でどんな風に語られているか分かっていないのね」
「知りたくもないし、関わりたくもない」
「そこが一番の『映えポイント』らしいわよ。“巻き込まれているのに、魂が別の場所にあるような顔でグラスを拭くマスター”。それが、都会の喧騒に疲れた大人たちの好奇心を刺激しているの」
「俺は、魂を抜いてるだけだ。そうしないと、お前らの相手は務まらないからな」
ナツキが笑いながら言う。
「でもタケさん、外で広がってる噂って、もっと“ちょっといい感じ”ですよ?」
「その“ちょっと”が一番曲者なんだよ。誰がそんな無責任な噂を……」
その時だった。工藤ちゃんが、帽子のつばを指先でクイッと押し下げた。
「……バックシティ〜♪ バックシティ〜♪」
「何だよ、その開幕を告げるファンファーレみたいな歌い方は」 「事件が、ドアの向こうまで来ている。……自意識の足音が聞こえるぞ」
「違う、ただの客だ。……いや、客なのか?」
カラン、とドアが鳴った。
店内の空気が一瞬で、肉食獣が獲物を見つけた時のように研ぎ澄まされる。
入ってきたのは、三十代前半と思わしき男と女の二人連れだった。恋人同士というよりは、会社の同僚か、あるいは「今夜は少し背伸びした場所へ行こう」と約束した知人同士、といった微妙な距離感。
男の方は、入る前からジャケットの襟を正し、背筋を不自然なほどピンと伸ばしている。対する女の方は、周囲を警戒するように、「本当にここで合ってる?」という不安と好奇心が混ざった顔をしていた。
タケさんは、プロの仮面を被り、いつもの調子で声をかけた。 「いらっしゃい、セクシー。……OKダンディ」
女が目を丸くし、男の方は一拍遅れて、どこか誇らしげに会釈した。
「ど、どうも。こんばんは」
「ほら、見て」とリンが小声で囁く。
「初動の筋肉が硬すぎる。完全に『自分たちが今、特別な場所にいる』って思い込んでるわ」
「典型的な“見て来ました”の挙動ね」と麗子嬢が品定めするように見る。
「かわいいわねぇ、あの緊張感。初心(うぶ)だわ♡」とミルクちゃん。
「お前ら、営業妨害だぞ。静かにしろ」
店内はすでに常連で埋まっていたが、マウスやりょうちんが少しずつ席を詰め、神様が椅子を一つ回すことで、どうにか二人分のスペースが確保された。
男が、カウンターに浅く腰掛けながら言った。
「あの……ここ、先日発売された雑誌の記事を見て来たんですけど」
「「「「「出た!!!」」」」」
常連たちの声が重なる。
「出ましたね、ソース元が」とマウス。
「来たわね、聖地巡礼」とマユ姐。
タケさんは動じず、普通にチェイサーの水を二つのグラスに注いだ。
「ありがとうございます、OKダンディ。……で、何にしますか?」
男は少し困ったように、しかし嬉しそうに笑う。
「本当に言うんですね、『OKダンディ』って。記事に書いてあった通りだ」
「記事にはどう書いてあったんだ?」とヒロが横から口を挟む。 「ええと……『月見橋の闇に灯る、一軒のバー。そこではマスターの“OKダンディ”という呪文と共に、夜の哲学が始まる』って」
店が数秒間、水を打ったように静まり返り、その後、爆発した。 「呪文!?
アホか!」とリン。
「哲学!? どの口が言ってるのよ!」とメグぽよ。
「編集長、盛りすぎよ。あれはただのマスターの照れ隠しなのに」と麗子嬢。
女の客が、周囲の熱量に圧倒されながらも、くすっと笑った。 「でも、なんだか楽しいですね。もっとこう……静かで、隠れ家的な、格式高い店だと思って緊張してたんですけど」
「違うのよ、セクシー」とメグぽよが身を乗り出す。
「ここは隠れ家じゃなくて、吹き溜まりよ!」
「落ち着いてるのは看板の色だけ」とリン。
「中はただの、大人になりきれないアホたちの避難所よ♡」とミルクちゃん。
「ひどい言い方だな」とタケさんが溜息をつく。
工藤ちゃんが、低い声で謎めいた一言を放った。
「……これは、歴史的乖離事件だ」
「乖離って言いたいだけだろ」
「いいや。今、この OKダンディとセクシーは、『理想のバー』という虚像と、『騒がしい現実』という実像の、ちょうど断層に落ちているんだ。……見てみろ、あの男の顔を。まだ哲学を期待している」
男の客は苦笑いしながら言った。
「いや、でも本当に皆さん、雑誌に載ってた通り……いや、それ以上に個性的ですね。本当に、普段からこういうやり取りをされてるんですか?」
「もっとひどいわよ」とマユ姐。
「今日なんて、タケさんがまだ『人間に見せようとしてる』から、かなり上品な方ね」と麗子嬢。
「えっ、これで上品なんですか?」と女の客。
「これで」と、常連全員が一点の曇りもない顔で頷いた。
メグぽよが突然、パンッ!と手を叩いた。
「はい! 今日の議題決定!! 噂の店に来た新規客の心得選手権!!」
「くだらねぇ。普通に飲んでくれればそれでいいんだよ」
「だめよタケさん。噂を聞いて来たからには、彼らにも『参加する義務』があるわ」とリン。
「選手権のタイトルはこれよ! 『噂の店に来た OKダンディは、最初の三分で何をすべきか!』」
ナツキが控えめに手を挙げる。
「あの、普通に……自分の好きなものを注文して、静かに待つのが一番じゃないですか?」
「浅い!」とメグぽよがバッサリ切り捨てる。
「正論すぎて、この店では反則よ」とマユ姐。
「ナツキちゃん、それは『普通』のバーの話。ここは『伝説(自称)』のバーなのよ?」
ゴウちゃんが、ぐいっと顎を引いて立ち上がった。
「違うな。OKダンディが最初の三分でやるべきことは……『店内の戦力分析』をやめることだ」
「何だよそれ」
「いるんだよ。噂の店に入った瞬間、周りの常連を見て“俺の方が落ち着いて飲める”“俺の方がこの店の雰囲気に馴染んでる”って、謎の勝負を仕掛けてくる男。
……さっきの君も、一瞬だけ神様のグラスをチェックしただろ?」
男の客が、ギクリとした顔をした。
「あ……いや、どんなお酒を飲まれてるのかな、とは……」
「それが自意識の火種よ!」とリン。
メグぽよが実演を開始した。
「はい、これが“普通の OKダンディ”。……普通に座る」
メグぽよはすとんと座る。
「で、これが“噂の店に来て、一目置かれたいと思っている OKダンディ”!」
メグぽよは、一度立ち上がり、ジャケットのボタンをいじり、誰も見ていないのに店内のポスターを深く頷きながら眺め、椅子を引く音を最小限に抑え、座った瞬間にふぅ……と、なぜか「深い歴史を背負ってきた」かのような溜息をつく。
店内が、爆笑で揺れた。
「いるぅぅぅぅ!! その無駄な重厚感!」とミルクちゃん。 「“俺は分かってます”って顔が、逆に一番分かってないのよね」と麗子嬢。
男の客は顔を真っ赤にして、「……ちょっと、意識してたかもしれません」と白状した。
マウスがスマホを片手に補足する。
「噂の店における新規客の失敗行動、トップ3を発表します。
一つ、メニューを見る時間が長すぎる。これは知性を演出したい心理の現れです。
二つ、マスターの『OKダンディ』に対して、独自の『OK』で返そうとする。これは同調欲求です。
三つ、連れの女性に、頼まれてもいない解説を始める」
「あ……」と、女の客が男の顔をチラリと見る。
「それさっきやってたわね」とリンがニヤリと笑う。
「“ここは月見橋でも特殊な地場でさ……”って小声で言ってたわよね」とマユ姐。
「やめてください、恥ずかしすぎる!」と男が頭を抱えた。
「じゃあ、セクシーはどうすればいいの?」とナツキが聞く。 マユ姐が、少し意地悪な顔で答えた。
「セクシーが最初の三分でやるべきことは、一つ。
……男の顔色を伺うのをやめることよ」
「えっ?」と女の客。
「店に馴染もうと必死な男を助けてあげようとして、自分まで『静かな名店好きの女』を演じ始めちゃう女がいるの。あれ、一番つまんないわよ」
「そうね」と麗子嬢が続く。「自分がこの場所を面白いと思ったら笑えばいいし、変だと思ったら『変ね』って言えばいい。店に合わせるんじゃなくて、自分の感情に正直でいること。それが、この店で生き残る唯一の方法よ」
「……今の、めちゃくちゃ格好いいですね」と女の客が目を輝かせる。
「この人は、こういう時だけいいことを言うの。でも本質はただのドSよ」とリン。
「褒め言葉として受け取るわ」
ミルクちゃんが、にやにやしながら二人に提案した。
「ねえ、せっかくだから“この店流の、噂の店っぽい客の入り方”をもう一回やってみなさいよ!」
「ええっ、また!?」
「今度はあたしたちが採点してあげるから。ねえ、タケさん!」 「俺を巻き込むな。……まあ、面白いからいいけどな」
「マスターまで!」
男と女は、一度店の外へ出された。
ドアを閉めた後、店内の全員が息を潜めて入口を見つめる。 工藤ちゃんが、ボソリと呟いた。
「バックシティ〜♪……自意識の、再教育だ」
ガチャ、とドアが開いた。
まず、女の客が一歩入ってくる。彼女は、さっきの「静かな名店好き」の仮面を脱ぎ捨て、少しだけ肩をすくめて笑いながら言った。
「……なんか、ここ、思ったよりちゃんとバカですね!」
店内に、今日一番の、快哉を叫ぶような爆笑が響き渡った。 「合格!!」
「最高よ、セクシー!」
「そう、それが正解よ!」
リンが手を叩いて喜ぶ。
「“ちゃんとバカ”。この店のキャッチコピーにしましょうよ、マウス」
「検討します。データ的にも、アホとバカの比率が9対1ですから」
続いて入ってきた男の客は、もうジャケットの襟を直すこともなかった。彼は少し照れながら、タケさんに向かって真っ直ぐに言った。
「……マスター。僕も、ここでバカになってもいいですか?」
タケさんは一瞬だけ驚いた顔をし、それから今夜初めての、本当に心からの笑みを浮かべた。
「……もちろんだ、OKダンディ。そのためにみんな、ここに集まってるんだからな」
工藤ちゃんが、静かに帽子を直して歌い始めた。
「バックシティ〜♪ バックシティ〜♪」
「何だよ今度は」
「解決した。この店が噂になる、本当の理由が」
全員が、工藤ちゃんを見る。
「この店は、“特別な店”という看板を掲げているわけじゃない。でも、一歩中に入れば、誰もが『特別なバカ』になれる。外の世界で背負わされている“ちゃんとした大人”という重石を、この赤いランプの下に置いていけるんだ。
……来た人間が、帰り道に『なんか特別だったな』と錯覚したくなる。それが伝説の正体だ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ヒロがポツリと言った。
「……工藤ちゃん、たまにだけ、本当に名探偵みたいなこと言うよね」
「たまにだけな」とリン。
「一年に一回のアニバーサリーだわ」と麗子嬢。
「常に、だ」と工藤ちゃんが張る。
タケさんは、新しく入った二人の前に、新しいグラスを置いた。 「まあ、セクシーも OKダンディも。噂なんてものは、所詮外側の皮に過ぎない。中身が腐ってるか、熟成してるか、自分の舌で確かめていけ」
「はい!」と、二人は清々しい返事をした。
その顔には、もう「見て来ました」という緊張感は一ミリも残っていなかった。
外は相変わらず静かだった。
信号の音、タクシーの気配、夜の冷たい空気。
でも、この小さな赤いランプの下だけは、相変わらずうるさくて、相変わらず支離滅裂で、相変わらず「ちゃんとバカ」だった。
誰かが言い出し、誰かが盛り、誰かが壊し、誰かが時々だけ、とびきり真面目な顔をして真理を突く。
そんな騒がしさが、今夜も月見橋の夜を少しだけ、温かく変えていた。
「マスター。次、誰か連れてきてもいいですか? 僕の周りの、真面目すぎて疲れちゃってる奴らを」
男の客が、酒を一口飲んで言った。
タケさんは少しだけ笑い、グラスを棚へ戻した。
「もちろんだ。いつでも連れてこい、OKダンディ。……ただし」 「ただし?」
「ここに来たら、そいつが誰だろうと、俺は『セクシー』か『OKダンディ』としか呼ばないけどな」
店内に、また新しい笑い声が広がった。
そして今夜もまた、RedLight Bar で何かが起こっていた。
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