第3話 ミルクちゃんの恋愛相談
ー/ー月見橋交差点の夜は、たいてい静かに始まる。
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドアが吸い込む吐息、遠くを走り去るタクシーの重いタイヤ音。そんな、どこにでもある街の断片が混ざり合って、この界隈特有の、湿り気を帯びた夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
その交差点から、逃げるように一本入った細い路地。そこに、血のような、あるいは救いのような赤いランプをひとつだけ灯す店がある。
――Red Light Bar。
カウンターわずか八席だけの、主役のいない劇場のような店だ。
その夜、店内にいたのはいつもの顔ぶれだった。
店主のタケさんが、一点の曇りもないグラスを黙々と拭きながら、ふと独り言のように漏らした。
「……今日も、静かだな」
右奥の特等席で、神様が琥珀色の液体をゆっくりと喉に流し込む。
「こういう夜も、悪くない。酒の味がよくわかる」
「いや、俺は少し退屈だぜ」
隣でゴウちゃんが、手持ち無沙汰そうにピーナッツを放り投げた。
「ニュースも、特にこれといって面白いものはないですね」
マウスがスマホの画面をなぞりながら、無機質な声で付け加える。
「平和ですねぇ」
若手のりょうちんが、のんびりとあくびを噛み殺した。
その、凪いだ空気を切り裂くようにドアが開いた。
「バックシティ~~♪ バックシティ~~♪」
ご機嫌な、しかし絶望的に音程の怪しい鼻歌と共に、工藤ちゃんが滑り込んできた。
「OKダンディー。……静かだな」
タケさんの挨拶を遮るように、工藤ちゃんは帽子を直し、鋭い視線で店内を一巡させた。
「……今夜も、事件の匂いがする」
「しない」
タケさんが、磨いていたグラスを置いて即答した。
「全く、しない」と神様。
「するわけがないだろ」とゴウちゃん。
「今日は驚くほど平和です」とマウス。
「すごく、平和です」とりょうちん。
工藤ちゃんは心外そうに腕を組み、鼻をひくつかせた。
「いや、探偵的直感がそう告げている。この静寂こそが、巨大な嵐の前触れなのだと……」
「その直感、だいたい外れるだろ」
タケさんの冷ややかなツッコミに、店内に小さな笑いがさざ波のように広がった。
だが、その「嵐」は、工藤ちゃんの予言とは全く別の方向から、勢いよくドアを蹴破るようにして現れた。
「ちょっと聞いてよ!!! 」
ミルクちゃんだ。
彼女が飛び込んできた瞬間、店の空気の粒子が激しくぶつかり合い、一瞬にして沸点に達する。
「どうしたミルク。息が上がってるぞ」
タケさんが苦笑いでハイボールを作り始める。ミルクちゃんはカウンターに崩れ落ちるように座ると、全員を指差して叫んだ。
「あたしね、恋愛相談されたのよ!」
「……ミルクに?」
ゴウちゃんが、信じられないものを見るような目で聞き返した。 「相談する相手、致命的に間違えてませんか?」
マウスの無慈悲な指摘に、ミルクちゃんが身を乗り出して睨みつける。
「失礼ね! あたしだって現役よ! ……それで、神様、聞いてよ」
「ほう。何があったのですか」
神様が静かに促すと、ミルクちゃんは腕を組み、深刻な面持ちで語り出した。
「あたしのお店によく来る常連さんなんだけどね。彼女ができないって、本気で悩んでるの。でもね、その人、すっごく『いい人』なのよ! 優しいし、真面目だし、仕事も一流だし……」
「完璧じゃないですか」とりょうちんが感心する。
「なのに、絶望的にモテないの!」
「それは、重症だな」とゴウちゃん。
「原因は、何なのですか」
神様の問いに、ミルクちゃんは深い溜息をついて、一言で切り捨てた。
「……つまらないのよ。地獄のように」
一瞬、店が静まり返った。
「どういう意味だ?」
タケさんの問いに、ミルクちゃんは指を折って数え始めた。 「デートのコースが、毎回、一ミリの狂いもなく同じなのよ」
「同じ?」
「一、 映画。二、イタリアン。三、カフェ。四、帰宅」
「……ほう」
「三回連続よ!? 一回目なら王道だけど、三回目はただの修行よ!」
「ルーティンワークですね。効率的ではありますが」とマウス。
「それは……確かに、酒が進まない話だな」
タケさんが同意した、その時だった。
「ただいま」
マユ姐だ。
彼女は一歩店に入っただけで、淀んだ空気の正体を察知した。 「何、このむさ苦しい会議。……あ、恋愛相談?」
「あら、面白そう」
マユ姐が当然のように席に着く。ミルクちゃんは我が意を得たりとばかりに話を続けた。
「そうなのよ。でね、あたし聞いたの。“デートで何話すの?”って。そしたら何て言ったと思う?」
「ほう」
「一、 天気。二、仕事。三、健康診断の結果」
「……それ、病院の待合室だろ」
ゴウちゃんのツッコミに、ドッと店が沸く。
「その男ね」
マユ姐が、煙草をくわえようとして手を止め、断定した。
「なによ」
「……『いい人』をやりすぎてるのよ」
「確かに。刺激という名のスパイスが欠けていますね」
神様も頷く。
「恋愛という名の難事件……未解決の予感がするな」
工藤ちゃんが格好をつけて割り込むが、タケさんに
「探偵は黙ってろ」と一蹴される。
「でね、その人、ついに女の子から言われたんですって。『いい人だけど、ドキドキしない』って」
「ああ、殺し文句だ」
ゴウちゃんが、自分の古傷を抉られたように顔をしかめた。 「男ってね」
マユ姐が、鋭い視線でカウンターの男たちを射抜いた。
「……『いい人』になろうと必死になればなるほど、魅力という名の毒が抜けて、ただの『便利な置物』になるのよ。わかる?」
「それは……男側にも、嫌われたくないっていう切実な事情があるんだよ」
タケさんが弁護するが、マユ姐は冷たく切り捨てた。
「事情なんて、酒の肴にもならないわ。女が求めているのは、安心感の先にある『揺らぎ』なの」
「そうなのよ! マユ姐、最高!」
ミルクちゃんが手を叩いた、その時だった。
カラン、という澄んだ音がした。
重厚なドアが開き、夜の冷気と共に一人の女性客が迷い込んできた。
ハッとするほど、綺麗な人だった。
その瞬間、Red Light
Barの空気が「物理的に」変わった。
神様が、これ以上ないほど背筋を伸ばし、琥珀色の液体を芸術的な角度で傾ける。
ゴウちゃんが、だらしなく開いていた膝を閉じ、精悍な表情を作る。
マウスが、音もなくスマホをポケットにしまい、知的な眼鏡を指先で直す。
りょうちんが、急に借りてきた猫のように静まり返る。
工藤ちゃんが、帽子のつばをミリ単位で調整し、低い声を喉の奥で作る。
そして店主のタケさんが、今日一番の渋いテノールで囁いた。 「……いらっしゃい、セクシー。空いてるよ」
それまでの一部始終を見ていたミルクちゃんが、突然、噴き出した。
「ほら、見て!!」
腹を抱えて笑うミルクちゃんをよそに、女性客は少し戸惑った様子でカウンターに座った。
「あの……。ここって、いつもこんな感じなんですか?」
「今日はまだ、静かな方よ」
ミルクちゃんが笑いながら答える。女性客は少しだけ表情を緩め、意外なことを口にした。
「……さっき、外まで聞こえてました。『ドキドキしない男』の話」
「あら、失礼。恋愛相談中だったのよ」
マユ姐が微笑む。女性客は、カウンターの男たちが自分に向けようとしている「必死の格好良さ」をどこかで見透かすように、くすくすと笑った。
「面白いお店ですね。……セクシー、って呼ばれるのも、悪くないかも」
男たちが一斉に、鼻の下を伸ばす。
「で、セクシーはどう思う?」
ミルクちゃんが身を乗り出した。
「『いい人だけど、ドキドキしない男』。何が足りないと思う?」 女性客は、少しだけ考えた。そして、磨き抜かれたカクテルグラスを見つめながら、静かに言った。
「……それって、たぶん」
全員が、息を呑んで彼女の言葉を待った。
「退屈なんじゃなくて、**『本音を見せていない』**だけなんじゃないでしょうか」
一瞬、店内の時間が止まった。
「本音、ですか」
神様が、反芻するように呟く。
「優しい人って、相手に嫌われないように、丁寧に、丁寧に言葉を選びますよね。でも、それって相手からすると、透明な壁が一枚あるみたいで、すごく距離を感じるんです。その壁が、『ドキドキしない』の正体なんじゃないかなって」
……深い。
ゴウちゃんが呻き、マウスが「心理学的に正解です」と頷き、りょうちんが「勉強になります!」と手帳を取り出さんばかりの勢いで見つめる。
「事件、解決だな。犯人は……過剰な自己防衛だ」
工藤ちゃんが低い声で決めるが、即座にタケさんが
「探偵は黙ってろ」と封じ込める。
「なるほどねぇ。つまり、あれね」
マユ姐が、新しいグラスを差し出したタケさんにウィンクした。 「なによ」とミルクちゃん。
「……『いい人』なんて、やめちゃえばいいのよ。少しは自分勝手な顔も見せないと、女は踏み込めないわ」
「雑だけど、正解!」
ミルクちゃんが笑う。女性客も楽しそうに続けた。
「ええ。たぶん、少し『面白い』というか、人間くさい人の方が、ずっとモテますよ」
その瞬間。
カウンターの男たちが、示し合わせたように一斉に姿勢を正し、自分の「人間くささ」や「面白さ」をどうアピールすべきか、激しく火花を散らし始めた。
それを見たミルクちゃんが、今度は椅子から転げ落ちそうになりながら大爆笑した。
「……遅いわよ!!! 」
タケさんは、再びグラスを拭き始めながら、一言だけ重厚なトーンで漏らした。
「……ダンディーってのはな」
全員の視線が集まる。
「モテようと意識した時点で、もうそれはダンディーじゃねえんだよ」
店内に、今日一番の、そして一番納得感のある笑いが弾けた。
月見橋の夜は、まだ始まったばかりだ。
信号の音、タクシーの音。日常の中に埋もれた夜の静寂の下で、今宵もまた――Red Light Barでは、取るに足らない、けれど誰かの救いになるような何かが起こっていた。
――この店の夜は、まだ終わらない。
(続きは22時)
信号が変わる電子音、コンビニの自動ドアが吸い込む吐息、遠くを走り去るタクシーの重いタイヤ音。そんな、どこにでもある街の断片が混ざり合って、この界隈特有の、湿り気を帯びた夜の空気がゆっくりと出来上がっていく。
その交差点から、逃げるように一本入った細い路地。そこに、血のような、あるいは救いのような赤いランプをひとつだけ灯す店がある。
――Red Light Bar。
カウンターわずか八席だけの、主役のいない劇場のような店だ。
その夜、店内にいたのはいつもの顔ぶれだった。
店主のタケさんが、一点の曇りもないグラスを黙々と拭きながら、ふと独り言のように漏らした。
「……今日も、静かだな」
右奥の特等席で、神様が琥珀色の液体をゆっくりと喉に流し込む。
「こういう夜も、悪くない。酒の味がよくわかる」
「いや、俺は少し退屈だぜ」
隣でゴウちゃんが、手持ち無沙汰そうにピーナッツを放り投げた。
「ニュースも、特にこれといって面白いものはないですね」
マウスがスマホの画面をなぞりながら、無機質な声で付け加える。
「平和ですねぇ」
若手のりょうちんが、のんびりとあくびを噛み殺した。
その、凪いだ空気を切り裂くようにドアが開いた。
「バックシティ~~♪ バックシティ~~♪」
ご機嫌な、しかし絶望的に音程の怪しい鼻歌と共に、工藤ちゃんが滑り込んできた。
「OKダンディー。……静かだな」
タケさんの挨拶を遮るように、工藤ちゃんは帽子を直し、鋭い視線で店内を一巡させた。
「……今夜も、事件の匂いがする」
「しない」
タケさんが、磨いていたグラスを置いて即答した。
「全く、しない」と神様。
「するわけがないだろ」とゴウちゃん。
「今日は驚くほど平和です」とマウス。
「すごく、平和です」とりょうちん。
工藤ちゃんは心外そうに腕を組み、鼻をひくつかせた。
「いや、探偵的直感がそう告げている。この静寂こそが、巨大な嵐の前触れなのだと……」
「その直感、だいたい外れるだろ」
タケさんの冷ややかなツッコミに、店内に小さな笑いがさざ波のように広がった。
だが、その「嵐」は、工藤ちゃんの予言とは全く別の方向から、勢いよくドアを蹴破るようにして現れた。
「ちょっと聞いてよ!!! 」
ミルクちゃんだ。
彼女が飛び込んできた瞬間、店の空気の粒子が激しくぶつかり合い、一瞬にして沸点に達する。
「どうしたミルク。息が上がってるぞ」
タケさんが苦笑いでハイボールを作り始める。ミルクちゃんはカウンターに崩れ落ちるように座ると、全員を指差して叫んだ。
「あたしね、恋愛相談されたのよ!」
「……ミルクに?」
ゴウちゃんが、信じられないものを見るような目で聞き返した。 「相談する相手、致命的に間違えてませんか?」
マウスの無慈悲な指摘に、ミルクちゃんが身を乗り出して睨みつける。
「失礼ね! あたしだって現役よ! ……それで、神様、聞いてよ」
「ほう。何があったのですか」
神様が静かに促すと、ミルクちゃんは腕を組み、深刻な面持ちで語り出した。
「あたしのお店によく来る常連さんなんだけどね。彼女ができないって、本気で悩んでるの。でもね、その人、すっごく『いい人』なのよ! 優しいし、真面目だし、仕事も一流だし……」
「完璧じゃないですか」とりょうちんが感心する。
「なのに、絶望的にモテないの!」
「それは、重症だな」とゴウちゃん。
「原因は、何なのですか」
神様の問いに、ミルクちゃんは深い溜息をついて、一言で切り捨てた。
「……つまらないのよ。地獄のように」
一瞬、店が静まり返った。
「どういう意味だ?」
タケさんの問いに、ミルクちゃんは指を折って数え始めた。 「デートのコースが、毎回、一ミリの狂いもなく同じなのよ」
「同じ?」
「一、 映画。二、イタリアン。三、カフェ。四、帰宅」
「……ほう」
「三回連続よ!? 一回目なら王道だけど、三回目はただの修行よ!」
「ルーティンワークですね。効率的ではありますが」とマウス。
「それは……確かに、酒が進まない話だな」
タケさんが同意した、その時だった。
「ただいま」
マユ姐だ。
彼女は一歩店に入っただけで、淀んだ空気の正体を察知した。 「何、このむさ苦しい会議。……あ、恋愛相談?」
「あら、面白そう」
マユ姐が当然のように席に着く。ミルクちゃんは我が意を得たりとばかりに話を続けた。
「そうなのよ。でね、あたし聞いたの。“デートで何話すの?”って。そしたら何て言ったと思う?」
「ほう」
「一、 天気。二、仕事。三、健康診断の結果」
「……それ、病院の待合室だろ」
ゴウちゃんのツッコミに、ドッと店が沸く。
「その男ね」
マユ姐が、煙草をくわえようとして手を止め、断定した。
「なによ」
「……『いい人』をやりすぎてるのよ」
「確かに。刺激という名のスパイスが欠けていますね」
神様も頷く。
「恋愛という名の難事件……未解決の予感がするな」
工藤ちゃんが格好をつけて割り込むが、タケさんに
「探偵は黙ってろ」と一蹴される。
「でね、その人、ついに女の子から言われたんですって。『いい人だけど、ドキドキしない』って」
「ああ、殺し文句だ」
ゴウちゃんが、自分の古傷を抉られたように顔をしかめた。 「男ってね」
マユ姐が、鋭い視線でカウンターの男たちを射抜いた。
「……『いい人』になろうと必死になればなるほど、魅力という名の毒が抜けて、ただの『便利な置物』になるのよ。わかる?」
「それは……男側にも、嫌われたくないっていう切実な事情があるんだよ」
タケさんが弁護するが、マユ姐は冷たく切り捨てた。
「事情なんて、酒の肴にもならないわ。女が求めているのは、安心感の先にある『揺らぎ』なの」
「そうなのよ! マユ姐、最高!」
ミルクちゃんが手を叩いた、その時だった。
カラン、という澄んだ音がした。
重厚なドアが開き、夜の冷気と共に一人の女性客が迷い込んできた。
ハッとするほど、綺麗な人だった。
その瞬間、Red Light
Barの空気が「物理的に」変わった。
神様が、これ以上ないほど背筋を伸ばし、琥珀色の液体を芸術的な角度で傾ける。
ゴウちゃんが、だらしなく開いていた膝を閉じ、精悍な表情を作る。
マウスが、音もなくスマホをポケットにしまい、知的な眼鏡を指先で直す。
りょうちんが、急に借りてきた猫のように静まり返る。
工藤ちゃんが、帽子のつばをミリ単位で調整し、低い声を喉の奥で作る。
そして店主のタケさんが、今日一番の渋いテノールで囁いた。 「……いらっしゃい、セクシー。空いてるよ」
それまでの一部始終を見ていたミルクちゃんが、突然、噴き出した。
「ほら、見て!!」
腹を抱えて笑うミルクちゃんをよそに、女性客は少し戸惑った様子でカウンターに座った。
「あの……。ここって、いつもこんな感じなんですか?」
「今日はまだ、静かな方よ」
ミルクちゃんが笑いながら答える。女性客は少しだけ表情を緩め、意外なことを口にした。
「……さっき、外まで聞こえてました。『ドキドキしない男』の話」
「あら、失礼。恋愛相談中だったのよ」
マユ姐が微笑む。女性客は、カウンターの男たちが自分に向けようとしている「必死の格好良さ」をどこかで見透かすように、くすくすと笑った。
「面白いお店ですね。……セクシー、って呼ばれるのも、悪くないかも」
男たちが一斉に、鼻の下を伸ばす。
「で、セクシーはどう思う?」
ミルクちゃんが身を乗り出した。
「『いい人だけど、ドキドキしない男』。何が足りないと思う?」 女性客は、少しだけ考えた。そして、磨き抜かれたカクテルグラスを見つめながら、静かに言った。
「……それって、たぶん」
全員が、息を呑んで彼女の言葉を待った。
「退屈なんじゃなくて、**『本音を見せていない』**だけなんじゃないでしょうか」
一瞬、店内の時間が止まった。
「本音、ですか」
神様が、反芻するように呟く。
「優しい人って、相手に嫌われないように、丁寧に、丁寧に言葉を選びますよね。でも、それって相手からすると、透明な壁が一枚あるみたいで、すごく距離を感じるんです。その壁が、『ドキドキしない』の正体なんじゃないかなって」
……深い。
ゴウちゃんが呻き、マウスが「心理学的に正解です」と頷き、りょうちんが「勉強になります!」と手帳を取り出さんばかりの勢いで見つめる。
「事件、解決だな。犯人は……過剰な自己防衛だ」
工藤ちゃんが低い声で決めるが、即座にタケさんが
「探偵は黙ってろ」と封じ込める。
「なるほどねぇ。つまり、あれね」
マユ姐が、新しいグラスを差し出したタケさんにウィンクした。 「なによ」とミルクちゃん。
「……『いい人』なんて、やめちゃえばいいのよ。少しは自分勝手な顔も見せないと、女は踏み込めないわ」
「雑だけど、正解!」
ミルクちゃんが笑う。女性客も楽しそうに続けた。
「ええ。たぶん、少し『面白い』というか、人間くさい人の方が、ずっとモテますよ」
その瞬間。
カウンターの男たちが、示し合わせたように一斉に姿勢を正し、自分の「人間くささ」や「面白さ」をどうアピールすべきか、激しく火花を散らし始めた。
それを見たミルクちゃんが、今度は椅子から転げ落ちそうになりながら大爆笑した。
「……遅いわよ!!! 」
タケさんは、再びグラスを拭き始めながら、一言だけ重厚なトーンで漏らした。
「……ダンディーってのはな」
全員の視線が集まる。
「モテようと意識した時点で、もうそれはダンディーじゃねえんだよ」
店内に、今日一番の、そして一番納得感のある笑いが弾けた。
月見橋の夜は、まだ始まったばかりだ。
信号の音、タクシーの音。日常の中に埋もれた夜の静寂の下で、今宵もまた――Red Light Barでは、取るに足らない、けれど誰かの救いになるような何かが起こっていた。
――この店の夜は、まだ終わらない。
(続きは22時)
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