09_図書館『トポ』
ー/ーとっくに桜の花は満開を過ぎ、そろそろ散り始めるもの寂しげな春の終わりのとある日。モナは雨戸を叩く雨粒の音に目を覚ますと、到底夏が準備を始めているとは思えない気温に身震いした。
思い返せば前日の朝から少し肌寒かったし、夕方に見上げた西の空は少し重苦しい雰囲気を放っていた。バルナバ医院での夕食後、帰路に着く前にルチアが持たせてくれたパンはその時点で既に少し湿っていたし、寝る前に口にしたホットミルクにはほのかに雨の匂いが混じっていた。とどのつまり、雨の気配はあったのだ。
故にモナは起床と同時に知覚した雨の音に決して驚きはしなかった。けれど想像の遥か上を行く雨脚に、毎夜就寝前のルーティンとして頭の中で思い描いていた『次の日にやるべきこと』――例えば作付面積の増加だとか、整地する際に集めた小枝の乾燥作業だとか――がひとつも出来そうにないことにガッカリした。
おまけに「ならばせめてアルバイトでも」と思ってみたところで、バルナバ医院は本日休診日。モナは本格的に暇になってしまったのだった。
(でも、よく考えてみれば……イルクオーレに来てから、初めてのオフの日かも。)
モナはベッドの上から次々と桜を散らしていく雨を見つめながら、ふとそんなことを思った。実際、それはモナの誇張でもなんでもなく一切の嘘偽りのない事実だった。
例えばモナはバルナバ医院に居候させて貰っていた時はほぼ毎日バルナバの手伝いをしていたし、そうでない時はルチアと共に彼女が狩りのついでにしているという町周辺の巡回に付き合っていた。そして牧場に越してきてからは改めて言葉にするまでもなく、日夜馬車馬のように働いてきたのだ。冷静になってみれば綺麗さっぱり仕事のことを忘れない日などなかったし、忘れることもなかったことにモナは気が付いたのだ。
(……何、しようかな。)
モナは取り敢えずはベッドから出ると、軽く整えてからルチアのお下がりの少しきつい服――具体的には胸のあたりとスカート丈が、ちょこっとだけ……本当にちょこっとだけ合っていないそれに着替えると、鏡の前に立つ。次いでヘアブラシとリボンを手に、長い金の髪を普段のようにハーフアップスタイルに仕上げた。
「……………………。」
モナは朝の支度を終えると、暫し鏡を見つめる。それから鏡に指紋がつくことも厭わずに、物言わぬそれに指先でそうっと触れた。無機質に分類される鏡は、想像通り冷たかった。おとぎ話の鏡のように、言葉を話してはくれなかった。モナはそんなこと当たり前だと嘲笑しながらも、それでもふとした時にはこうして鏡に触れては、そこに映る少女をじいっと見つめずにはいられなかった。
――何しろイルクオーレに来てからと言うものの、モナは時折どうにも鏡に映っている自分が自分でないような感覚に襲われていたのだった。
何もおかしな病気なわけではない。心を病んでいるわけでもない。ただ鏡に映る自分の顔が、帝国で家族と暮らしていた時よりも健康的な気がして気になって止められないだけなのだ。事実身長も、体重も、イルクオーレに来る前と後ではそれほど数字に差異はない。
なのに鏡に映る自分の目が、顔つきが、心なしか生き生きとしているように見えるのが、モナは心底不思議で不思議で堪らないのだ。幾ら帝国が軍事国家かつ皇帝至上主義な国とはいえ家族3人で何の不自由もなく暮らしていたあの頃よりも、毎日が混乱と不安と心配で満ちている現在の方が生命を感じるのだろうか。
(……よし、決めた!)
せっかくの貴重な休日ならば、とことん有効活用するしかない。
モナはそう考えると昨日ルチアに貰ったパンに、これまたルチアから貰ったリンゴのジャムを塗ってから、それを案の定ルチアから貰った茶葉で淹れた紅茶で飲み干すと、やはりルチアのお古の傘を片手に家を出た。
向かう先は町の西にぽつんと佇む、大きな図書館。古今東西のありとあらゆる知識が眠っているそこは、生来本の虫であるモナにとっては一度でいいから時間を気にすることなく、ゆっくりゆったりと。心ゆくまで読み耽っては空想と現実、無益と有益の間でいつまでもふわふわと漂ってみたい場所でもあったのだ。
――もしかしたら、国が違えば蔵書の種類や分類も違うかもしれない。
そんなことを想像してしまったモナは、気が付けば雨だというのに軽くスキップしながら珍しく人気のない大通りを抜けて行った。
「おや。こんな雨の日に利用者とは珍しい。」
意味があるかどうかはさておき、モナは少しでも雨が館内へ侵入しては本を湿気らせてしまわないようにと、図書館の扉を必要最低限開いた隙に素早く身体を押し込む。それからルチア曰く「もう捨てようと思っていた」というコメントに相応しく、骨組みが壊れてしまっているのかどうにも上手く畳めない傘にモナが苦戦している時だった。カウンターからイエロークリームの長髪を靡かせた美丈夫が、モナに声を掛けてきた。
「え!?…ぁ、こんにちは……?」
「ええ、こんにちは。……新しく越して来られた方、ですね?」
「は、はい。はじめまして、モナと言います。町外れの牧場に、越してきました…。」
言うことを聞かない傘が図書館入口の床マットをどんどんと濡らしていくのに焦っていたところにまさか未だに知らない声が存在していること、あまつさえその声の主に話し掛けられるとは思ってもいなかったモナは、あまりの驚きに肩を跳ねさせる。咄嗟に視線を、声のした方向へと向けた。
――ドキドキ、バクバク。モナは明らかに良くない意味で跳ねる心臓のあたりに手を置くと、何度か意識的に深呼吸をする。それからイルクオーレにやってきて早1ヶ月、未だに初対面の人が居たことに改めて驚いた。自分でも間抜けな顔をしていることを自覚しながら、ただただ半ば反射的に自己紹介をする。傘の先から滴る雨水がブーツを濡らしていることなんて、意識の外だった。
「初めまして。私はロレンシオと申します。この図書館の管理と運営をしている者です。」
その様を件の美丈夫――ロレンシオは、くすくすと笑いながら見つめると手にしていた蔵書を彼のすぐ横の配架台に置いてから深々と頭を下げた。
「ご挨拶が遅くなってしまってごめんなさい。わたし、てっきり町の皆さんには全員挨拶したとばかり…!」
「いえ、構いませんよ。というか私自身、長らく町を離れておりまして。つい数日前に帰ってきたばかりなんです。」
ですから決して気に病むことではありませんよ、と付け加えるロレンシオに、モナはそれが事実であろうとなかろうと初対面の相手に気を遣わせてしまった申し訳なさに眉を下げた。それから美丈夫と表現する他ない外見に相応しい品のある振る舞いに、慌てて頭を下げ返す。そして新参者のくせに、地元住民に先に先に頭を下げさせてしまうとは何たる体たらくだろうと、つい数秒前の自分を恨んだ。
というのもモナにはこういう温厚そうな優しい人ほど建前はともかく、内心ルールやマナーにうるさいのが定石であると経験則があるのだ。例えばモナが通っていた学校の魔法理論の先生に、近所に住んでいた花好きの花屋敷ばあさん。それから、よく通っていた本屋の店長も意外とそういうタイプだったなあ――モナはつい数ヶ月前まで、その時の自分にとって『当たり前』だった世界の人々を思い出す。
(……みんな、元気にしてるかな…。)
別段ホームシックなわけではない。否、この町に来たばかりの頃はふとした瞬間に思い出しては郷愁に駆られることも少なくなかったが、新生活を始めて1ヶ月も経つ今日この頃となっては随分薄れてきた。
無論、今だってもし何にもなかったあの日々に帰れるのならば、帰りたいと願う気持ちは充分にある。けれどどんな魔法を使おうとも過去に戻ることは出来ないのだ。歴史に名だたる大魔法使いたちすら、不可能を不可能なままにこの世を去ったのだ。故に矮小な魔法使いである自分は、ただ過ぎ去った日々を懐かしむことしか出来ないのだとモナは自らを戒める。
それになりより、とモナは考える。生き物というのは人間含めて案外薄情なものだ。戻ることの出来ない過去はいつかは色褪せ、遂には思い出すことさえ困難になることだって少なくない。自分もいつかは、いずれかは――記憶喪失の可哀想な少女としての自分が、本当の自分になるのだろう。いつの間にかすり変わってしまうのだから、寧ろ郷愁に駆られるうちが花だと半ば無理やり自分を納得させた。
そんな思考を終えた後にゆっくりと頭を上げるモナを、ロレンシオは心底興味深そうな顔で見つめる。それから細長い指先で自身の顎を撫でながら「ほう…」だの「……ふむ」だの、感嘆詞を幾つが零した後、いよいよはっきりと唇を開く。
「なるほど。貴女は随分とご自身の感情を理論で抑え込む癖があるのですね。――帝国の『常に理知的であれ』という教えは、何百年経とうが健在のようだ。」
「………………え……?」
モナは一瞬、自分の耳を疑った。それほどまでにロレンシオの言葉は自然で、すんなりと理解出来てしまうが故に理解出来なかった。けれど自身を見つめるエメラルドグリーンの色をした瞳が穏やかながらも鋭く、それでいて僅かな哀れみを含んでいることに気が付くと、モナは思わず息を呑んだ。次いで無意識に何かヘマをしてしまっただろうかと自身の発言を慌てて振り返ってみるも、何度ロレンシオとの会話を脳内にて再演してみたところで本来の自分に関する情報は何も口にしていないことは明らかだった。
モナは最早心の中を覗かれているとしか思えないロレンシオに、反射的に生物としての本能的な恐れを感じてしまう。努力では止められない身体の震えを何とか収めようと、歯を食いしばる。ロレンシオは明らかに自身を警戒しているモナに、彼の瞳の色と揃いの深緑の色をした眼鏡の縁をくいっと上げると困ったように眉を下げた。
「すみません、驚かれましたよね。……実は私、エルフなんです。存在くらいはご存知ですよね?」
ロレンシオが彼の美しさをひときわ輝かせているイエロークリームの色の長髪を掻き分けると、そこにはエルフ族の証たる長い耳があった。モナはエルフという種族のことを知識としては認知していたものの、実際に初めて目にした長い耳を思わず凝視してしまう。
確かに血の通っているであろうそれは、少なくともモナの目には作り物には見えなかった。加えてエルフ族のもうひとつの特徴である『他人の思考を見ることが出来る』という能力もまさにたった今、まざまざと見せつけられたモナに最早ロレンシオを疑う余地などなかった。
「良かった、納得していただけたみたいですね。」
「……あ、あの、ロレンシオさん。わたし、」
――実は記憶喪失などではないこと。この町の人たちに嘘をついていること。けれどそれは自分が生きるための、言わば必要悪としての嘘であり、決して悪意がないこと。
モナの言わんとしていること全てを読み取ったロレンシオは本棚を塞いでいた配架台を通路の脇に寄せる。そして軽く視線を揺らし、何かを逡巡してから優しく笑うとモナに呼び掛けた。
「大丈夫です。私も貴女と同じ、帝国出身ですから。」
ロレンシオはそう告げると、モナに軽く頭を下げてから道を譲った。それは彼が長い時間を掛けて集めた蔵書を披露するようでもあったし、はたまた似たような立場と秘密を共有する共犯者としての誘いのようでもあった。あるいは先人として、何もかもを隠したままであろうとも、例えこの町ならば。それなりの幸せと安寧を得られると暗に示唆されているようだと、モナはそんなことを思った。
「――どうぞごゆっくり、モナさん。」
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。