◇◇◇殺しても死なない男◇◇◇

ー/ー




「ノーリって、本当に治療が上手いよな。俺も結構いろんな怪我みてきたけど、ほんと、魔女探しじゃなくて医者になった方がいいんじゃねーのってぐらい。どこでそんな技術勉強したんだ? 戦場?」
 吸血鬼の襲撃で負傷した退魔師達の手当てをして、惨殺現場と化した診療所から死体を出す作業が終わると、一緒に救護活動にあたっていた男が、どこからか珈琲を持って来た。
 ソーマ=デュエッタ。
 黒髪の三つ編みが印象的な美男子だが、とにかく言動が軽い。
「……独学ですよ。魔女探し達について歩いていたから、戦場といえば戦場ですかね? 皆さん、いろんな怪我をしますからねぇ。お医者さんは確かに勧められましたけど、責任は重いし、面白く無いじゃないですか」
 温かな珈琲を受け取って、手頃な石に腰をおろした。
 気付けば、すっかり日が暮れている。聖使達が作ってくれていた篝火がちらちらと赤く夜の闇をさす。
「そっか。アルヴァ達とは長いのか? あいつら今回は無茶したみてーだけど、基本的にあんまり怪我しないだろ。元気に口喧嘩ばっかりしてそうだな。どーよ、当たってるだろ?」
 ソーマは得意げに、そんな事を言ってくる。
 吸血鬼による凄惨な現場を片付けたばかりとは思えない、楽天的な調子は、もしかしてこちらを元気づけようとしているのか。
 そもそも、こういう人間なのか。
「そうですねぇ。ただ今回みたいに、旅先で怪我人がでれば、腕はなまりませんね。ソーマさんこそ、随分良い手際ですよね」
「俺、何やらせても、天才だからさ~」
 また得意に笑うソーマに笑みを返して、珈琲のやさしい苦みで口を潤す。
 そっと息をついて、暗くなった空を見上げた。
 中途半端にかかる雲の合間で星が輝き、ちらちらと、地上の篝火と一緒にきらめく。
 負傷の退魔師達は無事家路についた。ここに残っているのは火葬を待つ大量の死体。聖者は未だ目を覚まさず、聖使ディアナがずっと看ている。教会宿舎の聖使達は難を避けるように、宿舎に籠ってしまっている。
 あわただしく飛行機工で出掛けたと思ったらすぐ帰って来たアルヴァ達は、一足先に領主の館へ向かった。
 ノーリとソーマはずっと怪我人を診ていたが、最後の負傷者を見送って、やっと一仕事終えた。
 あとは領主の館に向かい、アルヴァ達と合流するだけだ。
 ノーリは温かい珈琲の湯気をふっと吹き、目を眇めた。
 ――吸血鬼に聖者を襲撃するよう、誘導した。しかしあの吸血鬼にとって、聖者の生死はどうでもよかったのだろう。助言通り聖者の襲撃で混乱をつくり、目標である魔女探しの生き残りを、見事に全滅させた。
 ……あの『二つ蛇の門』は、魔女の恐怖を知らしめるための、仕掛けだ。協会という組織によって冷静に対策を取られるのは、本意ではない。そういう意味ではあの吸血鬼は、充分働いてくれた。
 まさかこの、目の前の軽い調子の男に、あっさり倒されるとは思わなかったが。

 長く溜め息をついて、ふと黙ったソーマに気付く。目をあげると、じっとこちらを見ていた視線とぶつかった。
 ソーマの瞳は、深い漆黒だ。何故か、身動きが取れなくなる。
 ソーマの雰囲気が、ついさっきまでの軽い調子と、少し様子が違う。
 ――この感覚に、覚えがある。
 外見はまるで違うのに、どこか――魔女と、似ている。
 する、とソーマの手が、作業の為にゆるく結んだ髪留めを外してきた。
「それにしてもノーリの髪は、きれいな白だな。ここまで見事だと、確かに目くらましの魔法もかけておきたくなる気持ちはわかるぜ。目立ち過ぎるし、かといって染めるのは勿体無い」
「……これはこれは。驚きました。ソーマは、良い目をお持ちですね」
「俺、顔も良いだろ。ノーリも実は結構良い顔立ちなのに、それも隠しちまうなんて、勿体無いなぁ」
 どこにでもいる、よくあるお人好しの顔――に見えるようにかけておいた目くらましの魔法まで見抜かれるとは、思わなかった。
 今まで、白い髪に気付かれた事は何度かある。
 まわりに溶け込めるように、状況に合わせて見せる髪色を変えているが、何かの魔力で目くらましの魔法が効かない人間はいた。だが、容姿までばれるのは、初めてだ。
「ちょっと、怖い人に見つからないようにしているんです。……寒くなってきましたね。聖堂に入りませんか」
 掛けていた石から立って、聖堂へ足を向ける。
「白い髪は目立つもんな~。ノーリも苦労してるんだな」

 がらんとした聖堂。吸血鬼が飛び乗ったという天使像は、いくつもの赤黒い筋模様がついてしまっている。
 その乾いた血を洗い落とすのは、明日の作業になったのだろう。――湖沼のふちを綺麗に清めたのに、この教会の中心部分が夜になっても清められていない、とは、皮肉な話だ。だが、今はそれが、都合が良い。
「……ノーリ。あの吸血鬼を――」
 ソーマの声が、止まる。
 天使像の血からつくりだした魔力の細い針のような刃が、一瞬で、後ろについてきていた彼に届いた。
 肉を貫く音が、小さく響く。
「そう、あの吸血鬼を起こしたのは、僕ですよ。ソーマ」
 くるりと振り向いて、長椅子のふちに軽く腰掛ける。
 ソーマの身体を固定していた刃が霧散すると、左胸から綺麗な赤を噴出させながらドッと倒れた。
 血溜まりが、ひろがっていく。
「……あなたは、本当に、口を閉じていれば、美形ですね」
 刺されて倒れた死に顔まで綺麗な人間というのも珍しい。
 痛みを感じる暇もなかったか。
 ――彼の実力が相当なものだということは、吸血鬼を倒した事と、救護の動きからも、よくわかった。
 しかもこちらの魔法を見破るとなれば、見逃しておくには、危険過ぎる人物だ。吸血鬼を無傷で倒せる人間なんて、この300年間にもきいたことがない。だが、不意打ちで殺せたのは、良かった。

 あとの気掛かりは、アルヴァ達と合流した『リース』だ。夕方一度戻ってきた時に見掛けたが、あれは、魔物だろう。何故アルヴァ達と一緒に行動しているのかはわからないが、おそらく彼にもこの髪は、白く見えてしまう。
 折角ここで人々の治療を積み重ねて信頼を築いたのに、姿を眩ませるのは勿体無い。
「……本当に、染めるしかないかな」
 自分の目にも薄い金髪に見えている長い髪を、くしゃりと掻きあげる。
 小さく息をついて、珈琲を飲み切って外へ足を向けた。誰もいない診療所を使って髪を染めてから、領主の館に行ってアルヴァ達と合流しよう。いつまでも別行動では、不審に思われてしまうかもしれない。

 すう、と空気が動いた。
 音もなく背後から伸びた両腕が、胴体と首筋に、からみつく。
「?!」
(ゼロファ=アーカイル=レトン)
 低くて甘ったるいような声が、あたたかく耳朶を撫でた。
 強く掴まれている訳でもないのに全身から力が抜ける。思考が急速に霞んで身動きが取れない。
 まさか。
 確かに心臓を貫いて、息絶えたのを見届けた。
 なのに――――しかも、本名を――――……
 振り向こうとすると頬を掬われ、漆黒の瞳と出逢った。それが赤黒い色であれば、まだ魔物の一種なのかと理解もできたかも知れない。だが、その黒は、どこまでも吸い込んでいく、まるで星のない夜空の色だ。
「……《ゼロファ》」
 あまりにも優しくて甘ったるい吐息が、唇から、直に身体の中に入ってきた。
 声が、塞がれる。
 息を継ごうとするほど絡み付いてくる熱い吐息に膝にがくずれて、そのまま長椅子に押し倒された。
「……うっ……」
 どういう魔法を掛けられたのか、触れ合った素肌の部分からとろりと力が抜けていく。
「俺は心臓を刺した位じゃ、死なないぜ。再生すれば良いだけだからな。だが、なかなかやるじゃねぇか」
 ソーマがペロリと唇を濡らした。
 口の中に残った、血の味。幻覚を見せられた訳ではないらしい。
「さぁて……吸血鬼泥棒? 君はあのフェイゼル=アーカイルの本に出てきた、魔女の手下だな。白い髪にその『本当の名前』。俺には、[[rb:真名 > マナ]]は隠せないぜ」
「……貴方は……魔女と、関わりがあるんですか?」
「お、わかるか? 俺はまだ会ったこと無いけど、たぶん俺は魔女と同じだ。いや、魔女が、俺と同じなのかな」
 ――意味が、わからない。
「……それでは、僕に勝ち目はありませんね。僕は、彼女の力をお借りしているだけですから」
「敗けを認めるのはいいことだ。その姿は美しい」
「ちょっとその軽い口は黙って下さい」
「ふふ、じゃあその代わりに、可愛がってやるぜ」
「はっ……? な、んぅっ……んっ……! や……っ……?!」
 ソーマの強烈な熱さに、触れたあったところから、感覚が強烈に蕩けていく。

 ――最初のうちは、何度も失敗した。
 裏切り者と叫ばれて、何度も殺されそうになった。
 いつでも、誰かの深い恨みの眼差しをうけながら、生かしてくれている魔女の為に行動してきた。
 うまく立ちまわっていても斬りつけられることはある。
 協会が発足してからは、知らない人間にまで怨恨の対象された。
 嫌われ、恨まれるもの。
 そしてその通りに、欺き、操り、彼らを殺す。
 それが魔女の奴隷であるということだ。ずっと、300年、そうして生きてきた。
 なのに、こんなのは知らない。
 強く深く、暖かい。
 本当の名前を何度も呼ぶ、あまりに優しい、眼差し。

 こんな――殺しても死なない人間を、一体、どうすればいい。


◇◇◇ソーマの夜空◇◇◇


 教会での怪我人は多かったが、退魔師達に死者はなかった。
 しかし教会の業務を司っている聖使達は、聖者が刺されたという事に大きな衝撃を受けている。彼らは最小限度の手助けだけして、恐れるように宿舎に籠ってしまった。そんな聖使達も、もう眠っている頃だろう。
 聖者の様子を見守っていた聖使ディアナは、寝台のふちで寝息を立てている。
 彼女は領主の妹だ。楽をしようとすれば、いくらでもやりようはあった筈。なのに、こんなところで風邪をひきかけている。
 そしてこの子は、『守護の聖者』の、後継者だ。
 このまま時代の流れが変わらなければ、長年聖者を務めたバルド=レイフォンの『守護』の特殊魔法を継承して、『守護の聖女』としての未来が約束されている。
 だが恐らく、時代の流れは、一気に前に進もうとしている。
 ――歴史書の亡霊であるフェイゼルなら、きっとこの瞬間を、そんな風に言うだろう。

「……戻ってこい。守護の[[rb:聖者 > バルド=レイフォン]]。あんたの命運は、未だ尽きていない」
 ソーマは、聖者の額にトンと指先をあてた。
 土気色をしていた顔に、すう、と生気が戻って、呼吸が深く落ち着いたものに変わる。
「……聖職者の仕事じゃねぇの? って無粋な突っ込みは、やめとくぜ」
 聖者の身体の傷は完璧に塞がれている。逃げ出していた魂を戻してしまえば、いつ目を覚ましてもおかしくない。
 呑気に眠っているようにみえる聖者に愚痴をこぼしてから、ソーマはそっと部屋を出た。

 ひっそりと静かな夜中の教会は、星明りの中、暗闇との色彩が、美しい。
 しかし隣接の診療所から、多くの魔女探し達の死のにおいがする。
「……月が落ちる前は、死霊に怯えるだけで済んでたのに。今では魔物として実体化するから厄介なんだよなぁ~」
 おそらくこの場で何かの争いが起れば、大量の魔物が発生するだろう。
 それが、『魔女』が作った、この世界での法則だ。
 『守護の聖者』の護りの内側でそういう事が起れば、今回のように、不意を衝かれた退魔師達の対応が遅れるのは、簡単に想像できる。
 診療所と、そこから回収された死体の山。
 魔物が発生する前の気配が、しずかに淀んでいる。

 一帯を見渡す位置に立ったソーマは、すう、と両手をひろげた。
『惨殺の憂き目に遭った魂よ 暗き心の魂よ――』
 黒い魔力が、旋風のように周囲を駆け巡る。
 濃厚な闇魔法だ。
 ――微かな存在の死霊など、塵に等しい。
『 ――[[rb:我 > ・]][[rb:が > ・]][[rb:黒 > ・]][[rb:翼 > ・]][[rb:の > ・]][[rb:糧 > ・]]となる事 光栄に思え 』
 周囲の闇魔法が急速に収束し、集めた死霊が、腕を広げたソーマにドッと流れ込む。
 ――――黒い旋風が背中に駆け抜け、ざあ、と黒い質量が顕現した。
 天使教会の聖堂にかならず存在する天使像と同じ、翼。
 ひとつ違うのは、艶やかな漆黒だということか。
 ソーマはペロリと唇を濡らして、黒翼をひとつ大きく羽搏かせた。
「……ふ。久々に味わう魂としては悪くねぇ味だな。ごちそーさま」
 すう、とほどけるように黒翼の顕現を解除する。
 今まで殺戮してきた人間の魂を喰らい、この黒翼は育ってきた。
 祖国での役割を終えたこの黒翼が、こんなところで掃除の役に立つとは思わなかった。
「あ~いい事した! 俺すっげー良い奴だな! さぁて、ノーリ回収して家に帰りますかね~」
 また聖堂に入って、長椅子でぐったりしているノーリを抱き上げる。
 魔女の手下として本性を現した彼を、真名で無力化して可愛がったら、気絶してしまった。
 穏便に話をしようとしたのに、いきなり心臓を刺してきたノーリが悪い。しかしそれにしても少し……ではなく結構可愛がり過ぎたかも知れない。

 ノーリ。その[[rb:真名 > マナ]]は、ゼロファ=アーカイル=レトン。
 この魔女の奴隷は、ソーマの腕のなかで、無防備に薄く唇をひらいている。
 ソーマの目に見える彼の白髪は、夜の色によく映える。この白髪は、故レトン王国の王族である証だ。
 歴史書の亡霊となったフェイゼル=アーカイルは、今この状況を、記録しているのだろうか。
「やっぱり、ずっとここでダラダラしていたら、また、お前は怒るんだろうな……フェイゼル。もう一度生まれてきた俺が歴史を変えたって、文句はないだろ?」
 従兄弟のフェイゼルを参謀に戦場を駆けた、レトン王国の第一王子。
 この腕の中に眠っているゼロファの、兄。それも、前世の俺だ。
 遥か昔から何度も生まれ変わってきた。今回の人生はもう充分役割を終えたと思っていたのに。
 こんなところで、ひとつ前の人生での縁に触れるなんて――

 砂漠を越えて辿り着いたこの大陸の西側世界。
 のんびり穏やかに過ごすつもりだったが、どうやらまだ、余生を楽しむという訳にはいかないようだ。
 アルヴァ達の今までのやり方では、おそらくいつまでも魔女の世界を終わらせる事は、できない。
 協会の存在が魔女ありきの社会構造の中にあるからだ。
 この現状を変える為には、社会構造そのものを変えるようなものが必要になる。
 フェイゼルの本は、そういう事を歴史家らしい視点から指摘していた。
 恥ずかしがらずに読んで貰えばいいのに。
 途中を覗き込まれるのを相当に嫌うのは、彼の昔からの性格だ。

 目眩のするような見事な星空が、夜に染まった緑色の街並みの上で瞬く。かつて砂漠で厭きるほど見てきたこの空は、見る場所が違うとこんなにも違った表情をみせる。
 美しい大自然――それこそが、『魔女の力の源』だ。
 そう説明したところで、きっと誰にも理解することは出来無いだろう。
 砂漠の人間に海での泳ぎ方を理屈で教えるようなものだ。それはたぶん、あの人にしか、出来ない。
 だから魔女は、『俺と同じ』だろう。
 あの超常の人間――『ミカゲ』に、あったことがある筈だ。
「いや、ヒカゲって呼べって言ってたな」
 身体を更新したからか子供の姿になった御影は、緋影と名乗った。
 たぶんあの姿で、いまもどこかをブラブラしているに、違いない。



◇◇◇光に集う闇の明るさ◇◇◇


「おはよう。いい夢は見れたか? アルヴァ」
 ひらいた目を、もう一度開き直す。
 寝台のふちに座って覗き込んでくるソーマの旅装に、目を擦る。
「……おはようございます。何故この部屋に……。どこかに行くんですか」
 昨夜は回復魔法で動けていたとはいえ、自然治癒のためか、ストンと眠りに落ちた。
 目が覚めたばかりの手足を伸ばして、ゆっくり起き上がる。昨日のような目眩はない。
 それにしても昨日に続いてソーマに寝起きを覗かれている。
 今朝は別に病人でも無いのだが、なんだが、変な気分だ。
 す、とソーマの手が髪をすくってきたのに、一瞬、緊張した。
「なぁこの金髪、全部髪留めの中に隠すのって勿体無くねぇ? 折角こんなサラサラなのに。てか、いじりやすそう。三つ編み作ってもいいか?」
「やめて下さい。いつものでいいんです」
 軽いソーマの調子にどこか安心して、ぱっと髪をまとめて枕元においてあった白い髪留めに収納する。
 ……これは、[[rb:1 > ・]][[rb:0 > ・]][[rb:年 > ・]][[rb:前 > ・]][[rb:か > ・]][[rb:ら > ・]][[rb:ず > ・]][[rb:っ > ・]][[rb:と > ・]][[rb:続 > ・]][[rb:け > ・]][[rb:て > ・]][[rb:い > ・]][[rb:る > ・]]、[[rb:願 > ・]][[rb:掛 > ・]][[rb:け > ・]]だ。
 [[rb:ま > ・]][[rb:た > ・]][[rb:魔 > ・]][[rb:女 > ・]][[rb:に > ・]][[rb:会 > ・]][[rb:い > ・]][[rb:た > ・]][[rb:い > ・]]、という――――。
 ニヤニヤしながらみてくる視線が、気になる。
「――昨日は、どのくらいまで働いていたんですか? ノーリと一緒だったんですよね」
「ああ。夜中までかかったが、退魔師達は皆家に帰れたぜ。その後は俺もノーリと一緒に家に帰って、片付けしてた。閉まってるここの館の門を叩くのも面倒だったしな。それにしても、ノーリは天才だよなぁ。重傷人も皆生き返るみたいな調子だったぜ。医者になれば、大人気だと思うのにな~」
 ソーマが自分以外を褒めるのを、はじめて聞いた気がする。
「そうですね。聖者様を治療した腕も見事でした。俺は治癒魔法は初歩的なものしか使えませんが……貴方が認めるということは、実際、凄腕ということですね」
「あとあいつ、実は結構寂しがり屋なんだぜ。アルヴァ、ちゃんとノーリの顔、見た事あるか?」
 出会ってまだ日の浅いノーリは、協会が注意喚起している魔女の手下の情報もあって、少し注意してはいた。
 だが彼は旅先への口出しは全くしないし、まして後方支援――治癒の一点を支えてくれているだけだ。
 魔女の手下であるような要素は、まったくない。
 そう思っては、いた。
「……普通に、顔をみて話はしていますが……」
 「ちゃんと本音で付き合ってあげろよな。折角仲間になったんだしさ」
 ―――ふたりは昨日、どんな会話をしたのだろう?
「そうします。……それにしても、かなり打ち解けたようですね」
「うん、すっげー気に入った。可愛いし面白いし強いし。俺、ノーリ大好きだな」
「そ、そうですか……」
 可愛い?
 ソーマと一晩一緒にいて食われなかったか、と、聖者に声を掛けられたのは、昨日のことだ。
 聖者とソーマの軽い会話は、挨拶のような冗談だと認識していたが……。
 これは、詳しく聞いては、いけない気がする。
 寝台から降りて身支度を整える。
 その間に、ソーマがまた勝手にフェイゼル=アーカイルの本を手に取っているのをみつけた。
「そういえば、まだ本の内容を詳しくお伺いする時間が取れていませんでしたね」
「ん? あぁ、そうだな。……なぁアルヴァ、魔女を捕まえて、どうするつもりなんだ? 魔女探し達と協力してるって事は、倒したいのか?」
 ――この男はまた、いちいち鋭い所を突いてくる。
「……倒したい訳ではありません。戦争を止めたことで起きた事、悪い事を全部魔女のせいにするのは、違うと思っています。その誤解を、俺は解いていきたい……。俺にその対話をするだけの力が無いと、きっと、どうしようもないのですが」
 ほとんど人に話したことのない本音だ。
 ソーマとは昨日出会ったばかりなのに、どうしてか、勝手に素直な言葉が出てきてしまう。
「アルヴァは本当、真面目だなぁ。好きなんだろ? その魔女がさ」
「……す……」
 消えてゆく吸血鬼が、魔女の顔で呟いた言葉が、脳裏に蘇る。
 ――――好きだから――――。
 簡単な言葉。
 それがどうして、こうも思考を停止させてくるのだろう。
 第一、その好きだとかいうものは、アクアがリースに抱いているものの事だろう。
 それと自分の魔女に対する感情は、違う筈だ。
 自分が魔女に対して、アクアのようである筈がない。
 からかうような悪い笑みのソーマを、小さく睨みつけた。
「茶化さないで下さい。それよりその本、どうかしましたか?」
「うん、貰っちゃ駄目?」
「駄目ですよ」
「だよなー。だからさ、必要な事は読んで教えてあげるから、俺を一緒に連れて行って欲しいんだ。この本の行く所に……この本が完結するところを、見てみたい」
 少し声を落としたソーマに、不思議な誠実さが滲んだ。
 昨日出会ったばかりの古書に、突然愛着をもつ理由がわからないが――。
「……貴方がいなくなったら、この街の人々が困るんじゃないですか。退魔師は負傷しているし、吸血鬼は貴方にしか退治できないでしょう」
「えー。俺が来る前から何とかなってたんだから、何とかなるって。聖者も大丈夫みたいだし」
 適当なようで、間違ってはいない。
 自分達の目的としても、願ってもない申し出だ。
 ソーマがいれば、助かる事も多いだろう。
「本当に大丈夫であれば……こちらも助かります。というか、最初からついてくる気でしたね。しっかり準備してきているようですし」
 リースと同じ鞄をはじめとして、アーペ特有の機能美を備えた旅装が、よく似合っている。
「やった。よろしくな。アンゼリカさんが、朝、館の広間に来るようにって言ってたぜ。ノーリはもう先に待ってるから、早く行こう」
 子供のように手を引いてくるソーマに、あわてて部屋を出る。

 この領主の館は、街並みと同じ緑色を基調とした、貴族の邸宅としては簡素な邸宅だ。長い廊下を中庭をみながら進んでいくと、大きな教会に寝泊まりしたような気分になる。最低限の装飾しかないのは、機械好きな地域性だろうか。
 木の香りに包まれた落ち着いた空間の広間に、堂々と昨日の小型飛行機械が並んでいた。
「お待たせ、ノーリ! 俺も一緒に行って良いってさ!」
 ソーマの明るい声が、広間に響く。
 小型機の構造を見ていたノーリは、いつもの穏やかな笑顔で振り返った。
「それは良かったですね、ソーマ。おはようございます、アルヴァ。体調はもう戻りましたか?」
「俺はもう大丈夫だ。それよりもノーリの方が、少し、顔が白いな」
「……そうですか? 夜更かしがお肌に出たのかも知れませんね。でも、平気ですよ」
 ノーリの顔色が悪いと思った訳ではない。
 ただ何となく、彼の持つ雰囲気が、少しだけ白く――スッキリとしている気がする。
「おっ、アルヴァもノーリの魅力に気付いたか?」
「ソーマ。何を言っているんですか。貴方は鏡でも見ていてください。それにしても、改めてこうして見ると凄い技術ですね。空を飛ぶ機械は、技術者なら誰でも一度は憧れたでしょう。それをこんな短期間で完成さてしまうなんて」
「あー、俺のちょっとした思い付きを、みんなが頑張って形にしてくれたおかげだな。みんなすげぇよな!」
「思い付きですか……」
 ノーリは呆れるように息をついて目を瞑った。
 彼にしては珍しく、完全にソーマの調子に呑まれているようだ。
 そういうノーリの肩を、ポンと叩く。
「一機預けて貰える話になっているから、ノーリも一度乗ってみるといい。操作も簡単だし、いい気分転換になると思う」
「そうですね。楽しみにしておきます」
 アルヴァの言葉に、ノーリはいつもの柔らかな笑顔で頷いた。

「誰か来たみたいだな。アルヴァ、あの美味しそ……黒髪くんは誰だ?」
 ――今、美味しそうって言いかけたか?
 ソーマが無邪気に指さした先には、警戒しつつ様子をみていたリースがいる。
 知らない顔触れに、リースは慎重に気配を消していた筈だ。それでもソーマは、気付いた。
「魔女探し協会の活動を一緒にしている、リース=レクト。昨日やっと合流して……ソーマ、ちょっ……」
 ソーマは紹介の途中からずんすんリースに近付いて、ぱっと手を差し出した。
「君がリースか。話は聞いてるぜ。これからよろしくなっ」
 強引に手を取って大きく握手するソーマに、リースも不意を突かれたようだ。
「……これから? アルヴァ、この人達は?」
 ソーマの明るい調子に少し驚きつつ、リースは冷静に声をおとす。
「昨日情報共有した、ソーマ=デュエッタ。吸血鬼専門の退魔師です。フェイゼル=アーカイルの古書を読めることもあって、一緒に行動する事になりました。それと、こっちはノーリ=カークランド。治療師です。彼らには今回、相当助けられています」
「いや……そうか」
 リースから警戒の色は薄くなったが、どこか、戸惑っているようにみえた。
 ソーマが一緒に行動するというのはさっき決まった事ではあるが、二人のことは昨夜リースに話をしてある。
 何が気になるのだろう?
「ノーリ、ソーマ。アルヴァ達を助けてくれたこと、礼を言う。だが、単刀直入に言おう。素性を明かせない人間と行動を共にする事は、危険だ。それは互いに同じ事だろう。密かに身辺調査をすることは簡単だが、敢えてここで聞きたい。……君達は……何者だ?」
「リース、そんな聞き方……」
「アルヴァの信頼を得ているのは、わかる。それとは別に確認は必要だ」
 表情のすくない、いつものリースの顔。
 ここ最近は色々な事があったから、感情が表に出ていた。だが、これが、いつものリースだ。
「俺は、遥か彼方の――」
「ソーマ、貴方は黙って下さいね。はじめまして、リースさん。人をみる時は、分の目で判断する……基本的かつ大切な事ですよね。アルヴァとアクアが慕っているだけあります。リースさんも二人を大事にしているのが、よくわかりますよ」
 また調子良く喋りかけたソーマを押し退けて前に出たノーリの笑顔が、頼もしい。
「僕の過去の素性については、証明するようなものは何も無いです。ただ、今の僕の行動をみて頂けませんか? その積み重ねで、人と人とは、繋がっていくものでしょう」
「……ノーリ……」
 思いがけず真っ直ぐな言葉が、冷えた空気に治癒魔法をかけたように、ふわりと温かくひろがっていく。
 リースも、魔物の身ながら、実績で信頼を築いてきた。
 そこまで知っている筈もないのに、ノーリの言葉は、的確な治癒魔法そのものだ。
「……分かった。たが、信頼を築くからには、守り通して貰おう」
「勿論ですよ。よろしくお願いします、リースさん」

「俺も俺も!」
「適当に便乗しないでくださいソーマ」
「え~? だって、ノーリが俺の話止めたんだろ~?」
「貴方の話は中身が無いのに長いんです。話がこじれてしまうでしょう」
 そういうノーリとソーマに、リースは、少しだけ表情を和らげた。
「仲が良いな。2人で街の退魔師達を夜遅くまで治癒してくれていたと聞いている」
「いえ、仲良くはないです」「そうそう、仲良しなんだよな!」
 息の合った心地良い即答が、そろった。
 
「……アクア一人がいるよりも賑やかになったな」
 小さく息をついたリースが、仲良く言い争いをはじめた二人からそっと距離をおく。
 アルヴァもリースの傍で静かに二人を見守ることにした。
「ノーリは気遣いも優れています。ソーマの能力は正直底知れず言動もふざけていますが、言葉に嘘はないです。その点を中心に気を付けていれば問題は無いかと」
「お前も抜け目無い性格になったな。アルヴァ」
「子供は親の背中をみて育つといいますからね」
「……俺はそこまで根に持つほうではないと思うのだがな」
「ところでアクアは、まだ起きてきていないんですか?」
「いや、知らないが……」
 アクアはひとりで部屋を使わせて貰っていた筈だ。
「昨日の吸血鬼との戦いで一度深手を負っていますから、回復魔法で治っていたとはいえ、まだ自然治癒のために眠っているのかも知れませんね。俺も、ソーマに起こされるまで眠っていましたから」
 すっかり忘れていたが、放っておけば確実に失血死するような怪我をしていた訳だ。
 丸一日熟睡しても、おかしくない。
 そこまで考えてから、少しだけ心配になってくる。
 まさか傷口がひらくということは無いだろうが、あの後、小型で落下したり、元気に激怒したりと、本来大人しくするべき時に、かなり無理をしていたのは事実だ。
「な~んだ、そういう事なら、リースが起こしてあげれば、きっと元気になるぜ。ほら、アルヴァも朝一番から俺の顔が見れて、元気になっただろ?」
「いきなり部屋にいたので、驚いただけです――」

 話に割り込んできたソーマの軽口に反応したわけではないだろうが、リースがぱっと立って、起こしてくる、と歩き始めたのに軽く驚いた。
「――アクアは、記憶を失くしてはいなかったんだ。何か、あるかも知れない」
 歩きながら呟いたリースの言葉の意味が、一瞬、わからなかった。それで急いで彼のあとに続く。
「それは……いつ、どうして……」
「彼女が落ちてきたとき、自白した。二つ蛇の門の事も、報告前から知っていた。追っ手か何かを警戒したのかも知れないし、あの門を開けた事を、自分で忘れたかったのかも知れない」
 二つ蛇の門。それを開くには、心臓の血を捧げる必要があるという。
 今回の魔女探し達がしたように、アクアも、仲間を――。
 ようやく、昨日からの彼女の違和感に、納得がいった。
 恐らく吸血鬼は、その門で殺された人間の何かが魔物化したものだ。だから自分や退魔師のことは無視し、アクアや、生還していた魔女探し達を狙って攻撃してきた。そう考えると、吸血鬼の手を取って涙を落としていた理由の辻褄が合う。
 だがそうすると、本当はアーペに来ることも、辛かったんじゃないだろうか。
 数年間一緒行動していて、全く記憶喪失を疑わせなかった事には驚かされる。
 いや、そもそも彼女の話を真剣に聞こうとした事が、なかった。
 ――彼女のリースへの軽い調子に、いつのまにか紛れてしまっていた。

 リースと一緒に長い廊下を通って、アクアに充てられた部屋の前に辿り着く。
 部屋の中からアクアの気配がする。
 少し安心して扉を叩こうと近付くと、バンと無造作に開かれた扉に、ぶつかった。
「えっ? 何?」
 いつもと変わらない調子の声がして、アクアが顔を出す。しかし髪が――彼女の腰まで伸びていた金髪が、耳元のあたりで綺麗に切り揃えられていた。
「――遅いから心配して来てみたんだが……」
「え……リース様、私を心配して……? 本当に? ええっどうしよう、感激です!」
 アクアはあまりに、いつもと変わりがない。
 ――事情がわかってしまうと、こちらが、どうしたらいいかわからない。
「その、アクア。記憶があると聞いたから、色々心配したんだが――」
 ここでいつものようにリースへの態度に真剣な話を流されてしまうと、いつまでも彼女に向き合う事は出来ないだろう。
 アルヴァが小さく掛けた声に、すう、とアクアの顔色が、静かになる。
「ああ、そっか。私……。え、それってどういう心配? 怒るとかじゃなくて?」
「昨日の傷の回復とか、その、心情的にも、参っていなかったかと」
 どうしても、彼女がいきなり短くした髪に、目を奪われてしまう。
「あー……。なんだ、そういうこと……」
 ふと大人しい笑顔をうかべてから、彼女はいきなり自慢げに、腰に手を当てた。
「百戦錬磨のアクア様の精神力、なめないで頂戴」
 強烈な説得力が溢れる。
 一瞬のしじまの後、リースがそっと声をおとした。
「……その髪、すっきりしたな。よく似合っている。前よりも、ずっと良い」
「リース様――どうしちゃったんですか。もう、大好きですっ」
 彼にドンと抱きついたアクアの目に、涙が滲んでいるのは、見なかった事にしよう。


 広間に戻ってみると、領主アンゼリカが、また無骨な作業着姿でソーマとノーリに機械の説明をしている所だった。
「おはよう、よく眠れたようで何よりだ。そんなに急がずとも良かったぞ」
「いえ、遅くなりました。――この小型は、どうやって運べば良いでしょうか」
「今その話をしていたところだが、初期段階では運搬は想定していなかったからな。馬車の荷台か、上部に括り付けるしかない。あとは旅程に実際に使用してしまうかだ。狭い道はそうするしかないだろう。――次回の改善で、大きな部分を取り外すか折り畳むか出来るようにしておくよ。……さてアルヴァ、どれを持っていく?」
 どれをといわれても、全部同じように見える。
 強いて言えば、塗装に少し個性があるか。
「そうですね……昨日自分が乗った、これにします。一度触っているものの方が、馴染みやすいですから」
 他のものより少し青がかかった、滑らかな機体に手を添える。
 本当はアクアが壊したものを引き取りたいところだが、説明に持っていくのに、傷物は使わないほうが良いだろう。
 この機体も、極力傷つけないように移動させたい。
 頷いた領主が、馬車に取り付けるよう、館の人間に指示を出す。
 手際良く運び出されていくのを見送って、彼女はひとつ息をついた。
「できれば退魔師が手薄な今、ソーマや貴方達には、もう少し留まっていて欲しいが……これも、湖沼と生きるこの街の宿命だな。商流の件、よろしくお願いする。何かあれば、遠慮なく連絡鳥を飛ばしてくれ」
「あっアンゼリカさん、俺の家の鍵預かっておいてくれません? 守護魔法が効いてるうちは、森の中の作業拠点にも使えると思いますよ」
 ソーマがひょいと投げた鍵をパッと受け取ったアンゼリカは、今日はじめて、笑った。
「ソーマ。貴様、帰ってくるつもりが無いな?」
「俺のいる場所が、俺の家ですからね」


◇◇◇流れ星を待つ◇◇◇


 メルド湖沼地帯。
 そこには昔、レトン王国とオラミス王国が存在していた。
 領土か、利権か、威厳か――2国間の戦争の正しい理由を知る術はない。
 あの大戦から300年。
 メルド湖沼地帯の魔物は、戦争で死んだ死霊からできていた。無尽蔵に涌き出るような現象も、風化しつつある。戦乱での死霊が魔物化し切った訳ではない。無念の想いを抱えた死霊は、戦乱が無くとも、いつでも存在する。
 魔女の強制力によって戦争が途絶された事で起きた周辺国への余波は、飢餓・略奪を筆頭に、戦争で出る死傷者を軽く越えているだろう。それらの恨みは全て、『戦争』を根絶した魔女のもとに、集まってきていた。
 だから、古戦場の亡霊が尽きたとしても、新しい魔物がここに現れる。
 世代が何度も変わり、歴史が昔話になり、亡霊の魔物も、長年の退魔師達の努力で数を減らした。
 それでもまだ、暗い魂の溜まり場のような湖沼地帯という環境は、魔物をつくりだす。

 ――こうなることを、最初から計画してた訳じゃない。
 デイールの丘の大地に重なるように偶然できた、メルド湖沼地帯という、異次元のような現象。
 魔物の発生と行動を制御できるようなったのも、大量の死霊を相手にした時に偶然出来た事だった。
 私はそれを、戦争を止め続ける為に、利用しただけ。
 ……独り、待っている。
 幾億の夜空を見上げて、流れ星を、待っている。
 遠く離れてしまった、彼女の命。
 ちがう星の光が落ちてくる中で、ずっとずっと、待っている。
 
「ゼロファの盟約が……ちょっと薄くなった……?」
 ぽつ、と朝から感じていた違和感を言葉にする。そういう自分の声に、違和感が確信になった。
 この庭園には、私と盟約とかでの繋がりのある人間しか、辿り着けない。
 リースは人間じゃないし、敵対心を持っていなかったから簡単に入ってくる事が出来た。
 『恨みの想いを我が身に返す』
 そういう仕掛けを、あの『二つ蛇の門』にはかけてある。
 風化してきている昔の亡霊のように、少しずつ薄くなるのなら、わかる。
 なのに、ゼロファの盟約は、唐突に薄くなった。
 ゼロファが使う複雑で強力な魔法の魔力は、盟約を通じて貸している力だ。
 盟約が薄くなれば、当然、その力を使う事も難しくなる筈。
 そして、300年間も時間が止まっている身体は、時の流れにさらされて、どうなるかわからない。

 ――ゼロファに何が起きているのか、確かめておこう。
 やっと役者が揃い始めたのに、手駒の奴隷がいなくなると、ちょっと不便だ。

 魔女はトンと立って、薬臭い外套を羽織った。
「……まずは、服、買わないとな」


◇◇◇
 

 晴れた日の夜でも、結構冷える季節になってきた。
 中央教会の光明の聖女 ミラノは、ひとり、小さく笑う。
(暖かくしてねって言われてたなぁ……)
 少し暖かい日が続いたから、いつもの夜の礼拝に着込んでいた上着を一枚減らしてきて、身体が冷えてしまった。毎晩ひとりでする礼拝は、中央教会の代表者としての、目立たない、でも一番大事な勤めだと思っている。前任の聖女様は他にやるべき事を沢山抱えていたから、多分やってなかっただろう。けれど今の私には、日中の活動が終わってから出来る精一杯の行動だ。
 夜の聖堂で、ひとり、祈る。
 祈っても祈っても足りない。
 まだ私には、何かが足りない―――。
 魔物を消すだけの力しかない私に、もっと、何か出来る事がないだろうか。
 この街で、まわりで、世界で、頑張っている人達が沢山いる。
 この身ひとつで出来る事は、あまりにも小さい。
 セト先生の残してくれた勉強を進めるほどに、自分の小ささを実感する。
 追いかけておいで、って、言われた。
 あの人に追いつくには、今の私じゃ、全然足りない―――。

「み~つけた!」
 突然、背中にぶつかるように飛びついてきた小さな体重に、心臓が飛び出すかと思うほど、びっくりした。
「きゃ! な、なに・・・?!」
 ぱっと振り向くと、小さな女の子が満面の笑顔で私の上着を握りしめている。

 滑らかな黒髪に、赤色の毛先。
「はじめまして、ミラノ=アート。わたしはヒカゲ=ディシール。よろしくね!」
 幼い、あかるい声が、響いた。






スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…




「ノーリって、本当に治療が上手いよな。俺も結構いろんな怪我みてきたけど、ほんと、魔女探しじゃなくて医者になった方がいいんじゃねーのってぐらい。どこでそんな技術勉強したんだ? 戦場?」
 吸血鬼の襲撃で負傷した退魔師達の手当てをして、惨殺現場と化した診療所から死体を出す作業が終わると、一緒に救護活動にあたっていた男が、どこからか珈琲を持って来た。
 ソーマ=デュエッタ。
 黒髪の三つ編みが印象的な美男子だが、とにかく言動が軽い。
「……独学ですよ。魔女探し達について歩いていたから、戦場といえば戦場ですかね? 皆さん、いろんな怪我をしますからねぇ。お医者さんは確かに勧められましたけど、責任は重いし、面白く無いじゃないですか」
 温かな珈琲を受け取って、手頃な石に腰をおろした。
 気付けば、すっかり日が暮れている。聖使達が作ってくれていた篝火がちらちらと赤く夜の闇をさす。
「そっか。アルヴァ達とは長いのか? あいつら今回は無茶したみてーだけど、基本的にあんまり怪我しないだろ。元気に口喧嘩ばっかりしてそうだな。どーよ、当たってるだろ?」
 ソーマは得意げに、そんな事を言ってくる。
 吸血鬼による凄惨な現場を片付けたばかりとは思えない、楽天的な調子は、もしかしてこちらを元気づけようとしているのか。
 そもそも、こういう人間なのか。
「そうですねぇ。ただ今回みたいに、旅先で怪我人がでれば、腕はなまりませんね。ソーマさんこそ、随分良い手際ですよね」
「俺、何やらせても、天才だからさ~」
 また得意に笑うソーマに笑みを返して、珈琲のやさしい苦みで口を潤す。
 そっと息をついて、暗くなった空を見上げた。
 中途半端にかかる雲の合間で星が輝き、ちらちらと、地上の篝火と一緒にきらめく。
 負傷の退魔師達は無事家路についた。ここに残っているのは火葬を待つ大量の死体。聖者は未だ目を覚まさず、聖使ディアナがずっと看ている。教会宿舎の聖使達は難を避けるように、宿舎に籠ってしまっている。
 あわただしく飛行機工で出掛けたと思ったらすぐ帰って来たアルヴァ達は、一足先に領主の館へ向かった。
 ノーリとソーマはずっと怪我人を診ていたが、最後の負傷者を見送って、やっと一仕事終えた。
 あとは領主の館に向かい、アルヴァ達と合流するだけだ。
 ノーリは温かい珈琲の湯気をふっと吹き、目を眇めた。
 ――吸血鬼に聖者を襲撃するよう、誘導した。しかしあの吸血鬼にとって、聖者の生死はどうでもよかったのだろう。助言通り聖者の襲撃で混乱をつくり、目標である魔女探しの生き残りを、見事に全滅させた。
 ……あの『二つ蛇の門』は、魔女の恐怖を知らしめるための、仕掛けだ。協会という組織によって冷静に対策を取られるのは、本意ではない。そういう意味ではあの吸血鬼は、充分働いてくれた。
 まさかこの、目の前の軽い調子の男に、あっさり倒されるとは思わなかったが。
 長く溜め息をついて、ふと黙ったソーマに気付く。目をあげると、じっとこちらを見ていた視線とぶつかった。
 ソーマの瞳は、深い漆黒だ。何故か、身動きが取れなくなる。
 ソーマの雰囲気が、ついさっきまでの軽い調子と、少し様子が違う。
 ――この感覚に、覚えがある。
 外見はまるで違うのに、どこか――魔女と、似ている。
 する、とソーマの手が、作業の為にゆるく結んだ髪留めを外してきた。
「それにしてもノーリの髪は、きれいな白だな。ここまで見事だと、確かに目くらましの魔法もかけておきたくなる気持ちはわかるぜ。目立ち過ぎるし、かといって染めるのは勿体無い」
「……これはこれは。驚きました。ソーマは、良い目をお持ちですね」
「俺、顔も良いだろ。ノーリも実は結構良い顔立ちなのに、それも隠しちまうなんて、勿体無いなぁ」
 どこにでもいる、よくあるお人好しの顔――に見えるようにかけておいた目くらましの魔法まで見抜かれるとは、思わなかった。
 今まで、白い髪に気付かれた事は何度かある。
 まわりに溶け込めるように、状況に合わせて見せる髪色を変えているが、何かの魔力で目くらましの魔法が効かない人間はいた。だが、容姿までばれるのは、初めてだ。
「ちょっと、怖い人に見つからないようにしているんです。……寒くなってきましたね。聖堂に入りませんか」
 掛けていた石から立って、聖堂へ足を向ける。
「白い髪は目立つもんな~。ノーリも苦労してるんだな」
 がらんとした聖堂。吸血鬼が飛び乗ったという天使像は、いくつもの赤黒い筋模様がついてしまっている。
 その乾いた血を洗い落とすのは、明日の作業になったのだろう。――湖沼のふちを綺麗に清めたのに、この教会の中心部分が夜になっても清められていない、とは、皮肉な話だ。だが、今はそれが、都合が良い。
「……ノーリ。あの吸血鬼を――」
 ソーマの声が、止まる。
 天使像の血からつくりだした魔力の細い針のような刃が、一瞬で、後ろについてきていた彼に届いた。
 肉を貫く音が、小さく響く。
「そう、あの吸血鬼を起こしたのは、僕ですよ。ソーマ」
 くるりと振り向いて、長椅子のふちに軽く腰掛ける。
 ソーマの身体を固定していた刃が霧散すると、左胸から綺麗な赤を噴出させながらドッと倒れた。
 血溜まりが、ひろがっていく。
「……あなたは、本当に、口を閉じていれば、美形ですね」
 刺されて倒れた死に顔まで綺麗な人間というのも珍しい。
 痛みを感じる暇もなかったか。
 ――彼の実力が相当なものだということは、吸血鬼を倒した事と、救護の動きからも、よくわかった。
 しかもこちらの魔法を見破るとなれば、見逃しておくには、危険過ぎる人物だ。吸血鬼を無傷で倒せる人間なんて、この300年間にもきいたことがない。だが、不意打ちで殺せたのは、良かった。
 あとの気掛かりは、アルヴァ達と合流した『リース』だ。夕方一度戻ってきた時に見掛けたが、あれは、魔物だろう。何故アルヴァ達と一緒に行動しているのかはわからないが、おそらく彼にもこの髪は、白く見えてしまう。
 折角ここで人々の治療を積み重ねて信頼を築いたのに、姿を眩ませるのは勿体無い。
「……本当に、染めるしかないかな」
 自分の目にも薄い金髪に見えている長い髪を、くしゃりと掻きあげる。
 小さく息をついて、珈琲を飲み切って外へ足を向けた。誰もいない診療所を使って髪を染めてから、領主の館に行ってアルヴァ達と合流しよう。いつまでも別行動では、不審に思われてしまうかもしれない。
 すう、と空気が動いた。
 音もなく背後から伸びた両腕が、胴体と首筋に、からみつく。
「?!」
「《ゼロファ=アーカイル=レトン》」
 低くて甘ったるいような声が、あたたかく耳朶を撫でた。
 強く掴まれている訳でもないのに全身から力が抜ける。思考が急速に霞んで身動きが取れない。
 まさか。
 確かに心臓を貫いて、息絶えたのを見届けた。
 なのに――――しかも、本名を――――……
 振り向こうとすると頬を掬われ、漆黒の瞳と出逢った。それが赤黒い色であれば、まだ魔物の一種なのかと理解もできたかも知れない。だが、その黒は、どこまでも吸い込んでいく、まるで星のない夜空の色だ。
「……《ゼロファ》」
 あまりにも優しくて甘ったるい吐息が、唇から、直に身体の中に入ってきた。
 声が、塞がれる。
 息を継ごうとするほど絡み付いてくる熱い吐息に膝にがくずれて、そのまま長椅子に押し倒された。
「……うっ……」
 どういう魔法を掛けられたのか、触れ合った素肌の部分からとろりと力が抜けていく。
「俺は心臓を刺した位じゃ、死なないぜ。再生すれば良いだけだからな。だが、なかなかやるじゃねぇか」
 ソーマがペロリと唇を濡らした。
 口の中に残った、血の味。幻覚を見せられた訳ではないらしい。
「さぁて……吸血鬼泥棒? 君はあのフェイゼル=アーカイルの本に出てきた、魔女の手下だな。白い髪にその『本当の名前』。俺には、[[rb:真名 > マナ]]は隠せないぜ」
「……貴方は……魔女と、関わりがあるんですか?」
「お、わかるか? 俺はまだ会ったこと無いけど、たぶん俺は魔女と同じだ。いや、魔女が、俺と同じなのかな」
 ――意味が、わからない。
「……それでは、僕に勝ち目はありませんね。僕は、彼女の力をお借りしているだけですから」
「敗けを認めるのはいいことだ。その姿は美しい」
「ちょっとその軽い口は黙って下さい」
「ふふ、じゃあその代わりに、可愛がってやるぜ」
「はっ……? な、んぅっ……んっ……! や……っ……?!」
 ソーマの強烈な熱さに、触れたあったところから、感覚が強烈に蕩けていく。
 ――最初のうちは、何度も失敗した。
 裏切り者と叫ばれて、何度も殺されそうになった。
 いつでも、誰かの深い恨みの眼差しをうけながら、生かしてくれている魔女の為に行動してきた。
 うまく立ちまわっていても斬りつけられることはある。
 協会が発足してからは、知らない人間にまで怨恨の対象された。
 嫌われ、恨まれるもの。
 そしてその通りに、欺き、操り、彼らを殺す。
 それが魔女の奴隷であるということだ。ずっと、300年、そうして生きてきた。
 なのに、こんなのは知らない。
 強く深く、暖かい。
 本当の名前を何度も呼ぶ、あまりに優しい、眼差し。
 こんな――殺しても死なない人間を、一体、どうすればいい。
◇◇◇ソーマの夜空◇◇◇
 教会での怪我人は多かったが、退魔師達に死者はなかった。
 しかし教会の業務を司っている聖使達は、聖者が刺されたという事に大きな衝撃を受けている。彼らは最小限度の手助けだけして、恐れるように宿舎に籠ってしまった。そんな聖使達も、もう眠っている頃だろう。
 聖者の様子を見守っていた聖使ディアナは、寝台のふちで寝息を立てている。
 彼女は領主の妹だ。楽をしようとすれば、いくらでもやりようはあった筈。なのに、こんなところで風邪をひきかけている。
 そしてこの子は、『守護の聖者』の、後継者だ。
 このまま時代の流れが変わらなければ、長年聖者を務めたバルド=レイフォンの『守護』の特殊魔法を継承して、『守護の聖女』としての未来が約束されている。
 だが恐らく、時代の流れは、一気に前に進もうとしている。
 ――歴史書の亡霊であるフェイゼルなら、きっとこの瞬間を、そんな風に言うだろう。
「……戻ってこい。守護の[[rb:聖者 > バルド=レイフォン]]。あんたの命運は、未だ尽きていない」
 ソーマは、聖者の額にトンと指先をあてた。
 土気色をしていた顔に、すう、と生気が戻って、呼吸が深く落ち着いたものに変わる。
「……聖職者の仕事じゃねぇの? って無粋な突っ込みは、やめとくぜ」
 聖者の身体の傷は完璧に塞がれている。逃げ出していた魂を戻してしまえば、いつ目を覚ましてもおかしくない。
 呑気に眠っているようにみえる聖者に愚痴をこぼしてから、ソーマはそっと部屋を出た。
 ひっそりと静かな夜中の教会は、星明りの中、暗闇との色彩が、美しい。
 しかし隣接の診療所から、多くの魔女探し達の死のにおいがする。
「……月が落ちる前は、死霊に怯えるだけで済んでたのに。今では魔物として実体化するから厄介なんだよなぁ~」
 おそらくこの場で何かの争いが起れば、大量の魔物が発生するだろう。
 それが、『魔女』が作った、この世界での法則だ。
 『守護の聖者』の護りの内側でそういう事が起れば、今回のように、不意を衝かれた退魔師達の対応が遅れるのは、簡単に想像できる。
 診療所と、そこから回収された死体の山。
 魔物が発生する前の気配が、しずかに淀んでいる。
 一帯を見渡す位置に立ったソーマは、すう、と両手をひろげた。
『惨殺の憂き目に遭った魂よ 暗き心の魂よ――』
 黒い魔力が、旋風のように周囲を駆け巡る。
 濃厚な闇魔法だ。
 ――微かな存在の死霊など、塵に等しい。
『 ――[[rb:我 > ・]][[rb:が > ・]][[rb:黒 > ・]][[rb:翼 > ・]][[rb:の > ・]][[rb:糧 > ・]]となる事 光栄に思え 』
 周囲の闇魔法が急速に収束し、集めた死霊が、腕を広げたソーマにドッと流れ込む。
 ――――黒い旋風が背中に駆け抜け、ざあ、と黒い質量が顕現した。
 天使教会の聖堂にかならず存在する天使像と同じ、翼。
 ひとつ違うのは、艶やかな漆黒だということか。
 ソーマはペロリと唇を濡らして、黒翼をひとつ大きく羽搏かせた。
「……ふ。久々に味わう魂としては悪くねぇ味だな。ごちそーさま」
 すう、とほどけるように黒翼の顕現を解除する。
 今まで殺戮してきた人間の魂を喰らい、この黒翼は育ってきた。
 祖国での役割を終えたこの黒翼が、こんなところで掃除の役に立つとは思わなかった。
「あ~いい事した! 俺すっげー良い奴だな! さぁて、ノーリ回収して家に帰りますかね~」
 また聖堂に入って、長椅子でぐったりしているノーリを抱き上げる。
 魔女の手下として本性を現した彼を、真名で無力化して可愛がったら、気絶してしまった。
 穏便に話をしようとしたのに、いきなり心臓を刺してきたノーリが悪い。しかしそれにしても少し……ではなく結構可愛がり過ぎたかも知れない。
 ノーリ。その[[rb:真名 > マナ]]は、ゼロファ=アーカイル=レトン。
 この魔女の奴隷は、ソーマの腕のなかで、無防備に薄く唇をひらいている。
 ソーマの目に見える彼の白髪は、夜の色によく映える。この白髪は、故レトン王国の王族である証だ。
 歴史書の亡霊となったフェイゼル=アーカイルは、今この状況を、記録しているのだろうか。
「やっぱり、ずっとここでダラダラしていたら、また、お前は怒るんだろうな……フェイゼル。もう一度生まれてきた俺が歴史を変えたって、文句はないだろ?」
 従兄弟のフェイゼルを参謀に戦場を駆けた、レトン王国の第一王子。
 この腕の中に眠っているゼロファの、兄。それも、前世の俺だ。
 遥か昔から何度も生まれ変わってきた。今回の人生はもう充分役割を終えたと思っていたのに。
 こんなところで、ひとつ前の人生での縁に触れるなんて――
 砂漠を越えて辿り着いたこの大陸の西側世界。
 のんびり穏やかに過ごすつもりだったが、どうやらまだ、余生を楽しむという訳にはいかないようだ。
 アルヴァ達の今までのやり方では、おそらくいつまでも魔女の世界を終わらせる事は、できない。
 協会の存在が魔女ありきの社会構造の中にあるからだ。
 この現状を変える為には、社会構造そのものを変えるようなものが必要になる。
 フェイゼルの本は、そういう事を歴史家らしい視点から指摘していた。
 恥ずかしがらずに読んで貰えばいいのに。
 途中を覗き込まれるのを相当に嫌うのは、彼の昔からの性格だ。
 目眩のするような見事な星空が、夜に染まった緑色の街並みの上で瞬く。かつて砂漠で厭きるほど見てきたこの空は、見る場所が違うとこんなにも違った表情をみせる。
 美しい大自然――それこそが、『魔女の力の源』だ。
 そう説明したところで、きっと誰にも理解することは出来無いだろう。
 砂漠の人間に海での泳ぎ方を理屈で教えるようなものだ。それはたぶん、あの人にしか、出来ない。
 だから魔女は、『俺と同じ』だろう。
 あの超常の人間――『ミカゲ』に、あったことがある筈だ。
「いや、ヒカゲって呼べって言ってたな」
 身体を更新したからか子供の姿になった御影は、緋影と名乗った。
 たぶんあの姿で、いまもどこかをブラブラしているに、違いない。
◇◇◇光に集う闇の明るさ◇◇◇
「おはよう。いい夢は見れたか? アルヴァ」
 ひらいた目を、もう一度開き直す。
 寝台のふちに座って覗き込んでくるソーマの旅装に、目を擦る。
「……おはようございます。何故この部屋に……。どこかに行くんですか」
 昨夜は回復魔法で動けていたとはいえ、自然治癒のためか、ストンと眠りに落ちた。
 目が覚めたばかりの手足を伸ばして、ゆっくり起き上がる。昨日のような目眩はない。
 それにしても昨日に続いてソーマに寝起きを覗かれている。
 今朝は別に病人でも無いのだが、なんだが、変な気分だ。
 す、とソーマの手が髪をすくってきたのに、一瞬、緊張した。
「なぁこの金髪、全部髪留めの中に隠すのって勿体無くねぇ? 折角こんなサラサラなのに。てか、いじりやすそう。三つ編み作ってもいいか?」
「やめて下さい。いつものでいいんです」
 軽いソーマの調子にどこか安心して、ぱっと髪をまとめて枕元においてあった白い髪留めに収納する。
 ……これは、[[rb:1 > ・]][[rb:0 > ・]][[rb:年 > ・]][[rb:前 > ・]][[rb:か > ・]][[rb:ら > ・]][[rb:ず > ・]][[rb:っ > ・]][[rb:と > ・]][[rb:続 > ・]][[rb:け > ・]][[rb:て > ・]][[rb:い > ・]][[rb:る > ・]]、[[rb:願 > ・]][[rb:掛 > ・]][[rb:け > ・]]だ。
 [[rb:ま > ・]][[rb:た > ・]][[rb:魔 > ・]][[rb:女 > ・]][[rb:に > ・]][[rb:会 > ・]][[rb:い > ・]][[rb:た > ・]][[rb:い > ・]]、という――――。
 ニヤニヤしながらみてくる視線が、気になる。
「――昨日は、どのくらいまで働いていたんですか? ノーリと一緒だったんですよね」
「ああ。夜中までかかったが、退魔師達は皆家に帰れたぜ。その後は俺もノーリと一緒に家に帰って、片付けしてた。閉まってるここの館の門を叩くのも面倒だったしな。それにしても、ノーリは天才だよなぁ。重傷人も皆生き返るみたいな調子だったぜ。医者になれば、大人気だと思うのにな~」
 ソーマが自分以外を褒めるのを、はじめて聞いた気がする。
「そうですね。聖者様を治療した腕も見事でした。俺は治癒魔法は初歩的なものしか使えませんが……貴方が認めるということは、実際、凄腕ということですね」
「あとあいつ、実は結構寂しがり屋なんだぜ。アルヴァ、ちゃんとノーリの顔、見た事あるか?」
 出会ってまだ日の浅いノーリは、協会が注意喚起している魔女の手下の情報もあって、少し注意してはいた。
 だが彼は旅先への口出しは全くしないし、まして後方支援――治癒の一点を支えてくれているだけだ。
 魔女の手下であるような要素は、まったくない。
 そう思っては、いた。
「……普通に、顔をみて話はしていますが……」
 「ちゃんと本音で付き合ってあげろよな。折角仲間になったんだしさ」
 ―――ふたりは昨日、どんな会話をしたのだろう?
「そうします。……それにしても、かなり打ち解けたようですね」
「うん、すっげー気に入った。可愛いし面白いし強いし。俺、ノーリ大好きだな」
「そ、そうですか……」
 可愛い?
 ソーマと一晩一緒にいて食われなかったか、と、聖者に声を掛けられたのは、昨日のことだ。
 聖者とソーマの軽い会話は、挨拶のような冗談だと認識していたが……。
 これは、詳しく聞いては、いけない気がする。
 寝台から降りて身支度を整える。
 その間に、ソーマがまた勝手にフェイゼル=アーカイルの本を手に取っているのをみつけた。
「そういえば、まだ本の内容を詳しくお伺いする時間が取れていませんでしたね」
「ん? あぁ、そうだな。……なぁアルヴァ、魔女を捕まえて、どうするつもりなんだ? 魔女探し達と協力してるって事は、倒したいのか?」
 ――この男はまた、いちいち鋭い所を突いてくる。
「……倒したい訳ではありません。戦争を止めたことで起きた事、悪い事を全部魔女のせいにするのは、違うと思っています。その誤解を、俺は解いていきたい……。俺にその対話をするだけの力が無いと、きっと、どうしようもないのですが」
 ほとんど人に話したことのない本音だ。
 ソーマとは昨日出会ったばかりなのに、どうしてか、勝手に素直な言葉が出てきてしまう。
「アルヴァは本当、真面目だなぁ。好きなんだろ? その魔女がさ」
「……す……」
 消えてゆく吸血鬼が、魔女の顔で呟いた言葉が、脳裏に蘇る。
 ――――好きだから――――。
 簡単な言葉。
 それがどうして、こうも思考を停止させてくるのだろう。
 第一、その好きだとかいうものは、アクアがリースに抱いているものの事だろう。
 それと自分の魔女に対する感情は、違う筈だ。
 自分が魔女に対して、アクアのようである筈がない。
 からかうような悪い笑みのソーマを、小さく睨みつけた。
「茶化さないで下さい。それよりその本、どうかしましたか?」
「うん、貰っちゃ駄目?」
「駄目ですよ」
「だよなー。だからさ、必要な事は読んで教えてあげるから、俺を一緒に連れて行って欲しいんだ。この本の行く所に……この本が完結するところを、見てみたい」
 少し声を落としたソーマに、不思議な誠実さが滲んだ。
 昨日出会ったばかりの古書に、突然愛着をもつ理由がわからないが――。
「……貴方がいなくなったら、この街の人々が困るんじゃないですか。退魔師は負傷しているし、吸血鬼は貴方にしか退治できないでしょう」
「えー。俺が来る前から何とかなってたんだから、何とかなるって。聖者も大丈夫みたいだし」
 適当なようで、間違ってはいない。
 自分達の目的としても、願ってもない申し出だ。
 ソーマがいれば、助かる事も多いだろう。
「本当に大丈夫であれば……こちらも助かります。というか、最初からついてくる気でしたね。しっかり準備してきているようですし」
 リースと同じ鞄をはじめとして、アーペ特有の機能美を備えた旅装が、よく似合っている。
「やった。よろしくな。アンゼリカさんが、朝、館の広間に来るようにって言ってたぜ。ノーリはもう先に待ってるから、早く行こう」
 子供のように手を引いてくるソーマに、あわてて部屋を出る。
 この領主の館は、街並みと同じ緑色を基調とした、貴族の邸宅としては簡素な邸宅だ。長い廊下を中庭をみながら進んでいくと、大きな教会に寝泊まりしたような気分になる。最低限の装飾しかないのは、機械好きな地域性だろうか。
 木の香りに包まれた落ち着いた空間の広間に、堂々と昨日の小型飛行機械が並んでいた。
「お待たせ、ノーリ! 俺も一緒に行って良いってさ!」
 ソーマの明るい声が、広間に響く。
 小型機の構造を見ていたノーリは、いつもの穏やかな笑顔で振り返った。
「それは良かったですね、ソーマ。おはようございます、アルヴァ。体調はもう戻りましたか?」
「俺はもう大丈夫だ。それよりもノーリの方が、少し、顔が白いな」
「……そうですか? 夜更かしがお肌に出たのかも知れませんね。でも、平気ですよ」
 ノーリの顔色が悪いと思った訳ではない。
 ただ何となく、彼の持つ雰囲気が、少しだけ白く――スッキリとしている気がする。
「おっ、アルヴァもノーリの魅力に気付いたか?」
「ソーマ。何を言っているんですか。貴方は鏡でも見ていてください。それにしても、改めてこうして見ると凄い技術ですね。空を飛ぶ機械は、技術者なら誰でも一度は憧れたでしょう。それをこんな短期間で完成さてしまうなんて」
「あー、俺のちょっとした思い付きを、みんなが頑張って形にしてくれたおかげだな。みんなすげぇよな!」
「思い付きですか……」
 ノーリは呆れるように息をついて目を瞑った。
 彼にしては珍しく、完全にソーマの調子に呑まれているようだ。
 そういうノーリの肩を、ポンと叩く。
「一機預けて貰える話になっているから、ノーリも一度乗ってみるといい。操作も簡単だし、いい気分転換になると思う」
「そうですね。楽しみにしておきます」
 アルヴァの言葉に、ノーリはいつもの柔らかな笑顔で頷いた。
「誰か来たみたいだな。アルヴァ、あの美味しそ……黒髪くんは誰だ?」
 ――今、美味しそうって言いかけたか?
 ソーマが無邪気に指さした先には、警戒しつつ様子をみていたリースがいる。
 知らない顔触れに、リースは慎重に気配を消していた筈だ。それでもソーマは、気付いた。
「魔女探し協会の活動を一緒にしている、リース=レクト。昨日やっと合流して……ソーマ、ちょっ……」
 ソーマは紹介の途中からずんすんリースに近付いて、ぱっと手を差し出した。
「君がリースか。話は聞いてるぜ。これからよろしくなっ」
 強引に手を取って大きく握手するソーマに、リースも不意を突かれたようだ。
「……これから? アルヴァ、この人達は?」
 ソーマの明るい調子に少し驚きつつ、リースは冷静に声をおとす。
「昨日情報共有した、ソーマ=デュエッタ。吸血鬼専門の退魔師です。フェイゼル=アーカイルの古書を読めることもあって、一緒に行動する事になりました。それと、こっちはノーリ=カークランド。治療師です。彼らには今回、相当助けられています」
「いや……そうか」
 リースから警戒の色は薄くなったが、どこか、戸惑っているようにみえた。
 ソーマが一緒に行動するというのはさっき決まった事ではあるが、二人のことは昨夜リースに話をしてある。
 何が気になるのだろう?
「ノーリ、ソーマ。アルヴァ達を助けてくれたこと、礼を言う。だが、単刀直入に言おう。素性を明かせない人間と行動を共にする事は、危険だ。それは互いに同じ事だろう。密かに身辺調査をすることは簡単だが、敢えてここで聞きたい。……君達は……何者だ?」
「リース、そんな聞き方……」
「アルヴァの信頼を得ているのは、わかる。それとは別に確認は必要だ」
 表情のすくない、いつものリースの顔。
 ここ最近は色々な事があったから、感情が表に出ていた。だが、これが、いつものリースだ。
「俺は、遥か彼方の――」
「ソーマ、貴方は黙って下さいね。はじめまして、リースさん。人をみる時は、分の目で判断する……基本的かつ大切な事ですよね。アルヴァとアクアが慕っているだけあります。リースさんも二人を大事にしているのが、よくわかりますよ」
 また調子良く喋りかけたソーマを押し退けて前に出たノーリの笑顔が、頼もしい。
「僕の過去の素性については、証明するようなものは何も無いです。ただ、今の僕の行動をみて頂けませんか? その積み重ねで、人と人とは、繋がっていくものでしょう」
「……ノーリ……」
 思いがけず真っ直ぐな言葉が、冷えた空気に治癒魔法をかけたように、ふわりと温かくひろがっていく。
 リースも、魔物の身ながら、実績で信頼を築いてきた。
 そこまで知っている筈もないのに、ノーリの言葉は、的確な治癒魔法そのものだ。
「……分かった。たが、信頼を築くからには、守り通して貰おう」
「勿論ですよ。よろしくお願いします、リースさん」
「俺も俺も!」
「適当に便乗しないでくださいソーマ」
「え~? だって、ノーリが俺の話止めたんだろ~?」
「貴方の話は中身が無いのに長いんです。話がこじれてしまうでしょう」
 そういうノーリとソーマに、リースは、少しだけ表情を和らげた。
「仲が良いな。2人で街の退魔師達を夜遅くまで治癒してくれていたと聞いている」
「いえ、仲良くはないです」「そうそう、仲良しなんだよな!」
 息の合った心地良い即答が、そろった。
「……アクア一人がいるよりも賑やかになったな」
 小さく息をついたリースが、仲良く言い争いをはじめた二人からそっと距離をおく。
 アルヴァもリースの傍で静かに二人を見守ることにした。
「ノーリは気遣いも優れています。ソーマの能力は正直底知れず言動もふざけていますが、言葉に嘘はないです。その点を中心に気を付けていれば問題は無いかと」
「お前も抜け目無い性格になったな。アルヴァ」
「子供は親の背中をみて育つといいますからね」
「……俺はそこまで根に持つほうではないと思うのだがな」
「ところでアクアは、まだ起きてきていないんですか?」
「いや、知らないが……」
 アクアはひとりで部屋を使わせて貰っていた筈だ。
「昨日の吸血鬼との戦いで一度深手を負っていますから、回復魔法で治っていたとはいえ、まだ自然治癒のために眠っているのかも知れませんね。俺も、ソーマに起こされるまで眠っていましたから」
 すっかり忘れていたが、放っておけば確実に失血死するような怪我をしていた訳だ。
 丸一日熟睡しても、おかしくない。
 そこまで考えてから、少しだけ心配になってくる。
 まさか傷口がひらくということは無いだろうが、あの後、小型で落下したり、元気に激怒したりと、本来大人しくするべき時に、かなり無理をしていたのは事実だ。
「な~んだ、そういう事なら、リースが起こしてあげれば、きっと元気になるぜ。ほら、アルヴァも朝一番から俺の顔が見れて、元気になっただろ?」
「いきなり部屋にいたので、驚いただけです――」
 話に割り込んできたソーマの軽口に反応したわけではないだろうが、リースがぱっと立って、起こしてくる、と歩き始めたのに軽く驚いた。
「――アクアは、記憶を失くしてはいなかったんだ。何か、あるかも知れない」
 歩きながら呟いたリースの言葉の意味が、一瞬、わからなかった。それで急いで彼のあとに続く。
「それは……いつ、どうして……」
「彼女が落ちてきたとき、自白した。二つ蛇の門の事も、報告前から知っていた。追っ手か何かを警戒したのかも知れないし、あの門を開けた事を、自分で忘れたかったのかも知れない」
 二つ蛇の門。それを開くには、心臓の血を捧げる必要があるという。
 今回の魔女探し達がしたように、アクアも、仲間を――。
 ようやく、昨日からの彼女の違和感に、納得がいった。
 恐らく吸血鬼は、その門で殺された人間の何かが魔物化したものだ。だから自分や退魔師のことは無視し、アクアや、生還していた魔女探し達を狙って攻撃してきた。そう考えると、吸血鬼の手を取って涙を落としていた理由の辻褄が合う。
 だがそうすると、本当はアーペに来ることも、辛かったんじゃないだろうか。
 数年間一緒行動していて、全く記憶喪失を疑わせなかった事には驚かされる。
 いや、そもそも彼女の話を真剣に聞こうとした事が、なかった。
 ――彼女のリースへの軽い調子に、いつのまにか紛れてしまっていた。
 リースと一緒に長い廊下を通って、アクアに充てられた部屋の前に辿り着く。
 部屋の中からアクアの気配がする。
 少し安心して扉を叩こうと近付くと、バンと無造作に開かれた扉に、ぶつかった。
「えっ? 何?」
 いつもと変わらない調子の声がして、アクアが顔を出す。しかし髪が――彼女の腰まで伸びていた金髪が、耳元のあたりで綺麗に切り揃えられていた。
「――遅いから心配して来てみたんだが……」
「え……リース様、私を心配して……? 本当に? ええっどうしよう、感激です!」
 アクアはあまりに、いつもと変わりがない。
 ――事情がわかってしまうと、こちらが、どうしたらいいかわからない。
「その、アクア。記憶があると聞いたから、色々心配したんだが――」
 ここでいつものようにリースへの態度に真剣な話を流されてしまうと、いつまでも彼女に向き合う事は出来ないだろう。
 アルヴァが小さく掛けた声に、すう、とアクアの顔色が、静かになる。
「ああ、そっか。私……。え、それってどういう心配? 怒るとかじゃなくて?」
「昨日の傷の回復とか、その、心情的にも、参っていなかったかと」
 どうしても、彼女がいきなり短くした髪に、目を奪われてしまう。
「あー……。なんだ、そういうこと……」
 ふと大人しい笑顔をうかべてから、彼女はいきなり自慢げに、腰に手を当てた。
「百戦錬磨のアクア様の精神力、なめないで頂戴」
 強烈な説得力が溢れる。
 一瞬のしじまの後、リースがそっと声をおとした。
「……その髪、すっきりしたな。よく似合っている。前よりも、ずっと良い」
「リース様――どうしちゃったんですか。もう、大好きですっ」
 彼にドンと抱きついたアクアの目に、涙が滲んでいるのは、見なかった事にしよう。
 広間に戻ってみると、領主アンゼリカが、また無骨な作業着姿でソーマとノーリに機械の説明をしている所だった。
「おはよう、よく眠れたようで何よりだ。そんなに急がずとも良かったぞ」
「いえ、遅くなりました。――この小型は、どうやって運べば良いでしょうか」
「今その話をしていたところだが、初期段階では運搬は想定していなかったからな。馬車の荷台か、上部に括り付けるしかない。あとは旅程に実際に使用してしまうかだ。狭い道はそうするしかないだろう。――次回の改善で、大きな部分を取り外すか折り畳むか出来るようにしておくよ。……さてアルヴァ、どれを持っていく?」
 どれをといわれても、全部同じように見える。
 強いて言えば、塗装に少し個性があるか。
「そうですね……昨日自分が乗った、これにします。一度触っているものの方が、馴染みやすいですから」
 他のものより少し青がかかった、滑らかな機体に手を添える。
 本当はアクアが壊したものを引き取りたいところだが、説明に持っていくのに、傷物は使わないほうが良いだろう。
 この機体も、極力傷つけないように移動させたい。
 頷いた領主が、馬車に取り付けるよう、館の人間に指示を出す。
 手際良く運び出されていくのを見送って、彼女はひとつ息をついた。
「できれば退魔師が手薄な今、ソーマや貴方達には、もう少し留まっていて欲しいが……これも、湖沼と生きるこの街の宿命だな。商流の件、よろしくお願いする。何かあれば、遠慮なく連絡鳥を飛ばしてくれ」
「あっアンゼリカさん、俺の家の鍵預かっておいてくれません? 守護魔法が効いてるうちは、森の中の作業拠点にも使えると思いますよ」
 ソーマがひょいと投げた鍵をパッと受け取ったアンゼリカは、今日はじめて、笑った。
「ソーマ。貴様、帰ってくるつもりが無いな?」
「俺のいる場所が、俺の家ですからね」
◇◇◇流れ星を待つ◇◇◇
 メルド湖沼地帯。
 そこには昔、レトン王国とオラミス王国が存在していた。
 領土か、利権か、威厳か――2国間の戦争の正しい理由を知る術はない。
 あの大戦から300年。
 メルド湖沼地帯の魔物は、戦争で死んだ死霊からできていた。無尽蔵に涌き出るような現象も、風化しつつある。戦乱での死霊が魔物化し切った訳ではない。無念の想いを抱えた死霊は、戦乱が無くとも、いつでも存在する。
 魔女の強制力によって戦争が途絶された事で起きた周辺国への余波は、飢餓・略奪を筆頭に、戦争で出る死傷者を軽く越えているだろう。それらの恨みは全て、『戦争』を根絶した魔女のもとに、集まってきていた。
 だから、古戦場の亡霊が尽きたとしても、新しい魔物がここに現れる。
 世代が何度も変わり、歴史が昔話になり、亡霊の魔物も、長年の退魔師達の努力で数を減らした。
 それでもまだ、暗い魂の溜まり場のような湖沼地帯という環境は、魔物をつくりだす。
 ――こうなることを、最初から計画してた訳じゃない。
 デイールの丘の大地に重なるように偶然できた、メルド湖沼地帯という、異次元のような現象。
 魔物の発生と行動を制御できるようなったのも、大量の死霊を相手にした時に偶然出来た事だった。
 私はそれを、戦争を止め続ける為に、利用しただけ。
 ……独り、待っている。
 幾億の夜空を見上げて、流れ星を、待っている。
 遠く離れてしまった、彼女の命。
 ちがう星の光が落ちてくる中で、ずっとずっと、待っている。
「ゼロファの盟約が……ちょっと薄くなった……?」
 ぽつ、と朝から感じていた違和感を言葉にする。そういう自分の声に、違和感が確信になった。
 この庭園には、私と盟約とかでの繋がりのある人間しか、辿り着けない。
 リースは人間じゃないし、敵対心を持っていなかったから簡単に入ってくる事が出来た。
 『恨みの想いを我が身に返す』
 そういう仕掛けを、あの『二つ蛇の門』にはかけてある。
 風化してきている昔の亡霊のように、少しずつ薄くなるのなら、わかる。
 なのに、ゼロファの盟約は、唐突に薄くなった。
 ゼロファが使う複雑で強力な魔法の魔力は、盟約を通じて貸している力だ。
 盟約が薄くなれば、当然、その力を使う事も難しくなる筈。
 そして、300年間も時間が止まっている身体は、時の流れにさらされて、どうなるかわからない。
 ――ゼロファに何が起きているのか、確かめておこう。
 やっと役者が揃い始めたのに、手駒の奴隷がいなくなると、ちょっと不便だ。
 魔女はトンと立って、薬臭い外套を羽織った。
「……まずは、服、買わないとな」
◇◇◇
 晴れた日の夜でも、結構冷える季節になってきた。
 中央教会の光明の聖女 ミラノは、ひとり、小さく笑う。
(暖かくしてねって言われてたなぁ……)
 少し暖かい日が続いたから、いつもの夜の礼拝に着込んでいた上着を一枚減らしてきて、身体が冷えてしまった。毎晩ひとりでする礼拝は、中央教会の代表者としての、目立たない、でも一番大事な勤めだと思っている。前任の聖女様は他にやるべき事を沢山抱えていたから、多分やってなかっただろう。けれど今の私には、日中の活動が終わってから出来る精一杯の行動だ。
 夜の聖堂で、ひとり、祈る。
 祈っても祈っても足りない。
 まだ私には、何かが足りない―――。
 魔物を消すだけの力しかない私に、もっと、何か出来る事がないだろうか。
 この街で、まわりで、世界で、頑張っている人達が沢山いる。
 この身ひとつで出来る事は、あまりにも小さい。
 セト先生の残してくれた勉強を進めるほどに、自分の小ささを実感する。
 追いかけておいで、って、言われた。
 あの人に追いつくには、今の私じゃ、全然足りない―――。
「み~つけた!」
 突然、背中にぶつかるように飛びついてきた小さな体重に、心臓が飛び出すかと思うほど、びっくりした。
「きゃ! な、なに・・・?!」
 ぱっと振り向くと、小さな女の子が満面の笑顔で私の上着を握りしめている。
 滑らかな黒髪に、赤色の毛先。
「はじめまして、ミラノ=アート。わたしはヒカゲ=ディシール。よろしくね!」
 幼い、あかるい声が、響いた。