◇◇◇国境の湖◇◇◇
ー/ー無味乾燥な風景がどこまでも続いていて、気分も最悪だ。
最初のように必死に走ることなく、黙々と歩いていても魔女探し達が追いかけてこないのは有難いが、こういう、目的地までの距離がよくわからない荒地での重苦しい空気の旅は、できれば二度と御免だ。最初のうちはシェナもブツブツと文句を言っていたけれど、疲れきって文句を言う元気もなくなっていた。
……シェナは、セトと関わらなければ、こんな理不尽な強行軍に付き合わずに済んだ筈だ。
今更申し訳ないような気持ちになっても、どうしようもない。セトもシェナも、逃げ出すほどの体力も元気もなくなっていた。セトはせめて荒んだ気持ちを和らげようと、シェナの背中にそっと手を当てる。
シェナは顔をあげて、眉を寄せたまま小さく笑顔をみせた。
「大丈夫。ありがと」
――大丈夫。まだ、頑張れる――
「……え……?」
ふと頭の奥に響いた声に、足が止まる。
「ど、どうしたの?」
突然止まったしたセトに慌てて、シェナも足を止める。前方を歩いていたジノヴィから叱咤がとんでくるが、それは気にしない。
セトは目を閉じた。ぎゅっと瞑った少し震える瞼の裏で、色が溢れる。
さっきシェナが口にした言葉。どこかで誰かが、同じような言葉を言った。ありきたりかも知れないけど、なんだか、凄く大切な言葉だった気がする。
閉じた目の奥に浮かぶのは、緑の森と焼け焦げた野原。黒く燃えひろがる炎のなかで、痛みと、血が、無数に満ちた世界。
目を閉じて見える景色が一体何なのか、わからないけれど――
『…………無理はしないで。お願いだから、死なないで…………』
勝手に自分の口から、言葉が零れる。
セトの口から零れた切実な言葉に、シェナが逆に背中に手をあててくれた。そのてのひらが、熱い。
まわりの森林の景色がひらけると、さらに冷たい風が吹きつけてきた。
薄暗くなりかけた灰色の空。ようやく辿り着いた湖からは強い風が吹きつけてきて、広大な砂浜沿いに絶え間ない波紋を形作っている。
向こう岸の見えない、海のような巨大な湖。この先に、リーオレイス帝国がある。ここからの旅程は船しかない。リーオレイス帝国に連絡鳥を飛ばして手配していた船は、遠く、湖面の奥に浮かんでいた。遠目でもわかる船体は、白銀に輝いている。それは湖畔に到着したこちらに気付いたように、船首を向けて驚くほどの速さで湖面をすべってきた。
目の前で、ジノヴィが地面にどっと膝をつく。
「まさか…………」
喜ぶのかと思いきや当惑の声をあげた軍人の背中が、小さく見える。白銀の船はその荘厳な美しさを見せつけるかのように船体の側面をみせて、少し距離を置いた場所で停止した。浅瀬で座礁しないために小型船を出すのかと思ったが、突然、船から白い輝きがまっすぐに砂浜まで伸びてくる。
一瞬のうちに、湖面に氷の道が完成していた。
「何これ…………どんなデタラメな魔法な訳…………?」
シェナが掠れた声をおとす。対岸の灰色の空が、黒く翳っていく。寒風の中に大粒の雪が混じってきた。
到着した感慨も、焦燥も、すべてを支配するような極寒の空気に吹き飛ばされそうだ。どうにか息を整えているけれど、吸い込む冷気の厳しさに、肺が痛い。
この寒風の中、全員が疲労の極致だった。呆然と思考を失っている間に、白銀の船の甲板に、人が出てくるのがみえる。暖かそうな装いの人間たちから、好奇心のような視線がとんでくる。
「ジノヴィ、あれ何なの?」
リーオレイス帝国人といえば彼のような軍人気質の人間しか知らないシェナは、この状況にふさわしくない異色の船の様子を指差した。さっきから口を開く余力があるのは、彼女だけだ。
ジノヴィも困惑して、腕に抱えたレギナをぎゅっと胸中によせる。
「あの恰好は、貴族だ…………。ここには単に迎えの船の連絡しかしていないが、彼らがわざわざ王城を出てくるということは…………」
次にみつけた人影に、ジノヴィは言葉を呑み込む。
真っ直ぐに引かれた氷の上に、人影がさしていた。そうしてそれは、氷の上を淀みない足取りで歩いてくる。
追い風にあおられた金色の外套が、夕闇に輝く。
白銀の長髪を彩る、重厚な黄金と毛織物の冠。暖かく着込んだ、白い礼服。
彼が声の届くところまで接近したのを確認したジノヴィは、抱えていたレギナを砂浜におろして、砂に頭を擦りつけるように低頭した。
「……帝王陛下。このような場所まで直々にお出ましになるとは。無作法な状況を、お許し下さい」
「構わぬ。私が勝手に出てきたのだ。見物人も付いてきたがな。…………さて、無自覚の魔女よ。お手合わせ願いたい。ジノヴィの手紙をみて待ちきれず、ここまで来てしまった。魔女としてお目覚め頂くには、どうしたら良いかな?」
若いが低い声が、この風と雪の中で不思議なくらいはっきりと響き渡った。
低頭したまま、ジノヴィは山頂での状況を思い出す。
魔女が、あっさりとその正体を現したのは、あのときだけだ。最初の村で攻撃した時は壁に頭を打って村人に助けられていたし、本当にただの一般人のようだった。スティアが危害を加える素振りを見せても、途中で危うく感情的に殺しかけたときも、まったく変化が無かった。
つまり、本人の危機は関係ないのだろう。山頂ではセトを庇ったアルヴァが負傷したときに、魔女はアルヴァを助けるかのように正体を現した。
“味方の人間が危機に晒された時“。
だがその条件は、いままでの魔女への認識に対して、大きな齟齬がある。ジノヴィはぐっと言葉を呑みこんだ。ただの推測だ。根拠もないのに、軽々しく言っていいことではない。
「どうした? ジノヴィ=リガチョフ。手紙を寄越してからここまでで判った事があるなら、言うと良い。確証がないものでも構わないよ」
白銀の帝王。その鋭い赤と蒼の双眸が、鍛えた筈の身体をこわばらせる。絶対王政のもとに身に染み込んだ条件反射に、ジノヴィは逆らえない。掠れた声を、恐る恐る、絞り出す。
「……この魔女は、本人の危機に関しては、まるで無頓着です。しかし……自らを守ろうとする他人を助ける為には……速やかに、正体を現します」
一瞬、ジノヴィの言葉の意味が誰にもわからなかった。魔女という存在の今までの概念を崩すような言葉だ。
「……他人の為に発動する潜在魔法、か。それは、意外だな。だが、なるほど。魔法というのは意志の強さが反映される。自身の為の魔法というのは実はあやふやなものだ。他者が絡んでこそ、意識の枠組みは確定する。それを活用しているという事だな」
ひとりで納得した帝王はそのまま淀みなく歩を進め、湖の畔まで辿り着いた。
王侯貴族らしい豪奢な金の外套に、白銀髪のさらりとした絹のような髪が流れ落ちる。相反する色違いの厳しい瞳が、厳格な帝国を象徴しているかのようだ。
帝王は、砂浜に座り込んだ状態の面々を見渡して、回復の魔法を唱えた。涼しい回復魔法が身体中に満ちて、石のように重かった手足がすっきりと軽くなる。疲れ切っていたセトは、ようやくまともに顔をあげて、目の前に現れた人間を見た。
「……君が帝王か」
予想していなかった急展開に、取るべき態度も選ぶべき言葉も無い。
だが相手が誰であれ、人としていきなり負ける訳にはいかない。
「そうとも。私がリーオレイス帝国帝王、ツアーレ=ウイガルだ。驚かないな、予測していたか」
「引っ掛かる事はあったけど予測まではしてない。十分びっくりしてるよ」
実際、背筋が凍るようだ。回復した筈の頭の奥がどこか麻痺しているようで、意識だけ逃げそうになるのを、必死に堪える。
湖の波音と寒風の音に加えて、自分たちが通ってきた低木林のほうからザワザワと別の音が迫る。
赤紫の魔物の群れが木々の隙間から無数に集まってきていた。こんな場所に、これだけ魔物が潜んでいたとは――。道中襲いかかってこなかったのが不思議だ。咄嗟に一匹切り伏せたジノヴィを無視するように、真っ直ぐ、一斉に氷上の帝王に向かって飛び掛かった。
「小物が。魔女を護るか」
帝王が小さく眉を寄せて、手をあげる。
『水よ 我意に従い 刃と舞え』
詠唱が終わらないうちに、足元から高速で飛び出した水の刃が大量の魔物を一斉に切り裂く。赤紫の魔物の肉片が黒色の霧を吹いて、盛大な水飛沫を撒き散らした。こんなに広範囲の魔物を一瞬で倒しただけでも、彼の魔法技術が恐ろしく高度なのがよくわかる。
「小物など話にならんな。お前の力を、見せてみろ!」
すっと横に差し出した右腕の後ろで、湖の水が、大きく膨らむ。
『水よ 我が意に従い 纏い取れ!』
巨大に立ち上がった水の塊が、セトを飲み込んでくるかのように目前に迫った―――が、次の瞬間、その冷たい飛沫に突き飛ばされた。
◇◇◇世界を統べる魔女◇◇◇
――どうして無事なんだ?
セトがそっと目をあげると、信じられないような光景があった。
宙に浮いた水の塊。それが水槽のようにシェナを捉えて、速やかに凍りついていく。
頭の中に花火が散る。どこかぼうっとしていた視界が、澄み渡る。
早く何とかしなければというのんびりした意識はここにきて不要だ。ぱっと首にかけた魔力の石を外して、凍りついていく水に投げつけた。
『風よ 我が意に従い 命を護れ!』
セトとしては成功したことのない類の詠唱。石が強い光を放ち、氷を突き破る。そのまま石と魔力が水の中に空洞をつくった。魔力の効果は衝撃で意識を失ったシェナの呼吸を確保したところで止まり、まわりを固めた氷の中で転がった。
白銀の船から、好奇心の視線が集まってくる。
それに対して、頭の奥が、ひどく静かに、苛立つ。
無責任な好奇心。野次馬。そういうものは、大嫌いだ。
『風よ 締め上げろ。逆立ち巻上がり、災いとなれ!』
ごう、と白銀の船にむけて吹雪が逆流する。バキバキと湖上の氷の道が遠くで割れる。吹雪の中に目障りな船を追いやって、不快な視線は消えた。それにしてもこの湖畔は寒い。意識をむけると暖かい魔力が全身を包み込んで、凍てつくような寒さが消える。
すっきり白く細くなった腕から羽根蛇が実体を現して、ぐるぐると身体をとりまきながら体躯を膨らませる。
その黒いうねりと黒い霧が、生暖かく、拡がる。
巨大化する羽根蛇の出現に少し距離をとった帝王が、目を細めた。
「やっと会えたか。改めて言おう。待ちかねたぞ、世界を統べる魔女よ」
湖畔の冷たい空気を、ゆっくりと吸う。
……もうひとつの自分自身の在り方に、酔い過ぎた。
セトの人生への愛情を、ここでは、そっとしまっておく。
「その通り。私は世界を統べる。自然を、魔物を操り、この大陸の悪を帰一させる魔女。ツアーレ=ウイガル、部下を使ってよく私を見つけたね。今まで誰一人として、自分の智謀で辿り着けた者は無かったというのに」
背後でどこまでも巨大化する羽根蛇に呼応するように、ツアーレの背後にも水が巻きあがり膨らんで、細やかな造形を彩りながら形成されていく。
その光景に、魔女は少しだけ目を眇めた。
帝王の背後で造形されたのは、蛇ではない。大きな鹿の角。大きな目と、ほりの深い虎のような顔立ち。馬のような細長い口元。細長い硬質の髭。蛇に似た硬質の鱗をもつ身体に、鋭い爪を持つ前脚。その手に持つべき宝珠は、ツアーレの左手の中に納まっている。
何だこれは、とジノヴィが呟いたとおり、世界中の殆どの人間が知らないだろう。
自然の精霊獣ともいえる、水龍だ。
存在の記載があったのは古代文献くらいだったか。専門知識がなければ、読み解くのも難しい。
「水龍。その叡智の珠を使いこなすのね。……貴方は、絶対王政の頂点に、ぴったりだわ」
にこりと笑って素直に褒められた相手も、満足そうに顎をあげた。
「これがわかるとは流石だ。そう、私はとび抜けて強過ぎる。だから誰も手合わせが出来ないんだ。水龍は、大自然の獣。魔女にとっても相手に不足はないと見受ける。想像していたよりも、可愛らしい魔女だがな」
「私は可愛くないわよ」
魔女が左手を挙げる。黒く輝く大きな羽根蛇が青白い光彩の水龍に飛び掛かり、互いに怒りの咆哮をあげて激しくぶつかる。湖上の巨大な獣の闘いに呆然と口を開けていたジノヴィは、相方が目覚める気配にはっとして、じりじりと元来た街道に退避を開始した。巻き込まれれば、確実に命はない。
だがそれを見付けた帝王が、無数の氷刃を放ってくる。身を竦ませるより速く、魔女の唱えた風の盾がその全てを粉砕した。
「忠実な国民に手をあげるなんて、感心しないわね」
素朴な茶色の魔女の背中が、そのまま逃げろと言った気がした。こうなるとどちらが味方かわからない。
「面白い。その余裕に満ちた力……ぜひとも手に入れたい」
「気持ち悪い目で見るのはやめて。そんな事言うなら、手合わせなんてしないよ」
魔女は僅かに眉を寄せて、湖上の蛇を小さく縮小させる。突然闘う相手を見失った水龍は、不満そうに水面を叩いて一吠えした。散らばる水飛沫が景色を染める。
ツアーレ帝王は掴んだ水を剣に変化させて、丸腰の魔女に一足飛びに斬り込んだ。
魔女は、太刀筋を軽く避けて、くるりと宙を舞う。
一瞬、立ち位置が入れ替わる。
魔女の視界に、通ってきた低木林の街道がうつる。
「――アルヴァ?」
街道の奥で、アルヴァがジノヴィ達と合流しているのが見えた。護衛のリースに強制送還された筈ではなかったのか。
――あのリースから無理矢理逃げ切ったのなら、大したものだ。
「余所見するな、闘えっ!」
ツアーレ帝王の左手の珠が青白く光る。
背中をむけた湖から水龍が巨大な口をあけて襲い掛かってきた事よりも、その手にシェナが捉われた氷を掴んでいる事に、目をひらく。輝く青色の水が、視界いっぱいにひろがる。セトという人間のままなら、一瞬のうちに呑み込まれて、全身砕け散っていただろう。
だが。
迫る水龍の牙に片手を添えて、その動きをピタリと止めた。
「な――?!」
ツアーレ帝王が息をのんだ声を無視して、湖に浮かんだ氷の道の欠片をトントンと渡る。
水龍の爪が掴んだ、シェナが閉じ込められた氷塊。それにそっと触れる。水晶の磨き切れていない原石のように泡立った空気の濁りと、不定形な表面の屈折で、中の様子を正確に窺う事は出来ない。
……一緒に、生きたい――
魔女は胸を締め付けるような自分の声に、眉を寄せた。
さっき気絶していたシェナが目覚めていたとしても、彼女は氷の外で何が起こっているか見えていないだろう。魔女としての容姿も見られていない。この氷を少しこのままにしておいて、帝王を始末してから安全な環境で彼女を救出すれば、まだ彼女と、セトとして一緒にいられるかも知れない。
そんなことを考えていた隙に、ツアーレ帝王が大きな魔法の詠唱を完成させていた。
『――水よ、我が意に従い 宙を撃て!』
次の瞬間、足元から大量の氷が突き上がり、地響きが一切の音声をかき消した。
湖面いっぱいを埋め尽くした氷の刃。その鋭い光がゆっくりと解けてパラパラと水に落ちていく。逆立つような湖がようやく水面を取り戻した頃には、遠くに追いやられた船を残して、全てが消え去っていた。
水龍も、水に還っていく。
「……やった……か?」
姿勢を崩して、ツアーレ帝王はトンと座り込んだ。どんなに魔力が最高位であっても、湖全体を武器に使えば、さすがに疲弊する。日没が過ぎて、薄暗闇があたりを霞ませ始めていた。
静かな湖畔。まさか、本当に、と誰かがつぶやく。
サワサワと枯葉がそよぐ音が、夢を見ている訳ではないと気付かせてくれる。
「はぁ、流石に疲れた。水龍を片手で止めたのには驚いたが……どうやら勝ったな」
大きく息をついて尻の砂を叩き落としながら立ち上がった帝王の背後で、小さな回復魔法が何回か唱えられた。
ジノヴィと一緒に任務に就いていたレギナ=クッシュ。
彼女は回復魔法より攻撃魔法のほうが長けていた筈だが、と思うと、その真面目な姿勢が好ましく思える。
「お前達の任務は見事に全うされた。よくやったな。報奨と名誉ある地位を贈ろう」
ジノヴィとレギナは、柔らかい笑顔の帝王に、思わず顔を見合わせた。そもそも二人が帝王と面会したのは、直接この任務を与えられた一度きりだった。先程戦闘の最中に攻撃魔法が仕掛けられたのも、逃げる部下に対する措置としては当然の行動だと認識している。
呆然としている部下に、ツアーレ帝王は少し笑って頭を掻いた。
「さっきは攻撃して済まなかった。魔女の本気を引き出す為の策だった。それから、そこの少年。君がリュディア王国のお目付け役だな。帰還して、リーオレイス帝国が魔女を倒したと報告するが良い。――これからは、我が帝国の時代だ」
「……何で、何で皆、そんなに欲しがるんだよ! 世界とか時代とか、王様とか……何で、仲良く出来ないんだよっ!」
声を荒げた小さなアルヴァに、ツアーレ帝王は静かに目を瞑った。
「――子どもには、民には、解るまいよ」
砕け散った氷の道の残滓の上を冷たい風が流れていく。
ツアーレ帝王は湖の立ってみたが、またここに氷の道を築くには、少し魔力が足りないと感じていた。少しずつ氷で足場を固めて、歩けるようにする。それで帝国の船の傍まで行ければ、小型船で合流することができるだろう。足場の氷を作る目算を立て、魔力をこめて手を翳す。
『水よ、我が意に従い――』
詠唱中にいきなり脚が冷えて、ぱっと足元を見る。あまりの驚きに、心臓が凍りつきそうになる。
ついさっきまで何の気配も姿も無かった水面。
そこから白い細い手が伸びて、足首をかたく掴んで離さない。
ゆらり、と水がゆれて、長い茶色の髪を濡らした女の頭が、半分ほど浮かんできていた。
その深い緑色の瞳。視線を、逸らせない。凍るように身動きの取れなくなった身体を、そのまま引きずり倒される。
日が沈んでから夜の闇があたりを染めるのは、あっという間だ。
ツアーレ帝王に何が起こったのか、誰にも見えなかった。だが、頭の中に直接響くような声に、全員が息をのんだ。
同時に、やっぱり、と思う。
どんなに強くて派手で環境が味方していても、世界を支配していた存在が、こんなに簡単に倒せる筈がなかったのだ、と。
暗闇に目を凝らして、ようやく人間の形をみつける。
水から這い上がってきたそれは、暗い緑の光をぼんやりと纏っているようにも見えた。
その背に、羽根蛇と同じ蝙蝠の翼を広げたようにも見えたのは、目の錯覚ではない。
誰も何も出来ないうちに、闇の中に黒い光片が溢れる。
呟くようにかすかに響いていた声が、輪郭を持った。
『――闇よ 未だ出でざるものよ 我が呪はここにあり 鋭を挫き 憤を解き 虚しくする ――を ここに戻そう』
ぞっとするような、無機質な詠唱の旋律が、ざらりと耳朶を撫でる。これを、間近で受けた帝王は――。ジノヴィの背に冷たいものが流れる。聞こえない筈の、ツアーレ帝王の苦しい息が聞こえた気がした。
ふとその詠唱を紡いでいた存在と、目が合った。呆然としていた頭を、必死に働かせる。
――咄嗟の言葉が、届くか、どうか。
「セト! ――セト=リンクス!!」
叫んだジノヴィ自身が驚く程、湖の空間に響き渡った。
身を竦めて息をとめたレギナが、かたく手を握ってくる。下手をすれば簡単に殺されそうな、緊迫する空気に斬り込んだ言葉だった。
「……何それ。皮肉? 無害な人間だったセトをここに連れてきたのは、貴方よ」
闇に薄く煌めかせる長い茶髪が、さらりとその白磁の腕を流れる。
薄い灰色の外套の中に白い腕が隠れると、その容貌に目が吸い寄せられる。
セトの面影を残した、ふわりとした表情。深い威厳を秘めた、緑色の双眸。
これが本当の魔女の姿かと息を呑むのと同時に、決死の覚悟を決めた。ツアーレ帝王が招いた災難だが、事を収める義務があるだろう。
ジノヴィはただ剣をとった。他にどうすれば良いのか、わからない。
「もう、やめてください! 勝負はついたんでしょう? どうして、また、戦うんですか!」
肩で息をしているアルヴァが、間に割って入ってジノヴィに強いまなざしを向けた。
「どうして俺に言うんだ。殺気だらけのあの魔女に言え!」
「殺気なんて、ないですよ! セトさんは……魔女は悪い人じゃないって、ジノヴィさんも、もう、分かってるでしょう?!」
幼くも強い言葉が、闇のなかで、金色に輝いているようだった。
ジノヴィの胸の奥の何かが、音を立てて軋む。
――得てきた名声。喪った仲間、死んでいった友。そしてこの両肩に頂いた、責任。
魔女が、小さな少年の真後ろにするりと近づいた。
灰色の外套の中から白い腕がのびて、やわらかく、少年の口を塞ぐ。
「面白い事を言うのね。私、良い人になった覚えは無いわよ。諸悪の根源として、まだまだ役不足かしら?」
驚いて顔をあげるより、柔らかな睡魔がアルヴァを支配するのが速かった。
ジノヴィは膝から崩れるように倒れ込んだアルヴァを受け止めて、目前に出現した魔女に、ただ目を奪われる。
「……馬鹿は嫌い。石頭も凄く嫌い。どっちもその頭をかち割って、脳味噌を洗いたくなるの。貴方も、頭の中身、一回ぶちまけてみれば、すっきりすると思う」
「――石頭はどっちだ。セトの時は自分は魔女じゃないと言い張るし、魔女なら魔女で、その立ち位置を動く気は無いんだろう? 少なくとも300年だ。お前こそ、石頭そのものじゃないか」
挑発してどうすると思いながらも、ジノヴィは必死に言葉を押し出す。
喋っていないと、なすすべも無く本当に頭を割られそうだった。
「思い通りにしたいなら、支配する時間の長さが必要なのは当然でしょ。欲しがりなのよ。アルヴァが言ってたみたいに」
「だったら、無かった事にするのか。俺達も帝王も処分して、その後に向こうの船も沈めて。ついでに今来た街も消しておくか。リースという奴も追って始末しておかないと、無かったことにはならないな。いっそリュディア王国中の魔女探しをくまなく潰して、見せしめにするか? そういう事だろう。諸悪の根源」
「キリが無いから、そういう面倒な事は、思いついた人がやってくれない?」
薄い笑みを浮かべた魔女の背中に浮いていた、黒い滑らかな羽根。それが宙にふわりとほどけて、青白い宝珠になる。
魔女はその宝珠を、レギナにポイと投げ渡した。
「『宝珠』は、自然の水龍を扱う為の叡智の鍵。使いこなせれば、貴女は帝王を越える力が使える。私はいらないから、あげる。うまく使って好きなようになさい」
呆然と手中の宝珠と魔女とを見比べたレギナに、魔女は関心を留めず、ふわりと湖上に舞い戻る。
「観客はもういらないよね」
刹那、白銀の船が、大きく爆発して湖の塵と消えた。
口をあけてただ見ているしかなかった二人に、魔女は楽しそうな笑顔を向ける。
「ふふ。偉い人も強い上司もいなくなって栄光の生還者は貴方達だけ。そして帝王が使ってた力をだんだん使えるようになるの。 ……楽しみにしているわね。この状況を、どう使うのか」
どうして、と問うレギナの声は、水音にかき消される。
闇の中に溶けるように、魔女の姿が掻き消える。
――寒風が吹き抜ける湖が、ざあ、と自然の波音を奏でた。
今までの静けさは、緊張だったのか。違う空間にでもいたのだろうか?
「……生きてる、か……」
ジノヴィは、信じられない、という思いが強い。
「どうして私にこんな力を……? いらないって、魔女の実力どれだけ強いのよ……」
レギナは呆然と宝珠を抱いて、這うように倒れた帝王のもとにむかった。
とにかく、帝王の安否を確認する必要がある。怪我ひとつない彼の首に触れた。手は冷え切っているから、帝国では脈をとるとき必ずこうするものだ。熱い首筋に冷え切ったレギナの手が触れて、驚いたようにツアーレが目をあけた。
「帝王……! 無事ですか」
ジノヴィも異口同音に驚愕の声をあげた。魔女の言から、殺されたものと思い込んでいたところがある。
しかし、ツアーレは赤い両目を大きくひらいて、ぽかんと口をひらいた。
「……帝王? ……何だそれ。お前ら、誰だ? ぼろぼろだけど、痛くないか?」
◇◇◇愚者の夢をみる◇◇◇
暗い水の底で、ゆったりと大蛇が身を巻く。
仄かな光を放つ氷をいただき、蛇はすいと沈んできた魔女にその氷を押し上げた。
魔女が氷に触れようと手を上げた瞬間、中から拳で氷を叩き破って、シェナがその手を掴んだ。
水が、どっと空洞に入るのを慌てて止める。
触れた手のひらから強い想いが流れ込んでくる。切ないほど胸が痛くなる、希望のような、想い。
びり、と身体が茶色い少年に変容した。
またセトに戻るつもりは無かったのに――。目をひらいて、自力で守護の殻から無理矢理身を乗り出したシェナの頭を胸に抱き、その視界を封じ込める。
「――これ何? 夢?」
シェナは奪われた視界に逆らうでもなく、確かめるように背中を掴んでくる。
「うん。夢だ。僕と出会った事も、今回の事は全部、夢だよ」
低い、柔らかい声をおとす。
暖かいシェナの心臓の音が、指先まで響きわたる。
「……本当は知ってた。ボク、セトが飛んで来て雨を上がらせたの、見てたんだ。でも、どこか信じたくなくて……すごく普通で、何だかぼーっとしてるのが、セトなんだもん。皆が言うみたいな魔女じゃない」
「あんなデタラメな魔法……怖くなかった?」
「やばいくらい、綺麗だった」
頭を胸に抱いていたからだろうか、その言葉は、直に胸を衝いてくる。
どんな外傷も関係ない身体だけれど――
暖かく涼しい風穴があいたような心地がひろがる。
顔を上げようとするシェナを、より強く抱え込んだ。
自分がどんな顔をしているのかわからない。平常心じゃない表情の自信がある。
「僕は、僕でいる為に、独りでいなきゃいけない。まだやるべき事があるから、好きな子と一緒に幸せになってちゃいけないんだ。……ずっと待ってるのに、もう300年。こんな我侭に、君を巻き込みたくない――」
「もう巻き込まれてるんだから、いいじゃん! ボクは、セトと一緒にいたいの!」
元気な声に驚いた隙に、シェナが力ずくで顔を上げて、顎にゴンと頭突きを喰らわせてきた。
やや破天荒なのはわかっているが、驚かされっぱなしだ。
目が合う。
強い瞳を受け止めて、言葉を紡ごうとする唇を、塞ぐ。
――どうか、シェナに、生涯の幸運を。
傍らに漂う魔力の青い石がパンと割れた。仄かに光る魔法の文字がほどけて、彼女の身体に纏わり付くように消えていく。
流石に空気が薄くなってきた。
シェナは苦しげに息を継いで、必死に背中を掴む。その指先から、力が失せる。
うすく開いた瞼の下から輝くような水滴が零れ落ちて消えた。意識を落としたシェナに、最大級の笑顔をむける。
「ありがとう……。この声が届かなくても、忘れてしまっても……君が、大好きだよ」
独り、落とした声は、暗い水底に吸い込まれていった。
細い山道を一列になって歩き続ける魔女探し達の頭上から、ぱらぱらと石が落ちる。
斜面を見上げた何人かが、大量の土砂が流れ落ちてくるのを発見した。が、魔法使いが詠唱をする間もなく土砂に押し潰される。そうしてその魔女探しの一行は、土砂のなかにきえた。
「さあ、次の街にこの知らせを持って行って、情報料を頂こうか」
眼下の惨事に意気高揚とした男達に声をかけて、セトはにっこりと笑顔を浮かべた。
自分の村を滅ぼした魔女探し達に逆襲する。
当然といえば当然だが、ただの村人が立てた計画は、あまりに危険だった。相手は長旅に慣れ、魔物と戦う事にも慣れている。炭坑の土と闘ってきただけの男達よりは、ずっと強いだろう。だから得意な土木工事技能を活かして、しかも奪われた財産を少しでも取り戻せるやりかたで逆襲する方が、効率的だと提案しらのはセトだ。
災害被災者の出自が不明なら、身に着けていたものは、発見者のものになる。
「しかしこんな森の中に入り込んで、一匹の魔物にも出くわさなかったのは運が良かったよなぁ」
仇をとった喜びに沸く炭鉱の男達から離れて、二人の青年が傍に立つ。
彼らの冷静さが無ければ、血気盛んな炭鉱の男達の統制を取ることは出来なかっただろう。
「日頃の行いが良いんだよ」
「日頃の行いが良いのは、セトさんぐらいですよ? 俺が川原で貴方をみつけられのも、凄い偶然でしたし」
イアンと名乗った頼りなさそうな青年が、人懐っこい笑みを向けてくる。水に溺れて忘れてしまった自分の名前と状況を教えてくれたのは、この好青年だ。ジルという男も、セトが同郷で占い師として働いていたのを知っているという。
持っていてくれた占いの絵札が川に流されて拾っているうちに、捜していた人間も拾い上げたというのは、確かに凄い偶然だ。ただし絵札は殆ど流れてしまって、セトに引っ掛かった一枚だけが手元にある。
物音のしなくなっていた崖の下から、いきなり声があがってきて、思わず覗き込んだ。
「ちょっと! なんで道埋まってんの? 何これ?! 先に行ってた奴らも埋まってんの? え~! これ誰が掘り返せって~?! くっそ面倒なんですけど~…………!」
人間が埋まった事よりも、通路を塞がれたことに文句を言う少女。ふと目が合った。
まずいと身を竦ませるのと同時に、イアンにぐいと後ろに引き戻される。
一瞬遅れて、小粒な発煙弾が今いた空間で弾ける。ツンとする煙をまき散らした。
「まずい、見られたか。追って口封じを…………」
素早く引き返して逃げた彼女の背中をみつけて、ジルが斜面を滑り降りようとする。
「待て!」
よく通る大声が自分の口から出てきた事に、全員が驚いて振り返る。
「害して良いのは、悪い奴だけだよ。罪も無い誰かを巻き込めば、その禍は自分に跳ね返ってくる。…………僕らが、今、仕返しをしたみたいにね」
男達の注目をあびながら、ゆっくり、言葉を紡ぐ。
…………あの少女の瞳が、どうしてか胸に焼き付いて、離れない。
「しかし、セトさんが犯人だと言い触らされては、自警団に追われる事に…………」
「そうですよ、俺達がやった事なのにセトさんひとりが通報されるなんて!」
どっと皆が声をあげる。村を焼いた仇を倒した直後の高揚か、今にもあの少女を追い掛けて行きそうだ。
少し目をあげて、冷たい空を見上げる。――彼らと村で過ごした記憶はない。どうして彼らはわざわざ自分の判断を仰いで、従ってくれるのだろう?
「いいよ。自警団なんて、その地域から逃げれば良いんだから。むしろ集団で逃げるよりも、僕ひとりなら、どうとでもなるよ」
「そうはいきません! 俺は今度こそ、貴方を護らせて貰いますからね!」
まっすぐに即答した熱いイアンの意気が、なぜか、まわりの男達をも染める。
どうしてこの青年がこんなに自分を大切にしようとするのか分からないが、それは、失った記憶のなかに、たぶん何かがあるのだろう。詳しくは聞いていないが、捜してくれていた間の出来事や想いも、彼らの意気込みになっているのが、肌で感じられる。
まあ、行くあても、目的もないのだから、どうなっても良い。
そう、ふわりと考える。
無くした記憶を探すより、今ある現実を素直に受け止めて生きていく方が、楽しそうだ。
占い師だと言われたが、やり方もわからないし、絵札も失っている。ひとつだけ残っていたという絵札を取り出して、改めてその絵をみる。男が荷をひとつ肩に掛け、田畑の明るさの中で微笑を浮かべて横を見ている。その下には「愚者」とだけある。
多分深い意味があるのだろうが、今の自分にはわからない。
愚者。何も知らずとも、笑っていられるなら、それでいい。
そう、励まされている気がする。
くしゃ、と絵札を握り潰して、驚いた顔のイアンを、まっすぐに見つめた。
「じゃあ、護って貰おうかな? でも、僕も、君達を守らせて貰うよ。まぁ、弱いけどさ、そんなに頭は悪くは無いと思うんだ」
ぱっと顔を輝かせたイアンの表情が、新鮮で、おもしろい。
セトは、にっこり笑って、男達を見渡した。20人はいるだろうか。これだけの自警団に追われるような集団となれば、それはもう賊だろう。
「今日から僕たちは、盗賊団だ。どうせ逃げ回るなら、後腐れなく逃げようじゃないか」
びっくりしたイアンと、嬉しそうな声をあげたジルと。
そして、帰る場所を失くした男達が、皆、こんなところで笑っている。
澄んだ冷たい空の下で、柔らかい時間が、動き出した。
完
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