第二十節 君を夏にたとえようか
ー/ー「──て……──起きて──ルナ──」
微睡みの中に声が聞こえる。近いようで遠いようで、確かに届くようで、儚く空気に溶けていく。
窓から差し込む太陽の光は温かく、しかし眩しさが彼女を刺すことはなかった。湯船のぬるま湯の中で重力から解き放たれたような感覚が、全身をゆるやかに包んでいる。耳に届く小鳥の声と草花の揺れる音は心地よい子守唄。なんの変哲もない質素な寝具を、陽光と子守唄が最高級の寝具へと姿を変えさせる。
「眠りの浅さを気にしていたようだけど、問題なさそうで何よりだ」
返事はない。小さな観測者の主人はベッドの上に小さく丸まり、布団に埋まっている。規則正しい寝息と観測者の言葉だけが、この部屋の空気を静かに震わせている。
やれやれ、という反応すら観測者には見られない。ただ目の前の事実のみを、的確に処理していく。
「君は寝相が良いみたいだから、これで問題ないだろう」
備え付けのメモ帳から一枚を切り取り、自身の不在を伝える一文を残して、枕元にそっと添える。ここなら目が覚めてすぐに気づくだろう。書置きは、見つけてもらえなければ意味がない。
小さな観測者はそのまま黙って部屋を出る。主人を気遣って音を立てないように、という配慮も特にない。起きたなら起きたで、それはそれで都合がいい。
廊下を歩き、一つ下の階の部屋を慣れた様子で軽くノックする。
コンコン。
小気味よい音が廊下に響く。
「おーう、ん? おめーひとりか? 嬢ちゃんは?」
「部屋で寝ている。一応起こしたんだけどね」
招かれるまま部屋に入ると、見覚えのある二人が椅子に腰かけ談笑していた。その横に、見覚えのない小さな人影。
「おう先生、オルドだぜ。嬢ちゃんは寝てるってよ」
「いらっしゃい。まあ、大変だったからな。無理もない」
「ロギアには昨晩会えたけど、ドルスには会えなかったからね。本人は起きて会うつもりだったみたいだよ」
ロギアはカップの珈琲を静かに飲んでいた。向かいの席に座るドルスの手元には、どう見ても酒にしか見えないものが昼間から堂々と存在を主張している。
「ええてええて、疲れてるやろ。寝かしとき。それより初めましてやろ、紹介するわ。ほれ、自己紹介しいや」
「チッ、めんどくせーな。No.666、隣のクソ野郎担当の《ペナテス》セグニ。以上終了」
黒い影のような衣に淡い紫の髪の少年。不健康そうな肌。瞳は伸びた髪に隠れて見えない。ひどく怠そうに椅子に沈み、オルドへ視線を向けようともしない。
「くつろいでいるところ申し訳ない、をお願いしたい」
後ろでガシャンと音がした。コギトが運んでいた飲み物を動揺で溢しそうになり、何とか踏みとどまっている。その表情は、呆れ果てていた。
「お前なあ……確かに《ペナテス》がいれば《友好の契り》は結べるけどよぉ、さすがに主人のいないとこでやるかね」
「不思議なことを言うね、興味深い。答えるなら、ボクはルナシアに従属しているわけじゃない。ルナシアに必要だと判断するなら、やるさ。ドルスが良ければ、だけどね」
オルドは立ったまま、その深淵を秘めた幾何学模様でドルスを見つめる。真っ直ぐ、逸らすことなく。
「んー、条件付きでならええよ。後でルナシアちゃんにきちんと確認して、嫌がるようなら、メッセージをオルドが責任もって遮断する。やり取りは全て《ペナテス》を通すんやし、できるやろ?」
「了。それで問題ない、頼めるかい?」
ロギアは手で顔を覆い、コギトは頭を抱えた。共通しているのは、呆れているという一点。
「No.1001《オルド》が《友好の契り》の申請を行う」
「No.666《セグニ》が申請を許諾してやるよ、頼むからあんまり仕事増やすなよ」
「強く生きろよ、嬢ちゃん……」
こうして、ルナシア不在のまま事態は進行していく。勇者がいなくても、英雄がいなくても、主人公がいなくても、関係なく時計の針は進んでいく。
「それじゃあ、ボクは買い物に出るからこれで失礼するよ。今回のクエスト、主人に代わって礼を。そして旅の無事を祈っているよ」
「待て。は主人に干渉できる所持金とアイテムを制限されているはずだろう。ルナシアを起こす必要があるなら、自然に目を覚ますまで待てばいい」
「問題ないよ、ルナシアはボクに一切の制限を掛けていない」
オルドは扉に手を掛けたまま、淡々と答える。
「説明していないからね」
それだけ言い残して部屋を後にする。背後からドルスの笑い声だけが、廊下に追いかけてきた。
それからは、木漏れ日の中をひとり歩いて回る。【ヴェルノーラ】の街の地形はすでにある程度オルドの記憶領域に刻まれている。風の音、葉擦れと小鳥の歌、鮮やかな花々。ルナシアが喜びそうな優しい世界も、オルドにとって然したる価値はない。温かく慈愛に満ちた陽光も、ただの光の刺激でしかなかった。
「さあさあ買った買った! 祝いだ祝いだ! 安くしとくよ!」
「売上なんてクソくらえだ! 原価で売ったらぁ!」
多くの露店が並び、競うように声を張り上げている。宿というシステムが内外の音を遮断していなければ、この街に滞在することも難しかっただろう。ツァルとヴェイルが討伐された影響もあり、ちょっとしたお祭りムードが街全体に漂っていた。幻燈村と静寂に包まれた【ヴェルノーラ】の街しか知らないルナシアにとっては、初めて目にする活気溢れる光景となるだろう。それゆえにオルドにとっては、ルナシアが未だ夢の中にいることは都合がよかった。
「置いてきてよかったかな」
この活気は、ルナシアには悪い方向に転ぶ可能性が高い。彼女の鋭い刃は、今まで敵よりも自身をより深く傷つけてきた。白い眼を向けられてまで一人で出てきた甲斐があったというものだ。
食料の調達を済ませ、露店の並ぶ大通りを抜けて一つ裏の通りへと足を向けた。
祭りの喧騒から少し離れたそこには、木造の古い店が静かに並んでいる。賑わう大通りとは違う、熟成された静けさの空気が漂う。
小さな本屋が目に留まった。
先日立ち寄った本屋とは別の、小さく古い本屋。軒先に吊られた木札には『古本・詩集・学術書』と雑多に刻まれている。
「古本か、都合がいいな」
残った予算はそれほど多くはない。予算内に収まるなら、正直なんでもいい気持ちはあった。
オルドにとって本は情報媒体以上の価値はなく、その多くは読まずとも知識として有している。無価値だ。
しかし主人は、ルナシアは違う。
文字を読むとき、わずかに呼吸が浅くなる。瞳孔が拡張し、頬の筋肉が弛緩する。
────つまり、好ましい刺激らしい。
あのお祭り騒ぎだ。これからロギアたちと合流するまで、恐らく宿に籠ることになるであろう主人。暇つぶしは多いに越したことはない。
合理的に判断するなら、入店の価値あり、となる。
扉を開けると、紙とインクの匂いが静かに満ちた。ルナシアが喜びそうな、静謐な匂い。
棚を一巡したあと、オルドの視線が一冊の薄い本で止まる。
ソネット集。
背表紙には古い装飾文字が刻まれていた。
『君を夏の一日にたとえようか』
「非効率的だな」
オルドはペラペラとページをめくる。
夏は季節、ある一定の期間を指す言葉。人を指すには使わない言葉だ。比喩という、わざわざ別のものへ例える理解しがたい言語処理。言葉をどれだけ取り繕っても事実は変わらないし、読み手に一定の教養と余分な負担を強いる。その機微をオルドは理解できない。
「でも君は好きなんだろうね。失礼、これはいくらだい?」
帳場では老婦人が一冊の本を読んでいる。ルナシア不在による好感度補正がないため、こちらに興味がなさそうに視線を向けてこない。
「予算は?」
「あまり多くはない」
老婦人は視線を本に落としたまま、オルドが見ていた本棚を指差す。
「もう二冊買っていきな、ぴったりにしてやる」
「いいのかい?」
古本とは言え三冊、どう考えても破格だ。対価に何か頼まれでもしたら面倒だ、という気持ちが先立った。ルナシアは外に連れ出せない。
「街の連中は二体の荒魂が鎮められてバカ騒ぎだ、功労者に礼もせずにね。目が悪くなっても神聖なものはわかる。御使いさんに礼を伝えておいておくれ、それがあたしなりの礼さ」
「わかった、素直に受け取っておくよ。おすすめはあるかい? ボクには良し悪しがわからないからね」
老婦人に本を選んでもらい宿へ戻る頃、太陽はすでに高く昇っていた。
部屋の扉を開けると、布団の山は変わらずベッドの上に鎮座している。部屋を出てから布団の形がひとつも変わっていない。ずっと同じ体勢で眠っているらしい。
呆れはしない。特に思うことはない。眠りが浅いのではなかったのか、という疑問がないわけではない。それでもただ、目の前の事実のみを情報として処理していく。
「オルドも読みなよ。愛とか魂について、書かれた本」
この街に辿り着く前、ルナシアに言われた言葉。オルドの記憶領域に残るその声が、本屋の辺りからずっと思考の縁をちらついていた。
ルナシアが眠るベッドの横に椅子を引き寄せ、アイテムストレージから買ったばかりの本を取り出して手に取る。
それは、正しく愛についての本だった。
愛を語り、儚さを悟り、永遠を願っている。
「少々複雑だな。なぜわざわざ夏の日に例える必要があるのか、理解に苦しむよ」
情報は、正しく処理されている。オルドの演算能力をもってすれば、比喩を読み解くなど造作もない。それでも理解が出来ない。伝えたいことがあるなら、もっと簡潔で正確な方法があるはずなのに。
「この詩人は観測対象を永遠にしようと試みている。しかし永遠を試みる行為そのものが、対象の消失を前提としている。矛盾しているね。でも、だからこそ、か」
この詩が残り、それを読む者が残り続ける限り、この詩の中には永遠が宿る。
「人間は、観測され続けることを永遠と定義したわけか」
詩集をそっと閉じる。乾いた紙の音だけが、部屋の静寂に落ちた。
「君たち人間は、随分と昔から“魂の保存”を試みていたんだね」
布団の山は相変わらず動かない。規則正しい寝息だけが、ルナシアの存在をこの世界に証明し続けている。
オルドはしばらく、その音を聞いていた。
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