第十九節 幸あれ
ー/ー「オルド、ここで合ってるよね?」
「是。その質問は三回目だよ、ルナシア。ボクが答えるのも三回目だ」
廊下はしんと静まり返っていて、ルナシアの息遣いだけが空気を揺らしていた。ルナシアは今、小さな一歩を踏み出そうとしている。小さな小さな一歩。今まで他者との交流の大部分をオルドに任せていたルナシアが、今はじめての挑戦をしようとしていた。
「いくよ、いくからね」
急所としての役割しか持たないはずの仮初の心臓が、早鐘を打ち続けている。握る手には汗が滲み、白い頬が熱を持って赤く染まる。ただドアを叩くだけのことなのに、体はひどく正直だった。
トントン。
緊張した手がドアを叩き、なんとも間の抜けた音が鳴った。
「あいあーい、ちょっと待ちな。んだ嬢ちゃん起きたのか。なんか顔赤くない?」
「ルナシアにとって、知り合いの部屋のドアを叩くのは大きな挑戦なんだよ。あまり突っ込まないであげてくれ」
ドアから顔を出したコギトは不思議そうな顔をしながらも、ふぅんとだけ返した。ルナシアの挑戦は大方成功を収める。あの間の抜けた音でも、ちゃんとドアは開いた。
「先生、嬢ちゃんだぜ。良かったな、ログアウトもせずにずっとソワソワしてたもんな」
「余計なことを言っていないでお客さんにお茶を淹れてくれ。あとで小遣いをやるから」
ケラケラと悪戯っぽく笑うコギトと対照的に、ロギアは呆れたような安心したような表情を浮かべる。その顔を目にした瞬間、ルナシアの肩からわずかに力が抜けた。
「目が覚めて良かった。大丈夫か? 気分は悪くないかい?」
「うん、大丈夫。心配かけてごめんなさい。それに、作戦も無視して……」
「謝るなら私の方だ。君の性質を知っていながら、一番大変な役割を押し付けてしまった。大人として不甲斐ないところを見せてしまったな」
ロギアの表情には、かすかな陰りがある。ルナシアの友人として、頼られるべき大人として、彼女を窮地に立たせてしまったことへの後悔が、言葉の端々に滲み出ていた。重い沈黙が部屋の隅に溜まりかけたそのとき、軽い足音がそれを吹き飛ばした。
「まあいいじゃねーの。勝ったんだぜ? 報酬も入ったんだし、もっと喜ぼうぜ」
お盆にルナシアのティーカップとロギアの珈琲、ついでに自分たちの飲み物を乗せたコギトが、ケラケラと軽快に笑う。ティーカップから立ち上る湯気が柔らかく揺れ、優しい香りが部屋に広がった。ルナシアにわざわざ選んでくれた紅茶で、以前出てきたものとは少し香りが違う。銀髪の下の狐耳がくんと動いた。
ティーカップに手を伸ばすと、じんわり温かく、熱いというほどでもない。その温度が指先からゆっくりと伝わり、張り詰めていたものを少しずつほどいていく。
「そうだな。勝ったんだ、それで良しとしよう。ルナシアも気にするな、大人の立つ瀬がなくなってしまう」
ロギアは手元で何やら操作をしているが、操作画面は本人以外には認識できない。少しすると、硬貨の詰まった袋が物質化し、テーブルの上に置かれた。
「個人報酬はシステムから振り込まれているよ。これはドルスから預かったパーティ報酬の分け前だ。ドルスは一足先にログアウトしているが、ルナシアによろしくと。最後まで合流しなかった《ペナテス》に文句を言っていたよ」
ロギアの表情は、晴れ時々曇り、と呼べるくらいには晴れてきていた。ドルスの名が出た途端、ルナシアは小さく目を瞬かせた。よろしくと、それだけの言葉。なのにカップを持つ手に、ルナシアはそっと力を込める。
ロギアの視線は、ルナシアの銀髪から覗く大きな狐耳へと向けられた。
「ルナシア、その耳について聞きたいんだが」
ルナシアがきょとんと瞬きをする。視線を向けられた狐耳がぴくりと揺れた。
「人型の耳はどうなっている?」
ルナシアが不思議そうに髪を分けて見せると、そこには人型の耳はなく、なめらかな皮膚があるばかりだった。
「やはり、か」
ロギアは腕を組み、少し考えるような表情をする。
「獣人系の種族の特徴として、適性が高いほど知覚能力が上昇する。代わりに不要なもの、つまり人型の耳は退化していくんだよ。だから人型の耳がどの程度残っているかで、おおよその適性が判断できる」
ルナシアがいくら触って確かめてみても、それらしいものは見つからない。人型の耳は退化しているどころか、その痕跡すらなかった。自分の体でありながら知らなかったその事実を、ルナシアはどこか他人事のような顔で受け取った。
「君の適性の高さは相当だな。有利に働くこともあるが、同時に対策が必要な弱点でもある。オルドは話していなかったみたいだな」
「是。一度に開示する情報量は絞っている。情報量の増加はルナシアには負担になるからね」
「ま、そこらへんは担当の《ペナテス》によって方針が違うからな。オレみてーに全部話すヤツもいれば、こいつみてーなヤツもいんよ」
自分をめぐる会話が続く中、ルナシアは温かいカップを両手で包んだまま、静かにそれを聞いていた。紅茶の湯気がゆらりと立ち上り、やがて部屋の空気に溶けて消えた。
「実はパーティ報酬を均等に分けられなくてな。余った金額は預けてもらえないだろうか?」
「私は全然、大丈夫だよ?」
「この先、人の多い街ではルナシアは少し大変になるだろう。明日ドルスと一緒に先の街へ行って、獣人用の耳栓を買ってくるよ。足止めしてしまって悪いが、少し待っていてくれ」
ロギアの言葉は穏やかで、しかし気遣いの重さが滲んでいた。ルナシアは一度だけ自分の狐耳に触れ、それからゆっくりと首を横に振った。
「そんな、わざわざ……私のことで二人に迷惑をかけたくないし、お金は使っちゃって大丈夫だよ?」
「気にするな。もともとパーティで動いている以上、全員が動ける状態でなければ意味がない。装備の調達は当然の準備だよ」
ロギアの言い方はあくまで事務的で、そこには敢えて情を乗せないような淡白さがあった。それでもルナシアには、その淡白さが気遣いの裏返しだということが、なんとなくわかった。カップの中で揺れる茶葉を見つめながら、小さく「……うん」とだけ返す。
「嬢ちゃんは素直に待ってりゃいいんだよ。先生もドルスもそういうの嫌いじゃないだろうし」
コギトがひょいと肩をすくめる。
「そうだ、ホレ。嬢ちゃん《魂相》出来たんだろ? そのお祝いってことにすりゃいいじゃん」
それを聞いて、ぽかんと間の抜けた表情で数度瞬きをする。記憶にない。それは、もっと落ち着いて考えようと思っていたもののはずだ。
「そうか、覚えていなかったのか。ルナシア、君はあの戦いの中で確かに《魂相》を発現させた。の九割を消費して、ね」
オルドの言葉に、カップを持つ手が震える。全身から血の気が引いていくのがわかる。
「九割……?」
確か《魂相エイドス 》はやり直しの効かない要素ではなかったか。それを、何故自分は記憶にないまま作ってしまったのか。
「君の、言語を介さない叫びが——《魂相エイドス 》作成の申請としてシステムに認識されたんだよ。そしてボクが許諾した」
「オルド、お前……」
流石のコギトも笑うことなく、呆れた表情でオルドを見ている。
「だが一つの能力に九割の《質料ヒュレー 》を消費したんだろう? かなり強力な能力になったんじゃないのか?」
「詳細は不明だ。魂相エイドス の詳細は言語化されない上、本人にしかわからないからね。わかっているのは名前だけだ」
《斬域制御ざんいきせいぎょ 》。それだけが、現在判明している——《質料ヒュレー 》の九割を消費して生み出された能力の、唯一の情報だった。
「能力名とルナシアの攻撃をこの目で見た限りだと、離れた相手へ攻撃が可能な能力だと予測。ただ消費された《質料ヒュレー 》から推察するに、まだ奥行きがある」
ルナシアは先ほどからぴたりと動きを止め、完全に静止している。著名な芸術家が作った彫像だと言われたら納得してしまうほど、微動だにしない。
「嬢ちゃんに同情するぜ……。残った一割は温存することを勧めるよ。せめて残りは慎重にな」
部屋にしばらく沈黙が落ちた。コギトは珍しく冗談を挟まず、ロギアも腕を組んだまま何も言わない。ルナシアは相変わらず、彫像のように静止していた。
「……うん」
ようやく絞り出されたのは、それだけだった。カップはいつの間にか両手でしっかりと抱えられていて、すっかりぬるくなった紅茶だけが、じんわりと掌に熱を返し続けている。
ロギアがひとつ息をついて、静かに口を開いた。
「まあ、勝てたんだ。今はそれで十分だよ」
コギトは何か言いかけて、やめた。代わりに自分のカップを持ち上げ、ルナシアに向けてひょいと傾ける。ルナシアが釣られるようにカップを持ち上げると、ロギアも小さく息をついて、それに倣った。
カチン、と軽い音が部屋に響く。
「嬢ちゃんの未来に幸あれ」
「是。その質問は三回目だよ、ルナシア。ボクが答えるのも三回目だ」
廊下はしんと静まり返っていて、ルナシアの息遣いだけが空気を揺らしていた。ルナシアは今、小さな一歩を踏み出そうとしている。小さな小さな一歩。今まで他者との交流の大部分をオルドに任せていたルナシアが、今はじめての挑戦をしようとしていた。
「いくよ、いくからね」
急所としての役割しか持たないはずの仮初の心臓が、早鐘を打ち続けている。握る手には汗が滲み、白い頬が熱を持って赤く染まる。ただドアを叩くだけのことなのに、体はひどく正直だった。
トントン。
緊張した手がドアを叩き、なんとも間の抜けた音が鳴った。
「あいあーい、ちょっと待ちな。んだ嬢ちゃん起きたのか。なんか顔赤くない?」
「ルナシアにとって、知り合いの部屋のドアを叩くのは大きな挑戦なんだよ。あまり突っ込まないであげてくれ」
ドアから顔を出したコギトは不思議そうな顔をしながらも、ふぅんとだけ返した。ルナシアの挑戦は大方成功を収める。あの間の抜けた音でも、ちゃんとドアは開いた。
「先生、嬢ちゃんだぜ。良かったな、ログアウトもせずにずっとソワソワしてたもんな」
「余計なことを言っていないでお客さんにお茶を淹れてくれ。あとで小遣いをやるから」
ケラケラと悪戯っぽく笑うコギトと対照的に、ロギアは呆れたような安心したような表情を浮かべる。その顔を目にした瞬間、ルナシアの肩からわずかに力が抜けた。
「目が覚めて良かった。大丈夫か? 気分は悪くないかい?」
「うん、大丈夫。心配かけてごめんなさい。それに、作戦も無視して……」
「謝るなら私の方だ。君の性質を知っていながら、一番大変な役割を押し付けてしまった。大人として不甲斐ないところを見せてしまったな」
ロギアの表情には、かすかな陰りがある。ルナシアの友人として、頼られるべき大人として、彼女を窮地に立たせてしまったことへの後悔が、言葉の端々に滲み出ていた。重い沈黙が部屋の隅に溜まりかけたそのとき、軽い足音がそれを吹き飛ばした。
「まあいいじゃねーの。勝ったんだぜ? 報酬も入ったんだし、もっと喜ぼうぜ」
お盆にルナシアのティーカップとロギアの珈琲、ついでに自分たちの飲み物を乗せたコギトが、ケラケラと軽快に笑う。ティーカップから立ち上る湯気が柔らかく揺れ、優しい香りが部屋に広がった。ルナシアにわざわざ選んでくれた紅茶で、以前出てきたものとは少し香りが違う。銀髪の下の狐耳がくんと動いた。
ティーカップに手を伸ばすと、じんわり温かく、熱いというほどでもない。その温度が指先からゆっくりと伝わり、張り詰めていたものを少しずつほどいていく。
「そうだな。勝ったんだ、それで良しとしよう。ルナシアも気にするな、大人の立つ瀬がなくなってしまう」
ロギアは手元で何やら操作をしているが、操作画面は本人以外には認識できない。少しすると、硬貨の詰まった袋が物質化し、テーブルの上に置かれた。
「個人報酬はシステムから振り込まれているよ。これはドルスから預かったパーティ報酬の分け前だ。ドルスは一足先にログアウトしているが、ルナシアによろしくと。最後まで合流しなかった《ペナテス》に文句を言っていたよ」
ロギアの表情は、晴れ時々曇り、と呼べるくらいには晴れてきていた。ドルスの名が出た途端、ルナシアは小さく目を瞬かせた。よろしくと、それだけの言葉。なのにカップを持つ手に、ルナシアはそっと力を込める。
ロギアの視線は、ルナシアの銀髪から覗く大きな狐耳へと向けられた。
「ルナシア、その耳について聞きたいんだが」
ルナシアがきょとんと瞬きをする。視線を向けられた狐耳がぴくりと揺れた。
「人型の耳はどうなっている?」
ルナシアが不思議そうに髪を分けて見せると、そこには人型の耳はなく、なめらかな皮膚があるばかりだった。
「やはり、か」
ロギアは腕を組み、少し考えるような表情をする。
「獣人系の種族の特徴として、適性が高いほど知覚能力が上昇する。代わりに不要なもの、つまり人型の耳は退化していくんだよ。だから人型の耳がどの程度残っているかで、おおよその適性が判断できる」
ルナシアがいくら触って確かめてみても、それらしいものは見つからない。人型の耳は退化しているどころか、その痕跡すらなかった。自分の体でありながら知らなかったその事実を、ルナシアはどこか他人事のような顔で受け取った。
「君の適性の高さは相当だな。有利に働くこともあるが、同時に対策が必要な弱点でもある。オルドは話していなかったみたいだな」
「是。一度に開示する情報量は絞っている。情報量の増加はルナシアには負担になるからね」
「ま、そこらへんは担当の《ペナテス》によって方針が違うからな。オレみてーに全部話すヤツもいれば、こいつみてーなヤツもいんよ」
自分をめぐる会話が続く中、ルナシアは温かいカップを両手で包んだまま、静かにそれを聞いていた。紅茶の湯気がゆらりと立ち上り、やがて部屋の空気に溶けて消えた。
「実はパーティ報酬を均等に分けられなくてな。余った金額は預けてもらえないだろうか?」
「私は全然、大丈夫だよ?」
「この先、人の多い街ではルナシアは少し大変になるだろう。明日ドルスと一緒に先の街へ行って、獣人用の耳栓を買ってくるよ。足止めしてしまって悪いが、少し待っていてくれ」
ロギアの言葉は穏やかで、しかし気遣いの重さが滲んでいた。ルナシアは一度だけ自分の狐耳に触れ、それからゆっくりと首を横に振った。
「そんな、わざわざ……私のことで二人に迷惑をかけたくないし、お金は使っちゃって大丈夫だよ?」
「気にするな。もともとパーティで動いている以上、全員が動ける状態でなければ意味がない。装備の調達は当然の準備だよ」
ロギアの言い方はあくまで事務的で、そこには敢えて情を乗せないような淡白さがあった。それでもルナシアには、その淡白さが気遣いの裏返しだということが、なんとなくわかった。カップの中で揺れる茶葉を見つめながら、小さく「……うん」とだけ返す。
「嬢ちゃんは素直に待ってりゃいいんだよ。先生もドルスもそういうの嫌いじゃないだろうし」
コギトがひょいと肩をすくめる。
「そうだ、ホレ。嬢ちゃん《魂相》出来たんだろ? そのお祝いってことにすりゃいいじゃん」
それを聞いて、ぽかんと間の抜けた表情で数度瞬きをする。記憶にない。それは、もっと落ち着いて考えようと思っていたもののはずだ。
「そうか、覚えていなかったのか。ルナシア、君はあの戦いの中で確かに《魂相》を発現させた。の九割を消費して、ね」
オルドの言葉に、カップを持つ手が震える。全身から血の気が引いていくのがわかる。
「九割……?」
確か《魂相
「君の、言語を介さない叫びが——《魂相
「オルド、お前……」
流石のコギトも笑うことなく、呆れた表情でオルドを見ている。
「だが一つの能力に九割の《質料
「詳細は不明だ。
《斬域制御
「能力名とルナシアの攻撃をこの目で見た限りだと、離れた相手へ攻撃が可能な能力だと予測。ただ消費された《質料
ルナシアは先ほどからぴたりと動きを止め、完全に静止している。著名な芸術家が作った彫像だと言われたら納得してしまうほど、微動だにしない。
「嬢ちゃんに同情するぜ……。残った一割は温存することを勧めるよ。せめて残りは慎重にな」
部屋にしばらく沈黙が落ちた。コギトは珍しく冗談を挟まず、ロギアも腕を組んだまま何も言わない。ルナシアは相変わらず、彫像のように静止していた。
「……うん」
ようやく絞り出されたのは、それだけだった。カップはいつの間にか両手でしっかりと抱えられていて、すっかりぬるくなった紅茶だけが、じんわりと掌に熱を返し続けている。
ロギアがひとつ息をついて、静かに口を開いた。
「まあ、勝てたんだ。今はそれで十分だよ」
コギトは何か言いかけて、やめた。代わりに自分のカップを持ち上げ、ルナシアに向けてひょいと傾ける。ルナシアが釣られるようにカップを持ち上げると、ロギアも小さく息をついて、それに倣った。
カチン、と軽い音が部屋に響く。
「嬢ちゃんの未来に幸あれ」
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