第26話 朝のさよなら
ー/ーその朝、美奈子はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。
部屋は静かだった。
隣を見る。
橘はまだ眠っている。
規則正しい寝息。
長い時間を一緒に過ごしてきた夜の音。
美奈子はしばらくその顔を見ていた。
穏やかな表情。
怒っている顔ではない。
苦しそうでもない。
ただ、いつもの橘だった。
そのことが、胸に少しだけ痛い。
美奈子はゆっくりベッドから降りた。
キッチンへ行く。
コーヒーを淹れる。
豆を挽く音。
お湯を注ぐ音。
朝の静かな音が、部屋に広がる。
カップを二つ用意する。
橘の分も。
それが当たり前だったから。
コーヒーの香りが広がる頃、寝室のドアが開いた。
橘が出てくる。
少し寝ぼけた顔。
「早いな」
「うん」
美奈子は小さく笑う。
橘は椅子に座る。
テーブルの上のコーヒーを見る。
「ありがとう」
カップを持ち、一口飲む。
少し苦い。
橘は目を覚ますように息を吐いた。
しばらく二人は何も言わなかった。
朝の静かな時間。
窓の外では、通勤の車の音が聞こえ始めている。
美奈子はカップを持ったまま言った。
「橘」
橘は顔を上げる。
「うん?」
その目は、落ち着いていた。
昨日の夜のことを、覚えている。
でも、何も急かさない。
美奈子はゆっくり言う。
「私」
その言葉を出すと、胸の奥が少しだけ震える。
それでも続ける。
「園田さんと」
一瞬だけ間が空く。
橘は黙っている。
逃げない目。
美奈子は言った。
「もう少しちゃんと向き合いたい」
その言葉を言ったあと、部屋は静かになった。
時計の秒針が聞こえる。
橘はすぐには何も言わなかった。
カップを持つ。
コーヒーを一口飲む。
それから小さく息を吐いた。
「そうか」
怒った声ではない。
ただ、静かな声。
橘は窓の外を見る。
朝の光が少し強くなっている。
「昨日さ」
橘が言う。
美奈子は顔を上げる。
「ななし行ったんだ」
その言葉に、美奈子は少し驚いた。
橘は少し笑った。
「一人で」
美奈子は何も言えない。
橘は続ける。
「いい店だな」
その言い方が、少し優しい。
橘はカップを置く。
テーブルに小さな音が落ちる。
「美奈子」
「うん」
橘は美奈子をまっすぐ見た。
その目は穏やかだった。
「ちゃんと選べ」
その言葉は短かった。
でも、重かった。
橘は続ける。
「中途半端が一番よくない」
美奈子の胸が少しだけ痛む。
橘は少し笑った。
「俺も」
その笑いは、少しだけ寂しかった。
「ちゃんと前に進むから」
美奈子は何も言えなかった。
ただ、小さく頷く。
長い時間を一緒に過ごしてきた。
その時間は消えない。
でも、人の関係は形を変える。
それは終わりではなく、
次の時間の始まり
なのかもしれない。
橘は立ち上がる。
ネクタイを手に取る。
「仕事行く」
「うん」
玄関のドアの前で、橘は振り返った。
「美奈子」
「うん?」
橘は少しだけ笑った。
「幸せになれよ」
その言葉を残して、ドアは静かに閉まった。
部屋に、コーヒーの香りだけが残っていた。
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