第20話 幸せになれる?
ー/ーその夜、美奈子が家に帰ったとき、リビングの灯りはついていなかった。
玄関のドアを閉める。
静かな部屋。
時計の音だけが聞こえる。
橘はまだ帰っていない。
美奈子は靴を脱いで、ゆっくり部屋に入った。
コートを椅子にかける。
キッチンで水を一杯飲む。
冷たい水が喉を通る。
それでも、胸の奥の温度はまだ残っていた。
代官山の夜。
園田の声。
帰したくない夜ですね。
その言葉を思い出すと、胸の奥が少しだけ速くなる。
美奈子は首を小さく振った。
考えすぎだ。
ただ飲みに行っただけ。
それだけのこと。
自分にそう言い聞かせる。
そのとき、玄関の鍵の音がした。
ガチャ。
ドアが開く。
橘だった。
「ただいま」
「おかえり」
美奈子はリビングから声をかける。
橘はコートを脱ぎながら言う。
「まだ起きてたんだ」
「うん」
橘はネクタイを緩めてソファに座る。
少し疲れた顔。
「飲んできた?」
橘が聞く。
美奈子は少しだけ間を置いて答える。
「うん」
橘はそれ以上何も言わない。
ネクタイを外してテーブルに置く。
美奈子はキッチンへ行く。
グラスに水を入れる。
「飲む?」
「もらう」
橘はグラスを受け取る。
一口飲む。
しばらく沈黙が続く。
テレビもついていない。
夜の部屋は静かだ。
橘がふと聞く。
「ななし?」
美奈子は少しだけ息を止めた。
「今日は違う」
「へえ」
橘はグラスを回す。
氷は入っていない。
水だけ。
その透明な水を見ながら言う。
「誰と?」
その質問は、軽い声だった。
でも。
逃げ場がなかった。
美奈子は橘を見る。
橘の表情は変わらない。
怒っているわけでもない。
疑っているわけでもない。
ただ、普通に聞いている。
それが逆に答えづらい。
「園田さん」
美奈子は言った。
橘は小さく頷く。
「そっか」
それだけ。
それ以上は何も言わない。
でも、その沈黙が少し長くなる。
橘はグラスを置く。
テーブルの上に小さな音が落ちる。
そして言った。
「楽しかった?」
美奈子は一瞬言葉を失う。
答えは簡単だ。
楽しかった。
でも、その言葉を言うと何かが変わる気がした。
橘は美奈子を見ている。
逃げない視線。
美奈子はゆっくり答える。
「楽しかった」
その言葉を聞いたあと、橘は少しだけ笑った。
怒った笑いではない。
どこか、納得したような笑い。
「そうか」
それだけ言う。
沈黙。
橘はソファの背もたれに体を預ける。
天井を見る。
それから言った。
「美奈子」
「うん」
橘は少しだけ考えてから言った。
「好きになった?」
その言葉は、驚くほど静かだった。
でも、部屋の空気が一瞬で変わる。
美奈子の心臓が強く鳴る。
橘は続けない。
ただ、待っている。
怒っていない。
責めてもいない。
ただ、
答えを待っている。
恋というものは、
秘密のまま続くこともある。
でも、
誰かが気づいた瞬間、
その恋は、
もう同じ形ではいられなくなる。
美奈子はまだ、答えを言えなかった。
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