第13話 触れてはいけない距離
ー/ー店の中は、いつもより静かだった。
カウンターの奥で、常連らしい二人が小さな声で話している。
グラスの音。
氷がゆっくり溶ける音。
そして、低く流れるピアノ。
ななしの夜は、いつも時間が少しだけ遅い。
私はグラスを持ったまま、隣にいる園田を横目で見た。
距離は近い。
本当に近い。
カウンターに肘をつくと、腕が少し触れそうになる。
でも、触れない。
ほんの数センチ。
その数センチが、妙に意識される。
「今日は」
園田が言う。
「はい?」
「来てくれる気がしてました」
私は思わず笑う。
「どうしてですか」
園田はグラスを見つめながら答えた。
「なんとなく」
曖昧な答え。
でも、嘘ではない気がした。
私はグラスの氷をゆっくり回す。
カラン。
小さな音。
その音が、やけに大きく聞こえる。
「園田さんって」
私は言う。
「はい」
「不思議な人ですね」
園田は少しだけ笑った。
「よく言われます」
「自覚あるんですか」
「少し」
私はその答えに、また笑った。
会話は多くない。
でも、沈黙が重くならない。
むしろ、その沈黙が心地いい。
この距離。
この時間。
この店。
全部が、少しだけ特別に感じる。
「美奈子さん」
園田が言う。
私は顔を上げる。
「はい?」
園田は少しだけ迷うようにしてから言った。
「橘さんとは、長いんですか」
私は一瞬だけ言葉を止めた。
質問としては普通だ。
でも、その裏にある意味が、少しだけわかる。
「そうですね」
私はグラスを見つめながら言う。
「長いです」
園田はそれ以上聞かなかった。
それが、少しありがたかった。
もし「うまくいってるんですか」とか、そういうことを聞かれたら、私はうまく答えられなかったかもしれない。
沈黙が落ちる。
でも、嫌じゃない。
園田がゆっくり言う。
「僕は」
私は顔を上げる。
園田はグラスを見つめたまま言った。
「人の関係って、急に変わるものじゃないと思ってます」
私は黙って聞く。
「少しずつ、形が変わる」
その言葉が、胸に残る。
まるで、私のことを見ているみたいだった。
「でも」
園田は続ける。
「その変わる瞬間って、意外と静かですよね」
私は小さく頷く。
「そうかもしれません」
私たちは同時にグラスに口をつけた。
氷が揺れる。
カラン。
その音が、静かな夜に溶ける。
私はふと、手をカウンターに置いた。
そのとき。
園田の手も、同じ場所にあった。
ほんの数センチ。
触れそう。
触れない。
その距離に、私は一瞬だけ息を止める。
園田も、気づいている。
でも、動かない。
触れようと思えば触れられる。
でも、どちらも動かない。
時間が、ほんの少しだけ長くなる。
私はグラスを持ち直す。
距離が戻る。
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が少しだけ速くなる。
園田が小さく笑った。
「危ないですね」
「何がですか」
私は聞く。
園田は少しだけ肩をすくめた。
「距離」
私は思わず笑う。
「園田さんが言うんですか」
「僕が言います」
その言い方が、少しだけ優しい。
私はグラスを見つめながら言う。
「でも」
「はい」
「嫌じゃなかったです」
言った瞬間、少し恥ずかしくなる。
でも、嘘じゃない。
園田は少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「僕もです」
たったそれだけ。
でも、その言葉で胸の奥が静かに温かくなる。
恋は、
触れた瞬間に始まるわけじゃない。
むしろ、
触れなかった瞬間
のほうが、心に残ることがある。
その夜、私たちは手を繋がなかった。
キスもしなかった。
ただ、同じカウンターに座って、
同じ夜を過ごした。
それだけ。
それだけなのに、
帰り道、私は何度も思い出してしまった。
あの数センチの距離を。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。