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9.じゃあ男子が好きなの?

ー/ー



 手元の問題が一区切りついたのか、一旦シャープペンシルを置いた翠に朱音が問いかけた。

「あたし去年からずっと言ってるよ」
「私も伸ばさないってずっと言ってる」

 翠は朱音をあしらいながら、教科書と問題集を交互にながめている。何度も同じページをめくったり戻したりしているので「どうしたの」と朱音がたずねると、うーんと翠は悩むような声を出した。

「ここ苦手なんだよね……。何回やっても答えが合わない」
「どこ?」

 翠にしてはめずらしい言葉に、朱音は教科書をのぞきこんだ。

「時差計算のところ。考えてると頭のなかごちゃごちゃしてくる」
「あたし、緯度と経度も正直まだよくわかってないよ」
「…………」

 さすがにそれはわかってくれ。そう言いかけたのを飲み込んで、翠はもう一度問題に取り組むことにする。

「またそういう顔であたしのこと見るー!」
「えっ」
「今なんでそんなこともわからないんだって思ったでしょ」

 まさか顔に出ていたとは。馬鹿にするつもりはけっしてなかったのだが、朱音が傷ついていたのなら話はべつだ。翠は反省しつつ弁明する。

「いや、得意不得意は人それぞれだと思うし」
「あたしの得意なことってなに」

 えーっと、と翠は必死に頭を回転させる。

「…… あ、そうだ、ほら、朱音は朝強いって言ってたじゃん。私は朝弱いからうらやま……」
「勉強は」

 じゃあないよ、とうっかり言いそうになるのを翠はまた飲み込む。

「あの…… 朱音は…… テストの点数はそんなに良くないかもしれないけど、授業中に私語はしないし、居眠りもしないし」
「そういう気の使い方、逆に疲れる」

 ではどうしろというのか。テーブルに潰れる朱音になかば呆れながら翠は「ちゃんと長所だよ」と返して勉強を再開させた。



 定期試験の一週間前は、部活動が禁止になる。空は美術部の部室として使っている多目的教室に置きっぱなしだったスケッチブックをかばんに入れてから生徒玄関に向かった。下駄箱の前で、空は足を止めた。空の真下の下駄箱から靴を出し入れしていた彼女は、空に気づくと彼の邪魔にならないように少し場所をずれて靴を地面に投げた。

「どうも」
「いいえ。勉強してる?」

 空が軽く礼を言うと、彼女―― 筒井紫(つついゆかり)はそんなふうに返してくるとともに空にたずねた。それが雑談とはまったくもって違う、説教、あるいは脅迫にも似た響きを帯びていたので空はややひきつった笑みを浮かべた。

「あー…… うん、まあ、ぼちぼち?」

 そう、と紫は目をすがめ、「ならいいけど」と口にした。

「テスト直前になって助けてくれって泣きつかれてもこっちもこっちで手いっぱいだから、頼ってこないでね」

 事前に釘を刺されてしまえば空もなすすべがない。

「うちの妹もね、最近たまにわからないところがあるみたいで私に聞いてくるんだけど、全部にうまく答えられるわけじゃないから、ときどき困る。…… なんか、たまにだれかさんの妹に勉強教えてるみたいだし」

 横目でにらまれて、空は申し訳なさそうに苦笑いした。

「うちの子がご迷惑を……。それで、紫の妹はなにがわかんないの?」
「地理。特に時差の計算が苦手みたいで。私も説明するの苦手だから、あの子もあんまりわかってくれなくて」
「紫の妹、野球部だよね? 黒田に教えてもらったりしないのかな」

 生徒玄関を出ると、何人かの同級生たちが空に声をかけた。空が手を振って応える横で、同級生たちはついでのように紫にも声をかけてから帰っていく。

「後輩からは聞きにくいんじゃないの。…… 翠、野球部に女子一人だし」
「それじゃあ、俺から黒田にちょっと聞いてみようか? 俺もよく教えてもらうんだけど、すごくわかりやすくて――」
「え、あんた黒田くんに勉強教わってたの? 教えてもらってその…… あの成績なの?」
「う…… うるさいな」

 空は指摘されて自身の成績の悪さを思い出したのか、顔をしかめた。紫も黒田ほどではないが成績は良い方なので空の勉強を見ることが過去に何度かあったが、びっくりするほど理解できていないので教えるのにひどく疲れてしまった。そもそも紫自身教えるのがあまり得意ではない。黒田は得意なんだろう。
 風が吹いた。校舎の周りに植えられた松の木がざわざわと震えた。

「髪、ずいぶん伸びたよね」

 紫が乱れた髪を押さえて木を見上げていると、横で空が言った。

「紫、前は髪すごい短かったじゃん。なんで伸ばしたの? 野球やめたから?」
「…… 関係ないでしょ」
「いや、なんか涼とかが話してたよ。なんでかなって」
「…………」

 紫が野球をやっていたのは、もう三年も前の話になる。野球は大好きだったし、今でもテレビで高校野球を観るくらいには好きだが、もう一度プレイヤーになろうとは思わない。

 六年生になってすぐのことだった。親戚同士で集まったときに、偶然会ったはとこが紫と翠に言ったのだ。「なんだか男の子みたいだね」と。野球をはじめたときあたりから何回も言われた言葉だったし、翠の方は気にしていないようだったが、紫にとってはひどく破壊力のある言葉であった。

(私はあのとき失恋したのかもしれない)

 その事実に気づいたのは野球をやめようと決めてしばらく経ったあとだった。

「それこそあんたらには関係ない」

 そっけなく言い放つと、空が「関係ない、ねえ」と妙に含みのある口調で言った。かんに障る。鋭い視線でもってにらみつけると、空は少しだけひるんだ様子で口を開く。

「あいつ、たぶん紫のこと気になってるんだと思うけどなあ」

 紫は眉間にしわを寄せ、あからさまに不快だという顔を隠さずにしてみせた。

「あまりいい気分じゃない」
「どうして?」

 小学校のころから合わせて、自分に対して好意を持ってくれている人物がいる、という話は何度か耳にしたことがある。そのいずれもが、周囲になじめない紫をミステリアスだとかほかと違って大人っぽいだとかいうものだった。

「…… あいつはたぶん、周りから浮いてて、ほかと違う私が目についてしょうがないってだけ。べつに本当に好きとかじゃない」

 きっぱり言い切ると空は「ふうん」とつぶやく。

「それでも気になってることに違いはないんじゃない?」
「うれしくない」

 もう一度はっきり言うと、空は口を閉ざした。

「あんただって、女子が顔だけは良いって話してたけど」

 紫の皮肉っぽい言葉に空は「なんだそれ」と言って笑った。ちょうど小学生たちが下校するのと同じ時間帯なのか、ふたりのすぐ近くをランドセルを背負った小学生たちが駆け抜けていく。

「―― 俺、べつに女子は好きじゃないからなあ……」
「なにそれ」

 今度は紫が笑った。

「じゃあ男子が好きなの?」

 空が女子は、などと言ったのがおかしくて、からかうつもりで言いながら彼の顔を見ると、空の表情は思っていたようなものではなかった。苦々しげとでも言おうか、まるでなにか言いたいことがあるのにそれを我慢しているかのような顔だった。

「―― そうだよ、って言ったら紫はどうする?」




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 手元の問題が一区切りついたのか、一旦シャープペンシルを置いた翠に朱音が問いかけた。
「あたし去年からずっと言ってるよ」
「私も伸ばさないってずっと言ってる」
 翠は朱音をあしらいながら、教科書と問題集を交互にながめている。何度も同じページをめくったり戻したりしているので「どうしたの」と朱音がたずねると、うーんと翠は悩むような声を出した。
「ここ苦手なんだよね……。何回やっても答えが合わない」
「どこ?」
 翠にしてはめずらしい言葉に、朱音は教科書をのぞきこんだ。
「時差計算のところ。考えてると頭のなかごちゃごちゃしてくる」
「あたし、緯度と経度も正直まだよくわかってないよ」
「…………」
 さすがにそれはわかってくれ。そう言いかけたのを飲み込んで、翠はもう一度問題に取り組むことにする。
「またそういう顔であたしのこと見るー!」
「えっ」
「今なんでそんなこともわからないんだって思ったでしょ」
 まさか顔に出ていたとは。馬鹿にするつもりはけっしてなかったのだが、朱音が傷ついていたのなら話はべつだ。翠は反省しつつ弁明する。
「いや、得意不得意は人それぞれだと思うし」
「あたしの得意なことってなに」
 えーっと、と翠は必死に頭を回転させる。
「…… あ、そうだ、ほら、朱音は朝強いって言ってたじゃん。私は朝弱いからうらやま……」
「勉強は」
 じゃあないよ、とうっかり言いそうになるのを翠はまた飲み込む。
「あの…… 朱音は…… テストの点数はそんなに良くないかもしれないけど、授業中に私語はしないし、居眠りもしないし」
「そういう気の使い方、逆に疲れる」
 ではどうしろというのか。テーブルに潰れる朱音になかば呆れながら翠は「ちゃんと長所だよ」と返して勉強を再開させた。
 定期試験の一週間前は、部活動が禁止になる。空は美術部の部室として使っている多目的教室に置きっぱなしだったスケッチブックをかばんに入れてから生徒玄関に向かった。下駄箱の前で、空は足を止めた。空の真下の下駄箱から靴を出し入れしていた彼女は、空に気づくと彼の邪魔にならないように少し場所をずれて靴を地面に投げた。
「どうも」
「いいえ。勉強してる?」
 空が軽く礼を言うと、彼女―― 筒井紫(つついゆかり)はそんなふうに返してくるとともに空にたずねた。それが雑談とはまったくもって違う、説教、あるいは脅迫にも似た響きを帯びていたので空はややひきつった笑みを浮かべた。
「あー…… うん、まあ、ぼちぼち?」
 そう、と紫は目をすがめ、「ならいいけど」と口にした。
「テスト直前になって助けてくれって泣きつかれてもこっちもこっちで手いっぱいだから、頼ってこないでね」
 事前に釘を刺されてしまえば空もなすすべがない。
「うちの妹もね、最近たまにわからないところがあるみたいで私に聞いてくるんだけど、全部にうまく答えられるわけじゃないから、ときどき困る。…… なんか、たまにだれかさんの妹に勉強教えてるみたいだし」
 横目でにらまれて、空は申し訳なさそうに苦笑いした。
「うちの子がご迷惑を……。それで、紫の妹はなにがわかんないの?」
「地理。特に時差の計算が苦手みたいで。私も説明するの苦手だから、あの子もあんまりわかってくれなくて」
「紫の妹、野球部だよね? 黒田に教えてもらったりしないのかな」
 生徒玄関を出ると、何人かの同級生たちが空に声をかけた。空が手を振って応える横で、同級生たちはついでのように紫にも声をかけてから帰っていく。
「後輩からは聞きにくいんじゃないの。…… 翠、野球部に女子一人だし」
「それじゃあ、俺から黒田にちょっと聞いてみようか? 俺もよく教えてもらうんだけど、すごくわかりやすくて――」
「え、あんた黒田くんに勉強教わってたの? 教えてもらってその…… あの成績なの?」
「う…… うるさいな」
 空は指摘されて自身の成績の悪さを思い出したのか、顔をしかめた。紫も黒田ほどではないが成績は良い方なので空の勉強を見ることが過去に何度かあったが、びっくりするほど理解できていないので教えるのにひどく疲れてしまった。そもそも紫自身教えるのがあまり得意ではない。黒田は得意なんだろう。
 風が吹いた。校舎の周りに植えられた松の木がざわざわと震えた。
「髪、ずいぶん伸びたよね」
 紫が乱れた髪を押さえて木を見上げていると、横で空が言った。
「紫、前は髪すごい短かったじゃん。なんで伸ばしたの? 野球やめたから?」
「…… 関係ないでしょ」
「いや、なんか涼とかが話してたよ。なんでかなって」
「…………」
 紫が野球をやっていたのは、もう三年も前の話になる。野球は大好きだったし、今でもテレビで高校野球を観るくらいには好きだが、もう一度プレイヤーになろうとは思わない。
 六年生になってすぐのことだった。親戚同士で集まったときに、偶然会ったはとこが紫と翠に言ったのだ。「なんだか男の子みたいだね」と。野球をはじめたときあたりから何回も言われた言葉だったし、翠の方は気にしていないようだったが、紫にとってはひどく破壊力のある言葉であった。
(私はあのとき失恋したのかもしれない)
 その事実に気づいたのは野球をやめようと決めてしばらく経ったあとだった。
「それこそあんたらには関係ない」
 そっけなく言い放つと、空が「関係ない、ねえ」と妙に含みのある口調で言った。かんに障る。鋭い視線でもってにらみつけると、空は少しだけひるんだ様子で口を開く。
「あいつ、たぶん紫のこと気になってるんだと思うけどなあ」
 紫は眉間にしわを寄せ、あからさまに不快だという顔を隠さずにしてみせた。
「あまりいい気分じゃない」
「どうして?」
 小学校のころから合わせて、自分に対して好意を持ってくれている人物がいる、という話は何度か耳にしたことがある。そのいずれもが、周囲になじめない紫をミステリアスだとかほかと違って大人っぽいだとかいうものだった。
「…… あいつはたぶん、周りから浮いてて、ほかと違う私が目についてしょうがないってだけ。べつに本当に好きとかじゃない」
 きっぱり言い切ると空は「ふうん」とつぶやく。
「それでも気になってることに違いはないんじゃない?」
「うれしくない」
 もう一度はっきり言うと、空は口を閉ざした。
「あんただって、女子が顔だけは良いって話してたけど」
 紫の皮肉っぽい言葉に空は「なんだそれ」と言って笑った。ちょうど小学生たちが下校するのと同じ時間帯なのか、ふたりのすぐ近くをランドセルを背負った小学生たちが駆け抜けていく。
「―― 俺、べつに女子は好きじゃないからなあ……」
「なにそれ」
 今度は紫が笑った。
「じゃあ男子が好きなの?」
 空が女子は、などと言ったのがおかしくて、からかうつもりで言いながら彼の顔を見ると、空の表情は思っていたようなものではなかった。苦々しげとでも言おうか、まるでなにか言いたいことがあるのにそれを我慢しているかのような顔だった。
「―― そうだよ、って言ったら紫はどうする?」