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(五)

ー/ー



【注意】本文中に、流血をともなう残酷描写が出てきます。ご注意ください。



 「一晩だけ、間借りするのをお許しください」
 廟の門扉は錆びついており、強風に煽られ開いたり閉じたりするたびに耳障りな音をたてるので、傍にあった大きな石を内側から立てかける。
 打ち捨てられて久しいのか、堂の中を覗くと、床や壁、天井は蜘蛛の巣や鳥の糞にまみれていたが、扉の隙間から雪が吹き込むせいか、手前の方の床だけは、水で洗い流されたかのようにきれいになっている。
 堂の奥、一段高くなった場所には、かつては眩いばかりの黄金で飾られていたのであろう鎧を着た山神が、威風堂々と座っていた。
 両脇に控える判官と小鬼の足元には、いつのものか分からぬ色あせた紙銭が渦高く積まれ、吹きつける風に舞い上がっては落ち、山脈の如き様相を呈している。
 あたりには民家もなく、守り番がいるような気配もない。
 (ここならば、寒さはしのげそうだ)
 火を起こすわけにはいかないが、扉をきっちりと閉めて鍵をかけ、濡れて重くなった上衣を脱ぎ、布団を敷いて潜り込めば、それなりに暖はとれる。
 すっかり冷えてしまった瓢箪の酒を取り出し、まだほのかに熱の残る牛肉を頬張るうちに、心地よい微睡みが襲ってくる。
 (明日には、雪もやむとよいが)
 ときおり北風が門扉や壁に吹き付ける音が、だんだんと遠ざかる。
 頬杖をついていたはずの顔はずるずると布団に吸い寄せられ、瞼が降り、静かな暗闇に意識が沈み、
 (……何の音だ?)
 気が遠のいたのは、ほんの一瞬のことだった。
 何か小さく、乾いたものがはじけるような異質な音が聞こえた気がして、寒さも忘れ、跳ね起きる。
 立ち尽くして耳をすませば、どうやらその音は西の方向から聞こえて来るらしい――西の方向にあるのは、馬草場だ。
 「あれは……!」
 慌てて明かり取りの窓から外を覗いた林冲は、思いもよらぬ光景に目を見張った。
 馬草場が、燃えている。
 火事などという生易しいものではない。風にあおられた炎は、倉庫の中で風雪をしのぎ乾ききっていた馬草を次々と呑み込み、炎帝の怒りか朱雀の飛翔かと見紛うほどに真っ赤に燃え盛っている。
 宵闇にほのかに浮かび上がる白銀の粉雪は、あれよという間に漆黒の煙に巻き込まれ、空に昇った煙は分厚い雲を作り上げる。
 (種火は完全に消えていた……なのに何故……!)
 傍らに投げ出していた槍を手に、林冲は疾風の如き勢いで門扉を開けようとして――そして、立ち止まった。
 「うん? この扉、開かないな……鍵がかかっているんだろうか」
 誰かが、目の前の門扉をがたがたと押している。
 そう分かった瞬間、林冲は息を押し殺し、ゆっくりと扉に背を付け、耳をそばだてた。
 ぎしりと雪を踏みしめる足音は、三人分。
 炎のおかげで明るくなった外で、門扉の前にたむろす影も、三人。
 「いやはや、思った以上にこの計略、うまくいきましたな」
 上ずったような声は、獄卒頭の声。
 「それもこれも、典獄殿と獄卒頭殿のご協力があってこそ。東京へ帰ったら太尉殿に上奏し、お二人を必ずや高官に推挙いたしましょう」
 聞き覚えのない、猫なで声。
 「それはもったいないことで……へへ、しかし、あの様子じゃ、林冲もとうに焼け死にましたでしょうなあ」
 そして、典獄の言葉に続いて、聞こえてきたのは。
 「これでようやく、張教頭も諦めるだろうな。あの男、俺たちだけでなく、俺たちの息のかかった者どもからも、林冲は死んだと何度も言われているのに、いっこうに信じようとせず、娘を家の外に出しもしない。おかげで高衙内様はますますふさぎ込み、患いも重くなる一方だ。見かねた高太尉に命じられ、俺たちもはるばる滄州まで来たが、あんたたちが協力してくれたので、こうしてうまいこと林冲を葬ることが出来た。これで衙内様の患いもすっかりよくなることだろう」
 「もちろんですとも。私、馬草場に忍び込み、十数本もの松明で一気に草に火をつけたのです。幸い、倉庫の中は乾いており、ご覧のように、よく燃えております……もう、ほとんど焼け落ちたかと」
 「例えあの業火から逃げ延びたとしても、馬草場に火事を出したとなれば、死罪のほかはない」
 「そろそろ、戻りましょう」
 「いや、馬草場に行く。火の手が収まった後、林冲の骨の二つか三つ、拾って高太尉と衙内様に届ければ、お二人もご安心なさるだろうし、俺たちも、あんたたちも、いっそう褒められる。なあ、冨安」
 淡々と、何の情もない声だった。
 喜びも、怒りも、悲しみも、嘲笑さえも感じられぬ硬い声だった。
 (情すらも、捨てたか)
 小屋が潰れたのを見たとき、どこまでも己には運がないと思ったが、こうなってはむしろ、己は幸運だったのだ。
 小屋が潰れていなければ、あの業火の中で、焼け死んでいた。裏切り者の顔を見ることもなく、妻の待つ故郷へ戻ることもなく、死してのちも恨むべき男に復讐を果たすこともなく。
 (生きては帰さぬ、陸謙――!)
 体の内を巡る血潮が、馬草場を焼く炎よりもなお熱く燃える。
 頭の天辺から爪先まで、武者震いが走る。
 扉をふさいでいた大石を左手の一振りで払いのけ、右手に槍を構え、
 「貴様ら、どこへも行かせぬぞ!」
 大音声とともに引き開けた門扉の向こうで、あまりの驚愕に声も出ず足も動かずただただ恐怖に目を見開く男たちが凍り付いている。
 獄卒頭の大きく開いた口がどんな言葉を叫ぼうとしていたのかは、もうわからない。
 真白な雪の中に、目に痛いほどの赤が散る。
 「あ……あ…………」
 ようやく動くようになった足をもつれさせながら、冨安が後ずさる。
 何かを掴むように体をひねり手を伸ばしたその背に、槍先を叩き込む。
 ずぐり、と肉を貫く音に続いて、ここまで炎に耐えていた馬草場の倉庫の屋根が焼け落ちたのであろう轟音が響く。
 銀色の大地に染みを作った二つの肉塊を跨ぎ、素早く身を翻した男の肩に手を伸ばす。
 「……よう、豹子頭」
 鷲掴んだ肩は驚くほど薄く、骨にまで指先が食いこむ。
 ゆっくりと振り返った顔は、最後に見た時からあまりにも変わり果てていた。
 にたりと笑う、落ちくぼんだ目。こけた頬。尖った顎。
 「貴様……この後に及んで、逃げる気か……!」
 絞り出した声が、凍てついた湯気となって二人の間を漂う。
 「……なあ、幼馴染だろう? 命だけは、助けてくれよ。俺が望んでしたことじゃない、高太尉の命ならば、従わぬわけにはいかないんだ、わかるだろう?」
 「この裏切り者が!」
 「ぐっ!」
 毛皮を巻いた胸倉を片腕で引っ掴み、痩せた体を頭から地に叩きつける。
 槍で外套を縫い留め胸板を足でどかりと踏みつけ懐から抜いた短刀を振り上げ、
 「何故だ……今さら幼馴染と名乗るなら、何故俺を陥れた!」
 赤々と、馬草場を焼ききった炎が最後の火柱をあげた。
 「林冲、なあ、八十万禁軍教頭の豹子頭林冲よ」
 寒さなのか、恐怖なのか、雪よりもなお青白い陸謙の顔に、赤い影が落ちる。
 「お前はいつも、弱い者に、民に寄り添う好漢だったな。いつも、人が良すぎるほどに、苦しむ者を救おうとする」
 「だったらなんだ、舌先三寸の愚か者め。俺をおだてて助かろうという魂胆か」
 「おだてる? はッ……ハハ、そんなわけがないだろう!」
 小馬鹿にするように鼻を鳴らし、陸謙が笑う。その笑い声は、次第に大きくなっていった。
 「うんざりだったのさ。お前の隣にいれば、常に比べられる。林冲は好漢中の好漢、陸謙は口先だけの凡人とな。なあ、わかるか林冲。お前は、目の前にいた人間の苦しみに、寄り添おうとしなかった。好漢? 豪傑? 笑わせるな。お前はただの大馬鹿者だ。三十年来、友だと信じた男が、幼い頃から自分を恨み、憎み、妬んでいたことにも気付かずに、間抜け面して隣で笑っていた、大馬鹿者だ!」
 「ふざけるな!」
 胸板の上に置いた足を振り上げ、思い切り鳩尾に打ち込む。
 「そんな下らぬ言い訳しかできぬか、陸虞候ともあろう男が! 俺を大馬鹿者と言うなら、高俅に魂を売り、これで己の身は安泰と、持って生まれた才まで捨てたお前とて大馬鹿者だ。お前ほど弁が立ち頭の切れる男ならば、武の後ろ盾さえあれば……俺とともに戦ったなら、あの忌まわしい太鼓持ちを出し抜くこととて出来たろうに、お前は己の弱さに向き合おうとせず、己を信じることもせず、そこから逃げ出すために姑息にも己の弱さを俺のせいにしただけではないか! 俺が憎いなら俺を殺せばいい、だがその気概もなかったお前にとって、高俅の名は都合のいい隠れ蓑だったろう。そうして結局あの男の権威に惑わされ、俺だけでなく、俺の家族までも陥れた。なんと卑劣な野郎だ!」
 足元から、ぶつり、と鈍い音がする。陸謙の口から、どす黒い血が溢れ出した。
 「たとえ高俅の命に背くことが出来ずに犯した罪だったとしても、お前のその腐り果てた性根だけは許せぬ……それにお前を許せば、俺は俺の弱さを許すことになる。それだけはできん!」
 「ガッ……!」
 喉首を掴み、陸謙の体を堂の壁に縫い付ける。
 ひゅう、と陸謙の喉から風が漏れる。
 変わり果てた顔の中で唯一変わらぬ切れ長の瞳に映った己は、幽鬼の如き形相であった。
 「なあ謙児……俺は、どうすれば、よかったんだ……いつから、お前は……!」
 「……ふ……ハハ……わからないなら……死ぬまで、考え……続けるんだな……」
 泉のように血を零しながら、陸謙が吐き捨てる。折れたあばらが、臓腑に突き刺さっているのだろう。
 『仕方ないな、ほら、俺が杖の代わりになってやるよ』
 ふと、一つの光景が、目の前をよぎる。
 幼い頃、鍛錬であばらを折ってしまった林冲に、陸謙が言った言葉だった。
 そして訳もなく、陸謙も今、同じ光景を思い出しているのだとわかった。
 「俺を、殺すか……冲児」
 肩を借りて歩いた故郷のまちも、肩を貸してあきれ顔で笑う男も、もう二度と戻ってこない。
 「……お前は俺から故郷も、家族も、仲間も、誇りも、そしてこの世で最も信頼していた友までも奪ったのだ、生きていられると思うな!」
 振りかざした短刀を突き立てる場所を、誤ることはなかった。
 腐り果てた性根に見合わず、陸謙の心の臓は、鮮やかな色をしていた。
 逆手に構えた手首を捻り、脈打つそれを、引きずり出す。
 (熱い)
 体中の穴から血を噴き出し、陸謙だった体が、崩れ落ちる。
 高く掲げた右手の中の熱を握りつぶせば、あふれ出た深い色の血潮が、林冲の顔に、体に、降り注ぐ。
 吹き付ける雪と混じり合った薄紅の滝が、頬を流れ落ちる。
 「……っ……ウ……」
 背後から聞こえた微かなうめき声に振り返れば、とうに絶命したと思っていた獄卒頭が、腕だけで体を引きずり、逃げようとしているところだった。
 「死に損ないが」
 これが己の声かというほどに、その声はひからびていた。
 短刀を真横に払い、獄卒頭の首を一思いに刎ねる。
 呆けた顔のまま転がった首を拾い上げ、槍にくくりつけると、冨安の首をも胴体から切り離す。
 「……痩せたな」
 最後に、陸謙の首に手をかけ、引き千切る。
 刀では、斬らなかった。
 片手で引き千切れるほど、陸謙の首は細かった。
 「山神よ、どうか廟を穢したことをお許しください」
 三つの首を毛髪で一つにくくり、山神像の足元に供える。
 「だが、俺と俺の家族に害を成すものを許すことなどできぬ。己の権力を振りかざし、高俅の権威を笠に着て平気で罪なき者を陥れる卑劣な所業、たとえ俺がその所業に耐え、あるいは逃げたとて、次はほかの者にその矛先を向けるだけ。世のためにも、このような悪漢を生かしてはおけません。どうか……この国の腐りきった奸臣どもに、鉄槌を」
 跪き、山神像に向かって三拝すると、脱ぎ捨てていた上衣を再び着込み、つば広の笠をかぶりなおす。
 すっかり冷え切った酒を、立ち上がったままぐいと飲み干し、空いた瓢箪を投げ捨てる。
 首を失った三つの体を蹴飛ばし、廟の門をくぐる。
 「火事だ……!」
 「馬草場だ、馬草が燃えているぞ!」
 轟々と吹き付ける雪の中を、近隣のまちに暮らす者たちが、手に手に水桶を持って走っていく。
 「……俺は衙門に知らせに行く、お前たちははやく火を消してくれ!」
 大吹雪の中の大火事に気を取られ、誰も返り血に濡れた林冲の姿など目に留めず、叫んだ声もただ風の中に霧散していく。
 (行かねばならぬ……だが、どこへ)
 赤い光と黒い煙とは反対のほうへ、槍を背負った林冲は歩く。
 風に外套が翻り、冷たい雪の粒が顔中を叩く。
 ちらりと振り返れば、刻みつけたはずの己の足跡は、一歩進むごとに北風に吹かれてすぐに消え、真白い雪原だけがそこに残った。


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 「一晩だけ、間借りするのをお許しください」
 廟の門扉は錆びついており、強風に煽られ開いたり閉じたりするたびに耳障りな音をたてるので、傍にあった大きな石を内側から立てかける。
 打ち捨てられて久しいのか、堂の中を覗くと、床や壁、天井は蜘蛛の巣や鳥の糞にまみれていたが、扉の隙間から雪が吹き込むせいか、手前の方の床だけは、水で洗い流されたかのようにきれいになっている。
 堂の奥、一段高くなった場所には、かつては眩いばかりの黄金で飾られていたのであろう鎧を着た山神が、威風堂々と座っていた。
 両脇に控える判官と小鬼の足元には、いつのものか分からぬ色あせた紙銭が渦高く積まれ、吹きつける風に舞い上がっては落ち、山脈の如き様相を呈している。
 あたりには民家もなく、守り番がいるような気配もない。
 (ここならば、寒さはしのげそうだ)
 火を起こすわけにはいかないが、扉をきっちりと閉めて鍵をかけ、濡れて重くなった上衣を脱ぎ、布団を敷いて潜り込めば、それなりに暖はとれる。
 すっかり冷えてしまった瓢箪の酒を取り出し、まだほのかに熱の残る牛肉を頬張るうちに、心地よい微睡みが襲ってくる。
 (明日には、雪もやむとよいが)
 ときおり北風が門扉や壁に吹き付ける音が、だんだんと遠ざかる。
 頬杖をついていたはずの顔はずるずると布団に吸い寄せられ、瞼が降り、静かな暗闇に意識が沈み、
 (……何の音だ?)
 気が遠のいたのは、ほんの一瞬のことだった。
 何か小さく、乾いたものがはじけるような異質な音が聞こえた気がして、寒さも忘れ、跳ね起きる。
 立ち尽くして耳をすませば、どうやらその音は西の方向から聞こえて来るらしい――西の方向にあるのは、馬草場だ。
 「あれは……!」
 慌てて明かり取りの窓から外を覗いた林冲は、思いもよらぬ光景に目を見張った。
 馬草場が、燃えている。
 火事などという生易しいものではない。風にあおられた炎は、倉庫の中で風雪をしのぎ乾ききっていた馬草を次々と呑み込み、炎帝の怒りか朱雀の飛翔かと見紛うほどに真っ赤に燃え盛っている。
 宵闇にほのかに浮かび上がる白銀の粉雪は、あれよという間に漆黒の煙に巻き込まれ、空に昇った煙は分厚い雲を作り上げる。
 (種火は完全に消えていた……なのに何故……!)
 傍らに投げ出していた槍を手に、林冲は疾風の如き勢いで門扉を開けようとして――そして、立ち止まった。
 「うん? この扉、開かないな……鍵がかかっているんだろうか」
 誰かが、目の前の門扉をがたがたと押している。
 そう分かった瞬間、林冲は息を押し殺し、ゆっくりと扉に背を付け、耳をそばだてた。
 ぎしりと雪を踏みしめる足音は、三人分。
 炎のおかげで明るくなった外で、門扉の前にたむろす影も、三人。
 「いやはや、思った以上にこの計略、うまくいきましたな」
 上ずったような声は、獄卒頭の声。
 「それもこれも、典獄殿と獄卒頭殿のご協力があってこそ。東京へ帰ったら太尉殿に上奏し、お二人を必ずや高官に推挙いたしましょう」
 聞き覚えのない、猫なで声。
 「それはもったいないことで……へへ、しかし、あの様子じゃ、林冲もとうに焼け死にましたでしょうなあ」
 そして、典獄の言葉に続いて、聞こえてきたのは。
 「これでようやく、張教頭も諦めるだろうな。あの男、俺たちだけでなく、俺たちの息のかかった者どもからも、林冲は死んだと何度も言われているのに、いっこうに信じようとせず、娘を家の外に出しもしない。おかげで高衙内様はますますふさぎ込み、患いも重くなる一方だ。見かねた高太尉に命じられ、俺たちもはるばる滄州まで来たが、あんたたちが協力してくれたので、こうしてうまいこと林冲を葬ることが出来た。これで衙内様の患いもすっかりよくなることだろう」
 「もちろんですとも。私、馬草場に忍び込み、十数本もの松明で一気に草に火をつけたのです。幸い、倉庫の中は乾いており、ご覧のように、よく燃えております……もう、ほとんど焼け落ちたかと」
 「例えあの業火から逃げ延びたとしても、馬草場に火事を出したとなれば、死罪のほかはない」
 「そろそろ、戻りましょう」
 「いや、馬草場に行く。火の手が収まった後、林冲の骨の二つか三つ、拾って高太尉と衙内様に届ければ、お二人もご安心なさるだろうし、俺たちも、あんたたちも、いっそう褒められる。なあ、冨安」
 淡々と、何の情もない声だった。
 喜びも、怒りも、悲しみも、嘲笑さえも感じられぬ硬い声だった。
 (情すらも、捨てたか)
 小屋が潰れたのを見たとき、どこまでも己には運がないと思ったが、こうなってはむしろ、己は幸運だったのだ。
 小屋が潰れていなければ、あの業火の中で、焼け死んでいた。裏切り者の顔を見ることもなく、妻の待つ故郷へ戻ることもなく、死してのちも恨むべき男に復讐を果たすこともなく。
 (生きては帰さぬ、陸謙――!)
 体の内を巡る血潮が、馬草場を焼く炎よりもなお熱く燃える。
 頭の天辺から爪先まで、武者震いが走る。
 扉をふさいでいた大石を左手の一振りで払いのけ、右手に槍を構え、
 「貴様ら、どこへも行かせぬぞ!」
 大音声とともに引き開けた門扉の向こうで、あまりの驚愕に声も出ず足も動かずただただ恐怖に目を見開く男たちが凍り付いている。
 獄卒頭の大きく開いた口がどんな言葉を叫ぼうとしていたのかは、もうわからない。
 真白な雪の中に、目に痛いほどの赤が散る。
 「あ……あ…………」
 ようやく動くようになった足をもつれさせながら、冨安が後ずさる。
 何かを掴むように体をひねり手を伸ばしたその背に、槍先を叩き込む。
 ずぐり、と肉を貫く音に続いて、ここまで炎に耐えていた馬草場の倉庫の屋根が焼け落ちたのであろう轟音が響く。
 銀色の大地に染みを作った二つの肉塊を跨ぎ、素早く身を翻した男の肩に手を伸ばす。
 「……よう、豹子頭」
 鷲掴んだ肩は驚くほど薄く、骨にまで指先が食いこむ。
 ゆっくりと振り返った顔は、最後に見た時からあまりにも変わり果てていた。
 にたりと笑う、落ちくぼんだ目。こけた頬。尖った顎。
 「貴様……この後に及んで、逃げる気か……!」
 絞り出した声が、凍てついた湯気となって二人の間を漂う。
 「……なあ、幼馴染だろう? 命だけは、助けてくれよ。俺が望んでしたことじゃない、高太尉の命ならば、従わぬわけにはいかないんだ、わかるだろう?」
 「この裏切り者が!」
 「ぐっ!」
 毛皮を巻いた胸倉を片腕で引っ掴み、痩せた体を頭から地に叩きつける。
 槍で外套を縫い留め胸板を足でどかりと踏みつけ懐から抜いた短刀を振り上げ、
 「何故だ……今さら幼馴染と名乗るなら、何故俺を陥れた!」
 赤々と、馬草場を焼ききった炎が最後の火柱をあげた。
 「林冲、なあ、八十万禁軍教頭の豹子頭林冲よ」
 寒さなのか、恐怖なのか、雪よりもなお青白い陸謙の顔に、赤い影が落ちる。
 「お前はいつも、弱い者に、民に寄り添う好漢だったな。いつも、人が良すぎるほどに、苦しむ者を救おうとする」
 「だったらなんだ、舌先三寸の愚か者め。俺をおだてて助かろうという魂胆か」
 「おだてる? はッ……ハハ、そんなわけがないだろう!」
 小馬鹿にするように鼻を鳴らし、陸謙が笑う。その笑い声は、次第に大きくなっていった。
 「うんざりだったのさ。お前の隣にいれば、常に比べられる。林冲は好漢中の好漢、陸謙は口先だけの凡人とな。なあ、わかるか林冲。お前は、目の前にいた人間の苦しみに、寄り添おうとしなかった。好漢? 豪傑? 笑わせるな。お前はただの大馬鹿者だ。三十年来、友だと信じた男が、幼い頃から自分を恨み、憎み、妬んでいたことにも気付かずに、間抜け面して隣で笑っていた、大馬鹿者だ!」
 「ふざけるな!」
 胸板の上に置いた足を振り上げ、思い切り鳩尾に打ち込む。
 「そんな下らぬ言い訳しかできぬか、陸虞候ともあろう男が! 俺を大馬鹿者と言うなら、高俅に魂を売り、これで己の身は安泰と、持って生まれた才まで捨てたお前とて大馬鹿者だ。お前ほど弁が立ち頭の切れる男ならば、武の後ろ盾さえあれば……俺とともに戦ったなら、あの忌まわしい太鼓持ちを出し抜くこととて出来たろうに、お前は己の弱さに向き合おうとせず、己を信じることもせず、そこから逃げ出すために姑息にも己の弱さを俺のせいにしただけではないか! 俺が憎いなら俺を殺せばいい、だがその気概もなかったお前にとって、高俅の名は都合のいい隠れ蓑だったろう。そうして結局あの男の権威に惑わされ、俺だけでなく、俺の家族までも陥れた。なんと卑劣な野郎だ!」
 足元から、ぶつり、と鈍い音がする。陸謙の口から、どす黒い血が溢れ出した。
 「たとえ高俅の命に背くことが出来ずに犯した罪だったとしても、お前のその腐り果てた性根だけは許せぬ……それにお前を許せば、俺は俺の弱さを許すことになる。それだけはできん!」
 「ガッ……!」
 喉首を掴み、陸謙の体を堂の壁に縫い付ける。
 ひゅう、と陸謙の喉から風が漏れる。
 変わり果てた顔の中で唯一変わらぬ切れ長の瞳に映った己は、幽鬼の如き形相であった。
 「なあ謙児……俺は、どうすれば、よかったんだ……いつから、お前は……!」
 「……ふ……ハハ……わからないなら……死ぬまで、考え……続けるんだな……」
 泉のように血を零しながら、陸謙が吐き捨てる。折れたあばらが、臓腑に突き刺さっているのだろう。
 『仕方ないな、ほら、俺が杖の代わりになってやるよ』
 ふと、一つの光景が、目の前をよぎる。
 幼い頃、鍛錬であばらを折ってしまった林冲に、陸謙が言った言葉だった。
 そして訳もなく、陸謙も今、同じ光景を思い出しているのだとわかった。
 「俺を、殺すか……冲児」
 肩を借りて歩いた故郷のまちも、肩を貸してあきれ顔で笑う男も、もう二度と戻ってこない。
 「……お前は俺から故郷も、家族も、仲間も、誇りも、そしてこの世で最も信頼していた友までも奪ったのだ、生きていられると思うな!」
 振りかざした短刀を突き立てる場所を、誤ることはなかった。
 腐り果てた性根に見合わず、陸謙の心の臓は、鮮やかな色をしていた。
 逆手に構えた手首を捻り、脈打つそれを、引きずり出す。
 (熱い)
 体中の穴から血を噴き出し、陸謙だった体が、崩れ落ちる。
 高く掲げた右手の中の熱を握りつぶせば、あふれ出た深い色の血潮が、林冲の顔に、体に、降り注ぐ。
 吹き付ける雪と混じり合った薄紅の滝が、頬を流れ落ちる。
 「……っ……ウ……」
 背後から聞こえた微かなうめき声に振り返れば、とうに絶命したと思っていた獄卒頭が、腕だけで体を引きずり、逃げようとしているところだった。
 「死に損ないが」
 これが己の声かというほどに、その声はひからびていた。
 短刀を真横に払い、獄卒頭の首を一思いに刎ねる。
 呆けた顔のまま転がった首を拾い上げ、槍にくくりつけると、冨安の首をも胴体から切り離す。
 「……痩せたな」
 最後に、陸謙の首に手をかけ、引き千切る。
 刀では、斬らなかった。
 片手で引き千切れるほど、陸謙の首は細かった。
 「山神よ、どうか廟を穢したことをお許しください」
 三つの首を毛髪で一つにくくり、山神像の足元に供える。
 「だが、俺と俺の家族に害を成すものを許すことなどできぬ。己の権力を振りかざし、高俅の権威を笠に着て平気で罪なき者を陥れる卑劣な所業、たとえ俺がその所業に耐え、あるいは逃げたとて、次はほかの者にその矛先を向けるだけ。世のためにも、このような悪漢を生かしてはおけません。どうか……この国の腐りきった奸臣どもに、鉄槌を」
 跪き、山神像に向かって三拝すると、脱ぎ捨てていた上衣を再び着込み、つば広の笠をかぶりなおす。
 すっかり冷え切った酒を、立ち上がったままぐいと飲み干し、空いた瓢箪を投げ捨てる。
 首を失った三つの体を蹴飛ばし、廟の門をくぐる。
 「火事だ……!」
 「馬草場だ、馬草が燃えているぞ!」
 轟々と吹き付ける雪の中を、近隣のまちに暮らす者たちが、手に手に水桶を持って走っていく。
 「……俺は衙門に知らせに行く、お前たちははやく火を消してくれ!」
 大吹雪の中の大火事に気を取られ、誰も返り血に濡れた林冲の姿など目に留めず、叫んだ声もただ風の中に霧散していく。
 (行かねばならぬ……だが、どこへ)
 赤い光と黒い煙とは反対のほうへ、槍を背負った林冲は歩く。
 風に外套が翻り、冷たい雪の粒が顔中を叩く。
 ちらりと振り返れば、刻みつけたはずの己の足跡は、一歩進むごとに北風に吹かれてすぐに消え、真白い雪原だけがそこに残った。