表示設定
表示設定
目次 目次




第5回

ー/ー



 それはかかりすぎだ。

 ここを出、サキスを抜けて門からあの岩場までは、かかってせいぜい30分。そこで待つ相手は単なる負の気の塊だ。自我もなく、まだ妖鬼や魎鬼にもなっていない、宙を漂うだけの存在。
 そんなものが封師が現れたからといって逃げるわけがない。攻撃されたり抵抗されるわけもないから封師も楽に封じられたはず。

 封魔をしたら即座にその足で幻聖宮の執務室へ赴き、事の報告をしなければならない。それは当然の義務だ。

 まさか帰宮途中、サキスで足を止めているのだろうか? ふとそんな考えが浮かぶ。

 幻聖宮は退魔師を養育する場ということもあり、大陸で最も安全な地であると言われている。その庇護を受けようという人々が集まり、宮の周囲を囲むようにして生まれた町・サキスは常に大陸中を渡り歩く『流れ』の商隊が数多く駐留しており、大陸中のさまざまな物が持ち込まれる華やかな市場は今の時間大賑わいだ。他国の珍しい布や食物、装飾の類いが台、あるいは石畳に直接敷いた敷物の上に所狭しと並べられ、さぞかし道行く人の目をひきつけていることだろう。
 「お客さん、サキスは初めてかい?」そんな声をかけられ誘いにのり、家で待つ者への土産を買いこむ者も多い。

 だが幻聖宮と契約を結び、所属する手練れ中の手練れ、優れた退魔封師が己に課せられた義務を怠り、町を俳徊するだろうか? 珍品に目を奪われ、賑わいに身を任せていると?

 それは、まずあり得ないように思われた。

「彼らが報告を怠ったからといって今現在何か不都合が起きているわけでもない。気溜まりより今は感応式の方が優先だと放置しておいたんだが……」
「魅魎が現れたか」

 その胸の内はともかく、部屋の中央を向いた面には完壁に平静を装ったまま、蒼駕が言葉の先を読んでつぶやいた。こく、と紅茶に口づける、その平淡な声や無表情さは白瑛といい勝負である。

 聞き流せない言葉。その言葉に彩煉の頬は強張り、白英はいまいましげに目を細めた。

「物見から、それらしき影を見たという報告が入った。ほんの数分前だ。岩の上で跳ねる小さな影があったそうだ。ナガミミスナウサギとかの類いじゃない。宙に浮いていたというからな」

 小さな影……妖鬼だろうか?

 下級魅魎の妖鬼は大体人の膝下くらいの大きさだ。スナウサギよりひとまわりほどしか違わないから、遠目だと見間違う者も多い。
 しかしやつらは跳ねることはできても宙に浮き続けることはできない。魎鬼もだ。高く跳びはねたのを飛んだと見間違われたとか……だが、それならそれと言うだろう。「宙に浮く」のと「跳びはねる」のとはまるで違っている。

 とすれば、魘魅(えんみ)か魅妖?

 閃いた言葉に目を合わせた次の瞬間、まさかとだれもがその考えを打ち消そうとする。

 中級に属するそんな危険極まりない存在がこんな近場に現れて、この近辺一帯に守護結界を張り巡らせている法師たちが気付かないはずはない。第一、自分たちにとって疎ましい存在である宮に近付きたいなどと考える、物好きな中級魅魎がいるだろうか? ここには数多くの魔断と退魔師たちがいるというのに。
 彼らはばかではない。

 しかも、まさに数百の退魔師が新たに誕生しようとしているこの日に、よりにもよって。

 わざわざ考えたくない、いやな想像だったが、かといって思いついた以上目をつぶるわけにもいかない。
 絶対にあり得ないことではないからだ。相手が気まぐれな中級魅魎であっては。

「午前中の任務についていた西の警備長からは、それらしい報告はなかった。ただ、先の封師のこともあるしな。念のため、サキスと岩場に警邏(けいら)を数人出そうと思うんだが、サキスのほうはともかく、西に配備されている警備長は全員この感応式に取り組んでいる。砂嵐のせいで地形も変わっているからほかの方角の警備長では少々心もとないが、何人か選んで送り込むつもりだ。その選別を手伝ってくれ」
「いや、それならぼくが行こう。任務についている者を呼び戻して説明する手間をかけずとも、ぼくが行けばすむ話だ」
「おまえが? しかし」
「ぼくはもう補佐長ではないからね。出立待ちをしているだけだから」

 蒼駕の言葉を一考するように、ふむ、と白瑛が視線を落とす。

「僕が行きます」

 彩煉がすかさず申し出た。

「ちょうど僕が受け持っている区域です」
「でも、そうするときみが式に出られなくなってしまうよ?」
「1人でなら、急げばそんなに時間はかからないでしょう。それからでも式が終わるまでには間に合います。
 僕も、この宮に席をおく魔断ですから。自分のしなくてはいけないことは承知しています」

 見てくるだけですから。

 心配してくれる蒼駕に笑って手を振って応え、「それでは準備がありますので」と部屋をあとにした。
 回廊を歩いていると、庭を通り過ぎる魔導杖との感応を終えた候補生たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。どうやら無事終えたらしい。レンのことがちらとよぎったが、どこにいるかも分からない彼女を探して説明している暇はなさそうだと結論し、まっすぐ自室へ向かった。

 いくら急いでいるとはいえ、盛装衣で行くわけにもいかない。焼けた砂が入りこむのを避けるための支度を整える。剣帯を巻き止め、破魔の剣を佩き、フードマントを上からまとう。
 そして西の門へ向かっていたところだと締めくくった直後、彩煉はまたもやレンの猛攻を受けることになったのである。


◆◆◆


「なによそれ! どうして彩煉が行かなくちゃいけないの? だって彩煉は感応式に出るんでしょ? あたしと感応して、組むんじゃない。なのにあなたがいなくて、あたし1人でどうするのよ。あたしに黙って抜けようとするなんてひどいわ!」
「だから、遅れて参加するつもりで――」
「1時間も遅れて?
 ここで会わなかったらあたしはあなたが現れなくて、1人オロオロするところだったんだわ。あんなに約束したのに参加してくれなかったんだと思いこんで、あたしと組むのはそんなにいやだったのかって悲しくなって、今度こそ泣いたかもしれない。嘘つきってあなたを(ののし)って……なのにあなたは伝言も残さずそうやって勝手に出て行くところだったんだわ!」

 伝言!
 言われてみて今さらに思いついたその手段に、胸の中でたらたら冷汗を流す。
 たしかにそうしておけばよかったのだ。居場所が分からなくとも、式の時間になれば感応式場に来るのは間違いない。そのとき、言ってもらうよう蒼駕なり白瑛なりに頼んで……。

「大体、どうして彩煉が行かなきゃいけないのよ。見てくるだけなんでしょ? せっかく蒼駕補佐長が行くって言ってくれたんだから、任せればいいじゃない」

 自己嫌悪に表情を暗くしてしまった彩煉に気付き、あわてて手を引っ込めると、いささか罰の悪い思いで、拗ねた声でそう付け足す。

「うん……。でも、あそこはやっぱり僕の管轄区域だし……話、聞いちゃったしね。放っておけない。感応式が終わったら、どうせ午後の任務に出る予定だったし。
 それに、みんな何かと忙しいんだよ。感応式に参加する教え長たちの穴を埋めないといけないし、式の準備はあるし……みんなね」

 申しわけなさそうに口にする。
 しゅん、となって、まだ怒っているかとちらちら自分の方を盗み見てくる彩煉に、レンは、うっと声をつまらせてあごを引いた。

 かわいいのだ。

 外見もさることながら、中身も気の遠くなるほどはるか年上の年長者を前にしてこの表現はいささか無礼ではあったが、しかしほかにぴったりの表現が浮かばない。

 それに、これが彩煉の一番いいところでもある。人を思いやり、いつも相手のことを考え、その気持ちを大切にしてくれる。

『レンには、もっと、ずっと力も経験もある魔断が合うと、思うんだけど』

 式に参加してくれるように頼んだとき、彼は初めそう言った。でもどうしても彩煉がいいのだと重ねて頼んだら、

『なら、きみのために』

 そう言って、ほほ笑んでくれた。

 その身を包む気の波動はいつだってとても優しくて……これほど美しい朱金の光は、1度たりと見たことがなかった。同じ火炎系の魔断にもない、柔らかで、春の木漏れ日を思わせる慈愛の光。

「……しかたないわね、たしかに彩煉の言うとおりだもの」
「レン!」

 怒りを解く言葉に、ぱっと表情が一転するが。しかし次にレンの口から出た言葉はさらに今までの上をいく、始末に終えないものだった。

「でも、あたしも一緒に行くからね!」


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第6回


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 それはかかりすぎだ。
 ここを出、サキスを抜けて門からあの岩場までは、かかってせいぜい30分。そこで待つ相手は単なる負の気の塊だ。自我もなく、まだ妖鬼や魎鬼にもなっていない、宙を漂うだけの存在。
 そんなものが封師が現れたからといって逃げるわけがない。攻撃されたり抵抗されるわけもないから封師も楽に封じられたはず。
 封魔をしたら即座にその足で幻聖宮の執務室へ赴き、事の報告をしなければならない。それは当然の義務だ。
 まさか帰宮途中、サキスで足を止めているのだろうか? ふとそんな考えが浮かぶ。
 幻聖宮は退魔師を養育する場ということもあり、大陸で最も安全な地であると言われている。その庇護を受けようという人々が集まり、宮の周囲を囲むようにして生まれた町・サキスは常に大陸中を渡り歩く『流れ』の商隊が数多く駐留しており、大陸中のさまざまな物が持ち込まれる華やかな市場は今の時間大賑わいだ。他国の珍しい布や食物、装飾の類いが台、あるいは石畳に直接敷いた敷物の上に所狭しと並べられ、さぞかし道行く人の目をひきつけていることだろう。
 「お客さん、サキスは初めてかい?」そんな声をかけられ誘いにのり、家で待つ者への土産を買いこむ者も多い。
 だが幻聖宮と契約を結び、所属する手練れ中の手練れ、優れた退魔封師が己に課せられた義務を怠り、町を俳徊するだろうか? 珍品に目を奪われ、賑わいに身を任せていると?
 それは、まずあり得ないように思われた。
「彼らが報告を怠ったからといって今現在何か不都合が起きているわけでもない。気溜まりより今は感応式の方が優先だと放置しておいたんだが……」
「魅魎が現れたか」
 その胸の内はともかく、部屋の中央を向いた面には完壁に平静を装ったまま、蒼駕が言葉の先を読んでつぶやいた。こく、と紅茶に口づける、その平淡な声や無表情さは白瑛といい勝負である。
 聞き流せない言葉。その言葉に彩煉の頬は強張り、白英はいまいましげに目を細めた。
「物見から、それらしき影を見たという報告が入った。ほんの数分前だ。岩の上で跳ねる小さな影があったそうだ。ナガミミスナウサギとかの類いじゃない。宙に浮いていたというからな」
 小さな影……妖鬼だろうか?
 下級魅魎の妖鬼は大体人の膝下くらいの大きさだ。スナウサギよりひとまわりほどしか違わないから、遠目だと見間違う者も多い。
 しかしやつらは跳ねることはできても宙に浮き続けることはできない。魎鬼もだ。高く跳びはねたのを飛んだと見間違われたとか……だが、それならそれと言うだろう。「宙に浮く」のと「跳びはねる」のとはまるで違っている。
 とすれば、|魘魅《えんみ》か魅妖?
 閃いた言葉に目を合わせた次の瞬間、まさかとだれもがその考えを打ち消そうとする。
 中級に属するそんな危険極まりない存在がこんな近場に現れて、この近辺一帯に守護結界を張り巡らせている法師たちが気付かないはずはない。第一、自分たちにとって疎ましい存在である宮に近付きたいなどと考える、物好きな中級魅魎がいるだろうか? ここには数多くの魔断と退魔師たちがいるというのに。
 彼らはばかではない。
 しかも、まさに数百の退魔師が新たに誕生しようとしているこの日に、よりにもよって。
 わざわざ考えたくない、いやな想像だったが、かといって思いついた以上目をつぶるわけにもいかない。
 絶対にあり得ないことではないからだ。相手が気まぐれな中級魅魎であっては。
「午前中の任務についていた西の警備長からは、それらしい報告はなかった。ただ、先の封師のこともあるしな。念のため、サキスと岩場に|警邏《けいら》を数人出そうと思うんだが、サキスのほうはともかく、西に配備されている警備長は全員この感応式に取り組んでいる。砂嵐のせいで地形も変わっているからほかの方角の警備長では少々心もとないが、何人か選んで送り込むつもりだ。その選別を手伝ってくれ」
「いや、それならぼくが行こう。任務についている者を呼び戻して説明する手間をかけずとも、ぼくが行けばすむ話だ」
「おまえが? しかし」
「ぼくはもう補佐長ではないからね。出立待ちをしているだけだから」
 蒼駕の言葉を一考するように、ふむ、と白瑛が視線を落とす。
「僕が行きます」
 彩煉がすかさず申し出た。
「ちょうど僕が受け持っている区域です」
「でも、そうするときみが式に出られなくなってしまうよ?」
「1人でなら、急げばそんなに時間はかからないでしょう。それからでも式が終わるまでには間に合います。
 僕も、この宮に席をおく魔断ですから。自分のしなくてはいけないことは承知しています」
 見てくるだけですから。
 心配してくれる蒼駕に笑って手を振って応え、「それでは準備がありますので」と部屋をあとにした。
 回廊を歩いていると、庭を通り過ぎる魔導杖との感応を終えた候補生たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。どうやら無事終えたらしい。レンのことがちらとよぎったが、どこにいるかも分からない彼女を探して説明している暇はなさそうだと結論し、まっすぐ自室へ向かった。
 いくら急いでいるとはいえ、盛装衣で行くわけにもいかない。焼けた砂が入りこむのを避けるための支度を整える。剣帯を巻き止め、破魔の剣を佩き、フードマントを上からまとう。
 そして西の門へ向かっていたところだと締めくくった直後、彩煉はまたもやレンの猛攻を受けることになったのである。
◆◆◆
「なによそれ! どうして彩煉が行かなくちゃいけないの? だって彩煉は感応式に出るんでしょ? あたしと感応して、組むんじゃない。なのにあなたがいなくて、あたし1人でどうするのよ。あたしに黙って抜けようとするなんてひどいわ!」
「だから、遅れて参加するつもりで――」
「1時間も遅れて?
 ここで会わなかったらあたしはあなたが現れなくて、1人オロオロするところだったんだわ。あんなに約束したのに参加してくれなかったんだと思いこんで、あたしと組むのはそんなにいやだったのかって悲しくなって、今度こそ泣いたかもしれない。嘘つきってあなたを|罵《ののし》って……なのにあなたは伝言も残さずそうやって勝手に出て行くところだったんだわ!」
 伝言!
 言われてみて今さらに思いついたその手段に、胸の中でたらたら冷汗を流す。
 たしかにそうしておけばよかったのだ。居場所が分からなくとも、式の時間になれば感応式場に来るのは間違いない。そのとき、言ってもらうよう蒼駕なり白瑛なりに頼んで……。
「大体、どうして彩煉が行かなきゃいけないのよ。見てくるだけなんでしょ? せっかく蒼駕補佐長が行くって言ってくれたんだから、任せればいいじゃない」
 自己嫌悪に表情を暗くしてしまった彩煉に気付き、あわてて手を引っ込めると、いささか罰の悪い思いで、拗ねた声でそう付け足す。
「うん……。でも、あそこはやっぱり僕の管轄区域だし……話、聞いちゃったしね。放っておけない。感応式が終わったら、どうせ午後の任務に出る予定だったし。
 それに、みんな何かと忙しいんだよ。感応式に参加する教え長たちの穴を埋めないといけないし、式の準備はあるし……みんなね」
 申しわけなさそうに口にする。
 しゅん、となって、まだ怒っているかとちらちら自分の方を盗み見てくる彩煉に、レンは、うっと声をつまらせてあごを引いた。
 かわいいのだ。
 外見もさることながら、中身も気の遠くなるほどはるか年上の年長者を前にしてこの表現はいささか無礼ではあったが、しかしほかにぴったりの表現が浮かばない。
 それに、これが彩煉の一番いいところでもある。人を思いやり、いつも相手のことを考え、その気持ちを大切にしてくれる。
『レンには、もっと、ずっと力も経験もある魔断が合うと、思うんだけど』
 式に参加してくれるように頼んだとき、彼は初めそう言った。でもどうしても彩煉がいいのだと重ねて頼んだら、
『なら、きみのために』
 そう言って、ほほ笑んでくれた。
 その身を包む気の波動はいつだってとても優しくて……これほど美しい朱金の光は、1度たりと見たことがなかった。同じ火炎系の魔断にもない、柔らかで、春の木漏れ日を思わせる慈愛の光。
「……しかたないわね、たしかに彩煉の言うとおりだもの」
「レン!」
 怒りを解く言葉に、ぱっと表情が一転するが。しかし次にレンの口から出た言葉はさらに今までの上をいく、始末に終えないものだった。
「でも、あたしも一緒に行くからね!」