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(三)

ー/ー



 林冲が李小二の店に入ると、彼はちょうど女房と二人、洗い物をしているところであった。先程遠くに見えた男たちの背中は、この店からの帰りであったのだろう。
 「ずいぶん繁盛しているようだな」
 ちょうど客が引き切ったのか、がらりとした店の中に林冲の声が響いたとたん、なぜか李小二も女房も肩をびくりと震わせ、困ったようにこちらを凝視する。
 「り、林教頭……どなたかと、すれ違いになりませんでしたか?」
 「いや、誰とも」
 「そ、それはよかった……さ、どうぞこちらへ座ってください、ちょうどあなた様にお会いしに行こうと思っていたところだったんです。大事な話があるんでさあ」
 びくびくとあたりを見回す李小二と女房は、店の奥まった席へと林冲を案内し、一杯の茶を注いだ。
 「なんだ、改まって、どうしたのだ? 重大な話とは何のことだ」
 二人の様子がおかしいわけがまったくわからない林冲は、出された茶をすすり、笑顔で尋ねた。
 すると、李小二は女房と顔を見合わせ、切り出しにくそうに両手を擦り合わせ、
 「その……つい今しがたですよ、東京から来たらしい怪しげな男二人組が、私に典獄さんと獄卒頭さんを呼んで来いって言ったんですよ。それで私が二人をここに連れて来たら、私ら夫婦は追い払ってひそひそ話をはじめたんです。ところが、私、去り際にやつらが高太尉っていう名を言ったのを小耳に挟んだので、これはいよいよ怪しいと思い、女房に少しばかり盗み聞きをさせたんです。声が小さくって話はまったく聞き取れなかったんですが、最後に獄卒頭さんが、万事あいわかった、と言ったのを女房が聞きましてね。おまけに二人組のうちの一人が典獄さんと獄卒頭さんに、袱紗に包んだ金や銀を手渡したと来た。しばらく飲んだあと四人は散り散りに帰りましたが、高太尉って名や、こそこそしていた様子から、これはもしやあなた様に害をなさんとする輩ではなかろうかと心配になってきまして……」
 心の臓が、どくりと動く。
 憎んでも憎み切れず、忘れようとしても忘れられない男の名が、あの雨の日の酷薄な顔が、屈辱が、憤りが、悲しみが、胸の中を迫りあがり、冷え切った冬の日だというのに、全身から汗が噴き出す。
 だがそれ以上に、臓腑を切り刻むが如き痛みを伴って、違う男の名が蘇る。
 「……その、二人組の男とは、どのような男だ」
 「ほとんど一人の男が話していたんですが、そいつは、そうですねえ、年の頃はあなた様と同じく三十頃、背はあまり高くなく、痩せて顔色が悪くて、ひげもない。もう一人の男は、こちらも背が低くて、こっちは赤ら顔でしたねえ」
 汗が、背中を伝っていく。
 眦が痛いほどに熱い。
 「そいつだ……そのひげのない男が、陸謙だ……こんなところまで、まだ俺を殺そうと……!」
 拳が木の卓にめり込み、軋んだ音をたてる。
 「どこに行った……見つけたら、殺してやる……あの男だけは許せぬ……!」
 「ど、どうか落ち着いてください、林教頭! 飯は噎ぬようゆっくりと食い、道では転ばぬようゆっくり歩けと言うではありませんか。急いては何もいいことはありませんぜ、まずは身の回りに用心することが大事です」
 「ここまで追い詰められ、我が身可愛さに機を逸する俺だと思うか!」
 卓を蹴倒すほどの勢いで立ち上がり、林冲は李小二の店を飛び出した。
 (許さぬ、陸謙……!)
 刺青を施され目を血走らせた囚人だというのに、立ち寄った刃物屋の主人は、林冲の怒気に圧倒されたのか、何も聞かずに己の求めた短刀を差しだした。
 (あの日も、こうしてお前を探し回った……今度ばかりは逃がさんぞ)
 己の吐息だけが、奇妙に大きく耳を打つ。
 見回す景色は揺れ、霞み、だが道行く者の顔だけは、くっきりと見分けることができた。
 表通りにも、裏通りにも、薄汚れた小路にも、見知った顔はない。
 室内での執務が多いせいで、青白い顔。
 髭が薄いことを気にして、つけ髭でもするか、と冗談めかした、あの笑顔。
 物心ついたときからそばにあった顔を、その胴から切り離そうとする日が来るなど、どうして考えただろう。
 ちらつく雪が、憤怒の熱に溶かされて、滴となり、頬を伝う。
 『なぁ謙児、頼む、真剣にだ』
 雪が降る前に婚礼の儀を済ませようとすれば、吉日は案外早くにやってきた。
 未だ妻を迎え、家庭を持つ心づもりができていないままに準備だけは進み、そしてその日が近づくにつれ、林冲は、今まで感じたことのない種類の不安を覚えるようになった。
 計り知れない幸福を得るために負った、計り知れない責任。
 もはや己のためだけに生きる日々は終わり、妻と、やがて生まれてくるであろう子と、そして己の血を受け継いでいくであろう者たちへの責任の重さに、身が震えた。
 そのせいか、情けないことに、時折訪れる頭痛が、あろうことか婚儀の数日前から続いていた。
 いらぬ心配をかけぬよう、誰にも言わず、いつもよりも多めに薬を飲んだ。
 その薬と酒との飲み合わせが悪かったのだろう。あの日、林冲の身体は、万全ではなかった。
 だがせめて、心だけでも平静を、強さを取り戻せるよう、一番自分のことを理解している男と、独り身最後の時を過ごしたかった。
 『わかった、じゃあ、手加減はなしだ』
 武の道を選ばなかった陸謙が、それでも時折、棒の稽古を続けていることは知っていた。
 だから、久方ぶりに、友と手合わせがしたかった。
 幼かった日々を、刹那の間だけ、思い出したかった。
 鍛錬のための手合わせであろうと互いに全力でぶつかり合ったあの頃と比べ、己と陸謙の間の力の差は歴然としていた。
 たとえ万全でない体でも、陸謙に己が勝つのは当たり前だった。
 そうでなければ、陸謙とともに、内と外から国を支えることなどできない。
 『来い!』
 何合打ち合ったか、今となっては覚えていない。
 だが、鼻息荒く挑みかかった己の中にあった弱さに、あの日、気が付いてしまった。
 (何ということだ……)
 勝ったのは、陸謙だった。
 生まれて初めて、陸謙の前で、林冲は棒を取り落とし、膝をついた。
 (そういう、ことか)
 陸謙を見上げた林冲は、笑った。
 『謙児、明日からは……お前が俺を、俺たち家族を守ってくれ』
 その言葉を聞いたとたん、陸謙は意外げに目を丸くしていた。自分が勝ったのが信じられない、という顔だった。
 だが、かつてともに修行をしていたときも、陸謙の中には光るものがあったのを覚えている。
 結局彼は、文の道を選んだ。弁がたち、頭が切れ、よく物事を知っている彼には、武の道よりも文の道の方が――林冲には決して得られない才を存分に活かす道の方が、向いているに決まっていた。だが、修行を続けていればあるいは、と残念に思う気持ちもあった。
 そしてこの日、久方ぶりの勝負で、たまたま彼の内に眠る力が発揮されたというだけのことだ。
 万全でない体だったなど、言い訳にならない。いついかなる時でも勝負に勝つことのできる強さを得るには、己はまだ、修行が足りなかったのだ。
 家族を持つということにさえ不安を抱き、心が乱れ、文の道へと進んだ友に一度でも後れをとる程度には、まだまだ己は弱いのだ。
 『お前なら、守るべき者への責に潰されそうになる俺を、こうして叱咤してくれる。俺の未熟さを真に見抜き、俺には持ち得ぬ才を持って、ともに歩んでくれる……そうだろう、謙児。だから、俺が俺の未熟さ故に情けない姿を晒したときには、お前が、お前の才で持って、俺を、俺たち家族を守ると約束してくれ。俺は武の才で、お前を、お前の支える国を守ろう』
 『……ああ、そうだな』
 気が付けば、林冲は、牢城の前へと戻っていた。
 慌てて短刀を懐にしまい、血走った目を見られぬよう、うつむいて門をくぐる。
 (俺は、どうすればよかった?)
 どうすれば、妻を、故郷を、誇りを、すべてを友に奪われずに済んだのか。いや、友さえも、奪われたのだ、高俅に。
 (もはや、友ではない)
 それから数日にわたり、林冲は毎日、牢城のまわりをふらふらと、陸謙の姿を求めて歩き回った。
 李小二の店にもそのたびに立ち寄り話を聞いたが、あれ以来、陸謙はこの店に訪れることはないと言う。
 (まだ、俺を殺す時期ではないということか)
 そして当初の差し迫った殺気も幾分和らいできたころ、林冲は突然、典獄に呼び出された。
 「林冲よ、お前もこの牢城に来てしばらくたつが、なかなかこの牢も忙しなくてな。せっかくの柴大官人の手紙もあったというのに、なかなかお前の面倒を見てやることができなかった。そこで、どうだろう、今度お前を、馬草場の番人にしたいのだ」
 「馬草場……」
 典獄は、親し気に林冲の肩を叩いた。
 「東門から出て十五里ほど行ったところにある、軍の大きな馬草場だ。街からは離れてしまうがな、仕事といっても毎月馬草を受け取るだけ、おまけに金を稼ぐことが出来る。今までは年寄りが一人、番をしていたのだが、やつの歳も歳なので、お前の天王堂の番と交換することにしたいのだ。お前はせっせと金を儲けて、ここから出たあとの路銀なり生活費なりを貯めるといい。どうだ、さっそく獄卒頭を呼びつけるから、すぐに出立して交代してくるといい」
 典獄が陸謙たちと話していたことを知っている林冲は、「それでは少し支度をする時間をください」とだけ言うと、さっそく李小二の店へと足を運び、夫婦二人に相談した。
 「先程、突然典獄に呼び出され、今日から馬草場の番をするようにと言われたのだ。これは罠だと思うか?」
 「何とも言えませんねえ……ただ、馬草場の番人は、天王堂の番よりずっと待遇は上ですよ。あそこの番人は、馬草を受け取るとき、役賃として金を稼ぐことができますしね。よほど模範となる囚人か、よほど付け届けをはずんだものしかなれないはずです」
 「そうなのか……俺を殺しにかかるのかと思ったが、むしろ良い役目を与えるとは、いったいどのような魂胆か」
 なおも首をひねる林冲に、李小二の女房が微笑みながら酒を勧めた。
 「恩人さま、今はお悩みになっても詮のないこと。恩人さまが無事でさえあればそれでよいのですから、十分用心だけはして、ゆっくりとお過ごしくださいな。ここからは遠くなってしまいますが、必ず機をみて主人と一緒にお訪ねしますよ」
 何か腑に落ちぬことではあったが、囚人である以上、典獄の言葉に背くことはできない。はっきりと分からぬことをいつまでもぐずぐず考えているわけにもいかぬだろう。
 「では、またいずれ会おう」
 少しぬるくなった酒をぐい、と呷り、林冲は深く息を吐いた。


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 「り、林教頭……どなたかと、すれ違いになりませんでしたか?」
 「いや、誰とも」
 「そ、それはよかった……さ、どうぞこちらへ座ってください、ちょうどあなた様にお会いしに行こうと思っていたところだったんです。大事な話があるんでさあ」
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 憎んでも憎み切れず、忘れようとしても忘れられない男の名が、あの雨の日の酷薄な顔が、屈辱が、憤りが、悲しみが、胸の中を迫りあがり、冷え切った冬の日だというのに、全身から汗が噴き出す。
 だがそれ以上に、臓腑を切り刻むが如き痛みを伴って、違う男の名が蘇る。
 「……その、二人組の男とは、どのような男だ」
 「ほとんど一人の男が話していたんですが、そいつは、そうですねえ、年の頃はあなた様と同じく三十頃、背はあまり高くなく、痩せて顔色が悪くて、ひげもない。もう一人の男は、こちらも背が低くて、こっちは赤ら顔でしたねえ」
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 眦が痛いほどに熱い。
 「そいつだ……そのひげのない男が、陸謙だ……こんなところまで、まだ俺を殺そうと……!」
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 「どこに行った……見つけたら、殺してやる……あの男だけは許せぬ……!」
 「ど、どうか落ち着いてください、林教頭! 飯は噎ぬようゆっくりと食い、道では転ばぬようゆっくり歩けと言うではありませんか。急いては何もいいことはありませんぜ、まずは身の回りに用心することが大事です」
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 刺青を施され目を血走らせた囚人だというのに、立ち寄った刃物屋の主人は、林冲の怒気に圧倒されたのか、何も聞かずに己の求めた短刀を差しだした。
 (あの日も、こうしてお前を探し回った……今度ばかりは逃がさんぞ)
 己の吐息だけが、奇妙に大きく耳を打つ。
 見回す景色は揺れ、霞み、だが道行く者の顔だけは、くっきりと見分けることができた。
 表通りにも、裏通りにも、薄汚れた小路にも、見知った顔はない。
 室内での執務が多いせいで、青白い顔。
 髭が薄いことを気にして、つけ髭でもするか、と冗談めかした、あの笑顔。
 物心ついたときからそばにあった顔を、その胴から切り離そうとする日が来るなど、どうして考えただろう。
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 『なぁ謙児、頼む、真剣にだ』
 雪が降る前に婚礼の儀を済ませようとすれば、吉日は案外早くにやってきた。
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 もはや己のためだけに生きる日々は終わり、妻と、やがて生まれてくるであろう子と、そして己の血を受け継いでいくであろう者たちへの責任の重さに、身が震えた。
 そのせいか、情けないことに、時折訪れる頭痛が、あろうことか婚儀の数日前から続いていた。
 いらぬ心配をかけぬよう、誰にも言わず、いつもよりも多めに薬を飲んだ。
 その薬と酒との飲み合わせが悪かったのだろう。あの日、林冲の身体は、万全ではなかった。
 だがせめて、心だけでも平静を、強さを取り戻せるよう、一番自分のことを理解している男と、独り身最後の時を過ごしたかった。
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 武の道を選ばなかった陸謙が、それでも時折、棒の稽古を続けていることは知っていた。
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 鍛錬のための手合わせであろうと互いに全力でぶつかり合ったあの頃と比べ、己と陸謙の間の力の差は歴然としていた。
 たとえ万全でない体でも、陸謙に己が勝つのは当たり前だった。
 そうでなければ、陸謙とともに、内と外から国を支えることなどできない。
 『来い!』
 何合打ち合ったか、今となっては覚えていない。
 だが、鼻息荒く挑みかかった己の中にあった弱さに、あの日、気が付いてしまった。
 (何ということだ……)
 勝ったのは、陸謙だった。
 生まれて初めて、陸謙の前で、林冲は棒を取り落とし、膝をついた。
 (そういう、ことか)
 陸謙を見上げた林冲は、笑った。
 『謙児、明日からは……お前が俺を、俺たち家族を守ってくれ』
 その言葉を聞いたとたん、陸謙は意外げに目を丸くしていた。自分が勝ったのが信じられない、という顔だった。
 だが、かつてともに修行をしていたときも、陸謙の中には光るものがあったのを覚えている。
 結局彼は、文の道を選んだ。弁がたち、頭が切れ、よく物事を知っている彼には、武の道よりも文の道の方が――林冲には決して得られない才を存分に活かす道の方が、向いているに決まっていた。だが、修行を続けていればあるいは、と残念に思う気持ちもあった。
 そしてこの日、久方ぶりの勝負で、たまたま彼の内に眠る力が発揮されたというだけのことだ。
 万全でない体だったなど、言い訳にならない。いついかなる時でも勝負に勝つことのできる強さを得るには、己はまだ、修行が足りなかったのだ。
 家族を持つということにさえ不安を抱き、心が乱れ、文の道へと進んだ友に一度でも後れをとる程度には、まだまだ己は弱いのだ。
 『お前なら、守るべき者への責に潰されそうになる俺を、こうして叱咤してくれる。俺の未熟さを真に見抜き、俺には持ち得ぬ才を持って、ともに歩んでくれる……そうだろう、謙児。だから、俺が俺の未熟さ故に情けない姿を晒したときには、お前が、お前の才で持って、俺を、俺たち家族を守ると約束してくれ。俺は武の才で、お前を、お前の支える国を守ろう』
 『……ああ、そうだな』
 気が付けば、林冲は、牢城の前へと戻っていた。
 慌てて短刀を懐にしまい、血走った目を見られぬよう、うつむいて門をくぐる。
 (俺は、どうすればよかった?)
 どうすれば、妻を、故郷を、誇りを、すべてを友に奪われずに済んだのか。いや、友さえも、奪われたのだ、高俅に。
 (もはや、友ではない)
 それから数日にわたり、林冲は毎日、牢城のまわりをふらふらと、陸謙の姿を求めて歩き回った。
 李小二の店にもそのたびに立ち寄り話を聞いたが、あれ以来、陸謙はこの店に訪れることはないと言う。
 (まだ、俺を殺す時期ではないということか)
 そして当初の差し迫った殺気も幾分和らいできたころ、林冲は突然、典獄に呼び出された。
 「林冲よ、お前もこの牢城に来てしばらくたつが、なかなかこの牢も忙しなくてな。せっかくの柴大官人の手紙もあったというのに、なかなかお前の面倒を見てやることができなかった。そこで、どうだろう、今度お前を、馬草場の番人にしたいのだ」
 「馬草場……」
 典獄は、親し気に林冲の肩を叩いた。
 「東門から出て十五里ほど行ったところにある、軍の大きな馬草場だ。街からは離れてしまうがな、仕事といっても毎月馬草を受け取るだけ、おまけに金を稼ぐことが出来る。今までは年寄りが一人、番をしていたのだが、やつの歳も歳なので、お前の天王堂の番と交換することにしたいのだ。お前はせっせと金を儲けて、ここから出たあとの路銀なり生活費なりを貯めるといい。どうだ、さっそく獄卒頭を呼びつけるから、すぐに出立して交代してくるといい」
 典獄が陸謙たちと話していたことを知っている林冲は、「それでは少し支度をする時間をください」とだけ言うと、さっそく李小二の店へと足を運び、夫婦二人に相談した。
 「先程、突然典獄に呼び出され、今日から馬草場の番をするようにと言われたのだ。これは罠だと思うか?」
 「何とも言えませんねえ……ただ、馬草場の番人は、天王堂の番よりずっと待遇は上ですよ。あそこの番人は、馬草を受け取るとき、役賃として金を稼ぐことができますしね。よほど模範となる囚人か、よほど付け届けをはずんだものしかなれないはずです」
 「そうなのか……俺を殺しにかかるのかと思ったが、むしろ良い役目を与えるとは、いったいどのような魂胆か」
 なおも首をひねる林冲に、李小二の女房が微笑みながら酒を勧めた。
 「恩人さま、今はお悩みになっても詮のないこと。恩人さまが無事でさえあればそれでよいのですから、十分用心だけはして、ゆっくりとお過ごしくださいな。ここからは遠くなってしまいますが、必ず機をみて主人と一緒にお訪ねしますよ」
 何か腑に落ちぬことではあったが、囚人である以上、典獄の言葉に背くことはできない。はっきりと分からぬことをいつまでもぐずぐず考えているわけにもいかぬだろう。
 「では、またいずれ会おう」
 少しぬるくなった酒をぐい、と呷り、林冲は深く息を吐いた。