軽い振動が、ホームを揺らす。
トンネルの奥から、圧縮された空気が流れ込んでくる。
遠くでライトがにじみ、風をまとった列車が音とともにホームへ滑り込んできた。
人もまばらなホームに、ブレーキ音が響く。
列車が止まり、空気の抜ける音とともにドアが開いた。
——次の瞬間。
人が押し出され、わずか数秒でホームは人の洪水に飲み込まれる。
流れは、きれいに一方向へ。
まだまだ圧倒的にマスク姿が目立つが、日に日に外している人も増えてきた。
それぞれが、思い思いの方向を向き、中にはスマホを見ながら、ひたすら進行方向斜め下を見つめながら、それでも改札に向かって歩いている。
衣擦れの音にヒールの音、皮靴の足音。
リズミカルに、でもバラバラで。
人の流れに乗り、その男もいつもの改札に向かっていた。
男は改札を抜け、人混みをかき分けると早足で階段を上りはじめた。
うつ向き加減の顔に生気は無く、その目はぼんやりと何も映していないかのようだ。
「ふあぁ――――っ」
出口1つ前の踊り場で、男は深呼吸するように大きく息を吐き、両手をあげて一つ伸びをした。
斜めに掛けたラップトップ入りのショルダーバッグを、背中側に回し薄汚れた地下の天井を仰ぎ見る。
「さて、今日もがんばりますか」
両手で2回頬を叩く。
続けてエアポッズを出し、左耳にはめた。
そこから、彼のお気に入りの曲が流れ出す。
男の顔に、一気に生気が蘇ってくる。
口元をほころばせ、鼻歌交じりに男は残りの階段を一気に駆け上がる。
まだ3月だというのに、外は眩しいくらいの日差しだった。
そういえば、出かけにチェックしたウエザーニュースが、4月上旬並みの気温と言ってたなと思い出す。
電車内は肌寒いくらいだったが、この分だとオフィスに着くころにはイイ感じに体が温まるかもな、と男は空を見上げた。
正面から朝日を浴びる顔は、もうくたびれたサラリーマンには見えなかった。
男の名は樋浦孔明、OUTECHJPNに入社し今年で三年目を迎える。
彼はここ日本に赴任して以来毎朝、一駅歩いて出勤することを自分に課していた。
これは天候に左右されることなく、必ず実行している彼の朝のルーティーンの一つだった。
「おはようございまーす、マネージャー」
「おはよう、都ちゃん。今日もかっわイイね」
と、どっかのお笑いタレントかというポーズで指差し、すかさずウインクを飛ばす。
「どーぞ」
続けて到着したエレベーターのドアを押さえ、卒なくエスコート。
慣れた動作で、後ろから駆け込んできた女性社員に笑顔を向けた。
その動きに無駄はなく、自然に向けられた笑顔には若い女性社員に対する好奇の視線は微塵も感じられない。
「あっざまーす。ヒューマネ、今朝もカッコいいっすヨ」
エスコートされる都も慣れたもので、親指を突き立て気おくれすることなく返し、もちろんウインクも忘れない。
「この後、みんな来てますよ」
ニコっと笑みを返し、都ちゃんこと木島都がエレベーター内に乗り込んだ。
「りょーかい」
ここは、最寄りの駅からは徒歩1分圏内(直結ともいう)のオフィスビル。
勤務先はその二十七階に居を構えていた。
続いてぞろぞろと、地下鉄と直結されている階段から人が湧いて出てくる。
「ヒューマネ、おはようございまーす。乗りまーす」
ボタンを押して待っている孔明に、皆がそれぞれ挨拶をする。
「おはようございまーす」
「乗りまーす」
「あざまーず」
一気に何人も駆け込んできて、エレベーターはあっという間に満杯になった。
するりと孔明は中に入り込み、コンパネ前に立つと首を巡らせて外を確認した。
「はい。ドア閉めますよ」
振り向き、とびきりの笑顔で軽く頭を傾ける。
さしずめエレベーターボーイである。三十路のゼネラルマネージャーが、だ。
定員一杯の箱の中、頭一つ飛び出た孔明は目を泳がせ天井を見上げるように上を向き軽く頭を振った。
ややウエーブのかかったマッシュヘア。
正面を向き、額にかかった前髪をすらりと伸びた指が撫で上げる。
すっと伸びた鼻梁に続く先は、残念ながらマスクに覆われ見ることは叶わなかった。
少し疲れの現れた大きな瞳が、不意にぎゅっと閉じられた。
孔明が欠伸をかみ殺したところで、エレベーターが二十七階に到着したのだった。