16 2人の夜

ー/ー



 烏丸さんが用意してくれたワゴン上のスエットは、丁寧に畳まれており彼の几帳面な性格を感じさせた。 
 ドレスを脱いでコソコソと着替える。
 柔軟剤と、男っぽい彼の香りに包まれて足先が数センチ浮いたような気分になる。ジェットコースターがゆっくりと頂上へ上っていく時のような、緊張とワクワクがごちゃ混ぜになった一種独特な感じ。こんな感情、なんて呼べばいいんだろう。元推しだったとか、今は上司だから、なんて以前に私は異性とのコミュニケーションに慣れていない。今まで彼氏がいたこともなく、恥ずかしながら男性の部屋に足を踏み入れたのは初めてで。きっとそのせいで、かなり緊張しているんだ。うん。ただそれだけのこと。

(よし。すぐにタクシーで帰ろう)

 ここに来たのは、濡れたドレスを着替えるため。
 目的を達成したのだから長居はしない。
 決意した瞬間、ポロン、と、どこかからピアノの音が流れてきた。 
 生音なのは今回もすぐわかったが、外からの音が聞こえるような間取りではないから、首を傾げてしまう。
 引き寄せられるように音のする方へ。
 リビングにいく途中の廊下の右手側、少し開かれたドアから、そっと中を覗き込む。
 小さなグランドピアノが目に入った。烏丸さんが、鍵盤に指を落としている。
 指の丸め方が綺麗だった。未経験と言っていたのに、なぜピアノがここにあるんだろう。
 インテリア……。いや、無駄を嫌う烏丸さんのイメージじゃない。
 だけど、それよりも。

「綺麗な音色。烏丸さんらしい音ですね」

 思わず部屋の中へ飛び込んでいく。
 烏丸さんは顔を上げた。

「着替えたのか」

 ざっと全身を見られて、顔が一気に赤くなる。ピアノのせいで、ちょっとだけ、恥ずかしさを忘れられていた。

「はい……」
「うん。君は何を着てもそれなりに似合うな」

 一言、さり気なく褒められた。

「ありがとうございます」

 照れながら言うと、烏丸さんは再びポロポロ、と鍵盤を滑らかに叩く。

「お上手ですね」
「適当だよ」
「でも、音の粒が揃っているといいますか……ああ、やっぱり烏丸さんっぽいです。音って、その人を表すんですよ」
「へえ」

 烏丸さんは指を止めた。

「俺のどんな部分が表れてるんだ? スペックの高さ? 甲斐性? ああ、君は俺の声が好きとか言っていたよな。ああ、そうか。サバンナの肉食獣か。と言っても色々あるからな。ま、ライオンあたりか? 百獣の王と言うからな」

 冗談めかした表情の烏丸さん。
 私の前に、さーっとサバンナの光景が現れた。
 今の私はもう、バスから野生を垣間見るツアー客ではなくて。
 とりあえず、バスを下りて自力で地面を踏みしめているようだ。
 そんな私の耳に届く、力強くて爽やかで、みずみずしく美しい音色。目の前に広がるのは、深い青。

「烏丸さんは…………オアシスみたいです」
「オアシス?」

 烏丸さんは首を傾げた。

「動物じゃないのか? 水辺?」
「ええ。砂漠の中のオアシスみたいにみずみずしくて、一口飲めば生き返っちゃうような……。 本当はただの石ころでしかない私に素敵な魔法をかけてくれて、強引だけど、私の嫌がることは絶対にしない。誰かと揉めた時には真っ先に怒って、全面的に味方でいてくれた。 だから、乾ききっていた私が、たった一日でこんなに元気になっちゃったんです。……誰もが引き寄せられずにはいられない、魅力に溢れた素敵な人です」

 烏丸さんは、驚いたように両目を見開き、そして照れくさそうに鼻の頭をそっとなぞった。

「ったく、君は……」

 そういいながら嘆息する。

「あっ。また私ったら、いきすぎたことを」
「いや、そういうのは、初めて言われたから、その、なんだ、ありがとう」

 あ、この感じ、決して気を悪くしたわけじゃないみたいだ。
 なんだか、甘酸っぱい時間が過ぎていく。私の考えが、ストレートに伝わった。
 そんな瞬間は、やっぱり嬉しい。私は話題を変えた。

「烏丸さんのピアノなんですか?」
「まあな。正確には亡くなった母が弾いていたものだ。ずっと埃をかぶってたんだが、君のピアノを聞いた後だと、なんだかこいつが寂しがっているような気がしてきてな。久しぶりに触れてみた」

 烏丸さんは言う。
 私は思わず息を飲んだ。音楽なんて無駄だ、音源で十分だ、なんて、私を煽るためとは言え、言い切っていた烏丸さんがピアノを処分せずにいた意味。
 埃をかぶってた、なんて言ってるけど、黒いボディは艶めいていて、きっちりメンテナンスしていたのがわかる。

(どんな気持ちでこの蓋をあけたのかな)

 そう言えば、烏丸さんは何故この若さで社長をやっているんだろう。
 お父様は?
 淋しがっているのはピアノじゃなくて、もしかしたら烏丸さん自身なのかもしれない。
 ぎゅっと、自分の事みたいに胸が痛む。

「烏丸さん、座っててください。私があなたを、今から音楽好きに変えてあげます」

 私は、ふふっと笑って腕をまくった。

「さっき、私のピアノは好きって言ってくださったけど、本当は音楽のことも、もっと好きになって欲しいんですよね」

 勝手に座って、パラパラとひと撫で。

「あ、調律されてますね」
「一年に一度、一応な」
「完璧です!」

 私は、深呼吸の後、ピアノを弾き始めた。
 烏丸さんの心を癒やす、エモーショナルな曲。
 全部ラブソングなのは、内緒にしておく。クラシック以外で好きなのが、ラブソングばかりだから仕方ない。
 言わなきゃきっとわからないし。
 そう。
 オアシスみたいに爽やかで、肉食獣のようにしなやかな彼に相応しい、どこか凛とした曲をチョイスした。
 彼に喜んでもらいたい。
 ただ、それだけ。

(音楽とは言えない気持ちを伝えるもの)

 ラブソングばかり選んでいるのは、別に、全然理由なんてなくて。
 何曲か弾いて「どうですか?」笑顔で振り向くと、ソファに上半身を預けて眠っている彼が目に入った。

「烏丸さん?」

 声をかけたけど、全然起きない。
 疲れてたのかな……。
 綺麗な寝顔だ。
 長い睫毛が、シャープな輪郭に綺麗な影を落としている。
 思わず見とれて……胸の奥が痛くなる。なんだろう。この感覚。

 長い足が床についていてなんだか苦しそうな姿勢だ。表情はとてもリラックスして見えるから、このまま寝かせておこうと心に決める。今は夏だし、風邪を引くことはないだろう。少しでも楽になればと、彼の肩口にそっと手を伸ばした瞬間。ふいに腕をとられ、強い力でソファへと引きずり込まれた。

「きゃっ」

 悲鳴をあげた後、はっとする。声に驚いて起きてしまったらいけない。
 いつの間にか彼の足は座面にあがり、烏丸さんは私を抱き枕のように抱え込んだまま、すやすやと寝息を立てていた。
 どくん、どくん、と心臓が音を立てている。
 彼の香りが鼻腔をくすぐり、彼の体温が私の熱を上げていく。
 鼓動が大きすぎて、彼の耳に届くんじゃないか……なんて思ってしまうけれど、彼はぐっすり眠っていた。
 私のピアノが子守唄になったのなら、結果オーライなのかなとちょっとだけ思う。
 彼を起こしちゃいけないから、なんて理由で、私は全身の力を抜いた。

 夢を見た。
 烏丸さんが私の髪を撫でる夢。

「起きたんですか? 私……」

 目をこすって起き上がろうとしたら、強い力で腕を引かれ、そのまま唇を塞がれた。

  「んんんっ!」

 覆いかぶさってくる彼の胸元に片手をあてて押しのけようとしたが、男性の重い体にはかなわない。

  「……逃げるな」

 唇の隙間から、掠れた甘いバリトンが溶け込んでくる。 起きているの?
 それとも寝言?
 確かめる間もなく、強引で、でも労うような優しさにあふれたキスが降ってくる。
 初めてだけど、それはとても気持ちが良くて……。
 いつしか、私は彼の首筋に両手をまわして応えていた。

 パッと目をあけた瞬間、体内時計が、朝だと教える。
 私はピアノの部屋のソファで眠り込んでいて、薄いケットがかけられていた。

(私まで眠り込んじゃったんだ……!)

 唇が熱い。

(あれは夢?)

 思わずそこに触れてみる。勿論、何の証拠もないけれど、普通に考えて、寝ぼけたわけでもない烏丸さんが私にキスする理由なんてなくて。

(夢だったんだ)

 そう信じることにした。


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 烏丸さんが用意してくれたワゴン上のスエットは、丁寧に畳まれており彼の几帳面な性格を感じさせた。 
 ドレスを脱いでコソコソと着替える。
 柔軟剤と、男っぽい彼の香りに包まれて足先が数センチ浮いたような気分になる。ジェットコースターがゆっくりと頂上へ上っていく時のような、緊張とワクワクがごちゃ混ぜになった一種独特な感じ。こんな感情、なんて呼べばいいんだろう。元推しだったとか、今は上司だから、なんて以前に私は異性とのコミュニケーションに慣れていない。今まで彼氏がいたこともなく、恥ずかしながら男性の部屋に足を踏み入れたのは初めてで。きっとそのせいで、かなり緊張しているんだ。うん。ただそれだけのこと。
(よし。すぐにタクシーで帰ろう)
 ここに来たのは、濡れたドレスを着替えるため。
 目的を達成したのだから長居はしない。
 決意した瞬間、ポロン、と、どこかからピアノの音が流れてきた。 
 生音なのは今回もすぐわかったが、外からの音が聞こえるような間取りではないから、首を傾げてしまう。
 引き寄せられるように音のする方へ。
 リビングにいく途中の廊下の右手側、少し開かれたドアから、そっと中を覗き込む。
 小さなグランドピアノが目に入った。烏丸さんが、鍵盤に指を落としている。
 指の丸め方が綺麗だった。未経験と言っていたのに、なぜピアノがここにあるんだろう。
 インテリア……。いや、無駄を嫌う烏丸さんのイメージじゃない。
 だけど、それよりも。
「綺麗な音色。烏丸さんらしい音ですね」
 思わず部屋の中へ飛び込んでいく。
 烏丸さんは顔を上げた。
「着替えたのか」
 ざっと全身を見られて、顔が一気に赤くなる。ピアノのせいで、ちょっとだけ、恥ずかしさを忘れられていた。
「はい……」
「うん。君は何を着てもそれなりに似合うな」
 一言、さり気なく褒められた。
「ありがとうございます」
 照れながら言うと、烏丸さんは再びポロポロ、と鍵盤を滑らかに叩く。
「お上手ですね」
「適当だよ」
「でも、音の粒が揃っているといいますか……ああ、やっぱり烏丸さんっぽいです。音って、その人を表すんですよ」
「へえ」
 烏丸さんは指を止めた。
「俺のどんな部分が表れてるんだ? スペックの高さ? 甲斐性? ああ、君は俺の声が好きとか言っていたよな。ああ、そうか。サバンナの肉食獣か。と言っても色々あるからな。ま、ライオンあたりか? 百獣の王と言うからな」
 冗談めかした表情の烏丸さん。
 私の前に、さーっとサバンナの光景が現れた。
 今の私はもう、バスから野生を垣間見るツアー客ではなくて。
 とりあえず、バスを下りて自力で地面を踏みしめているようだ。
 そんな私の耳に届く、力強くて爽やかで、みずみずしく美しい音色。目の前に広がるのは、深い青。
「烏丸さんは…………オアシスみたいです」
「オアシス?」
 烏丸さんは首を傾げた。
「動物じゃないのか? 水辺?」
「ええ。砂漠の中のオアシスみたいにみずみずしくて、一口飲めば生き返っちゃうような……。 本当はただの石ころでしかない私に素敵な魔法をかけてくれて、強引だけど、私の嫌がることは絶対にしない。誰かと揉めた時には真っ先に怒って、全面的に味方でいてくれた。 だから、乾ききっていた私が、たった一日でこんなに元気になっちゃったんです。……誰もが引き寄せられずにはいられない、魅力に溢れた素敵な人です」
 烏丸さんは、驚いたように両目を見開き、そして照れくさそうに鼻の頭をそっとなぞった。
「ったく、君は……」
 そういいながら嘆息する。
「あっ。また私ったら、いきすぎたことを」
「いや、そういうのは、初めて言われたから、その、なんだ、ありがとう」
 あ、この感じ、決して気を悪くしたわけじゃないみたいだ。
 なんだか、甘酸っぱい時間が過ぎていく。私の考えが、ストレートに伝わった。
 そんな瞬間は、やっぱり嬉しい。私は話題を変えた。
「烏丸さんのピアノなんですか?」
「まあな。正確には亡くなった母が弾いていたものだ。ずっと埃をかぶってたんだが、君のピアノを聞いた後だと、なんだかこいつが寂しがっているような気がしてきてな。久しぶりに触れてみた」
 烏丸さんは言う。
 私は思わず息を飲んだ。音楽なんて無駄だ、音源で十分だ、なんて、私を煽るためとは言え、言い切っていた烏丸さんがピアノを処分せずにいた意味。
 埃をかぶってた、なんて言ってるけど、黒いボディは艶めいていて、きっちりメンテナンスしていたのがわかる。
(どんな気持ちでこの蓋をあけたのかな)
 そう言えば、烏丸さんは何故この若さで社長をやっているんだろう。
 お父様は?
 淋しがっているのはピアノじゃなくて、もしかしたら烏丸さん自身なのかもしれない。
 ぎゅっと、自分の事みたいに胸が痛む。
「烏丸さん、座っててください。私があなたを、今から音楽好きに変えてあげます」
 私は、ふふっと笑って腕をまくった。
「さっき、私のピアノは好きって言ってくださったけど、本当は音楽のことも、もっと好きになって欲しいんですよね」
 勝手に座って、パラパラとひと撫で。
「あ、調律されてますね」
「一年に一度、一応な」
「完璧です!」
 私は、深呼吸の後、ピアノを弾き始めた。
 烏丸さんの心を癒やす、エモーショナルな曲。
 全部ラブソングなのは、内緒にしておく。クラシック以外で好きなのが、ラブソングばかりだから仕方ない。
 言わなきゃきっとわからないし。
 そう。
 オアシスみたいに爽やかで、肉食獣のようにしなやかな彼に相応しい、どこか凛とした曲をチョイスした。
 彼に喜んでもらいたい。
 ただ、それだけ。
(音楽とは言えない気持ちを伝えるもの)
 ラブソングばかり選んでいるのは、別に、全然理由なんてなくて。
 何曲か弾いて「どうですか?」笑顔で振り向くと、ソファに上半身を預けて眠っている彼が目に入った。
「烏丸さん?」
 声をかけたけど、全然起きない。
 疲れてたのかな……。
 綺麗な寝顔だ。
 長い睫毛が、シャープな輪郭に綺麗な影を落としている。
 思わず見とれて……胸の奥が痛くなる。なんだろう。この感覚。
 長い足が床についていてなんだか苦しそうな姿勢だ。表情はとてもリラックスして見えるから、このまま寝かせておこうと心に決める。今は夏だし、風邪を引くことはないだろう。少しでも楽になればと、彼の肩口にそっと手を伸ばした瞬間。ふいに腕をとられ、強い力でソファへと引きずり込まれた。
「きゃっ」
 悲鳴をあげた後、はっとする。声に驚いて起きてしまったらいけない。
 いつの間にか彼の足は座面にあがり、烏丸さんは私を抱き枕のように抱え込んだまま、すやすやと寝息を立てていた。
 どくん、どくん、と心臓が音を立てている。
 彼の香りが鼻腔をくすぐり、彼の体温が私の熱を上げていく。
 鼓動が大きすぎて、彼の耳に届くんじゃないか……なんて思ってしまうけれど、彼はぐっすり眠っていた。
 私のピアノが子守唄になったのなら、結果オーライなのかなとちょっとだけ思う。
 彼を起こしちゃいけないから、なんて理由で、私は全身の力を抜いた。
 夢を見た。
 烏丸さんが私の髪を撫でる夢。
「起きたんですか? 私……」
 目をこすって起き上がろうとしたら、強い力で腕を引かれ、そのまま唇を塞がれた。
  「んんんっ!」
 覆いかぶさってくる彼の胸元に片手をあてて押しのけようとしたが、男性の重い体にはかなわない。
  「……逃げるな」
 唇の隙間から、掠れた甘いバリトンが溶け込んでくる。 起きているの?
 それとも寝言?
 確かめる間もなく、強引で、でも労うような優しさにあふれたキスが降ってくる。
 初めてだけど、それはとても気持ちが良くて……。
 いつしか、私は彼の首筋に両手をまわして応えていた。
 パッと目をあけた瞬間、体内時計が、朝だと教える。
 私はピアノの部屋のソファで眠り込んでいて、薄いケットがかけられていた。
(私まで眠り込んじゃったんだ……!)
 唇が熱い。
(あれは夢?)
 思わずそこに触れてみる。勿論、何の証拠もないけれど、普通に考えて、寝ぼけたわけでもない烏丸さんが私にキスする理由なんてなくて。
(夢だったんだ)
 そう信じることにした。