藤堂 悟道は、懐から小さな刃物を取り出した。
そして、自分の手のひらに切り傷をつける。
(あれは、千歳さんと同じ……!?)
この目で何度か見た、血の呪術の発動プロセス。
滴る血は、地面に向けて何滴か落ちる。
「……シロー君、後退!」
「はいっス!」
なにをしてくるのかわからないときは、とにかく後退。攻撃を加えて呪術の発動を妨害するのがベストだが、相手の手の内が一切わからない今は不用意に近付くべきではない。
「はははッ! 逃がすわけがないだろう……!」
血が滴った地面が黒く染まり、ブクブクと泡立つ。
コールタールのような液溜まりから、巨大な生物が飛び出してきた。
「蛇……?」
式神の見た目は、20メートルを超える大きな黒蛇。
龍のような太く強靭な胴体、頭には巨大な角。
『
血形悪行罰示神・
夜刀神』
藤堂 悟道は、自ら呼び出した大蛇の名前を「夜刀神」と言った。この大蛇が異能の力による再現ではなく、本当に神そのものだったとしたら――
(夜刀神……やとのかみ……どこかで聞いたことがあるけど……)
呪術師の中には、式神を操る者がいる。魔術師が自分の分け身として作り出す使い魔との違いは、人間世界に実在する存在を調伏して自由自在に操ること。
夜刀神という存在に、どんな伝承があるのか今思い出すのは難しい。
千歳さんなら知っているかもしれないが……。
「トーヤさん、来るっス!」
シロー君が叫ぶ。
大蛇が僕たち目掛けて突進してきた。
頭に生えた巨大な角に突き刺されたら、即死は免れない。
体当たりを辛うじて躱して、全速力で後退。
逃げに徹しながら、ここからどうやって状況を挽回するか考える。
(式神を使う呪術師の対策は、本人への直接攻撃。でも、そうさせないように式神は動く。となると、囮が必要になる……)
僕が囮になって大蛇の式神を引き付けて、シロー君に藤堂 悟道を取り押さえてもらうべきだろうか。
しかし、あの老人の実力は未知数。
シロー君だけに危険な役割を押し付けるわけにはいかない。
悩んでいられる状況じゃないが、どうするべきか迷ってしまう。
ティセや千歳さんなら、すぐに判断できるはずだ。
僕がやるべきことは――
「トーヤさん。オレが囮になるっスよ」
シロー君の提案は、僕の考えと同じだった。
あの大蛇の相手を、彼ひとりに任せなくてはいけない。
「……ごめん、シロー君。なるべく早く終わらせる。限界だって感じたら、すぐに逃げてほしい」
「ご厚意はありがたいっスけど、大丈夫っスよ。オレ、そこそこ強いんで」
そう言って、シロー君がその場で立ち止まる。
迫り来る大蛇を目の前にしながらも、その背中には一切の恐れを感じさせない。
狼魔族に生まれつき戦いの本能が備わっているという。
異能の力を使った戦闘において、狼魔族の右に出る者はいない。
『
天狼 爪駆の
諸相』
短い詠唱のあと、シロー君の魔力が膨れ上がる。
同時に、彼の体が巨狼に変貌していく。
その姿は、まるで二足歩行の狼男。
灰色の体毛に包まれた巨躯は、3メートルを超えている。
闇夜に輝く金色の瞳は、大蛇の式神を標的にしていた。
『来いよ、オレが相手してやる……!!』
両手を広げて、大蛇の突進を待ち構える。
鋭く尖った大蛇の角が、狼男と化したシロー君に突き刺さろうとする瞬間――
『…………ッッ!!』
バチンッ!!と破裂音のような音が夜の森に響く。
シロー君は、真剣白刃取りのように、鋭利な角の先端を受け止めていた。
『オォォオォォォッッッ!!』
雄叫びと共に、狼魔族特有の凄まじい膂力を発揮。
大蛇の頭から生えていた角を、根元からへし折った。
「――――――!!!!――――!???」
頭の角を折られた大蛇は、地面の上をのたうち回って苦しみはじめる。
この蛇神にとって、角は重要な部位だったのかもしれない。
『ガァァァッッッ!!』
シロー君は、大蛇に向けて無慈悲な一撃を加える。
蛇の頭に強烈な右フックブローをお見舞いした。
森の木々を押し倒しながら、大蛇が吹っ飛んでいく。
「……すっごぉ……」
思わず本音が漏れてしまった。
開いた口が塞がらない。
正直、僕より彼のほうがよっぽど強い。
『こっちは任せてくださいっス!!』
大蛇への追撃のため、夜の森の中へ消えていくシロー君。
その背中を見送ったあと、僕は正面を見据える。
「おいおい、仮にも人間世界の神だぞ。狼魔族の子供が、あれほどの力を持っているとは」
吹っ飛ばされた自分の式神を見た藤堂 悟道は、狼魔族の戦闘力を見て苦笑いしていた。狼魔族の力を脅威に感じている様子だが、まだ余裕があるようだった。
(式神以外に戦う手段がある前提で相手をしないといけない。その前に、巻き込まれた一般人をどうにかしないと……)
藤堂 悟道のうしろには、黒いローブを着た人間がいる。
全員、なんらかの呪術によって洗脳に近い状態で操られている状態。
最悪、彼らを操るだけではなく、盾にするかもしれない。
そんなリスクの中、手の内が見えていない呪術師を相手にするのは困難だ。
「さて、分断したはいいが……ここからどうする気かな? また話をするかい?」
「既に言葉は尽くしました。あなたを説得できるとは思っていません」
「そうか。では、遠慮なく……」
藤堂 悟道は、静かに右手を上げた。
彼のうしろに立つ黒いローブの集団は、結晶の呪術を行使。
僕の頭上に、大量の赤黒い結晶の槍が精製される。
これだけの物量で一斉射されたら、僕は間違いなく防ぎきれない。
「さようなら、柊 冬也。ガーユスを封印してくれたことに関しては、皮肉抜きで感謝しているよ」
自分の勝利や問題の解決を確信した一瞬が、最も大きな隙になる。
かつて、ガーユスとの戦いの最中にティセが不意打ちを受けたときと同じ。
この瞬間のため、既にいくつかの布石を打ってある。
逃走の最中、僕は地面に植物の種を蒔いておいた。
仕込んだ種に地面を通して魔力を与えれば、即座に魔術を発動できる。
そして、この暗闇の中でも魔術行使対象の位置を特定するために綿毛の自然魔術で全員にマーキングをしてある。自分の魔力で作り出した綿毛は、僕自身が最も精密に感知することができる。
(僕の魔術で呪いは祓えなくても、一時的に行動不能にはできる……!)
枯死封印 祓魔の荊棘。
この魔術は、結晶病に侵されて暴走状態にあった魔術師の魔力を吸収して、動きを止めることができた実績がある。
しかし、相手は魔力を持たない人間。呪力だけを吸収できるかはわからないが、絡めた蔦で物理的に動きを封じることは可能だ。やってみる価値はある。
藤堂 悟道が右手を振り下ろそうとしたタイミングを見計らって、僕は地面に魔力を流す。仕込んだ数十個の植物の種を使って、枯死封印を行使した。
『枯死封印 祓魔の荊棘』
両手で印を結び、短い詠唱をする。
地面から生えた大量の茨が、その場にいる者を捉える。
肉体に絡みついた茨は、対象の異能の力を吸い上げていく。
「これは、なんだ……!?」
藤堂 悟道の表情が強張る。
この魔術は、僕のオリジナル。
元々の封印魔術を簡易的にしたものだ。
ガーユスを封印したものとは違うので、情報が無かったのかもしれない。
僕にとっては好都合。
このまま、黒ローブの人間全員を拘束する。
「……っ……く、はっ……はぁっ……」
改良を加えて消費を抑えたとはいえ、封印魔術の行使には大量の魔力が必要になる。僕にとっては捨て身の作戦だったが、成功した。
茨の蔦に巻き付かれた人間は、立ったままぐったりと脱力している。
上空に浮かんでいた赤黒い結晶も霧散して消えた。
どうやら僕が改良を加えた封印魔術は、呪力にも適用できるらしい。
「はは、はははっ! これは驚いた! キミがここまでのことをできるとは……!……人間と魔族の狭間に生きているだけはある!」
茨で身動きを取れなくなった藤堂 悟道が、魔力不足で地面に膝をつく僕を見ながら笑っている。追い込まれている状況とは思えない反応に、僕は困惑するしかなかった。
「……なにを、言っているんです?」
「わからないのか? 両手で相印を結び、呪詛を唱え、命に干渉する……これは、呪術の特徴だ。キミは、印を結んで魔術を使う者を見たことがあるのかね? キミの師匠は、なにも言っていなかったのかな? この魔術は誰に学んだ?」
「…………」
ティセの見ているところで枯死封印を使ったことはない。
ガーユスを封印するときも、彼女は気を失っていた。
そして、この封印魔術が記された魔導書を僕に託したのは――
(リリさん……?)
師匠の師匠、僕にとっては大師匠にあたる国定魔術師。
疑問ばかりが頭に浮かぶ。
僕は、呪術を使っていたのだろうか?
呪術だったとして、魔術師の僕がどうしてそれを使えるのか?
自分の気持ちを押し殺し、今は役目を果たすことだけを考える。
親の帰りを待つ子供たちのために、できることをしなくてはいけない。
「まぁ、いい。別に重要なことではないからな」
「……あなたを警察に連行します。誘拐した人々の呪術を解いてください」
「勝った気でいるのか? この程度で? だから甘いというのだ、貴様ら魔術師は……!!」
藤堂 悟道の瞳が、紅く光る。
祓魔の荊棘によって呪力を吸収されているはずだが、その吸収が追い付かないほどの呪力が彼から溢れている。
それに呼応するように、黒ローブの信者たちが動きはじめる。
瞳には、妖しい紅い光が灯っている。
さっきとは様子が違う。
「彼らの体内にある結晶を通じて、私の呪力供給で動かすことができる。ある程度の損傷なら問題なく動ける理想の操り人形だ。これがどういうことか、わからないわけではないだろう?」
黒ローブの信者たちは、体に巻き付いた茨を強引に引き千切ろうと力を込めている。茨を握った手からは大量に出血し、骨や筋肉を強引に動かすミシミシという音が聞こえてくる。
「やめろ! それ以上やったら……!」
「そうだ。キミがこの茨の拘束を解かないと、彼らはあっという間に壊れてしまうぞ。どうする?」
僕の治癒魔術は、傷や骨折、筋肉の断裂くらいなら治すことができるが、肉体の欠損まで完璧に治せるとは限らない。取り返しのつかない怪我をする前に、茨の拘束を解かなくてはいけない。
「この、外道……っ……!」
ボロボロになって帰ってきた自分の親を見て、子供たちはどう思うだろうか。
そう考えたとき、枯死封印を解く以外に選択肢は無かった。
一斉に魔術行使した影響で、魔術解除は藤堂 悟道の封印にも及んだ。
ここから先、僕は完全に打つ手がない。
「潔いな、賢明だ。さて――」
一瞬だった。
気付いたときには、自分の右太ももに結晶の槍が突き刺さっていた。
「ぐ、ぁ……!!」
「キミは傷を治せるんだったな。念のため、左足もだ」
上空から飛来してきた結晶の槍が、左足の甲に刺さる。
「ぁ……っ……~~~……っ……!!」
絶叫しそうになるのを堪えて、目の前の老人を睨みつける。
今の僕ができる、精一杯の虚勢だった。
「これでも信心深くてね。自分で殺しはしないと決めているんだ。だから、その役目は彼らに任せよう」
藤堂 悟道に操られた黒ローブの信者たちは、紅い瞳を僕に向けてくる。
上空で、無数の結晶の槍が僕を標的としていた。
(あぁ、さすがに……これは無理か……)
今まで、何度も死にそうな目にあってきた。
その度に誰かが助けてくれた。
僕は、いつも誰かに助けられていた。
でも、今回ばかりは無理だ。
(あぁ……結局、子供たちの元に親を帰してあげられなかったな……シロー君に囮まで任せたのに、悪いことをしたなぁ……)
僕のせいで助けられなかった人が大勢いる。
それが無念でならない。
弱い自分が本当に情けない。
そして、それ以上に――
(死ぬなら、最後にティセと……話したかったな……)
最後に、最愛の人を思い浮かべる。
これが走馬燈ってやつだろうか。
きっと彼女は、僕が死んだら悲んでしまうと思う。
意外と寂しがり屋だから、ひとりでヤケ酒とかするんだろう。
僕がいなくても、ちゃんと体を労ってほしい。
健康診断なんて、僕が言わないとちゃんと行かないし。
もっと彼女のそばにいたかった。
彼女と同じ時間を一緒に過ごしたかった。
それができなかったのは、僕が弱いからだ。
「……はは、そっか……そうだよな……いっつもそうだ……」
僕は、自分が弱いとわかっていながら強くなろうとはしていなかった。
暴力は嫌いだし、痛いのも辛いのもイヤだったし。
その結果がコレだ。
どうしてもっとがんばらなかったのだろう。
彼女のために、強くなろうとしなかったんだろう。
理不尽な死への恐怖よりも、最愛の女性を悲しませてしまう自分の不甲斐なさへの怒りで心がいっぱいになっていた。
悔しい。
ティセを悲しませる自分を許せない。
怒りに苛まれながら目を瞑ると、まぶたの裏に赫い光が見えた。
(赫い、匣?)
自分への怒りに呼応するかのように、輪郭をはっきりとさせていく。
僕は、自然と自分の胸に手を添えていた。
「……なんだ?」
異変を感じ取った藤堂 悟道の怪訝そうな声が聞こえてくるが、今は気にする必要はない。
「……あぁ、そうか。ガーユスが、僕に預けてくれたのは――」
胸から手を離し、手のひらを見る。
そこには、眩い光を放つ赫い匣があった。