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レジの向こう側

ー/ー



      ー*ー*ー*ー

 記憶さえ 預けてしまえる カードには
 君の寝息の 熱は宿らず

      ー*ー*ー*ー




​「ポイントカード、お持ちでしょうか」

​聞き飽きたはずの声が、今日はやけに重く響く。

夕暮れのスーパー。買い物客の喧騒の中、彼はレジ袋を握りしめ、静かに、しかし断固として答えた。

「お作りしましょうか?」

「いえ……結構です。いりません」

​背後に並ぶ客たちが、微かな溜息をつくのが分かった。

「ポイント、五倍の日なのにね」

「もったいない、損してるわよ」




無遠慮な囁きが背中に刺さる。

だが、彼には分かっていた。この街の合理主義が産み落としたそのカードは、ただの還元システムではない。それは、魂の断片を吸い上げる「記憶の外部保存装置」だった。





​買い物をし、カードをかざすたび、その店で分かち合った温かな記憶や、日常のささやかな幸福が、少しずつ「向こう側」へ吸い込まれていく。



その代償として、人は「忘れたい悲しみ」を消し去り、安価で穏やかな「偽りの平穏」を手に入れることができる。


人々は競うようにして、重たすぎる過去をカードに預けていた。


​ある日、見慣れない若手の店員が、気遣わしげに声を落とした。



「お客様、長年のご利用でポイントがかなり蓄積されています。……奥様のこと、このカードにバックアップされませんか? そうすれば、あのお別れの夜の痛みも、雨の日の寂しさも、すべて和らぎますよ」



​その瞬間、彼の奥底で何かが爆発した。それは怒りというより、悲鳴に近い拒絶だった。


「これ以上……」


掠れた声が、喉の奥から這い出す。

「これ以上、あいつの声を、あいつと一緒に選んだトマトの赤さを……機械なんかに預けてたまるか!」

​店員の困惑した顔を背に、彼は逃げるように店を出た。

彼は知っていた。記憶を自分の脳内に留め続けることは、この効率化された世界では「損」な生き方だ。

自分の名前。家の鍵の閉め方。
帰り道の曲がり角。

老いた脳の容量は限界に達し、生活に必要な知識は、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。


​だが、夕闇に染まる帰り道、彼は街灯の下で立ち止まり、レジ袋から一袋のチョコレートを取り出した。妻が好きだった、どこにでもある安物だ。


一口かじると、口いっぱいに広がるチープな甘み。


それと同時に、隣で笑う妻の目尻の深いシワや、怒ったときに鼻をすする癖が、鮮明な色彩を伴って蘇った。


​「ああ、まだ、ここにいる」

​彼は、おぼつかない足取りで歩き出す。
自分が誰であるかさえ、もうすぐ忘れるだろう。


それでも、彼は微笑んでいた。

​損をして、傷ついて、ボロボロになっても。
大切な人の記憶を、自分の血肉の一部として持ち帰ること。


それが、彼に遺された最後で最高の、人間としての矜持だった。


​「お忘れ物は、ございませんか」
レジでかけられたいつもの言葉に、彼は心の中で、力強く答える。


​――いいえ。全部、ここに持っています。



     ー*ー*ー*ー

​  ポイントを 拒む指先 震わせて 
  君と選んだ トマト抱きしむ


     ー*ー*ー*ー







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      ー*ー*ー*ー
 記憶さえ 預けてしまえる カードには
 君の寝息の 熱は宿らず
      ー*ー*ー*ー
​「ポイントカード、お持ちでしょうか」
​聞き飽きたはずの声が、今日はやけに重く響く。
夕暮れのスーパー。買い物客の喧騒の中、彼はレジ袋を握りしめ、静かに、しかし断固として答えた。
「お作りしましょうか?」
「いえ……結構です。いりません」
​背後に並ぶ客たちが、微かな溜息をつくのが分かった。
「ポイント、五倍の日なのにね」
「もったいない、損してるわよ」
無遠慮な囁きが背中に刺さる。
だが、彼には分かっていた。この街の合理主義が産み落としたそのカードは、ただの還元システムではない。それは、魂の断片を吸い上げる「記憶の外部保存装置」だった。
​買い物をし、カードをかざすたび、その店で分かち合った温かな記憶や、日常のささやかな幸福が、少しずつ「向こう側」へ吸い込まれていく。
その代償として、人は「忘れたい悲しみ」を消し去り、安価で穏やかな「偽りの平穏」を手に入れることができる。
人々は競うようにして、重たすぎる過去をカードに預けていた。
​ある日、見慣れない若手の店員が、気遣わしげに声を落とした。
「お客様、長年のご利用でポイントがかなり蓄積されています。……奥様のこと、このカードにバックアップされませんか? そうすれば、あのお別れの夜の痛みも、雨の日の寂しさも、すべて和らぎますよ」
​その瞬間、彼の奥底で何かが爆発した。それは怒りというより、悲鳴に近い拒絶だった。
「これ以上……」
掠れた声が、喉の奥から這い出す。
「これ以上、あいつの声を、あいつと一緒に選んだトマトの赤さを……機械なんかに預けてたまるか!」
​店員の困惑した顔を背に、彼は逃げるように店を出た。
彼は知っていた。記憶を自分の脳内に留め続けることは、この効率化された世界では「損」な生き方だ。
自分の名前。家の鍵の閉め方。
帰り道の曲がり角。
老いた脳の容量は限界に達し、生活に必要な知識は、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。
​だが、夕闇に染まる帰り道、彼は街灯の下で立ち止まり、レジ袋から一袋のチョコレートを取り出した。妻が好きだった、どこにでもある安物だ。
一口かじると、口いっぱいに広がるチープな甘み。
それと同時に、隣で笑う妻の目尻の深いシワや、怒ったときに鼻をすする癖が、鮮明な色彩を伴って蘇った。
​「ああ、まだ、ここにいる」
​彼は、おぼつかない足取りで歩き出す。
自分が誰であるかさえ、もうすぐ忘れるだろう。
それでも、彼は微笑んでいた。
​損をして、傷ついて、ボロボロになっても。
大切な人の記憶を、自分の血肉の一部として持ち帰ること。
それが、彼に遺された最後で最高の、人間としての矜持だった。
​「お忘れ物は、ございませんか」
レジでかけられたいつもの言葉に、彼は心の中で、力強く答える。
​――いいえ。全部、ここに持っています。
     ー*ー*ー*ー
​  ポイントを 拒む指先 震わせて 
  君と選んだ トマト抱きしむ
     ー*ー*ー*ー