レイモンドが部屋を出た後、静寂が戻った。
扉が閉まる音すら、どこか遠くに感じられた。
リアナは、しばらくそのまま動かなかった。
朝の光が頬に当たり、薄く汗ばんだ肌に冷たい風が触れる。
心は、ひどく静かだった。けれど――その静けさは、諦めによるものではない。
(カイ……)
名を呼ぶことはできなかった。けれど、胸の奥で確かにその存在を思い描いていた。
かつて手を伸ばしてくれた人。
本気で未来を語ってくれた人。
自分を“所有物”ではなく、“仲間”として見てくれた人。
レイモンドの下で過ごすうちに、感情は閉ざされ、思考すら管理されていった。
だが、あの夜。エランが処分される姿を見てしまったあの日――何かが決定的に壊れたのだ。
(彼は、カイに……何かを託していた)
あれは、ただの失敗者の末路ではなかった。
そして、レイモンドが自分を見下ろすときの“勝利の目”が、なぜか以前よりも空虚に映る。
――今の私は、ただの飾りじゃない。
リアナはゆっくりと身体を起こした。
ドレッサーの鏡に映る自分の瞳が、ほんのわずかに、以前より強く見えた。
着替えを整え、化粧を直す。完璧に。
レイモンドが求める「理想の従属者」を演じる仮面は、まだ捨てられない。
だが、その仮面の下に、小さな“意志”が確かに宿っていた。
(このまま、彼の勝利を許すわけにはいかない)
再びラウンジに戻ると、レイモンドは通信機越しに命令を飛ばしていた。
「物流ルートは一時遮断。対外表記は“保安上の理由”とでもしておけ。
各国にはこちらで調整する」
彼女に気づいたレイモンドは、すぐに表情を和らげた。
「おはよう、リアナ。体調はどうだ?」
「ええ、問題ありません。レイモンド様のそばですから」
リアナは完璧な笑顔を作り、レイモンドの隣に寄り添う。
だがその笑顔の奥に、カイが言った言葉がよみがえる。
「科学は、血を選ばない。選んでいるのは、人間だ。なら――壊すだけだ」
(私も……壊してみせる)
その瞬間、リアナの中で、ただの所有物ではない何かが、静かに息を吹き返していた。
クラリッサの解析モードが静かに発動されていた。
青白いホログラムが空間に浮かび上がる。そこにはセントラルの中央統制機関でしか閲覧できなかった高レベルの機密ファイルが連なっていた。
《セントラル構造統制計画書》
《人口調整プロトコル―除外対象リスト》
《階級遺伝アルゴリズムコード》
「……これが、あの都市の“正体”か」
カイは拳を握りしめた。
この情報をもってして、セントラルという都市がいかに血統による管理を徹底し、それ以外を下層に押し込めることで秩序を保っていたかが明らかになった。
「この情報が本物である確率は98.7%。クラリッサ、今すぐエデンの各管理部に情報を分配しろ」
「了解。……ただし、混乱を避けるため、段階的な共有を推奨します」
カイは頷いた。
「最初に共有すべきは選ばれなかった者たちだ。
この都市は、彼らの居場所であると証明しなければならない」
エデン中央塔では、少数の代表者が召集された。
かつて廃棄都市と蔑まれた場所で、今や新たな秩序を語る者たちが立っていた。
「この情報は、真実ですか」
「我々は、本当に除外されるために生まれてきたのか」
「……だが、それでも、今の我々には選ばれる者に勝る価値がある。自分たちで生き方を選び、未来を築くという意志がある」
カイは言い切った。
「エデンは、生まれではなく選択によって形づくられる都市にする」
その言葉は、ゆっくりと、しかし確実に広がっていった。
データベースは再構築され、旧来のセントラルの階級制度を模倣していた残存プロトコルは破棄。
代わりに、新たな市民制度が提案される。
生まれや家系によらない貢献度評価制度
技術・芸術・教育に重点を置いた自律型育成プログラム
そしてなにより、すべての人間が閲覧できるよう、
《セントラル機密情報公開アーカイブ》が一般端末に開かれた。
その瞬間から、エデンは名実ともにセントラルの対抗都市として歩み出す。