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ベンチの向こう

ー/ー



 毎朝、駅前広場の同じベンチには、決まって老夫婦が座っていた。


淡い水色のセーターを纏った女性と、紺のジャケットを羽織った男性。

二人は寄り添うように同じ方向を見つめ、時折、春の木漏れ日のような柔らかな声で笑い合っていた。



私は通勤途中、その完成された一枚の絵画のような光景を眺めるのが、密かな日課だった。



​ ある朝、その「絵」に空白が生まれた。ベンチには女性が一人だけ。

少し胸がざわついたが、風邪でも引いたのだろうと自分に言い聞かせ、その日は通り過ぎた。


​しかし、次の日も、その翌日も、彼女は一人だった。膝の上には小さな紙袋。



ふとした瞬間に紙袋が傾き、中から一冊のノートがアスファルトへ滑り落ちた。


彼女は気づかない。
遠くを見つめたまま、膝の上で重ねた節くれだった指先を、微かに震わせているだけだった。



​私は吸い寄せられるように歩み寄り、そのノートを拾い上げた。


すぐに返すべきだ。そう思った指先が、ページに刻まれた「文字」の熱量に触れた瞬間、金縛りにあったように動かなくなった。


​――見てはいけない。


理性が警鐘を鳴らすのに、視線は磁石に引かれるように紙面を這った。そこには、夫との記憶が、まるで今この瞬間も続いているかのように綴られていた。



​『今日は病院の窓から見える雲が、あなたの好きだった犬の形に似ていました』

『庭の沈丁花が咲きました。あなたが手入れをしていた頃より、少し背が伸びたようです』


​丁寧な筆致。行間に滲むのは、透明な喪失感と、それを上回るほどの深い慈しみ。


読み進めるほどに、私は他人の聖域を土足で汚しているような罪悪感に苛まれ、同時に、そのあまりに美しい愛の断片から目が離せなくなった。



​私は震える手でノートを閉じ、そっと紙袋に戻した。彼女はまだ、遠いどこかを見つめている。私は声もかけられず、逃げるようにその場を後にした。



​翌日も、彼女はベンチにいた。
手にはあの紙袋。



その横顔には寂しさと覚悟が混じっていたが、同時に、記憶という光に守られているような穏やかさもあった。



​それからも、駅前のベンチは毎朝そこにある。


片方の姿は見えなくても、二人の時間は静かに、けれど熱を持って続いていた。



朝の光に照らされた木製の座面には、残された愛の温度が、陽炎のように柔らかく揺れていた。












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 毎朝、駅前広場の同じベンチには、決まって老夫婦が座っていた。
淡い水色のセーターを纏った女性と、紺のジャケットを羽織った男性。
二人は寄り添うように同じ方向を見つめ、時折、春の木漏れ日のような柔らかな声で笑い合っていた。
私は通勤途中、その完成された一枚の絵画のような光景を眺めるのが、密かな日課だった。
​ ある朝、その「絵」に空白が生まれた。ベンチには女性が一人だけ。
少し胸がざわついたが、風邪でも引いたのだろうと自分に言い聞かせ、その日は通り過ぎた。
​しかし、次の日も、その翌日も、彼女は一人だった。膝の上には小さな紙袋。
ふとした瞬間に紙袋が傾き、中から一冊のノートがアスファルトへ滑り落ちた。
彼女は気づかない。
遠くを見つめたまま、膝の上で重ねた節くれだった指先を、微かに震わせているだけだった。
​私は吸い寄せられるように歩み寄り、そのノートを拾い上げた。
すぐに返すべきだ。そう思った指先が、ページに刻まれた「文字」の熱量に触れた瞬間、金縛りにあったように動かなくなった。
​――見てはいけない。
理性が警鐘を鳴らすのに、視線は磁石に引かれるように紙面を這った。そこには、夫との記憶が、まるで今この瞬間も続いているかのように綴られていた。
​『今日は病院の窓から見える雲が、あなたの好きだった犬の形に似ていました』
『庭の沈丁花が咲きました。あなたが手入れをしていた頃より、少し背が伸びたようです』
​丁寧な筆致。行間に滲むのは、透明な喪失感と、それを上回るほどの深い慈しみ。
読み進めるほどに、私は他人の聖域を土足で汚しているような罪悪感に苛まれ、同時に、そのあまりに美しい愛の断片から目が離せなくなった。
​私は震える手でノートを閉じ、そっと紙袋に戻した。彼女はまだ、遠いどこかを見つめている。私は声もかけられず、逃げるようにその場を後にした。
​翌日も、彼女はベンチにいた。
手にはあの紙袋。
その横顔には寂しさと覚悟が混じっていたが、同時に、記憶という光に守られているような穏やかさもあった。
​それからも、駅前のベンチは毎朝そこにある。
片方の姿は見えなくても、二人の時間は静かに、けれど熱を持って続いていた。
朝の光に照らされた木製の座面には、残された愛の温度が、陽炎のように柔らかく揺れていた。