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大きな樫の木

ー/ー



 私は樫の木です。もうずっと長い間、この丘の上に一人、ぽつんと立っています。
 寂しくはありません。小鳥たちが色々なお話を聴かせてくれるからです。私に向かって話してくれているわけではないけれど、それを聴くのが私の楽しみ。私の枝の上で、ぴちぴちおしゃべりをするのです。

「あっちの方に美味しい木の実が成っているのを見かけたよ」

「最近あの子を見ないねぇ」

「向こうにいっぱい人間の家があるね」

 そんな風に話し合って、少し休んだらどこかに旅立っていく。私はただ見送る。それをもうずっと繰り返しているのです。冬になったら少し眠って、また春が来て……。
 雀が止まる。目を瞑る。目が覚める。一年。椋鳥が止まる。寝て、起きる。二年。また雀。三年。椋鳥、鵯、四十雀。一、二、三。一、二、三。
 寂しくはありません。ただ、少し飽きてしまいました。

 夏風ほど心地よいものはないでしょう。じめじめとした気分を吹き飛ばしてくれるのだから。

 目一杯枝を広げて葉っぱをそよがせていると、丘の下から小さな影たちが登ってくるのが見えました。珍しい。人の子です。一人、二人、三人。男の子でしょうか。先頭の子は大きな麦藁帽を被っています。
 丘の上まで来ると、彼らは駆けっこを始めました。草原の上をあっちに行ったりこっちに行ったり。日の光を浴びて、玉のような汗がきらきらと輝いています。
 甲高い笑い声が辺りに響きます。それを聞いていると、こちらまで楽しくなって、葉っぱをざわめかして笑いました。
 ひとしきり遊びまわった後、彼らは私の足元に腰を下ろしました。心地よく休めるように、日陰でも拵えてあげましょうか。あぁ、こんなに楽しい気分になったのはいつ以来でしょう。私は小さな友人のささやかな声を聴きながら、ゆっくりと目を瞑りました。

 目を覚ますと、あの麦藁帽の少年が一人、私に背を預けていました。少し背が伸びて、大人へと近づいているような気がします。片手には小さな本。綺麗な挿絵がいっぱい描かれています。
 私は葉っぱをそよがせて、彼に語りかけました。

「何を読んでいるの?」

 もちろん、返事はありません。ただざわめく葉っぱの影が、少し日に焼けたページの上をさらさらと流れるだけです。
 けれども彼は時折私を見上げて、じっと見つめるのです。そして、少し微笑んでから、また本に目を落とす。
 太陽はぐるりと空を一周して、落ちていく。

 次の夏も、その次の夏も、少年は私を訪ねました。そして決まって私の足元で、静かに一日を過ごすのです。
 来る度に、その手に持っている本は変わりました。ある時は絵ばかりの本。ある時は文字の沢山書いてある本。よく分からない数字がいっぱい書かれた本の時もありました。
 瞬きの速さで大人びていく少年を見るのは楽しかった。
 私たちの間に会話は無かったけれども、それでも言葉以上の何かで、たしかに通じ合っているような、そんな気がしていました。

 そんな年月が続いてしばらく後、彼の訪いはぷつりと途切れました。幾日幾年経っても、彼が来ることはありませんでした。
 それでも私は彼を待ち続けました。私にできることはそれだけだから。
 小鳥が止まる。小鳥が旅立つ。小鳥が止まる。小鳥が旅立つ。
 寂しくはありませんでした。
 私は止まり木です。目まぐるしく変わっていく世界の中で、変わらずずっとここにいる。私の側で一瞬羽を休めて、みんな旅立っていく。
 けれども私は信じています。いつか巡り巡ってまた私の元で羽を休める日が来ることを。だから私は待つのです。

 今年は梅雨が明けても涼しいままの夏でした。相変わらず私は待ち続けています。涼しい風が私を撫でていきます。
 空が曇ってきました。これは土砂降りの予感。そういえば、彼が私の下で雨宿りをしたこともあったっけ。

 予感は的中。すぐに辺り一面水浸しです。ばしゃばしゃと跳ねる水の音の中に、私は彼の足音を探していました。

 そんなことを思っていると、一閃。
 目の前が真っ白になったと思った次の瞬間、轟音が私の腹を引き裂いていきました。身体の奥が熱い。
 腹の中は空っぽです。視界がぐらりと揺れて崩れていく。
 私は死ぬのです。こんなにも呆気なく、彼に会うこともなく。最後に聞こえたのは、身体がぱきぱきと音を立てて倒れる音。その中に、指が紙を擦るような、微かな音を聞いた気がしました。
 私は泣きました。生まれて初めて、心の底から悲しくなったのです。永遠のような日々に飽きていたのに、今は死にたくないと思っているのです。

 あぁ、死にたくない。彼に会うまでは、死にたくない。
 死にたくなかった。


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 私は樫の木です。もうずっと長い間、この丘の上に一人、ぽつんと立っています。
 寂しくはありません。小鳥たちが色々なお話を聴かせてくれるからです。私に向かって話してくれているわけではないけれど、それを聴くのが私の楽しみ。私の枝の上で、ぴちぴちおしゃべりをするのです。
「あっちの方に美味しい木の実が成っているのを見かけたよ」
「最近あの子を見ないねぇ」
「向こうにいっぱい人間の家があるね」
 そんな風に話し合って、少し休んだらどこかに旅立っていく。私はただ見送る。それをもうずっと繰り返しているのです。冬になったら少し眠って、また春が来て……。
 雀が止まる。目を瞑る。目が覚める。一年。椋鳥が止まる。寝て、起きる。二年。また雀。三年。椋鳥、鵯、四十雀。一、二、三。一、二、三。
 寂しくはありません。ただ、少し飽きてしまいました。
 夏風ほど心地よいものはないでしょう。じめじめとした気分を吹き飛ばしてくれるのだから。
 目一杯枝を広げて葉っぱをそよがせていると、丘の下から小さな影たちが登ってくるのが見えました。珍しい。人の子です。一人、二人、三人。男の子でしょうか。先頭の子は大きな麦藁帽を被っています。
 丘の上まで来ると、彼らは駆けっこを始めました。草原の上をあっちに行ったりこっちに行ったり。日の光を浴びて、玉のような汗がきらきらと輝いています。
 甲高い笑い声が辺りに響きます。それを聞いていると、こちらまで楽しくなって、葉っぱをざわめかして笑いました。
 ひとしきり遊びまわった後、彼らは私の足元に腰を下ろしました。心地よく休めるように、日陰でも拵えてあげましょうか。あぁ、こんなに楽しい気分になったのはいつ以来でしょう。私は小さな友人のささやかな声を聴きながら、ゆっくりと目を瞑りました。
 目を覚ますと、あの麦藁帽の少年が一人、私に背を預けていました。少し背が伸びて、大人へと近づいているような気がします。片手には小さな本。綺麗な挿絵がいっぱい描かれています。
 私は葉っぱをそよがせて、彼に語りかけました。
「何を読んでいるの?」
 もちろん、返事はありません。ただざわめく葉っぱの影が、少し日に焼けたページの上をさらさらと流れるだけです。
 けれども彼は時折私を見上げて、じっと見つめるのです。そして、少し微笑んでから、また本に目を落とす。
 太陽はぐるりと空を一周して、落ちていく。
 次の夏も、その次の夏も、少年は私を訪ねました。そして決まって私の足元で、静かに一日を過ごすのです。
 来る度に、その手に持っている本は変わりました。ある時は絵ばかりの本。ある時は文字の沢山書いてある本。よく分からない数字がいっぱい書かれた本の時もありました。
 瞬きの速さで大人びていく少年を見るのは楽しかった。
 私たちの間に会話は無かったけれども、それでも言葉以上の何かで、たしかに通じ合っているような、そんな気がしていました。
 そんな年月が続いてしばらく後、彼の訪いはぷつりと途切れました。幾日幾年経っても、彼が来ることはありませんでした。
 それでも私は彼を待ち続けました。私にできることはそれだけだから。
 小鳥が止まる。小鳥が旅立つ。小鳥が止まる。小鳥が旅立つ。
 寂しくはありませんでした。
 私は止まり木です。目まぐるしく変わっていく世界の中で、変わらずずっとここにいる。私の側で一瞬羽を休めて、みんな旅立っていく。
 けれども私は信じています。いつか巡り巡ってまた私の元で羽を休める日が来ることを。だから私は待つのです。
 今年は梅雨が明けても涼しいままの夏でした。相変わらず私は待ち続けています。涼しい風が私を撫でていきます。
 空が曇ってきました。これは土砂降りの予感。そういえば、彼が私の下で雨宿りをしたこともあったっけ。
 予感は的中。すぐに辺り一面水浸しです。ばしゃばしゃと跳ねる水の音の中に、私は彼の足音を探していました。
 そんなことを思っていると、一閃。
 目の前が真っ白になったと思った次の瞬間、轟音が私の腹を引き裂いていきました。身体の奥が熱い。
 腹の中は空っぽです。視界がぐらりと揺れて崩れていく。
 私は死ぬのです。こんなにも呆気なく、彼に会うこともなく。最後に聞こえたのは、身体がぱきぱきと音を立てて倒れる音。その中に、指が紙を擦るような、微かな音を聞いた気がしました。
 私は泣きました。生まれて初めて、心の底から悲しくなったのです。永遠のような日々に飽きていたのに、今は死にたくないと思っているのです。
 あぁ、死にたくない。彼に会うまでは、死にたくない。
 死にたくなかった。