第百三十六話:激甘ママ・ヴァルキリア

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 これも「王立・竜の子学園」の放課後の話。
 シェイドとの秘密の特訓を終えたクロノスは、少し足を引きずりながら、母ヴァルキリアの待つ執務室へと帰還した。

「……ただいま戻りました、母上(クイーン)

 重厚な扉を開けると、そこは「闇の特務機関」の本部。
 遮光カーテンで閉ざされた薄暗い部屋の中、ヴァルキリアは黒曜石の玉座で報告書に目を通していた。

「遅かったな、クロノス。闇の眷属たるもの、時間は厳守……む?」

 ヴァルキリアが顔を上げ、息子の姿を捉えた瞬間、その赤い瞳が見開かれた。
 クロノスの膝小僧に、小さな擦り傷と泥がついているのを、彼女の鋭敏な視力は見逃さなかったのだ。

 ガタッ!!

 ヴァルキリアが玉座から立ち上がり、瞬間移動のような速度でクロノスの前に跪いた。

「クロノス!! その傷はどうした!?」

 普段の冷徹な声音はどこへやら、その声は悲鳴に近かった。
 彼女の身体から、どす黒い闇の魔力が怒りと共に噴き出す。

「敵襲か!? 光の教団の残党か!? それとも無礼な輩に絡まれたのか!? 言いなさい! 母がその愚か者を影の彼方へ葬り去ってやる!!」
「は、母上、落ち着いて……」

 クロノスが引くほどの剣幕だ。

「敵襲じゃありません。ただ、特訓中にちょっと転んだだけです」

「転んだ……だと?」

 ヴァルキリアの魔力がピタリと止まる。

「……あんな平坦な場所でか? だ、誰かに足をかけられたのでは?」
「ち、違います。自分の不注意です。……これくらい、舐めれば治ります」

 クロノスが強がって傷を隠そうとすると、ヴァルキリアの表情が一変した。
 鬼のような形相が崩れ、とろけるような甘い母親の顔になる。

「ああ……! なんてことだ、私の可愛いクロノス……!」

 ヴァルキリアはクロノスを抱き寄せ、まるで壊れ物を扱うように膝の傷に手をかざした。

「痛かっただろう? 怖かっただろう? 許せ、母がついていながら……」
「いや、母上は仕事中でしたし……」
「黙っていなさい。……痛いの痛いの、闇に消えろ(ダークネス・ヒール)……」

 ヴァルキリアは、かつて魔王軍の将軍さえ震え上がらせた強大な闇魔法を、たかが「膝の擦り傷」の治療のためだけに、極限まで繊細にコントロールして注ぎ込んだ。
 傷が一瞬で塞がる。

「よし、もう大丈夫だ。……でも、念のため消毒を」

 そう言うと、ヴァルキリアはクロノスの頬を両手で包み込み、額と額を合わせた。

「無事でよかった……。お前にもしものことがあったら、母は世界を闇に沈めてしまうところだったぞ……」
「母上、近いです。あ、あと、大げさです」
「いいや、大げさではない。お前は私の闇を照らす、唯一の希望なのだから……」


 ヴァルキリアはクロノスの頭を胸に抱き寄せ、愛おしそうに撫で回した。

「よしよし、偉いぞクロノス。痛みに耐えて、男の子だねぇ……」
「むぐぐ……やめてください、母上……!」

 その時だった。

 執務室の扉が、少しだけ開いていた隙間から、小さな影が飛び込んできた。

「みーつけた! くろのすお兄ちゃん!」
「!!」

 現れたのは、セフィラの娘、リベル(風/二歳)だった。
 彼女はクロノスの後をこっそりつけてきていたのだ(風の隠密能力は侮れない)。どうやら、最近の彼女のなかの流行りらしく、クロノスがいくら突っぱねてもしつこいので、半ばあきらめていた。

 リベルは、部屋の中央で繰り広げられている光景――孤高の女王ヴァルキリアが、デレデレに息子を甘やかしている姿――を見て、目を丸くした。

「あー! ヴァルキリアおばちゃん、クロノスお兄ちゃんにギューしてる!」

 リベルが無邪気に叫ぶ。
 ヴァルキリアの動きが凍りついた。

「……ッ!?」

 彼女はバッとクロノスから離れ、マントを翻して玉座に戻り、咳払いをした。

「コ、コホン!! ……誰だ、神聖な闇の儀式を覗き見る不届き者は!」

 ヴァルキリアは顔を真っ赤にしながら、必死に孤高のポーズを取り繕った。
「儀式……?」

 リベルが小首をかしげる。

「そ、そうだ! 今のは『闇の苦痛転移の儀』! クロノスの傷の痛みを、我が身に移し替えるという、恐ろしくも崇高な魔術なのだ! 決して、甘やかしていたわけではない!」
「ふーん……?」

 リベルはヴァルキリアとクロノスを交互に見る。
 そして、ニカっと笑った。

「ヴァルキリアおばちゃん、ママみたい!」
「なっ……!?」

 ヴァルキリアが絶句する。

「ママもね、リベルが痛いときはギューってしてくれるよ! おばちゃんも、クロノスお兄ちゃんのこと大好きなんだね!」

 純真無垢な幼児の直球攻撃。

「孤高」や「深淵」といった鎧は、リベルの笑顔の前では紙屑同然だった。

 ヴァルキリアは耳まで赤くし、口元を手で覆って震えた。

「くっ……! この風の眷属め……! この歳で精神攻撃(メンタル・アタック)の使い手とは……!?」

 クロノスは溜息をつき、リベルに近寄った。

「ねぇ、リベル。……これは、秘密の儀式なんだ。誰にも言っちゃダメだよ」
「えー? なんでー?」
「言ったら、闇の呪いでオヤツがピーマンになる」
「やだー! 言わない! 絶対言わない!」

 リベルは両手で口を塞いだ。

 ヴァルキリアは、そんな子供たちのやり取りを見て、ふっと力を抜いた。

「……フン。分かればいい」

 彼女は机の引き出しから、最高級のダークチョコレート(王室御用達)を取り出し、リベルに放ってやった。

「口止め料だ。……持っていけ」
「わあ! チョコだ! ありがとうおばちゃん!」

 リベルはチョコを受け取り、嬉しそうに駆け寄ってくると、ヴァルキリアの足にしがみついた。

「おばちゃん、やさしいね!」
「ひっ……!?」

 ヴァルキリアは硬直した。

 自分の足元にまとわりつく、小さくて温かい生き物。
 払いのけることもできず、彼女はおろおろと手を彷徨わせた後、ぎこちなくリベルの頭を撫でた。

「……勘違いするな。これは、将来の同盟者への投資だ」
「えへへー」
「あ、あと、おばちゃんじゃなくて、綺麗なヴァルキリアお姉さん、とお呼びなさい!」
「わかったー、でも、ちょっと難しいよぅ……」


 その夜。

 ヒカルがヴァルキリアの部屋を訪れると、そこには珍しい光景があった。
 ソファーで眠ってしまったクロノスと、遊び疲れたリベル。
 その二人に、ヴァルキリアが自分のマントを掛けてやっていたのだ。

「……ヴァルキリア。子供好きなんだな」

 ヒカルが微笑むと、ヴァルキリアは赤面して顔を背けた。

「た、戯言を! 私はただ、未来の戦力を温存しているだけだわ!」

 そう言いながらも、彼女が子供たちに向ける眼差しは、闇のように深く、そして夜の静寂のように優しかった。
「激甘ママ」の秘密を知っているのは、今のところ、クロノスとリベル、そしてヒカルだけの秘密である。



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 これも「王立・竜の子学園」の放課後の話。
 シェイドとの秘密の特訓を終えたクロノスは、少し足を引きずりながら、母ヴァルキリアの待つ執務室へと帰還した。
「……ただいま戻りました、母上《クイーン》」
 重厚な扉を開けると、そこは「闇の特務機関」の本部。
 遮光カーテンで閉ざされた薄暗い部屋の中、ヴァルキリアは黒曜石の玉座で報告書に目を通していた。
「遅かったな、クロノス。闇の眷属たるもの、時間は厳守……む?」
 ヴァルキリアが顔を上げ、息子の姿を捉えた瞬間、その赤い瞳が見開かれた。
 クロノスの膝小僧に、小さな擦り傷と泥がついているのを、彼女の鋭敏な視力は見逃さなかったのだ。
 ガタッ!!
 ヴァルキリアが玉座から立ち上がり、瞬間移動のような速度でクロノスの前に跪いた。
「クロノス!! その傷はどうした!?」
 普段の冷徹な声音はどこへやら、その声は悲鳴に近かった。
 彼女の身体から、どす黒い闇の魔力が怒りと共に噴き出す。
「敵襲か!? 光の教団の残党か!? それとも無礼な輩に絡まれたのか!? 言いなさい! 母がその愚か者を影の彼方へ葬り去ってやる!!」
「は、母上、落ち着いて……」
 クロノスが引くほどの剣幕だ。
「敵襲じゃありません。ただ、特訓中にちょっと転んだだけです」
「転んだ……だと?」
 ヴァルキリアの魔力がピタリと止まる。
「……あんな平坦な場所でか? だ、誰かに足をかけられたのでは?」
「ち、違います。自分の不注意です。……これくらい、舐めれば治ります」
 クロノスが強がって傷を隠そうとすると、ヴァルキリアの表情が一変した。
 鬼のような形相が崩れ、とろけるような甘い母親の顔になる。
「ああ……! なんてことだ、私の可愛いクロノス……!」
 ヴァルキリアはクロノスを抱き寄せ、まるで壊れ物を扱うように膝の傷に手をかざした。
「痛かっただろう? 怖かっただろう? 許せ、母がついていながら……」
「いや、母上は仕事中でしたし……」
「黙っていなさい。……痛いの痛いの、闇に消えろ(ダークネス・ヒール)……」
 ヴァルキリアは、かつて魔王軍の将軍さえ震え上がらせた強大な闇魔法を、たかが「膝の擦り傷」の治療のためだけに、極限まで繊細にコントロールして注ぎ込んだ。
 傷が一瞬で塞がる。
「よし、もう大丈夫だ。……でも、念のため消毒を」
 そう言うと、ヴァルキリアはクロノスの頬を両手で包み込み、額と額を合わせた。
「無事でよかった……。お前にもしものことがあったら、母は世界を闇に沈めてしまうところだったぞ……」
「母上、近いです。あ、あと、大げさです」
「いいや、大げさではない。お前は私の闇を照らす、唯一の希望なのだから……」
 ヴァルキリアはクロノスの頭を胸に抱き寄せ、愛おしそうに撫で回した。
「よしよし、偉いぞクロノス。痛みに耐えて、男の子だねぇ……」
「むぐぐ……やめてください、母上……!」
 その時だった。
 執務室の扉が、少しだけ開いていた隙間から、小さな影が飛び込んできた。
「みーつけた! くろのすお兄ちゃん!」
「!!」
 現れたのは、セフィラの娘、リベル(風/二歳)だった。
 彼女はクロノスの後をこっそりつけてきていたのだ(風の隠密能力は侮れない)。どうやら、最近の彼女のなかの流行りらしく、クロノスがいくら突っぱねてもしつこいので、半ばあきらめていた。
 リベルは、部屋の中央で繰り広げられている光景――孤高の女王ヴァルキリアが、デレデレに息子を甘やかしている姿――を見て、目を丸くした。
「あー! ヴァルキリアおばちゃん、クロノスお兄ちゃんにギューしてる!」
 リベルが無邪気に叫ぶ。
 ヴァルキリアの動きが凍りついた。
「……ッ!?」
 彼女はバッとクロノスから離れ、マントを翻して玉座に戻り、咳払いをした。
「コ、コホン!! ……誰だ、神聖な闇の儀式を覗き見る不届き者は!」
 ヴァルキリアは顔を真っ赤にしながら、必死に孤高のポーズを取り繕った。
「儀式……?」
 リベルが小首をかしげる。
「そ、そうだ! 今のは『闇の苦痛転移の儀』! クロノスの傷の痛みを、我が身に移し替えるという、恐ろしくも崇高な魔術なのだ! 決して、甘やかしていたわけではない!」
「ふーん……?」
 リベルはヴァルキリアとクロノスを交互に見る。
 そして、ニカっと笑った。
「ヴァルキリアおばちゃん、ママみたい!」
「なっ……!?」
 ヴァルキリアが絶句する。
「ママもね、リベルが痛いときはギューってしてくれるよ! おばちゃんも、クロノスお兄ちゃんのこと大好きなんだね!」
 純真無垢な幼児の直球攻撃。
「孤高」や「深淵」といった鎧は、リベルの笑顔の前では紙屑同然だった。
 ヴァルキリアは耳まで赤くし、口元を手で覆って震えた。
「くっ……! この風の眷属め……! この歳で精神攻撃《メンタル・アタック》の使い手とは……!?」
 クロノスは溜息をつき、リベルに近寄った。
「ねぇ、リベル。……これは、秘密の儀式なんだ。誰にも言っちゃダメだよ」
「えー? なんでー?」
「言ったら、闇の呪いでオヤツがピーマンになる」
「やだー! 言わない! 絶対言わない!」
 リベルは両手で口を塞いだ。
 ヴァルキリアは、そんな子供たちのやり取りを見て、ふっと力を抜いた。
「……フン。分かればいい」
 彼女は机の引き出しから、最高級のダークチョコレート(王室御用達)を取り出し、リベルに放ってやった。
「口止め料だ。……持っていけ」
「わあ! チョコだ! ありがとうおばちゃん!」
 リベルはチョコを受け取り、嬉しそうに駆け寄ってくると、ヴァルキリアの足にしがみついた。
「おばちゃん、やさしいね!」
「ひっ……!?」
 ヴァルキリアは硬直した。
 自分の足元にまとわりつく、小さくて温かい生き物。
 払いのけることもできず、彼女はおろおろと手を彷徨わせた後、ぎこちなくリベルの頭を撫でた。
「……勘違いするな。これは、将来の同盟者への投資だ」
「えへへー」
「あ、あと、おばちゃんじゃなくて、綺麗なヴァルキリアお姉さん、とお呼びなさい!」
「わかったー、でも、ちょっと難しいよぅ……」
 その夜。
 ヒカルがヴァルキリアの部屋を訪れると、そこには珍しい光景があった。
 ソファーで眠ってしまったクロノスと、遊び疲れたリベル。
 その二人に、ヴァルキリアが自分のマントを掛けてやっていたのだ。
「……ヴァルキリア。子供好きなんだな」
 ヒカルが微笑むと、ヴァルキリアは赤面して顔を背けた。
「た、戯言を! 私はただ、未来の戦力を温存しているだけだわ!」
 そう言いながらも、彼女が子供たちに向ける眼差しは、闇のように深く、そして夜の静寂のように優しかった。
「激甘ママ」の秘密を知っているのは、今のところ、クロノスとリベル、そしてヒカルだけの秘密である。