第百七話:魅惑の温泉イベント(前編)
ー/ー 魔王軍の第一波を退けた数日後。
ヒカルと六龍姫、そして護衛の王室メイド隊を乗せた大型の魔導馬車は、戦場となった荒野を離れ、湯煙たなびく山岳地帯へと向かっていた。
車内は、王族の移動用とは思えないほど、浮足立った空気に包まれていた。
だが、ヒカルだけは通信用の水晶を手に、神妙な面持ちで外部との交信を行っていた。
『――そうですか。被害が最小限で済んだのは、論理的に喜ばしいことです』
水晶の向こうから聞こえるのは、エルフ族の学術院最高賢者、イリス・アルゴリズムの涼やかな声だ。
彼女の解析(ナレッジ)がなければ、あの霧と重力の連携を崩すことはできなかった。
「改めて礼をさせてくれ、イリス殿。貴方の知恵が、俺たちの命とこの国を救った。この借りは必ず返す」
ヒカルが深く頭を下げると、イリスは少しだけ困ったように沈黙し、淡々と答えた。
『借りなどではありません、竜の王。私は「愛」という非合理なパラメーターが、物理法則を凌駕する現象に興味を持っただけ。……それに、貴方の生存は、エルフ族にとっても「魔王軍への抑止力」として合理的です』
「相変わらず素直じゃないな。……だが、これからも頼りにしている」
『ええ。データの共有は継続します。……ところで、王よ。先ほどから背景ノイズが著しく高いのですが? 戦闘中ですか?』
イリスが怪訝そうに尋ねる。
ヒカルは苦笑して、視線を車内へと向けた。
「いや……ある意味、戦場より激しいかもしれない」
◇◆◇◆◇
そこは、まさにカオスだった。
「見て見て団長ー! 『温泉の歩き方』って本に、卓球っていう遊戯が載ってるよ! 枕投げっていう決闘作法もあるんだって!」
疾風の遊撃竜姫セフィラが、車内のソファをトランポリンのように跳ね回りながら、ガイドブックをヒカルの顔に押し付ける。
「こらセフィラ! 王の御前で暴れるな! ……夫よ、それよりこちらを見て! アクアと相談して用意した『湯浴み着』なのだが、この布面積で本当に防御力足りるのかしら?」
紅蓮の激情竜姫レヴィアが、ほとんど紐のような布切れ(最新流行の水着らしい)を広げて見せる。
その顔は真っ赤だが、瞳は期待でギラギラと輝いている。
「レ、レヴィア! それはあくまで『デザインの参考』です! 論理的に考えて、公衆の面前でそれを着用するのは公序良俗に反します!」
蒼玉の理性竜姫アクアが慌てて布を奪い取ろうとするが、その鞄からは、色違いの似たような布切れがはみ出していた。
「あーあ、二人ともはしたない。……主よ、わらわが作った温泉卵と燻製肉はいかがですか? 湯治には栄養補給が不可欠です」
磐石の守護龍テラは、どこから出したのか七輪で何かを焼き始め、車内に香ばしい匂いを充満させている。
「……騒がしい。闇の静寂が恋しくなるな」
深淵の孤高竜姫ヴァルキリアは、窓際で腕を組んで不機嫌そうにしているが、その足元にはしっかりと「美肌効果のある泥パックセット」が置かれていた。
「皆様、楽しそうですね。ふふっ」
純白の調和聖女ルーナは、そのカオスな光景を聖母のような微笑みで見守っている。
ヒカルは、通信水晶に向かって溜息をついた。
「……というわけだ、イリス。今は『愛の湯治作戦』への移動中でね。みんな、羽を伸ばしすぎている」
『……なるほど。「感情の解放(リフレッシュ)」ですね。非合理ですが、生体機能の維持には必要不可欠と記録されています。……楽しんできてください、王よ』
プツン、と通信が切れる。
ヒカルが水晶を置くと同時に、セフィラが背中に飛び乗ってきた。
「ねえねえ団長! 到着したらまず何する!? 混浴!? それとも混浴!?」
「セフィラ、選択肢が一つしかないぞ」
「あら、いいじゃない混浴! 夫婦なのだから当然の権利よ!」
レヴィアが身を乗り出し、豊満な胸をヒカルの腕に押し付ける。
「今回の戦い、MVPは逃したけれど……この『湯治』という戦場では、私がMVP(最も・ビショ濡れな・パートナー)になってみせるわ!」
「略称の意味が違います、レヴィア」
アクアが眼鏡を光らせて突っ込むが、その視線はヒカルを熱っぽく捉えている。
「ですが……王の疲労を癒やすための『密着スキンシップ』は、論理的に推奨される療法です。私も、協力は惜しみません」
「主のお背中は、わらわがお流しします」
テラも譲らない。
車内の温度が、物理的にも感情的にも上昇していく。
ヒカルは、運転席のリリアに助けを求める視線を送ったが、彼女はバックミラー越しに微笑むだけだった。
「諦めてください、ヒカル様。皆様、魔王軍との戦いの緊張の糸が切れて、愛が溢れ出してしまっているのです」
「リリアまで……」
「それに……」
リリアは小声で付け加えた。
「私も、王室メイド長として、王の『肌の健康チェック』は入念に行わせていただく予定ですので」
ヒカルは天を仰いだ。
魔王軍との戦いは一時休戦だが、ここから始まるのは、ある意味それ以上に消耗するであろう「愛の激戦」だ。
「……見えてきました! 秘湯の渓谷です!」
御者台の兵士が声を上げる。
湯煙の向こうに、古風な造りの巨大な温泉宿が見えてきた。
「よーし! 一番風呂は頂いたー!」
セフィラが窓から飛び出し、風となって宿へ突っ込んでいく。
「ま、待ちなさい、セフィラ! 抜け駆けは許さないわよ!」
レヴィアも炎を噴いて飛び出す。
「もう、秩序を守りなさい! ……待ってください、私も行きます!」
アクアも続く。
次々と飛び出していく妻たちを見送りながら、ヒカルは苦笑して、ゆっくりと馬車を降りた。
(……昔の俺が見たら、腰を抜かすだろうな)
ふと、ヒカルの脳裏に、かつて竜族に怯え、処刑台から逃げ出したあの雨の夜の記憶が蘇った。
あの頃の自分は、竜という圧倒的な力を前にして、恐怖を押し殺すことだけで精一杯だった。それが今や、最強の竜姫たちに囲まれ、彼女たちの奔放な愛に振り回されながらも、心からの安らぎを感じている。
(嘘みたいだ。でも、これが俺の選んだ日常で、俺が一番守りたい場所なんだ)
ヒカルは、先行する妻たちの賑やかな声に耳を傾けながら、深く息を吸い込んだ。
この騒がしくも温かい空気が、ヒカルにとっては世界のどんな宝石よりも愛おしかった。
「さて……。骨の髄まで癒やされるとしますか」
そう呟くヒカルの足取りは、戦場に向かう時よりも、少しだけ軽かった。
彼はふと足を止め、後続の馬車隊に視線を送った。
そこには、六天将をはじめとする主力部隊や、負傷した兵士たちが乗っている。
「そうだ、後ろの連中にも一言伝えておかないとな」
ヒカルは通信水晶を手に取り、全軍へ向けて念話を飛ばした。
『全軍に告ぐ。今回の湯治は、お前たちの働きに対する報酬だ。特に負傷した者は、最優先で湯に浸かり、傷を癒やせ。……それと、今夜の宴席には、特別に極上の酒と肉を手配してある。遠慮はいらない、存分に食って、飲んでくれ』
『おおおっ! 王、感謝します!!』
『一生ついていきます!!』
通信機の向こうから、兵士たちの歓喜の声が聞こえてくる。
本軍は依然として魔族の再侵攻を警戒し、六天将を中心に厳重な布陣を敷いている。完全な休息とはいかないが、それでも少しでも彼らの労をねぎらいたかった。
(……まずは姫たちを連れてきてしまったが、部隊ごとのローテーションをもっと細かく組むべきだったかな)
ヒカルは少しだけ反省しつつも、この平和な時間を守るために、再び戦場に立つ覚悟を新たにした。
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