第百一話:調律の剣と王の覚悟
ー/ー シエルとフレアの懐妊報告に沸いたあの日から、数週間が経過した。
統一王国『調和の座』は、表面上は平和な祝賀ムードに包まれていたが、王城の地下深部にある極秘区画「学術院・特別実験棟」だけは、張り詰めた緊張感に支配されていた。
「――バイタル安定。魔力回路、接続完了。王よ、覚悟はよろしいですか?」
無機質な声で告げたのは、技術統括のアウラだ。
実験台の上に横たわるヒカルの右腕には、人類の魔導工学と竜族の秘術を結晶させた新たなデバイス――『調律の剣』が埋め込まれていた。それは単なる武器ではない。ヒカルの肉体を、人間という枠組みを超えた存在へと強制的に進化させるための制御装置だ。
ヒカルは、天井の無影灯を見つめながら、静かに息を吐いた。
「ああ、構わない。始めてくれ、アウラ」
この数週間、ヒカルは何度も悪夢を見た。
魔王軍の圧倒的な暴力の前に、愛する妻たちが、そしてこの国が蹂躙される夢だ。カインとの戦いで得た勝利は、ヒカルに「優しさ」の力を確信させたが、同時に「人間という種の限界」をも突きつけていた。寿命、耐久力、魔力容量……その全てが、竜族の王として君臨し続けるにはあまりにも脆弱すぎるのだ。
「システム起動。オリジン・コードへのアクセスを開始します」
アウラの操作と共に、ヒカルの視界が赤く染まる。
激痛。
血管の中を溶岩が流れるような熱さが、右腕から全身へと駆け巡る。それは、人間の遺伝子が悲鳴を上げ、強引に書き換えられていく音だった。
「ぐっ……がああああああッ!!」
ヒカルの喉から、獣のような咆哮が漏れる。
意識が飛びそうになる瞬間、二つの柔らかな手がヒカルの両手を強く握りしめた。
「ヒカル王! 私の信仰の光を、精神の錨にしてください!」
「王よ! 私の王家の血脈が、貴方の人間としての尊厳を繋ぎ止めます!」
右手を握るのは、元聖女候補シルヴィア。左手を握るのは、旧帝国皇女レオーネ。
今回、この危険な儀式の「調律補助」として抜擢されたのは、竜姫たちではなく、人類側の盟約側妃である彼女たちだった。竜姫たちの強すぎる魔力は、変異の初期段階にあるヒカルの肉体には負担が大きすぎるというアウラの判断によるものだ。
シルヴィアの純粋な祈りが、暴走しようとする竜の衝動を浄化し、レオーネの理知的な献身が、ヒカルの自我を現実へと引き戻す。
二人の人間の女性による「調律補助」。それは、ヒカルがまだ人間であることを証明する最後の命綱だった。
「――形態発動、第一段階。安定領域に到達しました」
アウラの声が遠く聞こえる。
ヒカルは荒い息を吐きながら、自身の右腕を見上げた。そこには、深紅の硬質な鱗がびっしりと覆い、指先は鋭利な鉤爪へと変貌していた。
ただの装飾ではない。筋肉の繊維一本一本が、鋼鉄のワイヤーのように強化され、莫大な魔力を内包しているのが分かる。
「これが……。部分竜化……」
ヒカルは、その腕を握りしめた。軽い力で空気が弾け、衝撃波が実験室の壁を揺らす。
圧倒的な力。だが同時に、ヒカルは背筋が凍るような感覚を覚えた。
心の奥底で、何かが冷たく変質していく感覚。
「敵を殲滅したい」「支配したい」という、竜族特有の闘争本能が、ヒカルの理性的な思考を侵食し始めているのだ。
「成功です、王」
学術顧問のエルダー・ソフスが、重々しく告げた。
「テロメア制御プログラムも正常に稼働しています。これで貴方の細胞分裂の限界は突破され、寿命は竜族の姫たちに比肩する数百年へと延長されました。貴方は、人間の姿をしたまま、時の枷から解き放たれたのです」
ヒカルは上体を起こし、汗に濡れた前髪をかき上げた。
「……代償は?」
「以前ご説明した通りです。テロメア制御の過剰な安定化により、貴方の生殖細胞は人間としての変異性を失いました」
ソフスは、淡々と、しかし希望を含ませて解説した。
「人間との間に子を成す確率は、極めて低くなりました。限りなくゼロに近いでしょう。しかし、逆に竜族の姫たちとの相性は向上したと考えられます。竜の因子を受け入れるには、脆弱な人の器では不十分でしたから。これからは、貴方の強靭な肉体が竜の魂を受け止める礎となるのです」
「なるほどな……」
ヒカルは自身の掌を見つめた。
戦場の視覚化が、現在の自身のBPIを弾き出す。
BPI 18〜20。
以前の「2」という数値からすれば飛躍的な向上だが、竜族の一般兵(BPI 50)にも満たない。戦闘力として見れば、人間としては超人級だが、竜の世界では未だ非力だ。
「だが、重要なのは数値じゃない。『耐久力』だ。これなら、お前たちの力を今の10倍以上引き出しても、俺の体は耐えられる」
「素晴らしいわ、夫よ!」
紅蓮の激情竜姫レヴィアが、瞳を輝かせてヒカルの手を取った。彼女の表情に悲壮感はない。あるのは、純粋な喜びと肯定だった。
「聞いたか? 貴方は我らに近づいたのだ! 人間の子ができにくくなったというなら、それは我ら竜との子作りに専念せよという天啓! 何より、貴方はもう、私の全力の愛を受け止めても壊れない体を手に入れたのよ!」
レヴィアの言葉に、疾風の遊撃竜姫セフィラもニカっと笑って親指を立てる。
「うんうん、団長が頑丈になったのはいいことだよ! これで心置きなくもっと速く、もっと高く飛べるね!」
闇の王女ヴァルキリアも、腕を組みながら満足げに頷いた。
「契約者の脆弱性は常に戦略的リスクだった。その強化は、王としての資質をより強固なものにする。悪くない判断だ」
一方で、純白の調和聖女ルーナは、その透き通るような白金の瞳を不安に揺らしてヒカルに歩み寄る。
「ヒカル様……。お体の変化は受け入れますが、心まで竜の闘争本能に染まらないでください。貴方の魂の温かさが失われることだけが、私は怖いのです」
磐石の守護龍テラも、母性的な眼差しで深く頷いた。
「わらわも同感です。強さは必要ですが、王の優しさが失われては、我々が守るべきものがなくなってしまいます」
蒼玉の理性竜姫アクアは、冷静さを保ちつつも、眼鏡の奥の瞳に憂いを滲ませた。
「論理的には戦力の向上ですが、精神的なリスクは未知数。……あまり無理はなさらないでください」
近接護衛のリリアもまた、強くなった主人の背中を、どこか寂しげに見つめている。
ヒカルは、肯定する者たちの力強さと、案じる者たちの優しさ、その両方を「王の義務」として受け止めた。
「心配するな、ルーナ、テラ、アクア。俺の心が凍りそうになったら、お前たちの愛で溶かしてくれればいい」
ヒカルは苦笑しながら、セフィラの頭を軽く小突いた。
「それとな、セフィラ。あんまり無邪気に煽るなよ。ただでさえレヴィアがヒートアップしてるんだから、ほどほどにしてくれると助かる」
「えーっ、団長のケチ! ボクはただ、新しい冒険の予感にワクワクしてるだけなのにー!」
セフィラは頬を膨らませてすねて見せ、その愛らしい仕草に、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。
すると、ヒカルの言葉に敏感に反応したレヴィアが、炎の髪を逆立てて一歩踏み出した。
「なんですって!? ヒートアップですって!? 私の愛はヒートアップなんて生ぬるい言葉じゃ表現できないわ! 私の愛はマグマよりも熱く、太陽よりも激しいのよ! 貴方がどんなに頑丈になろうとも、私の愛の炎で溶かしてみせるわ! 覚悟なさい、夫!」
「あーあ、火に油を注いじゃったね、団長」
ゼファーがやれやれと肩をすくめ、他の姫たちも苦笑いを浮かべた。
「分かった、皆。俺はこの『調律の剣』と共に生きる。魔王軍が来る前に、俺たちの絆を……ユニゾンを、次の段階へ進化させるぞ」
王城の夜は、新たな力への期待と、来たるべき脅威への緊張を孕みながら更けていった。
しかし、その猶予は長くはなかった。
翌朝、国境警備隊からの早馬が王都に到着する。
「報告! 北東の空が……裂けました!」
ついに、魔王軍の総侵攻が始まろうとしていた。
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