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中編

ー/ー




 アントワーヌが家を訪れる頻度が前よりも多くなって、忙殺されていたイヴェットの顔色もぐんと良くなった。
 家のことはアントワーヌがやっていてくれるし、そのおかげかリシャートの時間にも余裕が出来て友だちと外に遊びに行くようにもなった。
 イヴェットとアントワーヌの関係は、ネズミのぼくが見ていても良いものなんだって分かるようになってきた。
 あの日リシャートが笑っていた意味もよく分かる。
 たぶん、リシャートは家族が欲しかった。もちろんイヴェットのことを愛しているし、大好きなのは伝わってくる。だけどそれだけじゃなくて、彼は恐らくお父さん、もしくはお兄さんが欲しかったんだ。
 ネズミのぼくはリシャートの弟。
 アントワーヌはお父さんにもお兄さんにもなれる唯一の存在。
 ぼくも、友だちだけじゃなくて家族の一員になれたんだ。

 リシャートは勉強の合間にたまに眉間に皺を寄せている。
 それはぼくを呼んでいる合図でもあるから、ぼくは木箱から出て彼の前にちょこんと座った。

「ねぇマージュ。アントワーヌって何の仕事をしていると思う?」

 仕事?
 そういえば、何をしているんだろう。
 昼から家の手伝いに来てくれる日もあるし、泊まっていくことだってある。
 そんな日も、朝から仕事に出かけるわけでもない。
 イヴェットはいつも同じ時間に出かけているのに。

「お金持ちだから、土地でも持っているのかな」

 うーん、とリシャートはペンを鼻の下に乗せて上唇を尖らせる。

「マージュ、気にならない?」

ちゅうちゅう

 確かに興味はある。
 彼は上等な服を着ているにもかかわらずドブみたいなぼくのことを拾ってくれた。
 アントワーヌと同じような格好をしている人は、決してぼくらの存在など許してくれないのに。
 ぼくはリシャートの指先にちょこんと手を乗せる。
 ぼくももっとアントワーヌのことが知りたい。
 だって、ぼくにとっての恩人だから。

「もしかしたら軍人さんかもしれないよね」

 軍人?
 ぼくは知らない言葉に首を傾げた。

「はははっ。難しかったかな……とにかく、どうにか聞くことはできないかなぁ。いつもはぐらかされちゃうんだよね」

 リシャートはまた天井を見上げて足をぶらぶらとさせ始めた。
 彼のことを知るにはどうすればいいのだろう。
 ぼくは彼と話をすることが出来ない。
 でも。

ちゅうっ!

「ん? どうしたのマージュ。何か思いついた?」

 ぼくだからこそ出来ることが、ひとつだけあった。


 次にアントワーヌが家に訪ねてきた時、ぼくは一晩泊まった彼の上着のポケットに潜り込んだ。いつも彼が着ているこの上着。前に入った時には気づかなかったけど、石鹸のいい香りが漂っている。帰り際に見送りに来たリシャートにちらりと顔を覗かせて、ちょっと行ってくるねと目線で伝えた。
 もし、ぼくがいなくなったと心配させてしまったら嫌だから。
 リシャートはちゃんとぼくに気づいてくれて、こくりと頷いて眉をきりっとさせる。
 ぼくがスパイをするってこと、すぐに察してくれたみたいだ。

 アントワーヌは家を出ると、ぼくがポケットにいることにも気づかないまま街を歩きだす。一度彼の家に帰るのかなと思ったけど、実際はそうではなかった。
 彼はそのまま迷うことなくある場所を目指しているようだった。
 リシャートたちの家から歩いていくには少し遠いのか、彼は途中で車を拾う。
 彼が手を挙げると、タイミングよく黒々とした流線型の車が停まるから少しだけ驚いてしまった。不自然だったけど、人間界ではよくあることなんだろう。
 乗り込んだ車の様子をよく見ることはできなかった。後部座席に座った彼の隣には先約がいて、入るなり彼と話し出したからだ。
 もしぼくの存在がバレたらまずい。それくらいはネズミでも分かる。いや、ネズミだからこそわかる。

「首尾は上々か。アントワーヌ」

 アントワーヌの隣に座る黒いスーツを着た恰幅のいい男性が低い声を鳴らした。

「何故、私に聞くんです?」
「冷たいことを言うな。お前以外に聞ける奴などおらん」
「おだてたって駄目ですよ。議会に出入りするようになってから何年経つと? 少しは心を開くべきかと」
「……お説教はよさんか」
「ふふ。そう聞こえました?」

 アントワーヌは柔らかに笑い声を出した。でもいつもぼくらの家で聞く笑い声よりもなんだか張りがなくて、ぼくの耳には空虚な音にも聞こえた。

「とにかく……連中の考えは俺にはちと理解できん。協定を結んでおいて、易々と裏切ることが本当に得策なのか? お前も分かっているんだろう? 何故やつらはお前の言うことを聞かぬのだ?」
「あなたの言うことなら、耳を貸してもらえるかもしれませんよ」
「──買いかぶるな」
「まさか。私が本音を語れるのは、あなただけですから」
「お前にそう言われるとなんだか怖いな」
「はは。失礼ですね」

 窓際に肘をついて外を見ているアントワーヌの表情が窓に微かに映り込む。
 ポケットの中からうっすらと見えた彼の表情がどこか憂いているように見えたのはぼくの見間違いかもしれない。
 それからの二人はぼくが聞いたことのない言語で会話をし始めたから、ぼくは大人しく車の振動に揺られながら目的地への到着を待った。
 ──でも、大人しすぎたのはいけなかったのだと思う。
 次にぼくが目を覚ました時には、アントワーヌは車を降りていて、どこかの建物の中にすでに入っていた。
 自分がいまどこにいるのか分からず、ぼくは慎重にポケットから頭を覗かせる。
 見えたのは、豪勢な金色の模様が施された白い壁。少し見上げると、シャンデリアの傘がこちらを見下ろしていた。

「アントワーヌ。それ以上は助言の域を越えている。我々は君に助言以上のことは望まない。ただその綺麗な面で会議に華を添えてくれればそれでいいんだよ。いつものように黙って向こうの気を逸らせ」

 天国に来たのだろうか。
 見たこともない造りの内装にぼくが見入っていると、神様とは思えない声が聞こえてきた。車の中で聞いた声ともまた違う。
 アントワーヌはふかふかのクッションが使われた椅子に浅く腰を掛けていて、その声の主と向かい合っているようだ。
 ぼくは相手に気づかれないように急いでポケットの中に身を隠す。

「承知しております。ただ、意見を求められたので述べたまでですよ。お飾りの戯言など、聞くも聞かぬも自由。あなた次第ではないですか」

 アントワーヌの声は穏やかだ。でもやっぱり、どこか上の空。

「──分かっているのならいい。我らは利用できるものはなんでも利用する。せっかくの機会をくれるのだ。長として、彼らの仕事も汲み取ってあげないとね。ひと月後の同盟会議。君はそこで存分に楽しめばいいさ」
「はは……お楽しみでも用意していただけるのですか」
「なに。君なら勝手に楽しめるだろう」
「その評価には感謝すべきですね」
「なら感謝の証拠に不穏因子を潰す名案でも練ってくれ。君の得意分野だろう」
「──ええ。そうですね」

 アントワーヌは静かな声で返事をすると、スッと立ち上がって軽く礼をする。

「それでは私はこれで」
「ああ。頼りにしているぞ、アントワーヌ」

 不快な声に見送られ、アントワーヌは厳かな部屋の扉を閉めた。

「矛盾しているな」

 ぼそっと呟いたアントワーヌは、そのままカツカツとブーツ底の音を立てて廊下を歩く。こんなに足音が響くなんて、ここは変な場所だ。ネズミが忍び込んだらすぐにばれてしまいそうだ。
 ぼくらには縁のない豪勢な建物で、アントワーヌは行き交う人々と頻繁に挨拶を交わし続けた。彼が歩く度に誰かが話しかけてくるせいだ。
 どれもアントワーヌとは違って堅い調子の声色ばかりで、彼の声だけが浮いているように思えた。
 リシャートが知りたがっていた彼の仕事。
 もしこれがそうだというのならば、ぼくにはなんて説明をすればいいのか分からない。
 アントワーヌ。君は一体、ここで何をしているの?
 ぼくもみんなみたいにお話することが出来たらよかったのに。
 そう思っているうちに、彼はまた車に乗り込む。
 彼が何も言わないまま、車は当然のようにある場所に向かって走り出した。
 今度は寝ないように気を付けながら、ぼくは窓に映る彼の顔を見上げる。
 どうしてそんなに険しい顔をしているのだろう。
 リシャートやイヴェットには見せたことがないであろうその表情。
 ずっと見ていると、ぼくは少しだけ色褪せていたあの日々を思い出す。
 生きるか死ぬか。
 刃物や棍棒、箒に追い回されたあの恐怖。
 ぼくは今、それと同じ不安をアントワーヌに感じてしまうんだ。

 車が次に止まったのは、さっきの豪勢な建物からはそんなに離れていない場所だった。周りに立ち並ぶのは大きな家ばかり。アントワーヌはその中で、見るからにシックで重厚な雰囲気が漂うアパルトマンの扉を開ける。
 前にネズミ仲間に聞いたことがあるけど、この辺りは特段豪勢な食べ物があると聞いた。
 ぼくらが住んでいるアパルトマンとは比べ物にならないくらい清潔なその場所は、中に入るだけで香水の香りが漂ってきた。
 リシャートが思っていた通り、やはりアントワーヌはお金持ちなのか。
 彼は階段で最上階まで上がり自室の鍵を開ける。このフロアには彼しか住んでいないみたいだ。
 部屋の中に入ったアントワーヌは、ぼくが入っている上着を脱いで近くの椅子に掛けた。ぼくは落っこちないように慌てて体勢を整え、部屋の中をちらりと覗く。
 内装も外の雰囲気とは大きく変わらない。
 家具の色調は壁の白に合うように茶系で統一されていて、外の光を取り込んで優雅に輝いている。ぼくもこんな家には忍び込んだことはない。大体お手伝いさんとかがいて、必ず見つかってしまうからだ。
 でも今ここにいるのは彼一人。
 広い部屋の中、もしかしたらぼくが歩き回っていても気づかれないかも。
 ぼくは意を決してポケットから飛び出す。
 すぐに椅子の下に隠れ込んだけど、アントワーヌの足は違う方向へと進んで視界から消えていった。恐る恐る後を追いかけてみれば、彼はシャワーを浴びにいったみたいだ。これは絶好の機会だ。
 ぼくは少し強気になってせかせかと部屋中を駆け回った。
 何かリシャートに渡すヒントみたいなものはないだろうか。
 ぼくは人間の仕事のことは難しすぎてよく分からない。
 でも賢いリシャートならヒントさえあれば分かってしまうはずだ。
 美しく整理整頓された机の上や棚の上を走り抜け、ぼくは必死になってリシャートへのお土産を探した。まるでご飯を探し回っていた時のようで、久しぶりに血が騒ぐせいか気分が高揚してきたぼくは、アントワーヌの寝室へと向かった。
 リシャートは大切なものをベッドの傍に置いている。だから人間って、きっとそうなんだと思ったから。
 一人分にしては大きいベッドをシーツを伝って駆けあがり、隣に置いてある机の上に立つ。一段だけある引き出し。どうにかこれを開けたい。
 机の上から助走をつけて取っ手に足をかけ、勢いのままにジャンプしてみる。
 すると、どうにか少しだけ引き出しが動いた。ぼくはもう一度ベッドから机の上に走って開いた溝に身体を食い込ませる。
 ぐいぐいぐいと押し続けると、ぼくの身体はどさりと引き出しの中に落ちた。喜んでいる余裕なんてないけど、やっぱり達成感は隠せない。
 ぼくはまだ興奮したまま引き出しの中を探った。中にはノートとかペンが入っていて、他には艶々に光るいくつかのバッジが転がっているだけ。
 これがどんなものなのかぼくには見当もつかないけど、きっとリシャートには分かるはず。
 ぼくは根拠のない自信とともにバッジをくわえて急いで引き出しから床へと降りる。と、いうより、バッジの重みでころころと床に落ちて転がってしまったのだけど。
 そのままバッジを抱えてたどたどしく歩く。
 早くしないとアントワーヌがシャワーから出てきてしまう。
 ぼくはどうにか上着のポケットに戻り、手に入れたバッジにもたれかかった。
 ひんやりとしている金属製のそれは、花の模様の上に鶏のようなシルエットが線となって描かれている。
 ぼくがほっとしているのも束の間。
 シャワーを終えたアントワーヌは、そのままぼくが入った上着を無造作に手に取り家を出ていく。
 もうぼくにはこれくらい分かっていたことだよ。
 アントワーヌは、絶対にぼくらの家に帰って来るって。


 アントワーヌがぼくらの家に帰ってきたのは暗くなってからだった。
 彼が遠い家から歩いてこの場所まで来たからだ。途中、イヴェットたちにお菓子のお土産を買って。
 ぼくが持ち帰ったお土産とは違って、すごく価値のある物だと思う。
 既に帰ってきていたイヴェットはアントワーヌが扉を開けるなり嬉しそうに彼を抱きしめる。ぼくはその隙にポケットから出て、バッジとともにリシャートのもとへと走った。
 ちらりと振り返ると、アントワーヌはイヴェットのことを深い慈しみの眼差しで見つめ、そのまま二人はキスをして微笑み合った。
 ぼくがバッジを持ち出したこともバレてなさそうだ。
 安心したぼくは、部屋で勉強をしているリシャートに向かって声を上げる。

ちゅうちゅうちゅう!

 リシャートはぼくの小さな声にすぐに気づいてこちらを見る。

「おかえりマージュ! 無事だったか?」

 両手でぼくを包み込んだリシャートは、ぼくが抱えているバッジに気づいて首を傾げた。

「マージュ、それ、どうしたんだ?」

ちゅう! ちゅうちゅう

「あっ。もしかして! アントワーヌの?」

ちゅう!

「すごいぞマージュ! 君はとんだ英雄だ!」

 リシャートはぼくの頭をわしゃわしゃと撫でて喜んだ。
 だからぼくは嬉しくて、ぐるん、と彼の掌の上で転がった。

「これは……なんのバッジだろう……」

 バッジを机の上に置いたリシャートは、ぼくをその隣に置いて腕を組む。うんうん考えるその姿は、まさに真剣そのものだった。

「…………まてよ? これ、どこかで──」

 ぶつぶつと独り言を呟くリシャート。がさごそと学校鞄をあさって一冊の本を取り出した。

「やっぱり! これ、国章の一つだ──!」

 国章?
 リシャートは難しい言葉をたくさん知っている。
 置いてけぼりのぼくを憐れんだのか、リシャートはにこっと笑って丁寧に説明してくれた。

「国章はね、この国を代表するものなんだ。特別な人しか持つことは許されない。そうだなぁ……政治家とか、軍の偉い人とか……旧貴族の人しか持てないと思うよ。しかもこの模様はすごく珍しくて、ほんとうにごく僅かな人間しか持てないんだよ!」

 特別な人。
 ということは、アントワーヌも──?
 リシャートも同じことを思ったらしい。
 バッジを掲げて、目をキラキラとさせている。

「すごいや──! まさか、こんなものを持っている人が近くにいるなんて──!」

 興奮を抑えきれなくなったのか、リシャートはそのままキッチンへと駆け出す。
 ぼくは慌てて彼の肩に乗っかって振り落とされないようにぎゅうっとつかまった。

「アントワーヌ! やっぱり、あなたは凄い人だったんだね!」
「リシャート? 突然どうしたんだ?」

 リシャートの興奮とは対照的に、イヴェットのことを手伝っていたアントワーヌは目を丸くして真っ直ぐにリシャートのことを見つめる。

「これっ……! このバッジはあなたのですよね?」

 それはこっそり盗んできたものなのに。
 リシャートはそんなことはどうでもいいのか表情を明るくさせたままバッジをずいっとアントワーヌに見せた。
 ぼくは少し気まずくて彼の首の後ろに身を隠す。

「…………どこでそれを」

 アントワーヌはぽつりとそう言いかけてから、ぼくの長い尻尾に気づいて声を止めた。 

「──リシャート。確かにこれは特別なものだ。でも私は──」
「大丈夫だよ! 僕らに隠し事なんていらない。だって僕らはもう家族じゃないか! 僕、アントワーヌのことなんでも知りたい! だけど秘密事はちゃんと守るから」
「リシャート、やめなさい」

 見かねたイヴェットが二人の間に入り込む。しかしリシャートの好奇心はもう止まらない。

「ママ! 僕のことは信用できないって言うの? 僕はアントワーヌの秘密を守れないって……? そんなに僕は、家族として頼りないの──?」

 しゅん、と肩を落とすリシャートに、イヴェットの瞳がぐらりと揺れる。

「ママは知ってるんでしょ? アントワーヌの仕事。僕だけ蚊帳の外なんて……寂しいよ。僕、二人の邪魔者なの──?」
「そんなことはないわ! リシャート! ばかなことはいわないで! わたしは──誰よりもあなたのことが大切なのよ」

 イヴェットはリシャートのことを力強く抱きしめる。その衝撃でぼくは落っこちそうになったから、急いでリシャートの頭の上に行く。するとアントワーヌと目が合って、ぼくは罪悪感で彼から目を逸らした。

「リシャートのことは誰よりも信頼してる。あなた以上に心強い存在はいないわ。でも、でもねリシャート。それとこれとは話がちょっと違うの。とても複雑なのよ……」
「ママ……」
「ごめんなさいリシャート。あなたを守るためでもあるの」
「そんなの嘘だ──! 僕のことを愛しているなら、隠し事なんてやめてよ。僕はママを守りたい。知らないことがあると、僕はママを守れないじゃないか!」

 リシャートは顔を歪ませながらイヴェットのことを引き剥がす。
 その顔にはぽろぽろと涙がこぼれ落ち、イヴェットも同じように頬を濡らしていた。

「──イヴェット、すまない。私のせいで」
「やめて! アントワーヌ、あなたのせいじゃない! 絶対に──!」

 イヴェットは両耳を塞ぐように両手で顔を挟もうとする。

「リシャート。君のママを責めないでくれ。すべては私がここにいることが間違いなんだ」
「アントワーヌ──」
「イヴェット。ありがとう。しかしやはり、私はここにいてはいけない」
「いや──! どこにも行かないでアントワーヌ! わたしは、あなたの全てを受け入れる覚悟があるわ──!」

 イヴェットはアントワーヌの胸元に両手の拳をとんっとぶつけた。彼が今にもこの場からいなくなりそうだからだろうか。

「アントワーヌ! 僕にだってその覚悟がある! お願いだ! 僕を家族だと認めてよ……!」

 リシャートも悲痛な声で訴えかける。アントワーヌは顔いっぱいに苦悩を滲ませ、切なく瞳を歪ませた。

「しかし──」
「──アントワーヌ。お願い……リシャートにも、真実を……」
「イヴェット……」

 アントワーヌはイヴェットの脆い肩を抱き寄せた。隙間風はしょっちゅうなこの部屋も、今は風が吹いていない。だから寒くはないのに、彼女は豪雪の中にいるみたいに震えていたからだろう。

「…………分かった──君たちには敵わないな……」
「アントワーヌ……っ!」

 リシャートの声が安堵に満ちた。
 ぼくは勝手に持ち帰ったバッジで皆が壊れてしまいそうになったことがただ恐ろしくて、かたかたと震えながらリシャートの肩へと戻る。やっぱりまだ、彼らの目を見る勇気はない。

「リシャート。紅茶を淹れたから、そこに座って話を聞いて欲しい」
「うん。アントワーヌ」

 言われた通り椅子に座るリシャート。
 アントワーヌの声は穏やかで大好きだ。
 だけど今は、絢爛な背景の前で聞いた大勢の声のように、どこか強張っているように思えた。

 アントワーヌの話は、ぼくにはとても難しかった。
 フィクサー。ブレーントラスト。キングメーカー。
 話を聞いた後で部屋に戻ったリシャートが、ぼくにも分かるようにといろいろな言葉で説明はしてくれた。
 だけどぼくに分かったのはシンプルな事柄だけ。
 アントワーヌは、ただの人間じゃない。
 というよりも、人間と言っていいのかも分からない。
 彼が命を宿したのはもうずっとずっと前。
 彼がこの世に現れてから、ぼくらネズミの寿命は気が遠くなるほど幾度も繰り返されたことだろう。

 彼は簡単に言ってしまえばこの国の概念みたいなものだ。
 この土地に住み着いた多くの人々の想いや願いを宿して生まれた命。
 人の想いはぼくが知るよりもずっと不思議な力を持っているらしい。
 それがたくさんたくさん集まって、長い年月をかけて情熱となった。彼らの歴史、怒り、悲しみ、喜び、誇りがアントワーヌを形作ったのだという。
 彼が人間の形をしているのは、この世界を牛耳っているのが人類だったから。ただそれだけの理由。
 アントワーヌは永い時を生きて、その間にたくさんの悲劇や喜びを目にしてきた。
 同じ土地で国が滅亡し新たに生まれるのを、ずっと見守ってきたのだ。
 熱を帯びて宿命を背負い生まれてきた彼は人々に寄り添い生きることしか知らない。人々の願いが続く限り、彼は存在し続ける。
 正確に言えば人間とは言えない彼を、かつての統治者たちは神と崇めて敬った。しかし実際にアントワーヌが世の中の出来事に直接手を出すことはないという。
 昔こそはともに戦争に行き、ともに統治をしてきたらしい。でも今は、その終わりのない権力争いに疲れてしまったのだと、積極的にかかわることを拒んでいる。
 けれど彼の存在は政治家や軍の人間には知れ渡っているのだから、暗黙の了解として求められてしまう。
 逃げる術も行き先もない。
 決して表に出ることもなく、権力も持たない裏方として、彼らの相談相手となることが今の彼の主な仕事だ。
 ただ、普通の人間には持てない感覚を彼は持っている。それ故に理想と現実の間で複雑化する利害関係を円滑にすすめる役割を果たすこともあるという。
 裏では、事実上誰よりも優位な立場にいて、下手に動けばすべての権力を左右することも出来てしまうのだそう。

 リシャートがアントワーヌに向かって尊敬の眼差しを向けたところで、アントワーヌはこの話を止めてしまった。
 とにかく彼の正体を聞けたことに満足をしたリシャートは、夢見心地でぼくに色んな可能性を話しかけてくる。
 まるで、この時を望んでいたかのように。

 アントワーヌは普通の人間じゃないから、もしかしたら魔法とか使えるのかな?
 アントワーヌは何人の偉人に会ったことがあるんだろう?
 アントワーヌのことを知っている人って、どれくらいいるのかな?
 アントワーヌに不可能なことなんてあるのかな?
 アントワーヌは議会で一番偉い席に座っているのかな?
 アントワーヌには未来が見えるのかな?

「ねぇマージュ。アントワーヌがいればさ、きっと世界は平和になるんだろうなぁ」

 どうしてか、リシャートは自信たっぷりにそう呟く。

「だって、アントワーヌほど愛に溢れた人はいないよ。争いを嫌う彼は、きっと戦争なんて大嫌いだもん」

ちゅう……

「彼がいれば、なんでもできちゃうような気がするね」

 そうかもしれない。
 だけどリシャート、君は大切なことを見落としてはいないかな。
 ぼくは昼間に見た彼の表情を思い返す。
 きっとリシャートが思うほど、彼の立場は簡単じゃないんだろう。
 でもリシャートがそれに気づかないのも無理はない。
 だって彼は、あの時のアントワーヌのことを見ていないのだから。



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 家のことはアントワーヌがやっていてくれるし、そのおかげかリシャートの時間にも余裕が出来て友だちと外に遊びに行くようにもなった。
 イヴェットとアントワーヌの関係は、ネズミのぼくが見ていても良いものなんだって分かるようになってきた。
 あの日リシャートが笑っていた意味もよく分かる。
 たぶん、リシャートは家族が欲しかった。もちろんイヴェットのことを愛しているし、大好きなのは伝わってくる。だけどそれだけじゃなくて、彼は恐らくお父さん、もしくはお兄さんが欲しかったんだ。
 ネズミのぼくはリシャートの弟。
 アントワーヌはお父さんにもお兄さんにもなれる唯一の存在。
 ぼくも、友だちだけじゃなくて家族の一員になれたんだ。
 リシャートは勉強の合間にたまに眉間に皺を寄せている。
 それはぼくを呼んでいる合図でもあるから、ぼくは木箱から出て彼の前にちょこんと座った。
「ねぇマージュ。アントワーヌって何の仕事をしていると思う?」
 仕事?
 そういえば、何をしているんだろう。
 昼から家の手伝いに来てくれる日もあるし、泊まっていくことだってある。
 そんな日も、朝から仕事に出かけるわけでもない。
 イヴェットはいつも同じ時間に出かけているのに。
「お金持ちだから、土地でも持っているのかな」
 うーん、とリシャートはペンを鼻の下に乗せて上唇を尖らせる。
「マージュ、気にならない?」
ちゅうちゅう
 確かに興味はある。
 彼は上等な服を着ているにもかかわらずドブみたいなぼくのことを拾ってくれた。
 アントワーヌと同じような格好をしている人は、決してぼくらの存在など許してくれないのに。
 ぼくはリシャートの指先にちょこんと手を乗せる。
 ぼくももっとアントワーヌのことが知りたい。
 だって、ぼくにとっての恩人だから。
「もしかしたら軍人さんかもしれないよね」
 軍人?
 ぼくは知らない言葉に首を傾げた。
「はははっ。難しかったかな……とにかく、どうにか聞くことはできないかなぁ。いつもはぐらかされちゃうんだよね」
 リシャートはまた天井を見上げて足をぶらぶらとさせ始めた。
 彼のことを知るにはどうすればいいのだろう。
 ぼくは彼と話をすることが出来ない。
 でも。
ちゅうっ!
「ん? どうしたのマージュ。何か思いついた?」
 ぼくだからこそ出来ることが、ひとつだけあった。
 次にアントワーヌが家に訪ねてきた時、ぼくは一晩泊まった彼の上着のポケットに潜り込んだ。いつも彼が着ているこの上着。前に入った時には気づかなかったけど、石鹸のいい香りが漂っている。帰り際に見送りに来たリシャートにちらりと顔を覗かせて、ちょっと行ってくるねと目線で伝えた。
 もし、ぼくがいなくなったと心配させてしまったら嫌だから。
 リシャートはちゃんとぼくに気づいてくれて、こくりと頷いて眉をきりっとさせる。
 ぼくがスパイをするってこと、すぐに察してくれたみたいだ。
 アントワーヌは家を出ると、ぼくがポケットにいることにも気づかないまま街を歩きだす。一度彼の家に帰るのかなと思ったけど、実際はそうではなかった。
 彼はそのまま迷うことなくある場所を目指しているようだった。
 リシャートたちの家から歩いていくには少し遠いのか、彼は途中で車を拾う。
 彼が手を挙げると、タイミングよく黒々とした流線型の車が停まるから少しだけ驚いてしまった。不自然だったけど、人間界ではよくあることなんだろう。
 乗り込んだ車の様子をよく見ることはできなかった。後部座席に座った彼の隣には先約がいて、入るなり彼と話し出したからだ。
 もしぼくの存在がバレたらまずい。それくらいはネズミでも分かる。いや、ネズミだからこそわかる。
「首尾は上々か。アントワーヌ」
 アントワーヌの隣に座る黒いスーツを着た恰幅のいい男性が低い声を鳴らした。
「何故、私に聞くんです?」
「冷たいことを言うな。お前以外に聞ける奴などおらん」
「おだてたって駄目ですよ。議会に出入りするようになってから何年経つと? 少しは心を開くべきかと」
「……お説教はよさんか」
「ふふ。そう聞こえました?」
 アントワーヌは柔らかに笑い声を出した。でもいつもぼくらの家で聞く笑い声よりもなんだか張りがなくて、ぼくの耳には空虚な音にも聞こえた。
「とにかく……連中の考えは俺にはちと理解できん。協定を結んでおいて、易々と裏切ることが本当に得策なのか? お前も分かっているんだろう? 何故やつらはお前の言うことを聞かぬのだ?」
「あなたの言うことなら、耳を貸してもらえるかもしれませんよ」
「──買いかぶるな」
「まさか。私が本音を語れるのは、あなただけですから」
「お前にそう言われるとなんだか怖いな」
「はは。失礼ですね」
 窓際に肘をついて外を見ているアントワーヌの表情が窓に微かに映り込む。
 ポケットの中からうっすらと見えた彼の表情がどこか憂いているように見えたのはぼくの見間違いかもしれない。
 それからの二人はぼくが聞いたことのない言語で会話をし始めたから、ぼくは大人しく車の振動に揺られながら目的地への到着を待った。
 ──でも、大人しすぎたのはいけなかったのだと思う。
 次にぼくが目を覚ました時には、アントワーヌは車を降りていて、どこかの建物の中にすでに入っていた。
 自分がいまどこにいるのか分からず、ぼくは慎重にポケットから頭を覗かせる。
 見えたのは、豪勢な金色の模様が施された白い壁。少し見上げると、シャンデリアの傘がこちらを見下ろしていた。
「アントワーヌ。それ以上は助言の域を越えている。我々は君に助言以上のことは望まない。ただその綺麗な面で会議に華を添えてくれればそれでいいんだよ。いつものように黙って向こうの気を逸らせ」
 天国に来たのだろうか。
 見たこともない造りの内装にぼくが見入っていると、神様とは思えない声が聞こえてきた。車の中で聞いた声ともまた違う。
 アントワーヌはふかふかのクッションが使われた椅子に浅く腰を掛けていて、その声の主と向かい合っているようだ。
 ぼくは相手に気づかれないように急いでポケットの中に身を隠す。
「承知しております。ただ、意見を求められたので述べたまでですよ。お飾りの戯言など、聞くも聞かぬも自由。あなた次第ではないですか」
 アントワーヌの声は穏やかだ。でもやっぱり、どこか上の空。
「──分かっているのならいい。我らは利用できるものはなんでも利用する。せっかくの機会をくれるのだ。長として、彼らの仕事も汲み取ってあげないとね。ひと月後の同盟会議。君はそこで存分に楽しめばいいさ」
「はは……お楽しみでも用意していただけるのですか」
「なに。君なら勝手に楽しめるだろう」
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「なら感謝の証拠に不穏因子を潰す名案でも練ってくれ。君の得意分野だろう」
「──ええ。そうですね」
 アントワーヌは静かな声で返事をすると、スッと立ち上がって軽く礼をする。
「それでは私はこれで」
「ああ。頼りにしているぞ、アントワーヌ」
 不快な声に見送られ、アントワーヌは厳かな部屋の扉を閉めた。
「矛盾しているな」
 ぼそっと呟いたアントワーヌは、そのままカツカツとブーツ底の音を立てて廊下を歩く。こんなに足音が響くなんて、ここは変な場所だ。ネズミが忍び込んだらすぐにばれてしまいそうだ。
 ぼくらには縁のない豪勢な建物で、アントワーヌは行き交う人々と頻繁に挨拶を交わし続けた。彼が歩く度に誰かが話しかけてくるせいだ。
 どれもアントワーヌとは違って堅い調子の声色ばかりで、彼の声だけが浮いているように思えた。
 リシャートが知りたがっていた彼の仕事。
 もしこれがそうだというのならば、ぼくにはなんて説明をすればいいのか分からない。
 アントワーヌ。君は一体、ここで何をしているの?
 ぼくもみんなみたいにお話することが出来たらよかったのに。
 そう思っているうちに、彼はまた車に乗り込む。
 彼が何も言わないまま、車は当然のようにある場所に向かって走り出した。
 今度は寝ないように気を付けながら、ぼくは窓に映る彼の顔を見上げる。
 どうしてそんなに険しい顔をしているのだろう。
 リシャートやイヴェットには見せたことがないであろうその表情。
 ずっと見ていると、ぼくは少しだけ色褪せていたあの日々を思い出す。
 生きるか死ぬか。
 刃物や棍棒、箒に追い回されたあの恐怖。
 ぼくは今、それと同じ不安をアントワーヌに感じてしまうんだ。
 車が次に止まったのは、さっきの豪勢な建物からはそんなに離れていない場所だった。周りに立ち並ぶのは大きな家ばかり。アントワーヌはその中で、見るからにシックで重厚な雰囲気が漂うアパルトマンの扉を開ける。
 前にネズミ仲間に聞いたことがあるけど、この辺りは特段豪勢な食べ物があると聞いた。
 ぼくらが住んでいるアパルトマンとは比べ物にならないくらい清潔なその場所は、中に入るだけで香水の香りが漂ってきた。
 リシャートが思っていた通り、やはりアントワーヌはお金持ちなのか。
 彼は階段で最上階まで上がり自室の鍵を開ける。このフロアには彼しか住んでいないみたいだ。
 部屋の中に入ったアントワーヌは、ぼくが入っている上着を脱いで近くの椅子に掛けた。ぼくは落っこちないように慌てて体勢を整え、部屋の中をちらりと覗く。
 内装も外の雰囲気とは大きく変わらない。
 家具の色調は壁の白に合うように茶系で統一されていて、外の光を取り込んで優雅に輝いている。ぼくもこんな家には忍び込んだことはない。大体お手伝いさんとかがいて、必ず見つかってしまうからだ。
 でも今ここにいるのは彼一人。
 広い部屋の中、もしかしたらぼくが歩き回っていても気づかれないかも。
 ぼくは意を決してポケットから飛び出す。
 すぐに椅子の下に隠れ込んだけど、アントワーヌの足は違う方向へと進んで視界から消えていった。恐る恐る後を追いかけてみれば、彼はシャワーを浴びにいったみたいだ。これは絶好の機会だ。
 ぼくは少し強気になってせかせかと部屋中を駆け回った。
 何かリシャートに渡すヒントみたいなものはないだろうか。
 ぼくは人間の仕事のことは難しすぎてよく分からない。
 でも賢いリシャートならヒントさえあれば分かってしまうはずだ。
 美しく整理整頓された机の上や棚の上を走り抜け、ぼくは必死になってリシャートへのお土産を探した。まるでご飯を探し回っていた時のようで、久しぶりに血が騒ぐせいか気分が高揚してきたぼくは、アントワーヌの寝室へと向かった。
 リシャートは大切なものをベッドの傍に置いている。だから人間って、きっとそうなんだと思ったから。
 一人分にしては大きいベッドをシーツを伝って駆けあがり、隣に置いてある机の上に立つ。一段だけある引き出し。どうにかこれを開けたい。
 机の上から助走をつけて取っ手に足をかけ、勢いのままにジャンプしてみる。
 すると、どうにか少しだけ引き出しが動いた。ぼくはもう一度ベッドから机の上に走って開いた溝に身体を食い込ませる。
 ぐいぐいぐいと押し続けると、ぼくの身体はどさりと引き出しの中に落ちた。喜んでいる余裕なんてないけど、やっぱり達成感は隠せない。
 ぼくはまだ興奮したまま引き出しの中を探った。中にはノートとかペンが入っていて、他には艶々に光るいくつかのバッジが転がっているだけ。
 これがどんなものなのかぼくには見当もつかないけど、きっとリシャートには分かるはず。
 ぼくは根拠のない自信とともにバッジをくわえて急いで引き出しから床へと降りる。と、いうより、バッジの重みでころころと床に落ちて転がってしまったのだけど。
 そのままバッジを抱えてたどたどしく歩く。
 早くしないとアントワーヌがシャワーから出てきてしまう。
 ぼくはどうにか上着のポケットに戻り、手に入れたバッジにもたれかかった。
 ひんやりとしている金属製のそれは、花の模様の上に鶏のようなシルエットが線となって描かれている。
 ぼくがほっとしているのも束の間。
 シャワーを終えたアントワーヌは、そのままぼくが入った上着を無造作に手に取り家を出ていく。
 もうぼくにはこれくらい分かっていたことだよ。
 アントワーヌは、絶対にぼくらの家に帰って来るって。
 アントワーヌがぼくらの家に帰ってきたのは暗くなってからだった。
 彼が遠い家から歩いてこの場所まで来たからだ。途中、イヴェットたちにお菓子のお土産を買って。
 ぼくが持ち帰ったお土産とは違って、すごく価値のある物だと思う。
 既に帰ってきていたイヴェットはアントワーヌが扉を開けるなり嬉しそうに彼を抱きしめる。ぼくはその隙にポケットから出て、バッジとともにリシャートのもとへと走った。
 ちらりと振り返ると、アントワーヌはイヴェットのことを深い慈しみの眼差しで見つめ、そのまま二人はキスをして微笑み合った。
 ぼくがバッジを持ち出したこともバレてなさそうだ。
 安心したぼくは、部屋で勉強をしているリシャートに向かって声を上げる。
ちゅうちゅうちゅう!
 リシャートはぼくの小さな声にすぐに気づいてこちらを見る。
「おかえりマージュ! 無事だったか?」
 両手でぼくを包み込んだリシャートは、ぼくが抱えているバッジに気づいて首を傾げた。
「マージュ、それ、どうしたんだ?」
ちゅう! ちゅうちゅう
「あっ。もしかして! アントワーヌの?」
ちゅう!
「すごいぞマージュ! 君はとんだ英雄だ!」
 リシャートはぼくの頭をわしゃわしゃと撫でて喜んだ。
 だからぼくは嬉しくて、ぐるん、と彼の掌の上で転がった。
「これは……なんのバッジだろう……」
 バッジを机の上に置いたリシャートは、ぼくをその隣に置いて腕を組む。うんうん考えるその姿は、まさに真剣そのものだった。
「…………まてよ? これ、どこかで──」
 ぶつぶつと独り言を呟くリシャート。がさごそと学校鞄をあさって一冊の本を取り出した。
「やっぱり! これ、国章の一つだ──!」
 国章?
 リシャートは難しい言葉をたくさん知っている。
 置いてけぼりのぼくを憐れんだのか、リシャートはにこっと笑って丁寧に説明してくれた。
「国章はね、この国を代表するものなんだ。特別な人しか持つことは許されない。そうだなぁ……政治家とか、軍の偉い人とか……旧貴族の人しか持てないと思うよ。しかもこの模様はすごく珍しくて、ほんとうにごく僅かな人間しか持てないんだよ!」
 特別な人。
 ということは、アントワーヌも──?
 リシャートも同じことを思ったらしい。
 バッジを掲げて、目をキラキラとさせている。
「すごいや──! まさか、こんなものを持っている人が近くにいるなんて──!」
 興奮を抑えきれなくなったのか、リシャートはそのままキッチンへと駆け出す。
 ぼくは慌てて彼の肩に乗っかって振り落とされないようにぎゅうっとつかまった。
「アントワーヌ! やっぱり、あなたは凄い人だったんだね!」
「リシャート? 突然どうしたんだ?」
 リシャートの興奮とは対照的に、イヴェットのことを手伝っていたアントワーヌは目を丸くして真っ直ぐにリシャートのことを見つめる。
「これっ……! このバッジはあなたのですよね?」
 それはこっそり盗んできたものなのに。
 リシャートはそんなことはどうでもいいのか表情を明るくさせたままバッジをずいっとアントワーヌに見せた。
 ぼくは少し気まずくて彼の首の後ろに身を隠す。
「…………どこでそれを」
 アントワーヌはぽつりとそう言いかけてから、ぼくの長い尻尾に気づいて声を止めた。 
「──リシャート。確かにこれは特別なものだ。でも私は──」
「大丈夫だよ! 僕らに隠し事なんていらない。だって僕らはもう家族じゃないか! 僕、アントワーヌのことなんでも知りたい! だけど秘密事はちゃんと守るから」
「リシャート、やめなさい」
 見かねたイヴェットが二人の間に入り込む。しかしリシャートの好奇心はもう止まらない。
「ママ! 僕のことは信用できないって言うの? 僕はアントワーヌの秘密を守れないって……? そんなに僕は、家族として頼りないの──?」
 しゅん、と肩を落とすリシャートに、イヴェットの瞳がぐらりと揺れる。
「ママは知ってるんでしょ? アントワーヌの仕事。僕だけ蚊帳の外なんて……寂しいよ。僕、二人の邪魔者なの──?」
「そんなことはないわ! リシャート! ばかなことはいわないで! わたしは──誰よりもあなたのことが大切なのよ」
 イヴェットはリシャートのことを力強く抱きしめる。その衝撃でぼくは落っこちそうになったから、急いでリシャートの頭の上に行く。するとアントワーヌと目が合って、ぼくは罪悪感で彼から目を逸らした。
「リシャートのことは誰よりも信頼してる。あなた以上に心強い存在はいないわ。でも、でもねリシャート。それとこれとは話がちょっと違うの。とても複雑なのよ……」
「ママ……」
「ごめんなさいリシャート。あなたを守るためでもあるの」
「そんなの嘘だ──! 僕のことを愛しているなら、隠し事なんてやめてよ。僕はママを守りたい。知らないことがあると、僕はママを守れないじゃないか!」
 リシャートは顔を歪ませながらイヴェットのことを引き剥がす。
 その顔にはぽろぽろと涙がこぼれ落ち、イヴェットも同じように頬を濡らしていた。
「──イヴェット、すまない。私のせいで」
「やめて! アントワーヌ、あなたのせいじゃない! 絶対に──!」
 イヴェットは両耳を塞ぐように両手で顔を挟もうとする。
「リシャート。君のママを責めないでくれ。すべては私がここにいることが間違いなんだ」
「アントワーヌ──」
「イヴェット。ありがとう。しかしやはり、私はここにいてはいけない」
「いや──! どこにも行かないでアントワーヌ! わたしは、あなたの全てを受け入れる覚悟があるわ──!」
 イヴェットはアントワーヌの胸元に両手の拳をとんっとぶつけた。彼が今にもこの場からいなくなりそうだからだろうか。
「アントワーヌ! 僕にだってその覚悟がある! お願いだ! 僕を家族だと認めてよ……!」
 リシャートも悲痛な声で訴えかける。アントワーヌは顔いっぱいに苦悩を滲ませ、切なく瞳を歪ませた。
「しかし──」
「──アントワーヌ。お願い……リシャートにも、真実を……」
「イヴェット……」
 アントワーヌはイヴェットの脆い肩を抱き寄せた。隙間風はしょっちゅうなこの部屋も、今は風が吹いていない。だから寒くはないのに、彼女は豪雪の中にいるみたいに震えていたからだろう。
「…………分かった──君たちには敵わないな……」
「アントワーヌ……っ!」
 リシャートの声が安堵に満ちた。
 ぼくは勝手に持ち帰ったバッジで皆が壊れてしまいそうになったことがただ恐ろしくて、かたかたと震えながらリシャートの肩へと戻る。やっぱりまだ、彼らの目を見る勇気はない。
「リシャート。紅茶を淹れたから、そこに座って話を聞いて欲しい」
「うん。アントワーヌ」
 言われた通り椅子に座るリシャート。
 アントワーヌの声は穏やかで大好きだ。
 だけど今は、絢爛な背景の前で聞いた大勢の声のように、どこか強張っているように思えた。
 アントワーヌの話は、ぼくにはとても難しかった。
 フィクサー。ブレーントラスト。キングメーカー。
 話を聞いた後で部屋に戻ったリシャートが、ぼくにも分かるようにといろいろな言葉で説明はしてくれた。
 だけどぼくに分かったのはシンプルな事柄だけ。
 アントワーヌは、ただの人間じゃない。
 というよりも、人間と言っていいのかも分からない。
 彼が命を宿したのはもうずっとずっと前。
 彼がこの世に現れてから、ぼくらネズミの寿命は気が遠くなるほど幾度も繰り返されたことだろう。
 彼は簡単に言ってしまえばこの国の概念みたいなものだ。
 この土地に住み着いた多くの人々の想いや願いを宿して生まれた命。
 人の想いはぼくが知るよりもずっと不思議な力を持っているらしい。
 それがたくさんたくさん集まって、長い年月をかけて情熱となった。彼らの歴史、怒り、悲しみ、喜び、誇りがアントワーヌを形作ったのだという。
 彼が人間の形をしているのは、この世界を牛耳っているのが人類だったから。ただそれだけの理由。
 アントワーヌは永い時を生きて、その間にたくさんの悲劇や喜びを目にしてきた。
 同じ土地で国が滅亡し新たに生まれるのを、ずっと見守ってきたのだ。
 熱を帯びて宿命を背負い生まれてきた彼は人々に寄り添い生きることしか知らない。人々の願いが続く限り、彼は存在し続ける。
 正確に言えば人間とは言えない彼を、かつての統治者たちは神と崇めて敬った。しかし実際にアントワーヌが世の中の出来事に直接手を出すことはないという。
 昔こそはともに戦争に行き、ともに統治をしてきたらしい。でも今は、その終わりのない権力争いに疲れてしまったのだと、積極的にかかわることを拒んでいる。
 けれど彼の存在は政治家や軍の人間には知れ渡っているのだから、暗黙の了解として求められてしまう。
 逃げる術も行き先もない。
 決して表に出ることもなく、権力も持たない裏方として、彼らの相談相手となることが今の彼の主な仕事だ。
 ただ、普通の人間には持てない感覚を彼は持っている。それ故に理想と現実の間で複雑化する利害関係を円滑にすすめる役割を果たすこともあるという。
 裏では、事実上誰よりも優位な立場にいて、下手に動けばすべての権力を左右することも出来てしまうのだそう。
 リシャートがアントワーヌに向かって尊敬の眼差しを向けたところで、アントワーヌはこの話を止めてしまった。
 とにかく彼の正体を聞けたことに満足をしたリシャートは、夢見心地でぼくに色んな可能性を話しかけてくる。
 まるで、この時を望んでいたかのように。
 アントワーヌは普通の人間じゃないから、もしかしたら魔法とか使えるのかな?
 アントワーヌは何人の偉人に会ったことがあるんだろう?
 アントワーヌのことを知っている人って、どれくらいいるのかな?
 アントワーヌに不可能なことなんてあるのかな?
 アントワーヌは議会で一番偉い席に座っているのかな?
 アントワーヌには未来が見えるのかな?
「ねぇマージュ。アントワーヌがいればさ、きっと世界は平和になるんだろうなぁ」
 どうしてか、リシャートは自信たっぷりにそう呟く。
「だって、アントワーヌほど愛に溢れた人はいないよ。争いを嫌う彼は、きっと戦争なんて大嫌いだもん」
ちゅう……
「彼がいれば、なんでもできちゃうような気がするね」
 そうかもしれない。
 だけどリシャート、君は大切なことを見落としてはいないかな。
 ぼくは昼間に見た彼の表情を思い返す。
 きっとリシャートが思うほど、彼の立場は簡単じゃないんだろう。
 でもリシャートがそれに気づかないのも無理はない。
 だって彼は、あの時のアントワーヌのことを見ていないのだから。