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前編

ー/ー



 「きゃあああああっ!」

 いくつかの食器が割れる音が雷鳴のように響き渡る。
 正確には、"たぶん"食器が割れた。
 でもその証拠に、ぼくの頭上からは凶悪な土の粉が降ってくるから推測は正しいと思う。

「あっち! あっち行ったわ! ロエル! 何をもたもたしているの?」

 甲高い女の人の声は食器が割れた音よりも大きくて、ぼくの全身はびりびりと震えるようだった。だけど狼狽えてなんていられない。この声はたった一つの合図なのだ。
 逃げろ。
 全身全霊で、持てる力の限りを今ここに解き放つんだ。

「エリザ! 悪い! 今行くからな!」

 女の人の声に引っ張られるようにして若い男の声が続く。と、思ったら。

ガシャンッ!

「もう! 何をしているのロエル。床が壊れてしまうじゃない!」
「悪いエリザ。でも……こいつ……! すばしっこくて……!」

 棍棒がぼくの右隣を勢いよく叩きつけ、木面がほんの僅かに凹んでしまう。その衝撃を伝ってぼくの足元も一瞬ぐらついたけど、ぴょこんっと飛び跳ねてどうにか足の回転を続けて駆け抜ける。
 あぶなかった。
 あともう少しであの床のようにぼくもぺしゃんこだ。
 もしもの可能性に肝が冷えたぼくの目の前に、また棍棒が容赦なく落ちてくる。

「きゃぁっ! こっちに! こっちに来たわ……! いやっ」

 ぼくが方向を変えただけで女の人は木靴を鳴らしてじたばたと暴れ出した。
 彼女の長いスカートの中に飛び込んだぼくは、そのまま彼女の足踏みに気を付けながら暗い布の中をぐるぐると回った。
 どうしよう。女の人が暴れるから行き先が分からなくなってしまった。
 もう右も左もわからなくてぼくもこの人みたいにパニックに陥りそうになる。
 その間にも、男の人の逞しい怒号と女の人の悲鳴が部屋中に充満して余計に目が回ってしまう。
 ああ。もう駄目だ。
 ぼくはこのままこの暗いテントの中で死んでしまうんだ。
 そう諦めかけた時、ひらりと持ち上がった布の向こうに白い明かりがちらついた。
 もしかしてあれは。
 勝手に足が方向を定めて、ぼくは一筋の光のもとへと駆け出す。
 ぼくがスカートの中から出てきた途端、またしても女の人が叫ぶ。男の人はその声につられたのか、今までで一番の力を込めて棍棒を振り下ろした。

ガンッ!

「くそっ……!」

 棍棒が壁を叩いた音とともに男の人の醜い声が空気を抜けて耳に届いた。
 壁に空いていた小さな穴から間一髪で修羅場を抜け出したぼくは、長い尻尾が殴られたような錯覚に陥ってびくびくと鼻を震わせる。
 棍棒の振動が尻尾の先を掠っただけだ。
 それなのに、ぼくは生きていることが奇跡に思えてしまう。
 でもこの奇跡はぼくにとっての日常で、今日もいつもと同じく九死に一生を得たというだけ。
 だけどいつもと違うのは、この家では満足に食料を得られなかったということ。
 敏感な女の人が物音に気づいて、ぼくが何かを食べる前にあの地獄がはじまった。
 空腹とスリルが身体中を渦巻くけど、やっぱり勝つのは空腹感。
 ぼくはがっかりとしたまま細い路地の端っこを歩き出す。
 埃と汚水のにおいが混じったこの道を歩く人間なんてほとんどいないはず。
 それでもぼくは警戒心を緩めることはない。ちゃんと壁に身体をくっつけて、なるべく息を殺して無になりきるんだ。

 どこかに食べ物は落ちていないかな。
 密かな期待を胸に秘め、石畳に鼻をくっつけて真っ直ぐに進む。
 だけどぼくの嗅覚が仕事をするより先に動いたのは聴覚だった。
 人間の話し声が聞こえてきて、ぼくはピタリと足を止める。

「……ああ。もう武器は調達した……計画通りだな」
「そうだな。あとは──指示を待つだけだ」
「…………待ち遠しいな。ようやく俺たちの苦しみが日の目を見る」
「ああ。もう腑抜けた顔なんて拝みたくねぇ」

 前から歩いてきたのは薄汚れた襤褸衣を着た男二人だった。
 二人とも帽子を被っていて表情までは見えない。だけど髭が生えていることだけは分かった。やけにしゃがれたその声。じゃりじゃりと心臓を撫でられていくようで、ぼくはなんだか不安になる。
 ぼくの不安をよそに、彼らは小さなぼくの存在などには目もくれずにそのまま路地を抜けていった。
 彼らが大通りの人の流れに消えていくのを見送って、ぼくはまた正面に向かって歩き出す。最近街に漂う不穏な気配。無関係なぼくの毛先にまでその空気は届いていた。
 人間たちのことなんてぼくは分からない。
 彼らはぼくらを見ると何を考えることもなく反射的に金切声を上げ、次の瞬間には狂気の顔で物騒なものを振り回す。
 そんな野蛮で危険な生物なのだから、また楽しくないことでも考えているのだろう。
 でも、この空気が指し示すことが何だろうとぼくが知ったことではない。
 ぼくはただ共存を強いられているからここにいるだけ。この街に偶然生まれてしまったからここで生きているだけなのだ。だけど悪いことばっかりじゃない。人間の街にいれば、食べたこともないような美味しいものにありつけるのも事実だから。
 その喜びに比べたら、常にぼくらに向けられる殺意だって慣れてしまえばなんともないさ。

 目の前に現れた樽の塔を駆けのぼり、てっぺんで毛を整えた。
 高い空に流れていく白い雲を見上げていると、自分がこの世界でどんなに小さいのか思い知らされる。あの空に手が届くことなんて絶対にないのだと。
 雑踏の向こうで車が行き交う音が狭い路地に籠もる。
 ぼくとすずめの決定的な違いは恐らくそれだ。
 人間に愛される彼らは自力であの青に手が届くけど、ぼくは人間と同じでそれができない。
 だからきっと、嫌われるのだ。

 もう一度毛を整える。
 だけど何度毛を整えたって、空腹が満たされるわけでもなし。
 少し元気がなくなって顔を下げると、目の前から大きな影がぼくの身体を覆った。

「やぁ、こんにちは」

 顔を上げれば、柔らかな声がぼくに挨拶をする。
 ぼくの目をじっと見て言ってくれたから、たぶん、ぼくに言ってくれたのだと思うけど。

ちゅうちゅう

 自信はないけど、ぼくも返事をしてみた。でもこんなことは初めてで、ぼくは反射的に身体を丸めて警戒する。

「ははは。怖がらせちゃったかな。ムッシュー──いや、マドモワゼル?」

ちゅう

 ぼくは雄。
 そう答えたかったけど、彼にはちゃんと届いているのかな。

「はじめまして」

 彼は丁寧に胸元に手を添えて軽く頭を下げてきた。優雅な仕草をぼくも真似してみる。

「はは。君、賢いね。こんなところでどうしたの? 空でも見ていたの? それともお腹が空いているのかな?」

 スラリとした長い指を樽の上に差し出すから、彼の掌がぼくの目の前に広がった。
 艶やかな肌。その先にいる彼のことをもう一度見ると、彼は唇を緩めて微笑んでいた。
 長い金色の睫の毛量に押されるようにして垂れた瞳は蜂蜜のような色をしていて、お腹が空いているぼくは思わず見惚れてしまった。
 すると彼はそんなぼくの煩悩に気づいたのか、くすくすと笑って肩を揺らす。
 睫より少し濃い色をした髪の毛は丁寧に整えられていて、さっきすれ違った男の人たちとは真逆の印象を受ける。

「何か美味しいものでも食べようか」

 心地の良い声に誘われ、気づけばぼくは彼の掌の上に乗っていた。
 彼はそのままぼくを顔の近くまで持っていくと、改めて「こんにちは」と笑いかける。
 空が僅かに近づいて、ぼくは彼の髪の向こうに見える青を見上げた。
 不思議な人。
 この人はぼくのことを殺そうとはしないのだろうか。
 汚いと言われ続けたぼくの身体をそっと指先で撫でた彼からは殺意なんてこれっぽっちも感じない。それどころか、穏やかな陽だまりに包まれているようだった。

「じゃあ行こう」

 彼が歩き出すと、ふわりと花の香りが通り過ぎていく。
 こんなところに花は咲いていなかったはず。
 ぼくは思わず彼の掌の上できょろきょろと辺りを見回した。
  

 彼が連れてきてくれたのは、ぼくも一度来たことのあるレストランだった。
 とはいえ、ぼくが来たのはここのごみ置き場で、残飯を探してごみに埋もれていただけなのだけど。
 他の人にぼくの存在が気付かれないように、彼は上等そうな上着のポケットにぼくを隠してくれた。繊細に織り込まれた衣に包まれたぼくは、感じたことのないさらさらとした感触になかなか慣れなかった。
 彼はエスプレッソを飲みながら、一緒に頼んだケーキをぼくにこっそり分け与えてくれた。初めて食べたその滑らかな食感と甘いチョコレートの味に、ぼくは脳天を突かれたようにくらくらとする。
 アルコールを飲んだわけでもないのに、この味に酔ってしまいそうだ。
 彼はポケットの中で満足そうに伸びてしまったぼくをちらりと見て、目元を緩めて笑っていた。

 食事をした後も、彼はぼくのことを気にかけてくれる。
 ポケットの居心地がよくてぼくがなかなか出ようとしなかったから、彼は散歩をしようと言って街をぶらぶらと歩き出した。
 彼が歩くのは当然表の大通り。ぼくがこれまで避け続けていた道だ。
 でも今は、彼のポケットの中で堂々とこの場所を歩くことが出来る。
 ぼくはポケットの中からそっと景色を覗き込み、二度と見ることはないであろうその光景を胸に閉じ込めた。
 しばらく歩くと、彼は休憩しようと言って川沿いに広がる公園のベンチに腰を掛ける。彼の手に誘われて外に出てみると、昼下がりの公園はたくさんの人で賑わっていた。
 もう学校も終わっているのだろう。鞄を持った子どもたちが噴水の周りを賑やかに彩って笑っている。
 ちらりと横目で見た時、彼はそんな光景を愛おしそうに見つめて穏やかに微笑んでいた。
 人間のことが分からないぼくでもなんとなく分かる。
 こんなぼくに優しくしてくれる彼のことだ。
 こういう人のことを、きっと親切な人と言うのだろうと。

ちゅう

 ぼくが感謝の言葉をかけると、その声に気づいた彼の瞳がこちらを向く。
 彼が何かを言おうとした時、無邪気な声がそこに覆いかぶさった。

「うわぁっ! ネズミだっ。お兄さん、このネズミ、飼っているの?」

 キラキラと目を輝かせた少年がぼくらの前に立ち、柔らかい頬を緩ませている。

「まだ友だちになったばかりなんだ」

 彼は少年に向かって優しくそう答え、ぼくに向かってウィンクをした。

「そうなんだ! このネズミ、すっごく可愛いね!」

 少年は彼の隣に座り込むと、掌に乗ったぼくのことをじーっと興味津々に見つめてくる。吸い込まれそうなほどに見つめてくるものだから、ぼくは少しだけ少年から離れた。

「あっ。ごめん。こわかったかな?」

 すると少年は慌てて眉を下げて申し訳なさそうに肩をすくめた。
 あれ。
 もしかしてこの子も、ぼくのこと汚いって思わないのかな。

ちゅうちゅうちゅう

「ははははっ。喋ってくれたよ! やっぱりこわかったよね。ごめんね」

 少年はぼくの声に嬉しそうに反応をすると、ぺこりと頭を下げた。

「ねぇお兄さん。この子、名前はあるの?」
「いいや。まだ教えてくれなくてさ」
「へぇ! 一体なんて名前なんだろうねっ」

ちゅうちゅう

 名前なんてないよ。
 快活な瞳にそう返す。でも少年はにこにこ笑い返すだけだった。
 黒に近い色をした髪の少年は学校帰りなのだろうか。
 ぺたんこのリュックを背負ったまま、少しよれたシャツの上に質素なモカ色のジレを着てグレーのキャスケットをかぶっていた。その十一か二歳くらいの少年は、今度はぼくを拾ってくれた彼の方を見上げる。

「ネズミとお兄さん、今日は何をしていたの?」
「ちょっとしたランチを食べに行ったばかりだよ」
「ふぅん。ネズミ、お腹空いてたんだね」
「ああそうだよ。満足してくれてるといいんだけど」
「お兄さんなら美味しいもの知ってそうだから、きっと満足しているはずだよ」
「ははは。ありがとう」
「ねぇねぇ。お兄さんはこのネズミを飼うの?」
「──いいや。そうしたいのは山々だけど、現実的にはちょっと難しいかな」
「どうして?」
「大家さんが厳しくて」
「ははっ。お兄さん、お金持ちそうなのに。それでも大家さんって厳しいものなんだっ!」

 少年は彼の返事にカラカラと笑うと、次の瞬間に「あ!」と目を見開いた。

「お兄さんが飼えないなら、僕がこの子を預かってもいい? 僕、ペットを飼ってみたかったんだ。でもうちはそんなにお金がないから、ペットを飼う余裕なんてないってママに言われて。でもネズミなら身体も小さいし、ごはんだって僕と同じものを食べられるんだよねっ?」

 少年の提案に目をぱちぱちとさせているのはぼくだけではなかったようだ。
 見上げると、彼もまた同じく驚いていたから。

「ねぇお兄さん。駄目かな? 僕、しっかりとお世話するからっ」
「こちらとしては嬉しい提案だけど──でも、君のママがちゃんと了承しないと、それは承諾できないなぁ」
「えー? 駄目?」
「ママもこの子の家族になるんだ。肩身の狭い思いはさせられないだろう。友だちだから、可哀想なことはしたくない」

 彼がぼくの頭を軽く撫でる。ぼくは気持ちよくてついうとうとしてしまった。

「うーん……確かにそうだけど────あっ! ちょうどいいところに!」

 腕を組んで悩んだ矢先、少年は何かを見つけて勢いよく立ち上がる。

「ママ!」

 大きく手を振っている相手は少年のお母さんなのだろうか。
 噴水の向こうをきょろきょろと顔を動かしながら歩いていた栗色の髪の女性がハッとこちらを見つけた。

「リシャート! もう、勝手に動き回らないで。見失うところだったじゃない」
「ごめんママ。でも、このお兄さんと話したくて!」
「お兄さん?」

 緩やかな波を描いたウェーブの髪は、どちらかと言うと路地で見かけた男たちに似てぱさぱさとしている印象だった。彼女はその髪を右側に一つにまとめて結んでいるから、まるでいつもぼくを襲ってくる箒のようだ。

「はじめまして。すみません、私が彼を足止めしてしまいました」

 ぼくをポケットに入れた彼は立ち上がるなり丁寧に頭を下げる。

「いいえっ! こちらこそっ、息子がご迷惑を……!」
「いえいえ。迷惑なんてとんでもありません。楽しい話が出来ましたから」

 慌てて腰から身体を折り曲げて頭を下げる女の人に向かって、彼は首を横に振って穏やかに微笑んだ。
 女の人はそんな彼の表情を見て、ほっとしたように息を吐きだす。
 そばかすの頬を緩めて落ち着いたような彼女の反応に、彼もまた目元を緩めた。
 ポケットからだとよくは見えない。
 でも女の人と少年の口元がよく似ていたから、やっぱり二人は親子なのだと分かる。

「ねぇママっ! 僕、ネズミを飼いたい!」
「え……? ネズミ?」

 一旦この場が落ち着いたと判断したのだろう。
 少年は早速お母さんに向かってさっき話していたことを切り出す。当然お母さんは驚くから、ぽかんとしたまま頬に手を当てていた。

「うんっ! このお兄さんに譲ってもらうんだ!」

 そう言って少年は彼のポケットをじーっと見る。つまりは、ぼくのことを見ている。ぼくはそーっとポケットから顔を出して少年のお母さんの方を見た。
 お母さんは顔を覗かせたぼくのことを見て小さく口を開く。まだ驚いているみたい。

「すみません。この小さな紳士が彼のお世話をしてくれると名乗り出てくれたもので。私も嬉しくなってしまいまして。でも、強要するわけではありませんから。貴女の都合もあるでしょうし」
「いえいえいえっ! 息子がまた突拍子もないお願いをしてしまい……!」

 お母さんは彼に対して恐縮するように肩をすぼめる。だからぼくに似て華奢な身体の彼女が棒切れのように薄くなってしまったように見えた。

「リシャート。そんなこと言って、ちゃんとお世話できるの? 命を預かるっているのは、すごく大変なことなのよ?」
「分かってるよ! でも僕、家にいる時間が寂しいんだ。だから家でも話せる友だちが欲しくって」
「──リシャート」

 お母さんは少年の懇願にジワリと声を震わせた。ぼくをポケットから出した彼は、そんな二人の様子を見て穏やかな表情を若干緊張させる。

「分かったわ。ちゃんとお世話するのよ?」
「もちろんだよママ! ありがとう」

 少年はお母さんにハグをしてそのまま嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。

「お兄さん! ママの許可もらえたよっ」
「うん。そうみたいだね」

 彼はお母さんから離れた少年の輝く表情に向かって優しく目元を緩めた。さっき現れていた緊張はもうない。

「これから、この子のことよろしくね」
「うんっ!」

 掌に乗ったぼくのことを少年の方へと差し出す。ぼくと目が合った彼は、またウィンクをしてぼくに微笑みかけた。
 少年が差し出した掌にぼくが移ると、彼は少年のお母さんの方を見やる。

「お騒がせしてすみません。何か困ったことがあったらすぐに言ってください。この子は私の友だちでもあります。協力は惜しみません」
「……っ! すっ、すみませんっ。お気遣いいただきありがとうございます……っ」

 彼に微笑まれたお母さんはがばっと頭を下げ、ほのかに赤く染まった頬をすぐに隠した。

「お兄さん。いつでもこの子に会いに来ていいよ」
「本当かい? リシャートは優しいな」
「えへへ。そんなことないよ。だってこの子はお兄さんの友だちでしょ?」
「うん」

 少年はぼくを両手で包み込んでふにゃりと笑う。
 友だち。
 ぼく、この二人と友だちになれたのかな。
 もしそうなら、生まれて初めての友だちだ。

「そうだっ。お兄さんの名前は? お兄さん、じゃ名前にならないよね? 僕らももう友だちだよ。なら名前を知らないと!」

 少年はお母さんの隣に並んでから背の高い彼に向かって無邪気に声をかけ続ける。

「アントワーヌ。よろしくね、リシャート」
「うんっ! またねっアントワーヌ!」

 上品に手を振るアントワーヌに、リシャートは元気よく手を振り返した。
 アントワーヌのネイビーの上着が徐々に遠くなっていく。
 ぼくはリシャートの掌に乗ったまま、一線を画した彼の風貌が公園を横切る人たちの服に塗れていくまでじっと見つめ続けた。


 リシャートはアントワーヌのようにぼくにとても親切だった。
 家に帰ったリシャートは、とっておきをあげると言ってチーズの欠片をくれた。ぼくがかぶりつくと、リシャートはやっぱりネズミはチーズが好きなのかなぁとか言いながら膝を抱えてぼくのことを見下ろしていた。

「そんなにチーズが好きなら、君のことはマージュって呼ぶね」

 ぼくが夢中でチーズを頬張っている間に、彼はぼくに名前まで付けていた。
 リシャートと彼のお母さんの家はとても小さかった。
 埃にまみれた古ぼけたアパルトマンの一室ではあるけど、子ども一人と大人一人で住むのが精一杯なくらい狭い。だけど家具が少ないから、彼らはそこまで窮屈な思いはしていないようだった。
 リシャートはぼくのために小さな木箱のベッドを作ってくれて、ぼくは贅沢なことに温かい寝床を得た。
 襤褸布が布団の代わりだったけど、それでもぼくにとっては極上の毛布だった。

 彼らとしばらく生活をして気づいたことがある。
 ぼくも街をずっと彷徨っていたから分かること。
 リシャートたちは、ぼくらと同じだ。
 もちろんちゃんと家を持っているし、お母さんは仕事をしていて、リシャートは学校に通っている。だけど食べるものは少ないし、服だってどんなに古くなろうと継ぎ接ぎをして捨てることはない。
 お母さんも朝から晩まで働き詰めで家にいる時間は少ないし、息つく暇もない。
 ぼくが空腹に殺されないように必死に生きていたのとどこが違うのだろう。
 ぼくとしては毎日のように死の淵を見ていた日々とはおさらばして、新しい友だちのもとで生活を出来ることは嬉しかった。
 だけどよく知らなかった人間の生活も、思っていたのより楽ではないのだと思うと少し悲しくもなった。

 でも、ぼくがリシャートの家に来たことで、彼らの生活も少しは変わったらしい。
 リシャートは家で独りぼっちじゃなくなったから、ぼくと話をするときはすごく楽しそう。勉強だって、ぼくが見張ってるからとか言って、前よりやる気が出るんだって。
 リシャートのお母さん、イヴェットもそうだ。
 イヴェットはリシャートの父親と別れた後、一人で彼のことを育ててきたそうだ。
 その間、自分のことなど二の次三の次で、リシャートの生活のことだけを考えて暮らしてきた。お洒落をすることも化粧をすることも後回しにして、身を粉にして働き続けてきたのだそう。
 だけどリシャート曰く、アントワーヌがぼくに会いに来るようになってから彼女の表情が明るくなったらしい。別に笑わない人だったわけじゃない。そうじゃなくて、なんというか、華やかになった、っていうことみたいだ。
 アントワーヌはぼくの様子を見に、近くを通りがかった時に何度か家に訪ねてきた。ぼくは彼に撫でられるのが好きだったから、彼が来てくれるのは嬉しかった。
 リシャートもアントワーヌとはすっかり仲良しになって、一緒にご飯を作ったり、掃除をしたり、本を読んだりして時間を過ごした。
 イヴェットが帰宅すると、アントワーヌは彼女のことを笑顔で迎えてその日のリシャートの様子を話す。
 リシャートはそんな二人の会話を聞くのがお気に入りの時間になったようで、ご飯を食べる手を止めて嬉しそうに笑う。
 だからその間に、ぼくはリシャートのごはんを少しだけ貰っちゃうんだ。

 ある晩のこと。
 その日、リシャートは勉強をした後で机に突っ伏したまま眠ってしまった。
 ぼくも寝ようかなって木箱に入ったら、寝たはずのリシャートがむくりと身体を起こした。どうしたんだろうと思って彼の後をついて行く。すると、トイレに行きたかったみたいだ。リシャートは暗がりの廊下を抜けて用を足し、また部屋に戻ろうとした。だけどその途中で、ぼんやりとした電気のついたキッチンが目に入ったのか彼は足を止める。ぼくはリシャートの肩まで登り、彼が見ている方を見やった。

「アントワーヌ。いいの。わたしは、あなたが誰かなんて気にしないわ」
「イヴェット……でも──」
「あなたはアントワーヌよ。とても優しくて、勇敢な人。あなたはわたしの苦しみを分かち合ってくれた。わたしにも、あなたを救うことはできないの……? いいえ。救うんてそんな偉そうなこと……でも、わたしに、わたしにだって出来ることがあると思うの。一人で苦しまないで、アントワーヌ」
「イヴェット」

 夜の空気に息を潜めた声が聞こえてくる。リシャートはぼんやりとした眼で電球に浮かぶ二人の影に注目していた。

「愛しているわ、アントワーヌ」

 二つの影が一つになる。
 アントワーヌは微かに鼻をすするイヴェットのことを優しく包み込み、彼女は彼の胸元に頬を寄せて背中に手を回した。

「──マージュ、見える?」

ちゅう

「へへ……やったね……ふふっ」

ちゅう?

「さぁ、もう寝ようマージュ」

 リシャートはぼくを掌に乗せると、嬉しさを滲ませた表情ではにかんだ。

ちゅう

 よくは分からない。
 だけど。
 リシャートがすごく幸せそうな顔をしているから、ぼくもなんだか嬉しいな。





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 「きゃあああああっ!」
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 あぶなかった。
 あともう少しであの床のようにぼくもぺしゃんこだ。
 もしもの可能性に肝が冷えたぼくの目の前に、また棍棒が容赦なく落ちてくる。
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 ぼくが方向を変えただけで女の人は木靴を鳴らしてじたばたと暴れ出した。
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 どうしよう。女の人が暴れるから行き先が分からなくなってしまった。
 もう右も左もわからなくてぼくもこの人みたいにパニックに陥りそうになる。
 その間にも、男の人の逞しい怒号と女の人の悲鳴が部屋中に充満して余計に目が回ってしまう。
 ああ。もう駄目だ。
 ぼくはこのままこの暗いテントの中で死んでしまうんだ。
 そう諦めかけた時、ひらりと持ち上がった布の向こうに白い明かりがちらついた。
 もしかしてあれは。
 勝手に足が方向を定めて、ぼくは一筋の光のもとへと駆け出す。
 ぼくがスカートの中から出てきた途端、またしても女の人が叫ぶ。男の人はその声につられたのか、今までで一番の力を込めて棍棒を振り下ろした。
ガンッ!
「くそっ……!」
 棍棒が壁を叩いた音とともに男の人の醜い声が空気を抜けて耳に届いた。
 壁に空いていた小さな穴から間一髪で修羅場を抜け出したぼくは、長い尻尾が殴られたような錯覚に陥ってびくびくと鼻を震わせる。
 棍棒の振動が尻尾の先を掠っただけだ。
 それなのに、ぼくは生きていることが奇跡に思えてしまう。
 でもこの奇跡はぼくにとっての日常で、今日もいつもと同じく九死に一生を得たというだけ。
 だけどいつもと違うのは、この家では満足に食料を得られなかったということ。
 敏感な女の人が物音に気づいて、ぼくが何かを食べる前にあの地獄がはじまった。
 空腹とスリルが身体中を渦巻くけど、やっぱり勝つのは空腹感。
 ぼくはがっかりとしたまま細い路地の端っこを歩き出す。
 埃と汚水のにおいが混じったこの道を歩く人間なんてほとんどいないはず。
 それでもぼくは警戒心を緩めることはない。ちゃんと壁に身体をくっつけて、なるべく息を殺して無になりきるんだ。
 どこかに食べ物は落ちていないかな。
 密かな期待を胸に秘め、石畳に鼻をくっつけて真っ直ぐに進む。
 だけどぼくの嗅覚が仕事をするより先に動いたのは聴覚だった。
 人間の話し声が聞こえてきて、ぼくはピタリと足を止める。
「……ああ。もう武器は調達した……計画通りだな」
「そうだな。あとは──指示を待つだけだ」
「…………待ち遠しいな。ようやく俺たちの苦しみが日の目を見る」
「ああ。もう腑抜けた顔なんて拝みたくねぇ」
 前から歩いてきたのは薄汚れた襤褸衣を着た男二人だった。
 二人とも帽子を被っていて表情までは見えない。だけど髭が生えていることだけは分かった。やけにしゃがれたその声。じゃりじゃりと心臓を撫でられていくようで、ぼくはなんだか不安になる。
 ぼくの不安をよそに、彼らは小さなぼくの存在などには目もくれずにそのまま路地を抜けていった。
 彼らが大通りの人の流れに消えていくのを見送って、ぼくはまた正面に向かって歩き出す。最近街に漂う不穏な気配。無関係なぼくの毛先にまでその空気は届いていた。
 人間たちのことなんてぼくは分からない。
 彼らはぼくらを見ると何を考えることもなく反射的に金切声を上げ、次の瞬間には狂気の顔で物騒なものを振り回す。
 そんな野蛮で危険な生物なのだから、また楽しくないことでも考えているのだろう。
 でも、この空気が指し示すことが何だろうとぼくが知ったことではない。
 ぼくはただ共存を強いられているからここにいるだけ。この街に偶然生まれてしまったからここで生きているだけなのだ。だけど悪いことばっかりじゃない。人間の街にいれば、食べたこともないような美味しいものにありつけるのも事実だから。
 その喜びに比べたら、常にぼくらに向けられる殺意だって慣れてしまえばなんともないさ。
 目の前に現れた樽の塔を駆けのぼり、てっぺんで毛を整えた。
 高い空に流れていく白い雲を見上げていると、自分がこの世界でどんなに小さいのか思い知らされる。あの空に手が届くことなんて絶対にないのだと。
 雑踏の向こうで車が行き交う音が狭い路地に籠もる。
 ぼくとすずめの決定的な違いは恐らくそれだ。
 人間に愛される彼らは自力であの青に手が届くけど、ぼくは人間と同じでそれができない。
 だからきっと、嫌われるのだ。
 もう一度毛を整える。
 だけど何度毛を整えたって、空腹が満たされるわけでもなし。
 少し元気がなくなって顔を下げると、目の前から大きな影がぼくの身体を覆った。
「やぁ、こんにちは」
 顔を上げれば、柔らかな声がぼくに挨拶をする。
 ぼくの目をじっと見て言ってくれたから、たぶん、ぼくに言ってくれたのだと思うけど。
ちゅうちゅう
 自信はないけど、ぼくも返事をしてみた。でもこんなことは初めてで、ぼくは反射的に身体を丸めて警戒する。
「ははは。怖がらせちゃったかな。ムッシュー──いや、マドモワゼル?」
ちゅう
 ぼくは雄。
 そう答えたかったけど、彼にはちゃんと届いているのかな。
「はじめまして」
 彼は丁寧に胸元に手を添えて軽く頭を下げてきた。優雅な仕草をぼくも真似してみる。
「はは。君、賢いね。こんなところでどうしたの? 空でも見ていたの? それともお腹が空いているのかな?」
 スラリとした長い指を樽の上に差し出すから、彼の掌がぼくの目の前に広がった。
 艶やかな肌。その先にいる彼のことをもう一度見ると、彼は唇を緩めて微笑んでいた。
 長い金色の睫の毛量に押されるようにして垂れた瞳は蜂蜜のような色をしていて、お腹が空いているぼくは思わず見惚れてしまった。
 すると彼はそんなぼくの煩悩に気づいたのか、くすくすと笑って肩を揺らす。
 睫より少し濃い色をした髪の毛は丁寧に整えられていて、さっきすれ違った男の人たちとは真逆の印象を受ける。
「何か美味しいものでも食べようか」
 心地の良い声に誘われ、気づけばぼくは彼の掌の上に乗っていた。
 彼はそのままぼくを顔の近くまで持っていくと、改めて「こんにちは」と笑いかける。
 空が僅かに近づいて、ぼくは彼の髪の向こうに見える青を見上げた。
 不思議な人。
 この人はぼくのことを殺そうとはしないのだろうか。
 汚いと言われ続けたぼくの身体をそっと指先で撫でた彼からは殺意なんてこれっぽっちも感じない。それどころか、穏やかな陽だまりに包まれているようだった。
「じゃあ行こう」
 彼が歩き出すと、ふわりと花の香りが通り過ぎていく。
 こんなところに花は咲いていなかったはず。
 ぼくは思わず彼の掌の上できょろきょろと辺りを見回した。
 彼が連れてきてくれたのは、ぼくも一度来たことのあるレストランだった。
 とはいえ、ぼくが来たのはここのごみ置き場で、残飯を探してごみに埋もれていただけなのだけど。
 他の人にぼくの存在が気付かれないように、彼は上等そうな上着のポケットにぼくを隠してくれた。繊細に織り込まれた衣に包まれたぼくは、感じたことのないさらさらとした感触になかなか慣れなかった。
 彼はエスプレッソを飲みながら、一緒に頼んだケーキをぼくにこっそり分け与えてくれた。初めて食べたその滑らかな食感と甘いチョコレートの味に、ぼくは脳天を突かれたようにくらくらとする。
 アルコールを飲んだわけでもないのに、この味に酔ってしまいそうだ。
 彼はポケットの中で満足そうに伸びてしまったぼくをちらりと見て、目元を緩めて笑っていた。
 食事をした後も、彼はぼくのことを気にかけてくれる。
 ポケットの居心地がよくてぼくがなかなか出ようとしなかったから、彼は散歩をしようと言って街をぶらぶらと歩き出した。
 彼が歩くのは当然表の大通り。ぼくがこれまで避け続けていた道だ。
 でも今は、彼のポケットの中で堂々とこの場所を歩くことが出来る。
 ぼくはポケットの中からそっと景色を覗き込み、二度と見ることはないであろうその光景を胸に閉じ込めた。
 しばらく歩くと、彼は休憩しようと言って川沿いに広がる公園のベンチに腰を掛ける。彼の手に誘われて外に出てみると、昼下がりの公園はたくさんの人で賑わっていた。
 もう学校も終わっているのだろう。鞄を持った子どもたちが噴水の周りを賑やかに彩って笑っている。
 ちらりと横目で見た時、彼はそんな光景を愛おしそうに見つめて穏やかに微笑んでいた。
 人間のことが分からないぼくでもなんとなく分かる。
 こんなぼくに優しくしてくれる彼のことだ。
 こういう人のことを、きっと親切な人と言うのだろうと。
ちゅう
 ぼくが感謝の言葉をかけると、その声に気づいた彼の瞳がこちらを向く。
 彼が何かを言おうとした時、無邪気な声がそこに覆いかぶさった。
「うわぁっ! ネズミだっ。お兄さん、このネズミ、飼っているの?」
 キラキラと目を輝かせた少年がぼくらの前に立ち、柔らかい頬を緩ませている。
「まだ友だちになったばかりなんだ」
 彼は少年に向かって優しくそう答え、ぼくに向かってウィンクをした。
「そうなんだ! このネズミ、すっごく可愛いね!」
 少年は彼の隣に座り込むと、掌に乗ったぼくのことをじーっと興味津々に見つめてくる。吸い込まれそうなほどに見つめてくるものだから、ぼくは少しだけ少年から離れた。
「あっ。ごめん。こわかったかな?」
 すると少年は慌てて眉を下げて申し訳なさそうに肩をすくめた。
 あれ。
 もしかしてこの子も、ぼくのこと汚いって思わないのかな。
ちゅうちゅうちゅう
「ははははっ。喋ってくれたよ! やっぱりこわかったよね。ごめんね」
 少年はぼくの声に嬉しそうに反応をすると、ぺこりと頭を下げた。
「ねぇお兄さん。この子、名前はあるの?」
「いいや。まだ教えてくれなくてさ」
「へぇ! 一体なんて名前なんだろうねっ」
ちゅうちゅう
 名前なんてないよ。
 快活な瞳にそう返す。でも少年はにこにこ笑い返すだけだった。
 黒に近い色をした髪の少年は学校帰りなのだろうか。
 ぺたんこのリュックを背負ったまま、少しよれたシャツの上に質素なモカ色のジレを着てグレーのキャスケットをかぶっていた。その十一か二歳くらいの少年は、今度はぼくを拾ってくれた彼の方を見上げる。
「ネズミとお兄さん、今日は何をしていたの?」
「ちょっとしたランチを食べに行ったばかりだよ」
「ふぅん。ネズミ、お腹空いてたんだね」
「ああそうだよ。満足してくれてるといいんだけど」
「お兄さんなら美味しいもの知ってそうだから、きっと満足しているはずだよ」
「ははは。ありがとう」
「ねぇねぇ。お兄さんはこのネズミを飼うの?」
「──いいや。そうしたいのは山々だけど、現実的にはちょっと難しいかな」
「どうして?」
「大家さんが厳しくて」
「ははっ。お兄さん、お金持ちそうなのに。それでも大家さんって厳しいものなんだっ!」
 少年は彼の返事にカラカラと笑うと、次の瞬間に「あ!」と目を見開いた。
「お兄さんが飼えないなら、僕がこの子を預かってもいい? 僕、ペットを飼ってみたかったんだ。でもうちはそんなにお金がないから、ペットを飼う余裕なんてないってママに言われて。でもネズミなら身体も小さいし、ごはんだって僕と同じものを食べられるんだよねっ?」
 少年の提案に目をぱちぱちとさせているのはぼくだけではなかったようだ。
 見上げると、彼もまた同じく驚いていたから。
「ねぇお兄さん。駄目かな? 僕、しっかりとお世話するからっ」
「こちらとしては嬉しい提案だけど──でも、君のママがちゃんと了承しないと、それは承諾できないなぁ」
「えー? 駄目?」
「ママもこの子の家族になるんだ。肩身の狭い思いはさせられないだろう。友だちだから、可哀想なことはしたくない」
 彼がぼくの頭を軽く撫でる。ぼくは気持ちよくてついうとうとしてしまった。
「うーん……確かにそうだけど────あっ! ちょうどいいところに!」
 腕を組んで悩んだ矢先、少年は何かを見つけて勢いよく立ち上がる。
「ママ!」
 大きく手を振っている相手は少年のお母さんなのだろうか。
 噴水の向こうをきょろきょろと顔を動かしながら歩いていた栗色の髪の女性がハッとこちらを見つけた。
「リシャート! もう、勝手に動き回らないで。見失うところだったじゃない」
「ごめんママ。でも、このお兄さんと話したくて!」
「お兄さん?」
 緩やかな波を描いたウェーブの髪は、どちらかと言うと路地で見かけた男たちに似てぱさぱさとしている印象だった。彼女はその髪を右側に一つにまとめて結んでいるから、まるでいつもぼくを襲ってくる箒のようだ。
「はじめまして。すみません、私が彼を足止めしてしまいました」
 ぼくをポケットに入れた彼は立ち上がるなり丁寧に頭を下げる。
「いいえっ! こちらこそっ、息子がご迷惑を……!」
「いえいえ。迷惑なんてとんでもありません。楽しい話が出来ましたから」
 慌てて腰から身体を折り曲げて頭を下げる女の人に向かって、彼は首を横に振って穏やかに微笑んだ。
 女の人はそんな彼の表情を見て、ほっとしたように息を吐きだす。
 そばかすの頬を緩めて落ち着いたような彼女の反応に、彼もまた目元を緩めた。
 ポケットからだとよくは見えない。
 でも女の人と少年の口元がよく似ていたから、やっぱり二人は親子なのだと分かる。
「ねぇママっ! 僕、ネズミを飼いたい!」
「え……? ネズミ?」
 一旦この場が落ち着いたと判断したのだろう。
 少年は早速お母さんに向かってさっき話していたことを切り出す。当然お母さんは驚くから、ぽかんとしたまま頬に手を当てていた。
「うんっ! このお兄さんに譲ってもらうんだ!」
 そう言って少年は彼のポケットをじーっと見る。つまりは、ぼくのことを見ている。ぼくはそーっとポケットから顔を出して少年のお母さんの方を見た。
 お母さんは顔を覗かせたぼくのことを見て小さく口を開く。まだ驚いているみたい。
「すみません。この小さな紳士が彼のお世話をしてくれると名乗り出てくれたもので。私も嬉しくなってしまいまして。でも、強要するわけではありませんから。貴女の都合もあるでしょうし」
「いえいえいえっ! 息子がまた突拍子もないお願いをしてしまい……!」
 お母さんは彼に対して恐縮するように肩をすぼめる。だからぼくに似て華奢な身体の彼女が棒切れのように薄くなってしまったように見えた。
「リシャート。そんなこと言って、ちゃんとお世話できるの? 命を預かるっているのは、すごく大変なことなのよ?」
「分かってるよ! でも僕、家にいる時間が寂しいんだ。だから家でも話せる友だちが欲しくって」
「──リシャート」
 お母さんは少年の懇願にジワリと声を震わせた。ぼくをポケットから出した彼は、そんな二人の様子を見て穏やかな表情を若干緊張させる。
「分かったわ。ちゃんとお世話するのよ?」
「もちろんだよママ! ありがとう」
 少年はお母さんにハグをしてそのまま嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「お兄さん! ママの許可もらえたよっ」
「うん。そうみたいだね」
 彼はお母さんから離れた少年の輝く表情に向かって優しく目元を緩めた。さっき現れていた緊張はもうない。
「これから、この子のことよろしくね」
「うんっ!」
 掌に乗ったぼくのことを少年の方へと差し出す。ぼくと目が合った彼は、またウィンクをしてぼくに微笑みかけた。
 少年が差し出した掌にぼくが移ると、彼は少年のお母さんの方を見やる。
「お騒がせしてすみません。何か困ったことがあったらすぐに言ってください。この子は私の友だちでもあります。協力は惜しみません」
「……っ! すっ、すみませんっ。お気遣いいただきありがとうございます……っ」
 彼に微笑まれたお母さんはがばっと頭を下げ、ほのかに赤く染まった頬をすぐに隠した。
「お兄さん。いつでもこの子に会いに来ていいよ」
「本当かい? リシャートは優しいな」
「えへへ。そんなことないよ。だってこの子はお兄さんの友だちでしょ?」
「うん」
 少年はぼくを両手で包み込んでふにゃりと笑う。
 友だち。
 ぼく、この二人と友だちになれたのかな。
 もしそうなら、生まれて初めての友だちだ。
「そうだっ。お兄さんの名前は? お兄さん、じゃ名前にならないよね? 僕らももう友だちだよ。なら名前を知らないと!」
 少年はお母さんの隣に並んでから背の高い彼に向かって無邪気に声をかけ続ける。
「アントワーヌ。よろしくね、リシャート」
「うんっ! またねっアントワーヌ!」
 上品に手を振るアントワーヌに、リシャートは元気よく手を振り返した。
 アントワーヌのネイビーの上着が徐々に遠くなっていく。
 ぼくはリシャートの掌に乗ったまま、一線を画した彼の風貌が公園を横切る人たちの服に塗れていくまでじっと見つめ続けた。
 リシャートはアントワーヌのようにぼくにとても親切だった。
 家に帰ったリシャートは、とっておきをあげると言ってチーズの欠片をくれた。ぼくがかぶりつくと、リシャートはやっぱりネズミはチーズが好きなのかなぁとか言いながら膝を抱えてぼくのことを見下ろしていた。
「そんなにチーズが好きなら、君のことはマージュって呼ぶね」
 ぼくが夢中でチーズを頬張っている間に、彼はぼくに名前まで付けていた。
 リシャートと彼のお母さんの家はとても小さかった。
 埃にまみれた古ぼけたアパルトマンの一室ではあるけど、子ども一人と大人一人で住むのが精一杯なくらい狭い。だけど家具が少ないから、彼らはそこまで窮屈な思いはしていないようだった。
 リシャートはぼくのために小さな木箱のベッドを作ってくれて、ぼくは贅沢なことに温かい寝床を得た。
 襤褸布が布団の代わりだったけど、それでもぼくにとっては極上の毛布だった。
 彼らとしばらく生活をして気づいたことがある。
 ぼくも街をずっと彷徨っていたから分かること。
 リシャートたちは、ぼくらと同じだ。
 もちろんちゃんと家を持っているし、お母さんは仕事をしていて、リシャートは学校に通っている。だけど食べるものは少ないし、服だってどんなに古くなろうと継ぎ接ぎをして捨てることはない。
 お母さんも朝から晩まで働き詰めで家にいる時間は少ないし、息つく暇もない。
 ぼくが空腹に殺されないように必死に生きていたのとどこが違うのだろう。
 ぼくとしては毎日のように死の淵を見ていた日々とはおさらばして、新しい友だちのもとで生活を出来ることは嬉しかった。
 だけどよく知らなかった人間の生活も、思っていたのより楽ではないのだと思うと少し悲しくもなった。
 でも、ぼくがリシャートの家に来たことで、彼らの生活も少しは変わったらしい。
 リシャートは家で独りぼっちじゃなくなったから、ぼくと話をするときはすごく楽しそう。勉強だって、ぼくが見張ってるからとか言って、前よりやる気が出るんだって。
 リシャートのお母さん、イヴェットもそうだ。
 イヴェットはリシャートの父親と別れた後、一人で彼のことを育ててきたそうだ。
 その間、自分のことなど二の次三の次で、リシャートの生活のことだけを考えて暮らしてきた。お洒落をすることも化粧をすることも後回しにして、身を粉にして働き続けてきたのだそう。
 だけどリシャート曰く、アントワーヌがぼくに会いに来るようになってから彼女の表情が明るくなったらしい。別に笑わない人だったわけじゃない。そうじゃなくて、なんというか、華やかになった、っていうことみたいだ。
 アントワーヌはぼくの様子を見に、近くを通りがかった時に何度か家に訪ねてきた。ぼくは彼に撫でられるのが好きだったから、彼が来てくれるのは嬉しかった。
 リシャートもアントワーヌとはすっかり仲良しになって、一緒にご飯を作ったり、掃除をしたり、本を読んだりして時間を過ごした。
 イヴェットが帰宅すると、アントワーヌは彼女のことを笑顔で迎えてその日のリシャートの様子を話す。
 リシャートはそんな二人の会話を聞くのがお気に入りの時間になったようで、ご飯を食べる手を止めて嬉しそうに笑う。
 だからその間に、ぼくはリシャートのごはんを少しだけ貰っちゃうんだ。
 ある晩のこと。
 その日、リシャートは勉強をした後で机に突っ伏したまま眠ってしまった。
 ぼくも寝ようかなって木箱に入ったら、寝たはずのリシャートがむくりと身体を起こした。どうしたんだろうと思って彼の後をついて行く。すると、トイレに行きたかったみたいだ。リシャートは暗がりの廊下を抜けて用を足し、また部屋に戻ろうとした。だけどその途中で、ぼんやりとした電気のついたキッチンが目に入ったのか彼は足を止める。ぼくはリシャートの肩まで登り、彼が見ている方を見やった。
「アントワーヌ。いいの。わたしは、あなたが誰かなんて気にしないわ」
「イヴェット……でも──」
「あなたはアントワーヌよ。とても優しくて、勇敢な人。あなたはわたしの苦しみを分かち合ってくれた。わたしにも、あなたを救うことはできないの……? いいえ。救うんてそんな偉そうなこと……でも、わたしに、わたしにだって出来ることがあると思うの。一人で苦しまないで、アントワーヌ」
「イヴェット」
 夜の空気に息を潜めた声が聞こえてくる。リシャートはぼんやりとした眼で電球に浮かぶ二人の影に注目していた。
「愛しているわ、アントワーヌ」
 二つの影が一つになる。
 アントワーヌは微かに鼻をすするイヴェットのことを優しく包み込み、彼女は彼の胸元に頬を寄せて背中に手を回した。
「──マージュ、見える?」
ちゅう
「へへ……やったね……ふふっ」
ちゅう?
「さぁ、もう寝ようマージュ」
 リシャートはぼくを掌に乗せると、嬉しさを滲ませた表情ではにかんだ。
ちゅう
 よくは分からない。
 だけど。
 リシャートがすごく幸せそうな顔をしているから、ぼくもなんだか嬉しいな。