まだ幼い頃、病気をした母の療養のため、蘇州に遊びにいったことがある。
禁軍に入ってからは、任務で青州に赴いたこともあった。
だが、北のほうへ――それも、北京大名府よりも北へ赴いたことは一度もない。
このような時でなくば、見たことのない景色が待ち受けることに、心を躍らせただろう。
部下を引き連れていたならば、難所続きの道さえも、頼もしい旅路になったろう。
(暑い)
刺すような六月の陽気が、じわりじわりと林冲の体を蝕む。
東京を出立してから、三、四日経ったであろうか。
鍛錬を積み重ねた体を誇っていた己ともあろうものが、連日の酷暑にやられてすでに足取り重く、おまけにあれほど軽くしてもらった棒打ちの痕さえも、暑さと疲労のせいで鈍く痛み出していた。
足を引きずるように一歩一歩進むうち、己の情けなさにひどく眩暈がする。
ふ、と重い息を吐き出せば、己と同じく額に汗をびっしり浮かべながら前を行く薛覇が、ぎろりとこちらを睨み付けた。
「おい、もう少しさっさと歩けないのか、このうすのろ。ここから滄州まで、どのくらい遠いと思っているんだ? 二千里だぞ! お前の調子に合わせていたんじゃ、一生かかっても辿り着けんわ」
「薛殿、俺は先日生まれて初めての杖刑を食らったばかり。たいした傷ではなかったと言え、この思わぬ暑さでは痛みも疲れもするというもの。どうか、このままゆっくり歩かせてはくれないか」
後ろをついてくる董超が、小さな舌打ちをするのが聞こえた。常の己ならば激昂しているような態度に、今は何か口を挟む気力さえない。
「わかった、わかった、じゃあ、つべこべ言わずにゆっくり歩けばいい」
「まったく、こんな貧乏神をこんな暑い中護送せにゃならんとは、災難もいいところだ」
ほつれ、汗で額に貼り付いた髪を己の手で払うこともできぬまま、歩き続ける。
緩やかな上り坂をのろりのろりと登り切り、見晴らしのいい高台に出たところで、林冲はふと、辺りを見回した。
遠く北東にぼんやりと妖しく霞むのは、悪名高き梁山泊。北西に目をやれば、かつて兄弟弟子として研鑽をつんだ男の住む北京の賑わいが思い出された。
いつだったか交わした文の中で、よくできた使用人を一人、迎え入れたと書いていた。弟のように、息子のように思っているのだと。
仏頂面の中にも優しさをもって、己のことをもまるで実弟のようにかわいがってくれた男のことを思い出したとき、ふと、東京で別れた義兄弟の豪放な笑い声を聞いた気がして、背後を振り返った。
「おい、何を見ている、さっさと歩け!」
「うぐっ」
苛々と水火棍を己の背に打ち付ける董超の肩越しに、故郷の影は一片も見あたらない。
(失ったのだ、何もかも)
果てしない虚しさを嘲笑うかのような鴉の鳴き声がひとつ、響き渡る。
西の地平に、夕日が沈んで行く。
「や、あそこに煙が見える。きっと宿があろう」
「まったく、こいつのせいで、今日も遅々として進まなかったな。さっさと宿にひっこむとしよう」
日が沈み切る前に、と急かされ、林冲たちは、丘の上に広がる小さな村の宿に部屋をとった。
『林冲、金も使いようだ。生き延びるために、使うのだぞ』
宿の女将に促されて下ろした荷物の中に、自由に動かない手を突っ込む。指先に触れた銀子は、義父に持たされた。どうにかそれを引っ張りだし、女将に渡す。
「あの方たちに、いい酒と旨い食事を」
「おやまあ」
囚人を護送する役人は宿賃や飲み食いの金を払わなくてもいいのがしきたりだったが、道中、少しでも彼らの機嫌がよくなるようにと、林冲は惜しみなく金を使った。
董超と薛覇は、林冲が自分たちのために用意した酒食が運ばれてくると、これまでの態度をころっと変え、「いやあ、さすが林教頭、気が利きますなあ」などと笑うのだった。
(この者たちも、俺と同じだ。高俅に逆らうことができぬ、臆病な人間なのだ)
飢えた犬のようにがつがつと肉や菜をかっこむ二人の男を、ぼんやりと見るともなく見ていた林冲の目の前に、すい、と盃が差し出される。
「林教頭、あんたも疲れたろう。道中苛々とした声もあげちまうが、この暑さではああでもしないとやってられん。まあ、悪く思わず、あんたも飲んでください」
「俺は茶でよい。酔いがまわって、明日また歩けなくなっては困ります」
「そう言わずに、さあ」
腹の読めない薄笑いとともに口元に差し出された酒の、その芳醇な香りが、疲れ果てた心身に染み渡る。
「……それでは、一杯だけ」
もはやここまで来て意地を張る意味もなかろうと、林冲は静かに盃に口を付けた。
「いやいや、一杯と言わず、たんと飲んでくれ」
「そうとも、林教頭。遠慮はいらんぞ」
「遠慮などでは……っ」
無理矢理傾けられた盃から一気に流れ込んできた酒に咽るのも構わず、二人はなおも盃を次々と差し出す。枷さえなければその無礼な手を払いのけることもできようが、囚人の身となってはそんな些細なことさえも叶わない。
結局、二人が満足いくまで酒を飲ませ続けられた林冲は、すっかり酔いがまわり、ふらふらと足元もおぼつかないまま寝台へと連れて行かれた。
「さあ、林教頭、明日もはやいぞ。ゆっくり眠ってくれ」
枷のせいで身動きしづらい林冲の長躯をようやく寝台に横たえた董超が、さも親切そうな声を出す。
「そうだ、足が疲れたろうから、足湯でもすればいい」
「いえ、そのような気遣いは無用。このまま一人にしてください」
「いやいや、そうはいくまい。薛殿が今、湯を用意しているから」
いったい、苦しむ己の歩みを冷たい声でせき立てたかと思えば、こうして気味が悪いほどに気を遣ってくるのは、林冲が彼らのために惜しまず金を使うからなのだろうか。地獄の沙汰もなんとやら、とはよく言ったものだ。
「……では、お言葉に甘えて」
薛覇が、たっぷり湯を満たした盥を運び込み、林冲の足下に置く。湯気の向こうで、彼もまた、不気味なほどに優しげな笑みを浮かべた。
「林教頭、その枷をはめていては、自分で足を洗うのは難しかろう。俺が洗ってあげましょう」
「何をおっしゃる。あなたたちにそこまでしていただくことはありません。足くらい、自分で洗えます」
だが、林冲が足を引くよりも、薛覇の肉付きのいい両手が林冲の足首を掴む方がはやかった。
「なに、長い旅路を共に行くのだ、遠慮はするな」
――その刹那、真冬の如き冷水に足を浸したのだと、林冲は思った。
「うアッ……!」
背を仰け反らせ、思わず無様なうめき声を放つ。
虚空を蹴り飛ばした林冲の足がまき散らす滴を避けるように、二人の男が慌てて後ずさる。
肉の焼ける、いやな音がする。
「ッ……ぐ……」
寝台に倒れ込み、己の足を見れば、熱湯に焼かれた足は真っ赤に爛れ、見る間に水膨れで覆われていく。
顔中を伝う汗が目に入り、目の前が霞む。
「どうした林教頭、もう足湯は終わりか?」
なおも林冲の足を掴もうとする薛覇の手を、痛む足で蹴りつけた。
「……もうっ……結構……」
乱れた髪の隙間から、軽薄な笑みを浮かべる二人の男を睨み付ける。
この男たちに何ら恨みを買われることなどしていないのに、何故このような仕打ちを受けねばならない?
「な、なんだ貴様、その態度は! せっかく俺たち役人が囚人のお前を世話してやろうというのに、暴力をふるったうえにそんな恨みがましい目で睨み付けて来やがる」
「まったく、好意を無にしやがって。明日からは、今日のようにちんたら歩いていたら、この棍で背中を殴りつけてやるからな」
熱湯の入った盥をこわごわと持ちあげ、董超と薛覇が部屋を出て行く。
つま先から這い上がる壮絶な痛みを、唇を噛みしめてやり過ごしながら、林冲はきつく瞳を閉じる。
少しでも眠らなければ明日が辛いことはわかっていたが、痛みを上回る屈辱に背を震わせたまま、気が付けば部屋の中には朝の薄明かりが差し込んでいた。