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5 裏路地の戦い

ー/ー



 シャールとキリクは反対の建物の屋上には跳び移れなかったが、途中の階の窓には(つか)まることができた。だが何故か窓は通り抜けられない程小さく、窓枠はヌルヌルと汚れており、手が滑ってズルズルと壁を滑り落ちた。

 そこは『裏路地』だった。

 建物の通りに面した側を正面として、反対の裏側は裏路地に面している。裏路地は、隣り合った建物間の路地より幅がある。裏路地を挟んで向かい合うのも、別の建物の裏側だ。建物が背を向け合った路地と言える。

 サルームには王宮周辺の一部を除いて下水がない。料理や洗い物に使った排水も、排泄物の糞尿も、全て建物の裏側から垂れ流している。

 裏路地の意味を知らないシャールではなかったが、普段目にすることはもちろん、言葉にすることもなかった。だが壁の汚れに触れ、ツンとする臭いを嗅いですぐに理解した。悲鳴も上げた。それでも手を離さなかったのは、落ちる恐怖の方が強かったからだ。

 もっとも、強烈な臭気を除けば見た目はただの路地であり、汚物が散乱しているわけではない。汚物は吐き出された壁に付着し、乾季にはすぐに乾いて砂や埃となって飛んでいく。雨季には雨に流され、溶けて地面に吸い込まれていく。

 乾季の今、乾いていないのは、排出されて間もないものだけだ。

 シャールは吐き気をこらえながら、壁の段差を手足で探しつつ慎重に下りていった。この建物は王宮や大厦(たいか)の壁と違い、石が荒く積まれていて手足を掛けられる場所が多かったため、なんとか地面までたどり着くことができた。




 着地と同時に、アシュタルテは足首を(つか)んだ黒い衛兵を地面に叩きつけた。

 水溜まりがあり、小さな水音がした。

 ヴィァァアアッ!

 空気が震える。黒い衛兵の叫びは、ほとんど音にならない。

 手首に長剣(シャムシェール)の刃が食い込むの感じ、アシュタルテは衛兵の足首を離し、膝をついた。

 アシュタルテの体は傷だらけだった。夜と、全身を包む黒いハブルのため、そしてあまり体液が出ない性質のために目立たないだけだ。

 キリクたちの逃走を助けるため、ここに至るまでに何度も剣を交えていた。しかしアシュタルテが繰り出す鋭い剣は、悉(ことごと)く羽根のようにフワリと(かわ)されてしまう。その直後に返される衛兵の攻撃を避けられない。緩い動作でありながら、衛兵の剣は速い。おそらく、動作の緩急により間合いを外されている。

 推測できても、それに対抗する技量が今のアシュタルテには無かった。最初に衛兵の右腕を切り落とせたのは、シャールを狙っていた衛兵の隙を、運良く捉えられたからだろう。

 だが人であれば動脈が切れる場所の傷も、彼女には他の傷との違いはない。体力を奪われ動きが鈍くなるだけで、死には至らない。体の内部が柔軟な金属で組成されている彼女の利点だった。

 黒い衛兵がふわりと宙に浮き、壁を蹴って斜め上から長剣(シャムシェール)を突き込んできた。アシュタルテは左手を突き出し、掌(てのひら)で剣を受け止める。同時に、右手の金色の細剣を鋭く突き出した。

 衛兵の剣は(てのひら)を貫通したが、アシュタルテはそのまま左手を押し続け、がっしりと(つば)(つか)む。近付いた衛兵の顔は、眼窩だけで眼球のない死者の顔だった。

 アシュタルテの右手の剣は、衛兵のドゥループをかすめて通り過ぎたかと思うと、剣先がぐにゃりと曲がり、その首に巻き付いた。顔に巻いたドゥループが剥がれ、乾燥して黒ずんだ皮膚が露わになる。剣の切っ先は、いつのまにかつるつると丸い金色の蛇の頭に変じ、そこには白くて丸い無表情な目が付いている。

 アシュタルテは垂れ下がった蛇の頭に咬みつき、右手で蛇の尻尾に変わった柄を引っ張る。剣は金色の(うろこ)に覆われた蛇となり、更に細く紐状となり、衛兵の首を締め上げていく。

 ヴヴヴヴヴッ!

 衛兵が音無く唸る。剣を振り回そうとするが、鍔(つば)(つか)んだ左手で押さえ込む。

 アシュタルテは体重を載せて押し倒した。

 衛兵の体は人とは思えぬ軽さだった。それに対して、アシュタルテの体は見た目よりもずっと重い。彼女が衛兵の胸に膝を突き入れると、首を絞めていた蛇の輪がみるみるすぼまり、衛兵が地面に倒れた瞬間、首がブツリと切れた。

 悲鳴もなく、血も流れない。頭は地面に落ちて少し弾み、路地の奥に転がっていった。




 アシュタルテが金色の蛇を手離すと、蛇はスルスルとアシュタルテの体を這い上った。膨れて潰れたパンのように大きく平べったくなった頭を真横にガバッと裂いて、アシュタルテの顔に咬みついた。並んだ小さな鋭い歯が、アシュタルテの白い顔に食い込む。

「アッシュ!」

 黒い衛兵の頭が転がっていったのとは反対側から、キリクたちが駆けてくる。
 シャールのしょぼくれた様子にアシュタルテは気付いたが、理由は推測できず、重要だとも思わなかった。

 アシュタルテが片手で顔の上の蛇を引き剥がすと、蛇の頭はしゅうっと(しぼ)み、腕から肩を伝って、アシュタルテの二の腕に巻き付いた。

「それは……なに?」

 顔をしかめてシャールが尋ねた。薄紅色のチャフィーブは茶色や緑の染みで汚れきっていた。

「ムシュフシュ。アシュタルテの友であり、武器だよ」

 代わりにキリクが答える。体の汚れはシャールと同様だったが、元が灰色の薄汚れたハブルだったので、暗い中で汚れは目立たなかった。

「友ではない。契約で一緒にいるだけだ」

 アシュタルテは、ギザギザの背びれや鱗が消え、今は金色の腕輪にしか見えない蛇を撫でた。

「咬まれてたが……大丈夫か?」

 アシュタルテの両頬に小さな赤黒い咬み傷が並んでいた。顔が夜目にも光るような白さなので、暗くても見えてしまう。血は流れていない。

「仕方ない、わたしも咬んだ」




「死んだのか?」

 キリクが首のない衛兵の体を足先で突っつくと、簡単に裏返った。

「こら、死者を蹴るな」

 シャールが(たしな)める。

「軽い、人形みたいだな」

「首を切ったが、それで死んだのかはわからない。生きた者の感触ではなかった。元々死んでいたのかもしれない」

「死んでいた? 動いてただろ?」

「死んでいるのに動くものもいる。方法はわからないが」

 アシュタルテが答えた時、裏路地に明るい光が差し込んだ。

 並んだ二棟の建物の隙間にある、裏路地へと続く細い路地の先に、松明を持った兵士が見えた。

「いたぞ!」

 狭い路地に、一列になって数人の兵士が入ってくる。

「アシュタルテ、彼らはシェルバの兵かもしれない。殺さないでくれ」

 念のためシャールが頼むと、

「そうそう、後が面倒だからやめてくれよな。アッシュは簡単に殺し過ぎだぜ」

 キリクが言葉を重ねた。アシュタルテは変わらぬ冷静な声音で言い返した。

「理由もなく殺したりはしない。だが邪魔になれば殺す」




 シャールを真ん中に挟み、先頭をキリク、後ろにアシュタルテの並びで、三人は裏路地を逃げた。

 キリクはシャールの足に合わせて走っていたが、兵士たちが徐々に追い迫ってきていた。

 アシュタルテが立ち止まったのを察して、キリクが振り返った。

「おい、殺すなって!」

 だが、

 ギャアッ!

 悲鳴と共に松明が地面に落ち、それに覆い被さるように兵士も倒れる。

 兵服に火が移り、炎が広がった。他の兵士たちが火を消そうと、倒れた兵士の体を地面に(こす)り付けるように転がした。

「殺すなと言ったのに!」

 追いついてきたアシュタルテに、シャールが怒鳴った。

「殺してはいない。松明を持った手を切り落としただけだ」

「そ、それもだめ!」

「足ならばいいか?」

「そういうことじゃなくて!」

 アシュタルテは理解できない様子で首を振った。




 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。

 前方から足音が近付いてくる。人の足音ではない。

「キリク!」

 シャールの呼びかけに答えず、キリクは、シャールが聞いたことのない音色の口笛を吹いた。それはスナネコの鳴き声を真似たものだと、後日教えてもらった。

 足音が大きくなり、裏路地にその影が浮かびあがる。

 二頭の竜駝(ティンタム)。背は駱駝(らくだ)より高く、長い首の上にある頭は人の倍以上あった。嘴(くちばし)はハヤブサに似ており、先が(かぎ)のように曲がっている。鳥なので足は二本。腿(もも)は豊かに太く、細くなった足先の三本指の爪が鋭い。

 一頭にだけ誰か乗っており、もう一頭の手綱を引いている。

「ナディヤ、よくおれたちの場所がわかったな!」

「兵隊が路地に入って行くのが見えたから。急いで! 後ろからも来てる!」

 暗いうえにハブルを被っているので姿がはっきりしないが、答えた声は若い女のものだった。

「さあ、乗って!」

 だが、シャールには乗り方がわからない。

 気付いたキリクが、しゃがみ込んでシャールの股に頭を突っ込み、肩車で体を持ち上げた。

「ぶ……」

 無礼者……と怒鳴りそうになったシャールだが、それどころではないし、今更どうでもよくなってきた。

「首に(つか)まれ」

 竜駝(ティンタム)の背を包むように、網状の腹巻きが巻かれていた。ナディヤと呼ばれた女が乗っているもう一頭を見ると、その網に背を預け、ややのけぞるように深く座っている。腰の下には鞍代わりの織物が敷かれ、両端が網に固定されていた。

 シャールは尻を押し上げられ、織物が置かれた背に(つか)まる。竜駝(ティンタム)の体を覆う羽根は軸が尖っていて硬いが、羽根そのものの手触りは滑らかだ。背中はなだらかに傾いており、羽根は後ろに流れているので、敷物が後ろに滑り落ちそうな感じがする。
 両手を伸ばして太くて長い首を抱き締め、両膝で胸のあたりを挟み込んだ。

「痛たっ!」

 (もも)の内側を無数の針で刺されたような痛みを感じた。反射的に両足を開き、後ろに倒れそうになったシャールを、既に乗っていたキリクの胸が受け止めた。

「首を締めすぎだ。ドニが怒ってる。怒ると胸の羽根が逆立つんだ」

 シャールはキッとなって振り返り、

(おまえが首に(つか)まれと言ったんだろうが!)

 文句を言おうとしたが、前後にガクンと揺れて竜駝(ティンタム)が走り始めたので、声に出すことができなかった。

「臭いわ、アッシュ」

 隣の竜駝(ティンタム)からナディヤの声が聞こえた。ナディヤの後ろにはアシュタルテが乗っている。

 ナディヤが来た方向に、松明のゆらぐ炎が浮かぶ。竜駝(ティンタム)とは異なる足音。先ほどの兵士たちとは別の、駱駝(らくだ)の隊が近づいている。

「アッシュ、向きが逆よ!」

「二人乗りでは竜駝(ティンタム)でも駱駝(らくだ)に追いつかれる。ここで倒す」

 ナディヤとアシュタルテの乗る竜駝(ティンタム)が松明の方へ引き返すのを見て、キリクが走りかけた竜駝(ティンタム)を慌てて反転させた。



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 シャールとキリクは反対の建物の屋上には跳び移れなかったが、途中の階の窓には掴《つか》まることができた。だが何故か窓は通り抜けられない程小さく、窓枠はヌルヌルと汚れており、手が滑ってズルズルと壁を滑り落ちた。
 そこは『裏路地』だった。
 建物の通りに面した側を正面として、反対の裏側は裏路地に面している。裏路地は、隣り合った建物間の路地より幅がある。裏路地を挟んで向かい合うのも、別の建物の裏側だ。建物が背を向け合った路地と言える。
 サルームには王宮周辺の一部を除いて下水がない。料理や洗い物に使った排水も、排泄物の糞尿も、全て建物の裏側から垂れ流している。
 裏路地の意味を知らないシャールではなかったが、普段目にすることはもちろん、言葉にすることもなかった。だが壁の汚れに触れ、ツンとする臭いを嗅いですぐに理解した。悲鳴も上げた。それでも手を離さなかったのは、落ちる恐怖の方が強かったからだ。
 もっとも、強烈な臭気を除けば見た目はただの路地であり、汚物が散乱しているわけではない。汚物は吐き出された壁に付着し、乾季にはすぐに乾いて砂や埃となって飛んでいく。雨季には雨に流され、溶けて地面に吸い込まれていく。
 乾季の今、乾いていないのは、排出されて間もないものだけだ。
 シャールは吐き気をこらえながら、壁の段差を手足で探しつつ慎重に下りていった。この建物は王宮や大厦《たいか》の壁と違い、石が荒く積まれていて手足を掛けられる場所が多かったため、なんとか地面までたどり着くことができた。
 着地と同時に、アシュタルテは足首を掴《つか》んだ黒い衛兵を地面に叩きつけた。
 水溜まりがあり、小さな水音がした。
 ヴィァァアアッ!
 空気が震える。黒い衛兵の叫びは、ほとんど音にならない。
 手首に長剣《シャムシェール》の刃が食い込むの感じ、アシュタルテは衛兵の足首を離し、膝をついた。
 アシュタルテの体は傷だらけだった。夜と、全身を包む黒いハブルのため、そしてあまり体液が出ない性質のために目立たないだけだ。
 キリクたちの逃走を助けるため、ここに至るまでに何度も剣を交えていた。しかしアシュタルテが繰り出す鋭い剣は、悉《ことごと》く羽根のようにフワリと躱《かわ》されてしまう。その直後に返される衛兵の攻撃を避けられない。緩い動作でありながら、衛兵の剣は速い。おそらく、動作の緩急により間合いを外されている。
 推測できても、それに対抗する技量が今のアシュタルテには無かった。最初に衛兵の右腕を切り落とせたのは、シャールを狙っていた衛兵の隙を、運良く捉えられたからだろう。
 だが人であれば動脈が切れる場所の傷も、彼女には他の傷との違いはない。体力を奪われ動きが鈍くなるだけで、死には至らない。体の内部が柔軟な金属で組成されている彼女の利点だった。
 黒い衛兵がふわりと宙に浮き、壁を蹴って斜め上から長剣《シャムシェール》を突き込んできた。アシュタルテは左手を突き出し、掌《てのひら》で剣を受け止める。同時に、右手の金色の細剣を鋭く突き出した。
 衛兵の剣は掌《てのひら》を貫通したが、アシュタルテはそのまま左手を押し続け、がっしりと鍔《つば》を掴《つか》む。近付いた衛兵の顔は、眼窩だけで眼球のない死者の顔だった。
 アシュタルテの右手の剣は、衛兵のドゥループをかすめて通り過ぎたかと思うと、剣先がぐにゃりと曲がり、その首に巻き付いた。顔に巻いたドゥループが剥がれ、乾燥して黒ずんだ皮膚が露わになる。剣の切っ先は、いつのまにかつるつると丸い金色の蛇の頭に変じ、そこには白くて丸い無表情な目が付いている。
 アシュタルテは垂れ下がった蛇の頭に咬みつき、右手で蛇の尻尾に変わった柄を引っ張る。剣は金色の鱗《うろこ》に覆われた蛇となり、更に細く紐状となり、衛兵の首を締め上げていく。
 ヴヴヴヴヴッ!
 衛兵が音無く唸る。剣を振り回そうとするが、鍔《つば》を掴《つか》んだ左手で押さえ込む。
 アシュタルテは体重を載せて押し倒した。
 衛兵の体は人とは思えぬ軽さだった。それに対して、アシュタルテの体は見た目よりもずっと重い。彼女が衛兵の胸に膝を突き入れると、首を絞めていた蛇の輪がみるみるすぼまり、衛兵が地面に倒れた瞬間、首がブツリと切れた。
 悲鳴もなく、血も流れない。頭は地面に落ちて少し弾み、路地の奥に転がっていった。
 アシュタルテが金色の蛇を手離すと、蛇はスルスルとアシュタルテの体を這い上った。膨れて潰れたパンのように大きく平べったくなった頭を真横にガバッと裂いて、アシュタルテの顔に咬みついた。並んだ小さな鋭い歯が、アシュタルテの白い顔に食い込む。
「アッシュ!」
 黒い衛兵の頭が転がっていったのとは反対側から、キリクたちが駆けてくる。
 シャールのしょぼくれた様子にアシュタルテは気付いたが、理由は推測できず、重要だとも思わなかった。
 アシュタルテが片手で顔の上の蛇を引き剥がすと、蛇の頭はしゅうっと萎《しぼ》み、腕から肩を伝って、アシュタルテの二の腕に巻き付いた。
「それは……なに?」
 顔をしかめてシャールが尋ねた。薄紅色のチャフィーブは茶色や緑の染みで汚れきっていた。
「ムシュフシュ。アシュタルテの友であり、武器だよ」
 代わりにキリクが答える。体の汚れはシャールと同様だったが、元が灰色の薄汚れたハブルだったので、暗い中で汚れは目立たなかった。
「友ではない。契約で一緒にいるだけだ」
 アシュタルテは、ギザギザの背びれや鱗が消え、今は金色の腕輪にしか見えない蛇を撫でた。
「咬まれてたが……大丈夫か?」
 アシュタルテの両頬に小さな赤黒い咬み傷が並んでいた。顔が夜目にも光るような白さなので、暗くても見えてしまう。血は流れていない。
「仕方ない、わたしも咬んだ」
「死んだのか?」
 キリクが首のない衛兵の体を足先で突っつくと、簡単に裏返った。
「こら、死者を蹴るな」
 シャールが嗜《たしな》める。
「軽い、人形みたいだな」
「首を切ったが、それで死んだのかはわからない。生きた者の感触ではなかった。元々死んでいたのかもしれない」
「死んでいた? 動いてただろ?」
「死んでいるのに動くものもいる。方法はわからないが」
 アシュタルテが答えた時、裏路地に明るい光が差し込んだ。
 並んだ二棟の建物の隙間にある、裏路地へと続く細い路地の先に、松明を持った兵士が見えた。
「いたぞ!」
 狭い路地に、一列になって数人の兵士が入ってくる。
「アシュタルテ、彼らはシェルバの兵かもしれない。殺さないでくれ」
 念のためシャールが頼むと、
「そうそう、後が面倒だからやめてくれよな。アッシュは簡単に殺し過ぎだぜ」
 キリクが言葉を重ねた。アシュタルテは変わらぬ冷静な声音で言い返した。
「理由もなく殺したりはしない。だが邪魔になれば殺す」
 シャールを真ん中に挟み、先頭をキリク、後ろにアシュタルテの並びで、三人は裏路地を逃げた。
 キリクはシャールの足に合わせて走っていたが、兵士たちが徐々に追い迫ってきていた。
 アシュタルテが立ち止まったのを察して、キリクが振り返った。
「おい、殺すなって!」
 だが、
 ギャアッ!
 悲鳴と共に松明が地面に落ち、それに覆い被さるように兵士も倒れる。
 兵服に火が移り、炎が広がった。他の兵士たちが火を消そうと、倒れた兵士の体を地面に擦《こす》り付けるように転がした。
「殺すなと言ったのに!」
 追いついてきたアシュタルテに、シャールが怒鳴った。
「殺してはいない。松明を持った手を切り落としただけだ」
「そ、それもだめ!」
「足ならばいいか?」
「そういうことじゃなくて!」
 アシュタルテは理解できない様子で首を振った。
 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。
 前方から足音が近付いてくる。人の足音ではない。
「キリク!」
 シャールの呼びかけに答えず、キリクは、シャールが聞いたことのない音色の口笛を吹いた。それはスナネコの鳴き声を真似たものだと、後日教えてもらった。
 足音が大きくなり、裏路地にその影が浮かびあがる。
 二頭の竜駝《ティンタム》。背は駱駝《らくだ》より高く、長い首の上にある頭は人の倍以上あった。嘴《くちばし》はハヤブサに似ており、先が鉤《かぎ》のように曲がっている。鳥なので足は二本。腿《もも》は豊かに太く、細くなった足先の三本指の爪が鋭い。
 一頭にだけ誰か乗っており、もう一頭の手綱を引いている。
「ナディヤ、よくおれたちの場所がわかったな!」
「兵隊が路地に入って行くのが見えたから。急いで! 後ろからも来てる!」
 暗いうえにハブルを被っているので姿がはっきりしないが、答えた声は若い女のものだった。
「さあ、乗って!」
 だが、シャールには乗り方がわからない。
 気付いたキリクが、しゃがみ込んでシャールの股に頭を突っ込み、肩車で体を持ち上げた。
「ぶ……」
 無礼者……と怒鳴りそうになったシャールだが、それどころではないし、今更どうでもよくなってきた。
「首に掴《つか》まれ」
 竜駝《ティンタム》の背を包むように、網状の腹巻きが巻かれていた。ナディヤと呼ばれた女が乗っているもう一頭を見ると、その網に背を預け、ややのけぞるように深く座っている。腰の下には鞍代わりの織物が敷かれ、両端が網に固定されていた。
 シャールは尻を押し上げられ、織物が置かれた背に掴《つか》まる。竜駝《ティンタム》の体を覆う羽根は軸が尖っていて硬いが、羽根そのものの手触りは滑らかだ。背中はなだらかに傾いており、羽根は後ろに流れているので、敷物が後ろに滑り落ちそうな感じがする。
 両手を伸ばして太くて長い首を抱き締め、両膝で胸のあたりを挟み込んだ。
「痛たっ!」
 腿《もも》の内側を無数の針で刺されたような痛みを感じた。反射的に両足を開き、後ろに倒れそうになったシャールを、既に乗っていたキリクの胸が受け止めた。
「首を締めすぎだ。ドニが怒ってる。怒ると胸の羽根が逆立つんだ」
 シャールはキッとなって振り返り、
(おまえが首に掴《つか》まれと言ったんだろうが!)
 文句を言おうとしたが、前後にガクンと揺れて竜駝《ティンタム》が走り始めたので、声に出すことができなかった。
「臭いわ、アッシュ」
 隣の竜駝《ティンタム》からナディヤの声が聞こえた。ナディヤの後ろにはアシュタルテが乗っている。
 ナディヤが来た方向に、松明のゆらぐ炎が浮かぶ。竜駝《ティンタム》とは異なる足音。先ほどの兵士たちとは別の、駱駝《らくだ》の隊が近づいている。
「アッシュ、向きが逆よ!」
「二人乗りでは竜駝《ティンタム》でも駱駝《らくだ》に追いつかれる。ここで倒す」
 ナディヤとアシュタルテの乗る竜駝《ティンタム》が松明の方へ引き返すのを見て、キリクが走りかけた竜駝《ティンタム》を慌てて反転させた。