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320 優しい嘘にして欲しい

ー/ー



 藤城皐月(ふじしろさつき)はいつもなら夕食の時間の6時ギリギリに帰宅するけれど、この日は時間を余らせて早めに帰って来た。
 玄関の三和土(たたき)には一緒に住む及川祐希(おいかわゆうき)の外出用のかわいいスニーカーが出ていた。祐希は母の頼子(よりこ)が家にいる時は門限を守るので、祐希はすでに帰宅しているようだ。
 皐月は買ってきた修学旅行に履いていく靴を箱から出して、下駄箱に入れた。家に上がると真っ先に台所にいる頼子のところへ行った。
「ただいま」
「おかえり。皐月ちゃん」
「美味しそうな匂いがするね。今まで家で食べたことのない料理の匂いだ」
「鶏肉のクリーム煮よ。美味しくできているといいんだけど」
「大丈夫だよ、頼子さんならママみたいに適当に料理を作ったりしないから、絶対に美味しいよ。俺も何か手伝いしようか」
「じゃあ、サラダと飲み物を運んでもらってもいいかしら」
「わかったー」
 皐月は言われたものを居間のテーブルへ運び、食事の用意が終わるまでは2階の自分の部屋に戻ることにした。

 急勾配の階段を這うようにして上がって部屋に入ると、部屋を仕切る襖の隙間から明かりが漏れていた。祐希がいる。
 皐月はいつものようにベッドの横の襖を開けないで、部屋の隅の通路になる襖をノックをして、祐希からの返事を待ってから開けた。
「ただいま」
「おかえり。デートは楽しかった?」
「まあね。祐希はどうだった?」
「うん。楽しかったよ。私はデートじゃないけどね」
 ムキになって言う祐希を見て、皐月はさっきまで会っていた入屋千智(いりやちさと)よりもかわいいと思った。恋人の竹下蓮(たけしたれん)とは会わないで友人の黒田美紅(くろだみく)と遊んでいたという祐希の今朝の話は本当なのかもしれない。
 皐月は嫉妬の苦しみと引き換えに、嫉妬されることの悦びを知った。だが、嫉妬されることの鬱陶しさもわかった。これらは全て恋愛関係ではない祐希とのやりとりから知ったことだ。
 皐月は祐希の変化に気付いていた。
 祐希が変わったのはいたずらでキスをした時からだ。だが、皐月には変化の理由がわからない。どうして祐希は自分とキスをすることに抵抗がなくなったのか。今では祐希の方が自分とキスをしたがっているように思える。

 皐月は空いた襖の敷居を超えて祐希の部屋に入った。勉強机で学校の勉強をしていた祐希のすぐ横まで近づいた。
「匂ってみて? 女の匂いなんてしないから」
 皐月は出かける前に祐希に栗林真理(くりばやしまり)の匂いを嗅ぎ当てられたことがずっと気になっていた。祐希がどのレベルまで匂いがわかるのか、確認しておきたかった。
 祐希は皐月の胸のあたりに顔を近づけて匂いを嗅いだ。何カ所も臭いを確かめて、椅子から立ち上がり、うなじの辺りも匂ってきた。息を吸えば息を吐く。祐希の吐息が顔にかかり、皐月は変な気持ちになってきた。
「何も匂わなかった」
 祐希は嬉しそうに笑っていた。だがその笑みからは純粋な喜びだけでなく、妖しい悦びも見て取れた。
「これで俺と千智の間に何もなかったことがわかっただろ?」
「じゃあ、今度は私も匂ってみてよ。皐月って昨日、私から男の匂いがしたって言ったよね? どうせ今日も疑ってるんでしょ?」
 皐月は祐希の背後に回って肩に手を乗せ、髪の匂いを嗅いだ。今日は汗の匂いもあまりしなくて、ヘアワックスの香りがした。
「髪は男の匂いがしないね」
 耳元の髪を手でよけて鼻を近づけた。祐希のうなじからは体臭の混じった官能的な匂いはしたが、やはり男の匂いはしなかった。皐月が首筋に軽く口を触れると、祐希から小さな声が漏れた。
「ごめん。当たっちゃった」
「もう……わざとでしょ? で、どうだった? 男の匂い、した?」
「全然。女の匂いしかしないよ」

 皐月が背後から抱き寄せると、祐希の頬が熱くなった。
「私……嘘なんかつかないから」
「そうみたいだね。これからは俺、祐希の言うことは全部信じることにするよ」
「そんなこと言っていいの? 私、嘘ついちゃうかもしれないよ?」
「別にいいよ、嘘ついたって。……そのかわり俺が泣かないような優しい嘘にして欲しいかな」
 火照った頬に軽くキスをすると、祐希は体をねじって唇を合わせてきた。真理と違い、祐希のキスは大味だ。蓮に最適化されたものに違いないと思うと気持ちが萎えるが、回を重ねるうちに少し慣れてきた。
 祐希はキスの時の口の開け方が大きい。舌を入れれば絡めてくるが、自分好みに修正してやりたくなった。お互いの舌を舐め合っていると、祐希のスマホに電話がかかってきた。
「祐希、電話」
 肩を押して体を剥がし、皐月は先に1階へ降りようとした。この着信音は頼子だから、夕食の準備が終わった知らせだ。祐希が頼子と話している間に皐月は階段を下りた。

 日曜日の朝、家族4人でパピヨンでモーニングセットを食べていると皐月のスマホに芸妓(げいこ)(みちる)からメッセージが届いた。
 そこには午前10時に車で家まで迎えに行くと書かれていた。満はいろいろな服屋に連れて行ってくれるようだが、どこへ行くのか全く想像がつかない。
 皐月が満と外出するのは初めてだ。満とは外出どころか、検番(けんばん)以外では会ったことがない。
 今まで満からはそれなりにかわいがられてきた。だが、明日美(あすみ)のようにプライベートの時間を潰してまで買い物に付き合ってくれる程の関係性があるとは思っていなかった。
「満姉ちゃん、10時に車で迎えに来るんだって。夕食までには帰って来られそうだな。もしかしたら昼前に買い物が終わるかも」
「お昼くらい食べてきなさいよ。満のことだから、あんたをドライブの道連れにするつもりなんでしょうね。あの子は車好きだから、どこか遠くまで連れて行かれちゃうかもしれないわね」
 母の小百合(さゆり)が言うように、満が車好きなのは明日美からも聞いていた。ただ、小百合も明日美も車にそれほど興味がないので、満がどのくらい車が好きなのかは想像ができない。
 自分が鉄道が好きなように満も自動車が好きだったら楽しいのになと思った。満の助手席に乗れると思うと、皐月は少し車にも興味を持ち始めてきた。



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 |藤城皐月《ふじしろさつき》はいつもなら夕食の時間の6時ギリギリに帰宅するけれど、この日は時間を余らせて早めに帰って来た。
 玄関の|三和土《たたき》には一緒に住む|及川祐希《おいかわゆうき》の外出用のかわいいスニーカーが出ていた。祐希は母の|頼子《よりこ》が家にいる時は門限を守るので、祐希はすでに帰宅しているようだ。
 皐月は買ってきた修学旅行に履いていく靴を箱から出して、下駄箱に入れた。家に上がると真っ先に台所にいる頼子のところへ行った。
「ただいま」
「おかえり。皐月ちゃん」
「美味しそうな匂いがするね。今まで家で食べたことのない料理の匂いだ」
「鶏肉のクリーム煮よ。美味しくできているといいんだけど」
「大丈夫だよ、頼子さんならママみたいに適当に料理を作ったりしないから、絶対に美味しいよ。俺も何か手伝いしようか」
「じゃあ、サラダと飲み物を運んでもらってもいいかしら」
「わかったー」
 皐月は言われたものを居間のテーブルへ運び、食事の用意が終わるまでは2階の自分の部屋に戻ることにした。
 急勾配の階段を這うようにして上がって部屋に入ると、部屋を仕切る襖の隙間から明かりが漏れていた。祐希がいる。
 皐月はいつものようにベッドの横の襖を開けないで、部屋の隅の通路になる襖をノックをして、祐希からの返事を待ってから開けた。
「ただいま」
「おかえり。デートは楽しかった?」
「まあね。祐希はどうだった?」
「うん。楽しかったよ。私はデートじゃないけどね」
 ムキになって言う祐希を見て、皐月はさっきまで会っていた|入屋千智《いりやちさと》よりもかわいいと思った。恋人の|竹下蓮《たけしたれん》とは会わないで友人の|黒田美紅《くろだみく》と遊んでいたという祐希の今朝の話は本当なのかもしれない。
 皐月は嫉妬の苦しみと引き換えに、嫉妬されることの悦びを知った。だが、嫉妬されることの鬱陶しさもわかった。これらは全て恋愛関係ではない祐希とのやりとりから知ったことだ。
 皐月は祐希の変化に気付いていた。
 祐希が変わったのはいたずらでキスをした時からだ。だが、皐月には変化の理由がわからない。どうして祐希は自分とキスをすることに抵抗がなくなったのか。今では祐希の方が自分とキスをしたがっているように思える。
 皐月は空いた襖の敷居を超えて祐希の部屋に入った。勉強机で学校の勉強をしていた祐希のすぐ横まで近づいた。
「匂ってみて? 女の匂いなんてしないから」
 皐月は出かける前に祐希に|栗林真理《くりばやしまり》の匂いを嗅ぎ当てられたことがずっと気になっていた。祐希がどのレベルまで匂いがわかるのか、確認しておきたかった。
 祐希は皐月の胸のあたりに顔を近づけて匂いを嗅いだ。何カ所も臭いを確かめて、椅子から立ち上がり、うなじの辺りも匂ってきた。息を吸えば息を吐く。祐希の吐息が顔にかかり、皐月は変な気持ちになってきた。
「何も匂わなかった」
 祐希は嬉しそうに笑っていた。だがその笑みからは純粋な喜びだけでなく、妖しい悦びも見て取れた。
「これで俺と千智の間に何もなかったことがわかっただろ?」
「じゃあ、今度は私も匂ってみてよ。皐月って昨日、私から男の匂いがしたって言ったよね? どうせ今日も疑ってるんでしょ?」
 皐月は祐希の背後に回って肩に手を乗せ、髪の匂いを嗅いだ。今日は汗の匂いもあまりしなくて、ヘアワックスの香りがした。
「髪は男の匂いがしないね」
 耳元の髪を手でよけて鼻を近づけた。祐希のうなじからは体臭の混じった官能的な匂いはしたが、やはり男の匂いはしなかった。皐月が首筋に軽く口を触れると、祐希から小さな声が漏れた。
「ごめん。当たっちゃった」
「もう……わざとでしょ? で、どうだった? 男の匂い、した?」
「全然。女の匂いしかしないよ」
 皐月が背後から抱き寄せると、祐希の頬が熱くなった。
「私……嘘なんかつかないから」
「そうみたいだね。これからは俺、祐希の言うことは全部信じることにするよ」
「そんなこと言っていいの? 私、嘘ついちゃうかもしれないよ?」
「別にいいよ、嘘ついたって。……そのかわり俺が泣かないような優しい嘘にして欲しいかな」
 火照った頬に軽くキスをすると、祐希は体をねじって唇を合わせてきた。真理と違い、祐希のキスは大味だ。蓮に最適化されたものに違いないと思うと気持ちが萎えるが、回を重ねるうちに少し慣れてきた。
 祐希はキスの時の口の開け方が大きい。舌を入れれば絡めてくるが、自分好みに修正してやりたくなった。お互いの舌を舐め合っていると、祐希のスマホに電話がかかってきた。
「祐希、電話」
 肩を押して体を剥がし、皐月は先に1階へ降りようとした。この着信音は頼子だから、夕食の準備が終わった知らせだ。祐希が頼子と話している間に皐月は階段を下りた。
 日曜日の朝、家族4人でパピヨンでモーニングセットを食べていると皐月のスマホに|芸妓《げいこ》の|満《みちる》からメッセージが届いた。
 そこには午前10時に車で家まで迎えに行くと書かれていた。満はいろいろな服屋に連れて行ってくれるようだが、どこへ行くのか全く想像がつかない。
 皐月が満と外出するのは初めてだ。満とは外出どころか、|検番《けんばん》以外では会ったことがない。
 今まで満からはそれなりにかわいがられてきた。だが、|明日美《あすみ》のようにプライベートの時間を潰してまで買い物に付き合ってくれる程の関係性があるとは思っていなかった。
「満姉ちゃん、10時に車で迎えに来るんだって。夕食までには帰って来られそうだな。もしかしたら昼前に買い物が終わるかも」
「お昼くらい食べてきなさいよ。満のことだから、あんたをドライブの道連れにするつもりなんでしょうね。あの子は車好きだから、どこか遠くまで連れて行かれちゃうかもしれないわね」
 母の|小百合《さゆり》が言うように、満が車好きなのは明日美からも聞いていた。ただ、小百合も明日美も車にそれほど興味がないので、満がどのくらい車が好きなのかは想像ができない。
 自分が鉄道が好きなように満も自動車が好きだったら楽しいのになと思った。満の助手席に乗れると思うと、皐月は少し車にも興味を持ち始めてきた。