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20話 コナトゥスのための挽歌―6

ー/ー



 広々とした空間の中央には音を奏でないグランドピアノがある。だけどその前には音を奏でる人間が一人不敵な笑みを浮かべて私の前に立っていた。

「ねぇ、神無月さん。羽野くんはどう?」
「どうって何を答えればいいのかしら」
「いやいや、そんな小っ恥ずかしいことじゃなくってもいいよ」
「何よ、小っ恥ずかしいことって」
「ほら、あーんとか? わたししたことないんだよね」

 人差し指を顎に当て、考えるフリをしている。フリ、そうフリなのだ。彼女は私をどんな手で遊ぼうかと楽しんでいるのだ。
 私はもうこの部屋には来たくはなかった。けど、ここにこうして来た理由は他でもない、一井さんから呼ばれたからだ。
 あの光沢の黒色を見ると筋肉が硬直する。感覚のない前腕だけど、きっと力は抜けているはず。それが生きてきて身についたものだから思わず唇を噛んでしまう。
 
「もう弾かないの?」
「ええ、これ以上はもう。私の中で折り合いがついてしまったの」
「ふむふむ、でさ。羽野くんの過去って聞いたことある?」
「過去って一体何なのかしら?」

 その反応じゃなさそうだね。とまるで興味がなさそうに首を振って彼女はクルリとその場で一回転し、グランドピアノの正面にある椅子へ腰掛けた。

「羽野くんの妹の、さくらちゃんのことだよ」
「さくら? 芳には妹がいたの?」
「そうだよ! 仲良しさんの兄弟だよ! でも知らなかったんだ。というか教えてもらえなかったんだね」

 さっきから一井さんは私に挑発するような発言を繰り返している。だけど、私は「やめて」なんて言葉を口にはできない。どうしても知りたい欲の方が上回ってしまうから。

「芳にだって色々な事情があるんでしょう」
「そうだね、事情があるんだよ。でもそれを羽野くんは決してあなたには言わないよ」
「どうして?」
「だって、好きな子だからね」
「何が言いたいのかしら?」
「うーん、もうちょっと引っ張りたかったんだけどさ、神無月さん。あなた、羽野くんが惚れてる理由って聞いたことある?」
「私と再会して、気持ちがって」
「それさ、ピアノが中心じゃない?」
 
 考えてもいなかった。だって、私自身がピアノと共にあった訳だから。そんな当たり前のことに気付けなかった。それで芳が私を好きじゃないなんて、私からは否定できない。あの時、告白をしてくれた芳は私のことを好きと言ってくれた。
 そうじゃないと彼の「分からない」という言葉がまるで騙すみたいに聞こえるじゃない。

「そんなことない……ってどうして即答で返事してくれないの? もしかして、ちょっとはそうなんじゃないかって思ってたり?」
「そうだとして、だから何よ。それがきっかけだっただけよ」
「きっかけね、都合のいい言葉だよ。だってあなたがピアノを弾いていなければ……ね。それよりわたしなんてさ、さくらちゃんの事が被ったんだよ? ツイてないのはわたしの方じゃないかな~?」

 フラフラと足を揺らす動作がどうしても鼻についてしまう。ああ、そこに座るのは私なのに。そんな気持ちで座らないで。

「一井さん、もういいかしら」
「いいって何が? 話はこれからだよ。知りたいんでしょ? さくらちゃん」
「いいわ。彼が教えてくれないのには理由があるもの。それを信じるだけよ」
「わたしさ、ずっと言いたかったんだよね。羽野くんが神無月さんを好きになった理由をさ」
「言ったじゃない。ピアノが中心って」
「ふふ、そうじゃないんだよ。あなたがピアノを初めたどうこうじゃなくってさ」
「じゃあ一体なんなのかしら?」
「才能だよ……中途半端だったりしたらさ、あのボランティアに呼ばれてた?」

 お願いをされた。諦めたかと思えば聞きたいと願いを変えてきた。彼はどうして私の演奏を聴きたかったのか。
 彼女の言う通りなのかもしれない。私の演奏はよく褒められる――そういう過去があるから。だったらそのよさがなければ音楽を知らない彼は夢中になっていただろうか。確信が持てない。そんなもの私が持っているわけがないのだ。
 
「あの時の羽野くんはいつもと違ってたんだよ。どうしてか元気があってさ。わたし、ちょっと嬉しくなったりしたんだけどね」
「私……才能?」
「そうだよ! 神様からのすっごいプレゼントだね」
「でも……」
「きっとあやちゃんでも無理だったんじゃないかな?」
「あの子だって」
「それよりも凄いから、あなたは自由にしているんでしょ?」
「別に」
「まあよく言うじゃん、それってきっかけであってとか。いい方向で捉えようよ! 羽野くんも色々あったから神無月さんの癖とか、そんなの忘れちゃってるんだろうね」

 グランドピアノの傍らにある机の上にはメトロノームが置いてある。針を動かしていないのに、カチカチと音が鳴っている。どこから鳴っているんだろう? 遠い場所から鳴っているはずなのに、その姿が見えない。
 ああ、思い出したぞ。これはまだ芳と出会う前。その時に聞いていた音だ。そこで私は人生で一番嫌な経験をしたのだ。

「どうしてこれくらい出来ないのかしら?」
「ごめんなさい」
「あなたには才能があるんでしょう? だったら早く出来るようになりなさい」

 習い事のピアノをしていると急に先生が「この子には才能がある」と言って新しい先生を連れてきた。その人はおっかなく、いつも怒鳴っていた。私はのびのびとピアノを弾きたいのに、この人のせいでそれもままならない。とても嫌いな人。
 いつも隣にはメトロノームを置いて、ズレているかを確認する。間違えたら決まり文句のように「才能」と言う。
 良くも悪くもその人のおかげで私は成長することができた。だけど、初めに感じていた楽しさはどこかに行ってしまった。

「いいわ、その調子よ。やるじゃない」
「ありがとうございます」
「ズレた! 喋らないの!」
「……」

 たまに褒めてくれることもある、だけどズレてもいないのに怒声を浴びせる。来る日も来る日もこんな調子で本当につまらない。
 お母さんに言ってやめてもらおうかな。いや、お父さんの方がいいかな?

「今集中してないでしょ!?」
「……」

 もうこの金切り声は聴きたくない。どうしていつも才能、才能。そればっかり言うのかな。私はただ弾いて遊んでいたいだけなのに。鬱陶しい。

 最近は忙しいからとかで来られない日が続いている。この時間はゆっくり好きなように弾けるから最高に楽しい……はずだった。どうしてか、つまらない。あの人が来てからはずっとこの調子だ。有名な人でもあんなに切り詰めてちゃだめだよ、なんて思っていると窓が勝手に開いた。
 泥棒かと思って怖かったけど弾くのは止められない。だってこの部分は特に楽しい場所だから。昔のような楽しさを思い出すためだから。
 弾き終わった時、外から子供の声がかすかに聞こえた。少し待っても小さな泥棒さんは入って来ない。だから私が会いに行ってみよう。だって同い年の子たちとあんまり会えないし。

「あなたはだぁれ?」

 それからの日々は楽しかった。誰かに聴いてもらえてその人が嬉しそうに、楽しそうにしているのは、まるで初めて弾いた時みたいだった。そして先生が来る時はあの子をもっと楽しませたいから色んなことを聞いて教わった。ちょっとツラいけど、あの子が喜んでくれるなら十分だ。

「私は才能で彼を振り向かせたの……?」
「そう言いたんじゃないけどね、わたしはそう思うよ。あなたに才能がなかったら出会わなかっただろうから」
「それでも、私を好いてくれているわ」
「あなたじゃないよ。才能にだよ」
「だったら何故、私なんかに告白したというの?」
「なんでだろうね。やっぱり好きなんじゃない?」

 どうしても彼が私そのものを見ているんじゃなくて、私の才能を見て好いていると考えてしまう。あの言葉が薄っぺらくなっていく。本当は弾ける私を好いていると、そんな筈はないと信じたいのに。一度芽生えた考えは心の中に居座り続ける。
 指先は満足に動かせない。
 彼女の後ろにある物が私を象徴していた。

「わたしさ、今だから言うんだけど羽野くんのことが好きなんだよね」
「私もそう感じていたわ」
「だから悔しくて思ってもないこと言っちゃった……八つ当たりなの。わたしのことを嫌いになるのならそれでいい。でもね羽野くんのことはきちんと考えて欲しいの。わたしは彼をずっと見てきたから」

 *

「もう作りに来ちゃ駄目なんですか?」

「どうしてです?」と前のめりになって綾音が問い詰めてくる。
 
「言いづらいんだけど僕さ、麗華と付き合うことになったから」
「そう……ですか。おめでとうございます」
「その、別に料理をして欲しくないわけではないんだよ。僕の意地みたいなものでね」
「そりゃ心象に悪いですよね。こんな変な女が家に入り浸ってちゃ」
「いやいや! 楽しいし毎朝ご飯を食べられてありがたいんだけど、これは何と言うかマナーみたいなさ」
「分かってますよ、それくらい。でも小言の一つや二つ言わせて下さいよ。言っておきますが私はそれでも先輩に近付きますからね?」
「なかなか精神力あるね」

 自慢するように胸を張って「ええ」と彼女は言う。本当はもう少しショックを受けるんじゃないかって思っていたんだけど、そうでもなくてよかった。でも綾音が料理を出来る場所を奪ったみたいでかなり心苦しさを感じる。出会った時のようにはなって欲しくない。そうなってしまったら、僕は確実にそれが僕のせいだと考えてしまうから。

「どっちからなんですか?」
「どっちって?」

 エプロンを付けたままの姿で「告白ですよ」と正面に座る。雑談かと思っていたけどその様子からは真剣そのものだと分かる。

「……僕からだよ」
「へぇ。そうなんですか」
「そうだよ」
「後、どうして芳先輩はあの人のことを話してくれないんですか? あの日以来腕の症状について何も教えてくれないじゃないですか。私あの人の連絡先持ってないですし」
「さあ、ねって! うわぁ!」

 突然、綾音は僕の両肩に手をかけそのまま後ろへ押し倒した。

「本当は嘘なんじゃないですか? 告白したってのも」
「嘘じゃないよ」
「だったらすぐにはね除けたらいいじゃないですか」
「そんな事できないよ」
「付き合っているんでしょ……それとも私も手を怪我したらいいですか?」

 そう聞いた途端、思わず彼女の両手を捕まえてしまった。

「あの人、弾けないんですね。いやその反応だとしばらく、いやもっと長く弾けないんじゃないですか」
「どうして分かるのさ」
「そんなの演奏を聴けば分かりますよ。一応、私もかなり上手い部類には入りますからね。あの人の演奏ずっと変だったんですよ。練習の時から違和感があって」
「実は麗華、あの日からずっと手が痺れているらしいんだよね。しかも原因不明」
「……それで弾かないんですね」
 
 彼女の目を見るとその鋭さと宝石のような輝きに魅入ってしまいそうになる。綾音は今自分が弾けない状態になったらどうなるのかを考えているだろうに、僕は綾音の、さくらには似ても似つかない彼女らしさを見ていた。

「私が弾けなくなっても、私は私だけの生き方を見つけました」

 上体を支え、僕の肩を掴んでいる手に力が入る。
 
「でもあの人はきっと空っぽです。受賞しても何とも言わないですし、自慢もしない。まるで自分だけの芸術を追い求めているみたいに。それ以外はどうだっていいって素振りで……そんな人がピアノを失ったらどうなるんでしょうね。ねえ、芳先輩。あなたは愛しているってあの人に言えるんですか?」


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「どうって何を答えればいいのかしら」
「いやいや、そんな小っ恥ずかしいことじゃなくってもいいよ」
「何よ、小っ恥ずかしいことって」
「ほら、あーんとか? わたししたことないんだよね」
 人差し指を顎に当て、考えるフリをしている。フリ、そうフリなのだ。彼女は私をどんな手で遊ぼうかと楽しんでいるのだ。
 私はもうこの部屋には来たくはなかった。けど、ここにこうして来た理由は他でもない、一井さんから呼ばれたからだ。
 あの光沢の黒色を見ると筋肉が硬直する。感覚のない前腕だけど、きっと力は抜けているはず。それが生きてきて身についたものだから思わず唇を噛んでしまう。
「もう弾かないの?」
「ええ、これ以上はもう。私の中で折り合いがついてしまったの」
「ふむふむ、でさ。羽野くんの過去って聞いたことある?」
「過去って一体何なのかしら?」
 その反応じゃなさそうだね。とまるで興味がなさそうに首を振って彼女はクルリとその場で一回転し、グランドピアノの正面にある椅子へ腰掛けた。
「羽野くんの妹の、さくらちゃんのことだよ」
「さくら? 芳には妹がいたの?」
「そうだよ! 仲良しさんの兄弟だよ! でも知らなかったんだ。というか教えてもらえなかったんだね」
 さっきから一井さんは私に挑発するような発言を繰り返している。だけど、私は「やめて」なんて言葉を口にはできない。どうしても知りたい欲の方が上回ってしまうから。
「芳にだって色々な事情があるんでしょう」
「そうだね、事情があるんだよ。でもそれを羽野くんは決してあなたには言わないよ」
「どうして?」
「だって、好きな子だからね」
「何が言いたいのかしら?」
「うーん、もうちょっと引っ張りたかったんだけどさ、神無月さん。あなた、羽野くんが惚れてる理由って聞いたことある?」
「私と再会して、気持ちがって」
「それさ、ピアノが中心じゃない?」
 考えてもいなかった。だって、私自身がピアノと共にあった訳だから。そんな当たり前のことに気付けなかった。それで芳が私を好きじゃないなんて、私からは否定できない。あの時、告白をしてくれた芳は私のことを好きと言ってくれた。
 そうじゃないと彼の「分からない」という言葉がまるで騙すみたいに聞こえるじゃない。
「そんなことない……ってどうして即答で返事してくれないの? もしかして、ちょっとはそうなんじゃないかって思ってたり?」
「そうだとして、だから何よ。それがきっかけだっただけよ」
「きっかけね、都合のいい言葉だよ。だってあなたがピアノを弾いていなければ……ね。それよりわたしなんてさ、さくらちゃんの事が被ったんだよ? ツイてないのはわたしの方じゃないかな~?」
 フラフラと足を揺らす動作がどうしても鼻についてしまう。ああ、そこに座るのは私なのに。そんな気持ちで座らないで。
「一井さん、もういいかしら」
「いいって何が? 話はこれからだよ。知りたいんでしょ? さくらちゃん」
「いいわ。彼が教えてくれないのには理由があるもの。それを信じるだけよ」
「わたしさ、ずっと言いたかったんだよね。羽野くんが神無月さんを好きになった理由をさ」
「言ったじゃない。ピアノが中心って」
「ふふ、そうじゃないんだよ。あなたがピアノを初めたどうこうじゃなくってさ」
「じゃあ一体なんなのかしら?」
「才能だよ……中途半端だったりしたらさ、あのボランティアに呼ばれてた?」
 お願いをされた。諦めたかと思えば聞きたいと願いを変えてきた。彼はどうして私の演奏を聴きたかったのか。
 彼女の言う通りなのかもしれない。私の演奏はよく褒められる――そういう過去があるから。だったらそのよさがなければ音楽を知らない彼は夢中になっていただろうか。確信が持てない。そんなもの私が持っているわけがないのだ。
「あの時の羽野くんはいつもと違ってたんだよ。どうしてか元気があってさ。わたし、ちょっと嬉しくなったりしたんだけどね」
「私……才能?」
「そうだよ! 神様からのすっごいプレゼントだね」
「でも……」
「きっとあやちゃんでも無理だったんじゃないかな?」
「あの子だって」
「それよりも凄いから、あなたは自由にしているんでしょ?」
「別に」
「まあよく言うじゃん、それってきっかけであってとか。いい方向で捉えようよ! 羽野くんも色々あったから神無月さんの癖とか、そんなの忘れちゃってるんだろうね」
 グランドピアノの傍らにある机の上にはメトロノームが置いてある。針を動かしていないのに、カチカチと音が鳴っている。どこから鳴っているんだろう? 遠い場所から鳴っているはずなのに、その姿が見えない。
 ああ、思い出したぞ。これはまだ芳と出会う前。その時に聞いていた音だ。そこで私は人生で一番嫌な経験をしたのだ。
「どうしてこれくらい出来ないのかしら?」
「ごめんなさい」
「あなたには才能があるんでしょう? だったら早く出来るようになりなさい」
 習い事のピアノをしていると急に先生が「この子には才能がある」と言って新しい先生を連れてきた。その人はおっかなく、いつも怒鳴っていた。私はのびのびとピアノを弾きたいのに、この人のせいでそれもままならない。とても嫌いな人。
 いつも隣にはメトロノームを置いて、ズレているかを確認する。間違えたら決まり文句のように「才能」と言う。
 良くも悪くもその人のおかげで私は成長することができた。だけど、初めに感じていた楽しさはどこかに行ってしまった。
「いいわ、その調子よ。やるじゃない」
「ありがとうございます」
「ズレた! 喋らないの!」
「……」
 たまに褒めてくれることもある、だけどズレてもいないのに怒声を浴びせる。来る日も来る日もこんな調子で本当につまらない。
 お母さんに言ってやめてもらおうかな。いや、お父さんの方がいいかな?
「今集中してないでしょ!?」
「……」
 もうこの金切り声は聴きたくない。どうしていつも才能、才能。そればっかり言うのかな。私はただ弾いて遊んでいたいだけなのに。鬱陶しい。
 最近は忙しいからとかで来られない日が続いている。この時間はゆっくり好きなように弾けるから最高に楽しい……はずだった。どうしてか、つまらない。あの人が来てからはずっとこの調子だ。有名な人でもあんなに切り詰めてちゃだめだよ、なんて思っていると窓が勝手に開いた。
 泥棒かと思って怖かったけど弾くのは止められない。だってこの部分は特に楽しい場所だから。昔のような楽しさを思い出すためだから。
 弾き終わった時、外から子供の声がかすかに聞こえた。少し待っても小さな泥棒さんは入って来ない。だから私が会いに行ってみよう。だって同い年の子たちとあんまり会えないし。
「あなたはだぁれ?」
 それからの日々は楽しかった。誰かに聴いてもらえてその人が嬉しそうに、楽しそうにしているのは、まるで初めて弾いた時みたいだった。そして先生が来る時はあの子をもっと楽しませたいから色んなことを聞いて教わった。ちょっとツラいけど、あの子が喜んでくれるなら十分だ。
「私は才能で彼を振り向かせたの……?」
「そう言いたんじゃないけどね、わたしはそう思うよ。あなたに才能がなかったら出会わなかっただろうから」
「それでも、私を好いてくれているわ」
「あなたじゃないよ。才能にだよ」
「だったら何故、私なんかに告白したというの?」
「なんでだろうね。やっぱり好きなんじゃない?」
 どうしても彼が私そのものを見ているんじゃなくて、私の才能を見て好いていると考えてしまう。あの言葉が薄っぺらくなっていく。本当は弾ける私を好いていると、そんな筈はないと信じたいのに。一度芽生えた考えは心の中に居座り続ける。
 指先は満足に動かせない。
 彼女の後ろにある物が私を象徴していた。
「わたしさ、今だから言うんだけど羽野くんのことが好きなんだよね」
「私もそう感じていたわ」
「だから悔しくて思ってもないこと言っちゃった……八つ当たりなの。わたしのことを嫌いになるのならそれでいい。でもね羽野くんのことはきちんと考えて欲しいの。わたしは彼をずっと見てきたから」
 *
「もう作りに来ちゃ駄目なんですか?」
「どうしてです?」と前のめりになって綾音が問い詰めてくる。
「言いづらいんだけど僕さ、麗華と付き合うことになったから」
「そう……ですか。おめでとうございます」
「その、別に料理をして欲しくないわけではないんだよ。僕の意地みたいなものでね」
「そりゃ心象に悪いですよね。こんな変な女が家に入り浸ってちゃ」
「いやいや! 楽しいし毎朝ご飯を食べられてありがたいんだけど、これは何と言うかマナーみたいなさ」
「分かってますよ、それくらい。でも小言の一つや二つ言わせて下さいよ。言っておきますが私はそれでも先輩に近付きますからね?」
「なかなか精神力あるね」
 自慢するように胸を張って「ええ」と彼女は言う。本当はもう少しショックを受けるんじゃないかって思っていたんだけど、そうでもなくてよかった。でも綾音が料理を出来る場所を奪ったみたいでかなり心苦しさを感じる。出会った時のようにはなって欲しくない。そうなってしまったら、僕は確実にそれが僕のせいだと考えてしまうから。
「どっちからなんですか?」
「どっちって?」
 エプロンを付けたままの姿で「告白ですよ」と正面に座る。雑談かと思っていたけどその様子からは真剣そのものだと分かる。
「……僕からだよ」
「へぇ。そうなんですか」
「そうだよ」
「後、どうして芳先輩はあの人のことを話してくれないんですか? あの日以来腕の症状について何も教えてくれないじゃないですか。私あの人の連絡先持ってないですし」
「さあ、ねって! うわぁ!」
 突然、綾音は僕の両肩に手をかけそのまま後ろへ押し倒した。
「本当は嘘なんじゃないですか? 告白したってのも」
「嘘じゃないよ」
「だったらすぐにはね除けたらいいじゃないですか」
「そんな事できないよ」
「付き合っているんでしょ……それとも私も手を怪我したらいいですか?」
 そう聞いた途端、思わず彼女の両手を捕まえてしまった。
「あの人、弾けないんですね。いやその反応だとしばらく、いやもっと長く弾けないんじゃないですか」
「どうして分かるのさ」
「そんなの演奏を聴けば分かりますよ。一応、私もかなり上手い部類には入りますからね。あの人の演奏ずっと変だったんですよ。練習の時から違和感があって」
「実は麗華、あの日からずっと手が痺れているらしいんだよね。しかも原因不明」
「……それで弾かないんですね」
 彼女の目を見るとその鋭さと宝石のような輝きに魅入ってしまいそうになる。綾音は今自分が弾けない状態になったらどうなるのかを考えているだろうに、僕は綾音の、さくらには似ても似つかない彼女らしさを見ていた。
「私が弾けなくなっても、私は私だけの生き方を見つけました」
 上体を支え、僕の肩を掴んでいる手に力が入る。
「でもあの人はきっと空っぽです。受賞しても何とも言わないですし、自慢もしない。まるで自分だけの芸術を追い求めているみたいに。それ以外はどうだっていいって素振りで……そんな人がピアノを失ったらどうなるんでしょうね。ねえ、芳先輩。あなたは愛しているってあの人に言えるんですか?」