見渡す限りの白と黒。木々の一つも無く、地平線だけが存在する空間。色を喪失した世界で独りの男が歓喜に酔いしれている。
__あぁ、堪らない。
__興奮が抑えられない。
__この事実が、どうしようもなく愛おしい。
最大の幸福って何だと思う?
人が得ることの出来る、究極の幸せについて考えてみたことはあるかい?
気の合う伴侶と添い遂げられた時。セックスにおける絶頂の感覚。宝くじが当たった時。大量の汗を掻いた時に飲む冷水。脱法に手を染めた時。ふとした時に視る鮮やかな夕焼け。
別にそんなの人それぞれ。正解も不正解もない。誰にも答えを断ずることは出来ない。だから、否定も出来ない。けれど、だからこそ断ずることが出来る。僕の最大の幸福は今この瞬間だと。
「君は今、どんな気持ちなのかな?」
ガラス細工を扱うような繊細過ぎる指先が、少女の顔の輪郭に沿って動く。
少女は答えない。口を閉じ、目を閉じ、両の手を胸の中央で重ね、ただ祈るような表情のまま、動くことはない。それはまるで、心までも閉じている様にも視えた。だから、男の行為に意味はない。少し気分が良いから、酔ってしまっているだけだ。
____ねぇ、千寿流ちゃん。
◆
__ガシャン。
と、遠くで何かが割れる音がした。
「ん……うぅうん」
ゆっくりと眼を開く。
目覚ましというには少々不快な音に起こされ、始めに飛び込んできたのはズラリと並んだ鉄の棒。それは等間隔に並び立てられ、子供一人も逃さないと外界を拒絶するかの様に冷淡な印象を放っていた。
鍵は閉められており、触らずとも決して開くことが無い事が解る。問題は自分が牢屋内からその鉄格子を眺めていることだ。
「ぅ……なんか頭の中、ぐるぐるする…」
ふらつく足取りで腰を上げる。足元を見ると金の意匠をあしらった深紅の高級そうなカーペットが敷いてある。見渡してみるとどうやら食べ物、保存食のようなものまで用意されている。
奥には扉、その扉も高級そうな造りだという事が見て取れた。その待遇と冷たい煉瓦造りの壁のアンバランスさに眩暈を覚えつつも、狐耳の少女、
近衛千寿流は覚醒した。
「あたしは……一体。ここはどこなんだろ」
働かない頭をフル回転させて考えてみても何も考えつかない。当たり前だ。ここに入れられた記憶さえ全くないのだから。
コツコツコツ、と誰もいない牢獄に一定のリズムで足音が響く。
「……ん?」
「ねぇねぇ、アナタ、何でこんなところに入れられちゃってるのかなぁ?うふふふふ」
人を食ったような猫撫で声が冷たい牢獄に響く。腰まで伸びたゴールドアッシュの髪、緑の宝石と黒いリボン。小柄な体躯には大きすぎる服を着こなす少女。金色の瞳。

「だ、だれ……?」
「あたしはタルト。数奇なる人形師、タルトレット・アニエス!天才の人形遣いよ」
人形師、タルトレット・アニエスは千寿流を見下すようにそこに立っていた。
「そう、
異能は
人形祭典『La marionette festival』。まあ早い話が物質に魂を与えて自我を持たせることが出来るのよ」
異能。
現代科学では到底説明できない超常現象。ある者は炎を自在に操り、ある者は身体を鋼鉄に、そしてある者はその命と引き換えに世界を救った。幼い頃誰しも憧れた超能力が、この世界には存在していた。
「……」
「なぁに、一丁前に疑ってるの?」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
「あたし、ちょっと試したいことがあってね、その為にここに立ち寄ったのにだーれもいないし。だからアナタでまあいっかって話なわけよ」
そう言いながらタルトは手を翳すと、魔法陣の様なものが現れ、まばゆい光と共に一本の杖を取り出す。大きな水晶球が施された小柄な少女には不釣り合いな、少々不格好な杖。
『数奇なる人形師 タルトレット・アニエス』。
彼女と出遭った人間は
人形に。数奇に巡りて“不運”に没する。
「例外なんてない。アナタもここで終わり。ここで終幕、サヨウナラ」
視界がじわりと炎天下の様にゆがむ。肌でひり付くような圧力を感じた。
杖の先端が球状から花のように変形し、現実感の無い神秘的な光景が眼前で披露される。それは魔法とでも云えばいいのか。
粒子となり、目視できるほどの魔力を帯びたソレは、神々しくも鋭利に変化する。 そして――その死の矛先は、慈悲なく千寿流へと向けられた。