1. 20:00 溶けるほどの愛(飯田 菜々子・28歳)
六月下旬の週末。飯田の部屋は、以前の孤独な空間から、二宮(26歳)との「二人分の生活」の匂いが定着しつつあった。彼の生活用品は増えたが、トレーニング機材や専門書などは、まだ隣室(自室)に置いたままだった。日中は飯田が在宅勤務で部屋を使うため、二宮の私的なスペースはまだ隣室に分散しているのだ。
飯田は、この日のために、二人で近くの業務用スーパーで仕入れてきた豚バラブロックを仕込み、丁寧に下茹でを終えていた。今日のメニューは、手間暇の極致、豚の角煮だ。
「黒糖と紹興酒で煮込むのよ。テリとコクが段違いになるから」
飯田は、大きな鍋に黒糖、紹興酒、醤油、そして隠し味の生姜を投入しながら、隣で専門書を広げている二宮に、時折デレデレとした微笑みを向けた。二宮は、以前のように発声練習をする音の代わりに、舞台美術や照明技術に関する専門書を読み込む静かな音を立てていた。
「すごいな、菜々子さんは。ただの料理じゃなくて、もはや化学の実験みたいだ」
二宮はそう言って微笑むが、その瞳の奥には、以前のようなストイックさとは違う、「安定した未来を掴まなければ」という真剣な焦燥が滲んでいた。
飯田は、この角煮のテリとトロトロ感が、彼の焦燥感を一時でも溶かしてくれることを願っていた。
2. 21:30 煮込みの香りと、二宮の焦燥
豚の角煮が煮詰まる間、部屋は醤油と黒糖の濃厚な甘い香りと、紹興酒の芳醇な香りで満たされる。それは、二人の親密な関係を示す「生活の匂い」そのものだった。
飯田は、煮込みをチェックしながら、さりげなく二宮に話しかけた。
「ねぇ、颯太くん。最近、資格の勉強、頑張ってるわね」
二宮は、専門書から目を上げ、少しぎこちなく答える。
「はい。役者としての経験を活かせる、裏方の道。そっちの方が、菜々子さんとの将来を考えたら、安定すると思うんです」
二宮の口から「将来」という具体的な言葉が出たことに、飯田の鼓動が速くなる。しかし、彼女は年上としての不安を悟られまいと、努めて冷静を装った。
「そうね。主任になった私の給料だけじゃ、心許ないものね」
飯田が自嘲気味にそう言うと、二宮は冷静に聞き返した。
「それって、どういうこと? 菜々子さんの給料が低いってことですか?」
「うっ……ご、ごめんごめん! 忘れて! 冗談よ。まあ、心許ないのは事実だけど、大丈夫、私、やりくりは得意なの」
飯田はここでふっと真顔に戻る。
「最悪、一年くらいなら養ってあげられるけど……その間に、あなたは対等な稼ぎ手として、どうにかしてよね。ダラダラはさせないから」
二宮は、その言葉に、自分を責める地雷ではなく、プロのマネージャーのような力強さを感じた。
「ははっ、参りました。菜々子さんのそういうデキる女っぷり、惚れ惚れします」
彼はすぐに真剣な表情に戻る。
飯田は、そんな彼の顔に自身の顔をグッと近づけ、瞳を覗き込んだ。
「ねぇ、その舞台技術の資格試験。いけるの? 受かるよね?」
以前ならすぐに顔を背けたはずの二宮だが、今はその吐息すら感じる近さに動揺しながらも、目を逸らさなかった。
「……100%ではないですけど、80%くらいの手応えはあります」
飯田はその答えに満足げに頷くと、満面の笑みを浮かべた。
「よし! じゃあ、その時は盛大にお祝いしちゃうからね」
そう言うと、飯田は二宮の頬に、感謝と愛情を込めたキスをした。二宮は一瞬、息を止めた。
3. 22:00 箸で切れる愛の証明
飯田は、彼の真剣さに、もう何も言えなかった。
「もう……本当に、あなたには勝てないわ」
飯田は煮込みを仕上げ、煮卵とご飯と共にトレイに盛り付けた。
二宮は、目の前に置かれた角煮を前に、息を飲んだ。肉の表面は濃密な飴色に輝き、分厚い脂身は透明に、赤身は深い茶色に染まり、湯気が紹興酒の芳醇な香りを立ち上らせている。
彼は箸を入れ、その瞬間、角煮は抵抗なく、トロリと崩れた。箸の重みだけで、角煮が二つに割れる。
「……っ、嘘だろ……」
二宮は、振動に耐えられなかったプルプルとした脂身の柔らかさに驚愕し、一口、口に入れた。
黒糖の優しい甘さと、紹興酒の深いコクが、とろける脂と共に口の中で広がり、肉の繊維がほどけていく。濃厚なのにしつこくない。飯田がかけた手間暇の全てが、舌の上で証明されていた。
「どう? 手間暇かけた分、私の愛が詰まっているでしょう?」
飯田が微笑みかけると、二宮は目を細め、静かに頷いた。
「これ……まるで、二人の未来みたいだ」
「え?」
「手間と時間をかけて、じっくり煮込んで、最高のテリと安定した旨みを作る。俺たちの関係も、そうあってほしい」
二宮は、飯田が自分に尽くしてくれる愛情と、自分の目指す「安定」を、この角煮に重ねた。
飯田は、年下の彼から「未来」という言葉を聞かされ、その愛情の深さに胸が熱くなる。自分の不安は、彼には関係なかった。彼は、彼女の不安さえも背負おうとしているのだ。
「もう、何も心配しないで。この角煮のように、俺たちの未来は最高のテリとコクで満たされるから」