1. 22:30 冷蔵庫の余り物と、主任の溜息(飯田 菜々子・28歳)
「豚塩カルビ丼」という背徳的な週末から数日が経過した、平日の夜。
飯田菜々子は、在宅勤務を終えたものの、深い溜息をついていた。
先日から任されている「主任」という肩書きは、給与は上がったものの、それ以上に精神的な疲労を彼女に強いていた。
「はぁ……。クライアントとの調整はいいけど、チーム内のマネジメントがこんなに面倒とは……」
料理でストレス発散をする気力すら湧かない。
飯田は冷蔵庫を開け、余り物を確認する。
キャベツの切れ端、人参、豚バラ少々、そして冷凍うどん。
「……焼きうどん、ね。手軽だし、ソースの焦げる匂いなら食欲も湧くかしら」
彼女はフライパンを手に取り、冷蔵庫の余り物を手際よく炒め始めた。
「ジュワッ」という音と共に、キャベツの甘い香りが立ち上る。
(あの子も、そろそろ稽古が終わる頃かしら)
豚塩カルビ丼の一件以来、二宮颯太の部屋で一緒に食事をすることは、二人にとって自然な流れになりつつあった。
2. 22:45 壁越しの音と、新たな問いかけ(二宮 颯太・26歳)
二宮颯太は、昼間のオーディションの反省を終え、部屋でストレッチをしていた。 以前、飯田に「発声練習をしていない」ことを指摘されて以来、彼は役者としての道だけでなく、別の可能性——例えば、大学で学んだ建築系の知識を活かせる舞台芸術の技術セミナーや短期講座に通い始めている。
(飯田さんの言う通りだ。僕はもう、がむしゃらに発声練習をするだけの若手じゃない。現実を見ないと……)
そんなことを考えていると、壁の向こうから、いつもの「ジュワッ」という炒め物の音と、ソースの焦げる匂いが漂ってきた。
(焼きうどん……か。今日は手軽だな)
しかし、ただのソースの匂いではなかった。
微かに、だが確実に、魚粉の香ばしい風味が混じっている。
(この人、ただの焼きうどんにまで『ひと工夫』を……!)
その瞬間、二宮の部屋のドアが軽くノックされた。
彼がドアを開けると、そこには皿を二つ持った飯田が、少し疲れた顔で立っていた。
「やあ、ポチ。お疲れさま。今日は冷蔵庫の余り物整理だから、大したものじゃないけど。……食べるでしょ?」
「もちろんです。いただきます」
二宮は、彼女の顔に浮かぶ疲労の色を見逃さなかった。
以前、彼女の愚痴を聞いて以来、彼は彼女の「匂い」だけでなく「表情」にも敏感になっていた。
3. 23:00 魚粉のコクと、対等な視線
二宮の部屋の小さなテーブルで、二人は向かい合って焼きうどんを啜った。
「……うまい。ソースだけじゃない、この魚粉のコクが……」
「手抜きよ。でも、魚粉を入れると味が締まるでしょ? 紅生姜とキャベツの和え物も作ったから、口直しにどうぞ」
さっぱりとした和え物と、魚粉の効いた焼きうどん。完璧な組み合わせだった。
しばらく無言で食べた後、飯田がぽつりと呟いた。
「……ねえ、二宮くん。人を使うって、難しいわね」
二宮は、箸を止めた。
「仕事、ですか?」
「そう。主任になってから、チームの子たちの機嫌取りばっかり。スキルがないのにプライドが高い子と、やる気はあるけどミスが多い子。どう指導したらいいか……」
飯田は、初めて彼に具体的な仕事の悩みを打ち明けた。
それは、彼を「ポチ」ではなく、「対等な誰か」として認識している証拠だった。
二宮は、真剣な表情で彼女の目を見た。
「……わかります。僕も、舞台で後輩に指導することがありますが、一番難しいのは『相手のプライドを傷つけずに、欠点を自覚させること』です」
「役者さんの世界も、同じなのね」
「はい。だから僕は、まず『自分も同じミスをした』という経験談を話します。その上で、『君のその才能は素晴らしいから、この一点だけ直せば完璧だ』と伝える。……上からじゃなく、同じ目線で」
二宮の言葉は、彼自身の焦りや葛藤から生まれた、実体験に基づいた重みを持っていた。
飯田は、彼の言葉にハッとした。
(私、この子を「ポチ」としか見てなかったけど……。彼は、私よりずっと深く、人の心の機微を考えて生きてきたんだわ)
飯田は、目の前の「忠犬」が、いつの間にか自分を導く「対等な男性」の顔をしていることに気づき、胸が小さく高鳴った。
4. 23:30 秘密の共有と、心の絆
飯田は、自分の悩みを真剣に聞いてくれた二宮に、心が軽くなるのを感じた。
「ありがとう、二宮くん。……あなたの悩みも、聞かせてくれない?」
飯田は、以前触れた「発声練習の件」を、優しく尋ねた。
「最近、本当に声、出してないでしょう? 新しいこと、始めたの?」
二宮は、一瞬ためらった後、照れたように笑った。
「……まだ、飯田さんに言える段階じゃないですよ。僕がちゃんと『主任』の飯田さんの隣に立てるような、別の道を見つけたら、その時は一番に報告します」
彼は、もう「忠犬」ではなかった。
飯田は、その答えに少し寂しさを感じながらも、彼の主体的成長を頼もしく思った。
「……そう。じゃあ、楽しみにしてるわ。その時は、また最高の飯テロで祝ってあげるから」
二人は、深夜の焼きうどんを囲み、互いの「秘密」を共有することで、壁越しではない、本物の心の絆を深めていった。