1. 20:00 週末の開放感と最凶の飯テロ(飯田 菜々子・28歳)
土曜の夜八時。飯田菜々子は、先週のキムチチャーハンで溜まったストレスを吐き出した後、週末の開放感に浸っていた。今日は疲労回復ではなく、純粋な「快楽」を追求する日だ。
「さあ、最高の週末よ。高カロリーの女神が降臨するわ!」
飯田が選んだのは、最も背徳的で匂いも強烈なメニュー、豚塩カルビ丼。
冷蔵庫から厚切りの豚バラカルビを取り出し、自家製のネギ塩ダレにたっぷりと漬け込む。
たっぷりのラードを引いたフライパンに、タレを纏った豚肉を並べた。
ジュー、ジューッ!
豚の脂が溶け出し、鉄板の上でタレと混ざり合い、焦げ付く寸前の、最高の音と香りを立て始めた。ネギ塩ダレに含まれるレモンとニンニク、そして強烈な豚の脂が焼ける「焼き肉臭」が、換気扇の力を凌駕し、マンション全体を襲う。
飯田は満足げに、この匂いを深呼吸した。
(この匂いを嗅いだら、ポチはもう理性を保てないわね。覚悟なさい、忠犬)
2. 20:15 忠犬、理性を捨てる(二宮 颯太・26歳)
隣室の二宮颯太は、昼間にハードな稽古を終え、カロリーを最大限に消費してきた直後だった。普段ならプロテインを飲み、すぐに休息に入る時間だ。
「疲労困憊の体は、栄養を求めている。低脂質、高タンパク。徹底するぞ」
彼は自分に言い聞かせるように、プロテインシェイカーを握った。
しかし、壁の向こうから漂ってきたのは、あまりにも暴力的で、あまりにも直球な香りだった。
「ッ……! これは、焼き肉だ」
タレと肉が焦げる、濃厚な脂の香りが、彼の空腹の神経を直接叩く。
今までの飯テロは、家庭の優しい味か、工夫された旨みだった。だが、今回は違う。これは、本能的な「快楽」を追求する、最高のジャンクフードの香りだ。
二宮は、プロテインシェイカーを床に投げつけた。
「もうダメだ……! 理性なんて、敵じゃない。カロリーは、今日の僕の頑張りへの報酬だ!」
彼はもはや、壁越しに懇願したりはしなかった。いつものように自室のドアノブを握り、理性を保とうとする試みを即座に諦め、飯田さんの部屋のドアを直接、ノックした。その顔は、理性をかなぐり捨てた飢えた子犬そのものだった。
3. 20:30 あーん、という名の背徳のキスと丼
飯田がドアを開けると、二宮は汗だくで、瞳は獲物を求める肉食獣のように潤んでいた。
「飯田さん……! 頼む、今日はもう理性を捨てます。何でもしますから、一口、いや、二口だけ……!」
飯田は、彼の完全な降伏に、思わず笑みをこぼした。
「あら、ポチ。今日は随分と素直でよろしい。その顔は、最高のご褒美をあげたくなる顔よ」
飯田はそう言って、トレイに山盛りの豚塩カルビとサンチュ、味噌、そして炊き立ての熱々ご飯が入った小さな炊飯ジャーを添えて二宮くんの部屋に入った。
「な、なぜ僕の部屋に!?」
二宮は、予想外の展開に動揺する。飯田が彼の部屋に来たのは、看病飯の時以来だ。
「何言ってるのよ。焼肉っていうのはね、食べ終わったあとの残り香まで楽しむのが、最高の儀式ってもんよ。そして、君の部屋に残り香を残すまでが、私のやりたいことよ」
二宮は、その魔性的な宣言に、戦慄した。
「……悪魔だ」
「そうそう。私は悪魔なのー。ポチが理性を失って悶えるのを見るのが、私の趣味で、この部屋の換気扇では不十分なのよー」
飯田はご機嫌な様子で、二宮の部屋の小さなテーブルにトレイと炊飯ジャーを置いた。
二宮は、箸も持たずにカルビを掴みそうになるのを、飯田が制する。
「ちょっと。ちゃんとサンチュで巻きなさい。レタスじゃないのよ、サンチュよ。そう、味噌を少しつけて……」
飯田は指示通りにサンチュで肉とご飯を包んだ。そして、それを二宮の口元にそっと近づけた。二宮は反射的に口を開きかけたが、その瞬間、飯田はそのサンチュ包みを、自分の口に運んだ。
「……えっ!?」
目を閉じて、至福に小さく頷く飯田。その美味しそうな表情に、二宮は、飢えた子犬のように我慢の限界を超えた表情を浮かべ、悔しそうに飯田を見つめた。
「ずるい……。飯田さん……僕にも……」
「あら、まだ物足りないの? ポチのそんな顔が見たかったのよ」
飯田はそう言いながら、彼の悔しがる顔を一通り楽しんでから、次のサンチュ包みを器用に作り上げた。
「ほら。お待たせ。ちゃんと、あーん、してあげるから」
飯田はそう言って、自分の箸で作りたてのサンチュ包みを掴む。その箸は、先ほど飯田がカルビを食べたばかりで、艶めかしい脂が微かに光っていた。
そして、彼の顔に近づけた。顔と顔が異常に接近し、ネギ塩の香りと飯田の微かなリップクリームの香りが混ざる。
二宮は、一瞬息を呑んだ。恋人同士でも躊躇するような、間接的な親密さ。彼の脳裏に、これが単なる食事ではない、二人の間の境界線を完全に踏み越える行為だという羞恥心が駆け巡った。
しかし、カルビの香ばしさと、飯田の涼しげな、しかし挑発的な視線に、彼は抗えなかった。
「……ん!」
二宮は、大きく口を開け、飯田の箸先、彼女の唾液が触れていた場所から、その背徳の塊を受け取った。それは、最高のご褒美であり、彼女の支配を認める会心の一撃だった。
3.5. 丼という理性の完全崩壊
「う、うまい……! 何ですか、これ……」
間接キスにも似た「あーん」で理性の境界線を破壊された二宮は、もはや躊躇をかなぐり捨てた。彼は、テーブルの上にある熱々の炊飯ジャーに目を奪われる。
「サンチュ? もういい! 飯田さん、僕は、これを……丼にします!」
二宮は、トレイに添えられていたご飯茶碗を手に取ると、炊飯ジャーから直接、熱気を放つご飯を、山盛りによそった。そして、フライパンからネギ塩カルビを鷲掴みにする勢いで、豪快にご飯の上に乗せていく。
「あら。やるじゃない、ポチ。それがネギ塩カルビ丼の醍醐味よ」
飯田は、ニヤリと笑う。二宮は、レンゲでその豚カルビとご飯の暴力的な塊を、口いっぱいに頬張った。
「はふっ……熱い! 辛い! 脂がすごい!……最高だっ!」
彼の顔からは、ストイックな役者としての面影は完全に消え失せ、ただ「食欲」という本能に忠実な、一匹の飢えた獣がそこにいた。飯田は、その豪快な食べっぷりを見て、最高の満足感を覚えた。この瞬間、彼の理性の残り香は完全に消え去った。
4. 20:45 距離の接近と年上への焦燥
二人の関係は、この「あーん」と「丼」によって、壁越しではない、物理的な親密さへと一気に踏み込んだ。
食後、満足した二宮は、飯田に感謝を述べた。しかし、飯田はいつものようにトレイを下げようとはせず、部屋を見渡した。
「ねぇ、二宮くん。そういえば、最近会社で『飯田さん、彼氏いるんですか?』って聞かれることが増えたのよ」
飯田は、そう言って、彼の様子を試すように微笑む。
「……え、そうなんですか。飯田さんは、主任とか、責任あるポジションについて、ますます輝いていますからね。そりゃ、モテるでしょう」
二宮は、飯田の仕事の安定とキャリアの進展(主任という肩書き)に、自分との「不安定さの差」を改めて突きつけられた気がした。彼の表情は、一瞬だけ曇った。
「それで、飯田さんは、なんて答えたんですか?」
「ふふ。それは秘密よ。ポチが知る必要はないわ」
飯田はそう言って口元を隠し、トレイを持って立ち上がった。二宮は、その飯田の「モテる要素」と「年上としての余裕」に、言いようのない焦燥感を覚えた。
(僕には、彼女の隣に立つ資格がまだない。彼女はもう、僕を「忠犬」としてだけでなく、「年下の男」として意識している。だが、僕はまだ何も掴めていない……)
二宮の、飯田への愛情は、彼の役者としての焦り、そして新しい進路の模索を促す、決定的な動機へと変わり始めていた。