エリシア商事の食品工場では、来年のおせち料理の生産が早くも始まっていた。
広い工場内では、職員たちが手際よくおせちの各品目を丁寧に盛り付け、保存処理を進めている。黒豆や伊達巻、エビなど、色とりどりの食材が美しく並べられていく様子は、工場というよりも職人の技が光る現場そのものだ。
その中で、一際大きな声で指示を出しているのがゴブリンだった。
彼はエリシアから借りた金を返すため、この工場に入社してコツコツ働き続けていた。そしてついに努力が認められ、ライン長を任されるまでに昇進したのだった。
「そこ、盛り付けの角度を気をつけろ!見た目も大事なんだよ!」
ゴブリンは忙しく動き回りながら、真剣な表情で指示を出している。
(やっとここまで来た……絶対に失敗は許されねえ!)
そんな決意が彼の顔に滲んでいた。
工場長が険しい顔で工場内に入ってきた。その背中にはただならぬ緊張感が漂っている。
「聞いたかお前ら!エリシア社長が年末年始の打ち合わせがてら視察に来るらしいぞ!」
その一言に、作業中の職員たちの手が一瞬止まる。厳しい表情の工場長がゴブリンに目を向けた。
「ちゃんとやっとるかね!?」
ゴブリンはすかさず立ち上がり、大きな声で答える。
「問題ありません!」
しかし、その返答を聞いた工場長の顔がさらに険しくなる。
「問題ない、だぁ!?」
——パチン!
唐突に工場長の手が振り上げられ、ゴブリンの頬を打ち据えた。
「お前の汚い顔が問題だよ!」
その言葉に、工場内は一瞬静まり返る。ビンタを受けたゴブリンは頬を押さえながらも、何も言い返さず、その場に立ち尽くしていた。
工場長はゴブリンを睨みつけながら、さらに声を荒げた。
「よその事業部で人の財布の金抜いたお前が、よくクビにならずに済んだなぁ!おい!」
周囲の職員たちが一斉に動きを止め、ゴブリンと工場長のやり取りを固唾を飲んで見守る。
ゴブリンは歯を食いしばり、下を向きながらも静かに言い返した。
「……あの時のことは、反省してます。だからこそ、こうして必死に働いてるんです!」
その言葉に工場長は一瞬動きを止めたが、険しい表情を崩すことはなかった。
そして、エリシア社長が食品用の作業着に着替えて工場内に姿を現した。
「皆さんお疲れ様ですわね〜。」
優雅な声が響き渡り、職員たちが一斉に頭を下げる。
「社長!お疲れ様です!」
工場長も慌てて姿勢を正し、深々とお辞儀をする。その横でゴブリンは先ほどのやり取りを忘れたかのように立ち直り、エリシアを見上げた。
エリシアは作業の様子を眺めながら、楽しげに微笑んでいた。
視察兼品質パトロールが始まると、エリシアはライン長のゴブリンと工場長を従え、作業の各所を丹念に確認していった。
「チェックシートの記入も良いですわね。」
エリシアが書類をぱらぱらとめくりながら言うと、工場長が胸を張る。
「もちろん、問題ありません!」
しかし、フォークリフトの作業エリアに差し掛かると、エリシアの目が鋭く光る。
「フォークリフトですくうのになんでパレットの下に枕木が?」
その指摘に工場長が一瞬たじろぐ。
「あぁ、いや、ちょっとパレットが足りないもので……これ、フォークの爪の幅より狭いんですよ……それで……。」
工場長が言い訳を続ける間に、エリシアは枕木に手を当て、しっかりと目測を定めると、即座に言い放った。
「だったら枕木が短すぎですわね!倒れますわよ!10cmくらいは突き出しなさいよ!」
その厳しい指摘に、工場長とゴブリンはハッとして頷いた。
「申し訳ありません!すぐに修正します!」
エリシアは満足げに頷きながら、次のチェックポイントへと進んでいった。
パトロールが終わり、エリシア、工場長、そしてライン長のゴブリンは、品質チェックも兼ねておせちを昼食として食べることにした。
未開封の状態でおせちの箱を手にし、専用の休憩室に入る。部屋には期待とわずかな緊張感が漂っていた。
しかし、その静けさを破るように事務員が部屋に入ってきた。
「失礼します、来客です。えっと、ライン長。」
ゴブリンは一瞬驚き、眉をひそめる。
「俺に?」
事務員の後ろから、シスター風の衣装を着た女性がひょっこりと顔を出した。
「来ちゃった♪」
にこやかな笑みを浮かべたその女性に、ゴブリンは固まったまま言葉を失う。
突然、エリシアのスマホが鳴り響いた。
「はい、エリシア商事ですわ。……ええぇ!?そんな、言ってくだされば迎えをよこしましたのに……。」
電話の内容を聞くや否や、エリシアは立ち上がり、工場長に向かって叫んだ。
「工場長!納入先のデパートの営業部長さんが工場の前に!」
工場長は驚いて目を見開いた。
「あら!それはまた!」
エリシアは慌てた様子で続ける。
「なんでも年末の挨拶にいらっしゃったそうですわ!ちょっと打ち合わせも兼ねて来てくださいまし!」
工場長も大急ぎで椅子を引き、二人は休憩所を飛び出していった。
残された二人。
ゴブリンがぶっきらぼうに口を開く。
「なんだよ。」
するとシスターはにっこりと笑いながら、持っていた箱を掲げた。
「ジャーン。」
彼女が取り出したのは、小ぶりながらも美しくデコレーションされたケーキだった。
ゴブリンは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに目をそらして黙り込む。
部屋の空気は微妙に気まずいまま、沈黙をテレビの音声が埋めていた。
——「本日の特集はギャンブル依存症を救済するプログラムの……」
その場に不釣り合いなニュースが流れる中、ゴブリンはテレビを見つめながらぼそっと呟く。
「……なんか、タイミング悪いな。」
結局、沈黙に耐えきれなくなったゴブリンが、ため息混じりに口を開いた。
「はぁ、なんか飲む?外に自販機あるわ。」
シスターは少しだけ表情を明るくして答える。
「あ〜じゃあココア。」
ゴブリンは立ち上がり、肩をすくめながら返事をする。
「はいはい。」
そう言いながら、ドアを開けて休憩室を後にした。
一人残されたシスター。部屋の静けさに包まれる中、彼女の目はふと並んでいるおせちの箱に向かった。
しばらくじっと見つめていたが、やがて鞄からビニール袋を取り出す。
そして何の迷いもなく、おせちの箱の蓋をパカッと開けた。
——ガサガサ
中にはアワビやカニの足など、「高そうな」具材がぎっしりと詰まっている。シスターはその具材を無造作に袋へと詰め込み始めた。
——次々と具材が袋の中に吸い込まれていく。彼女の手は止まらない。
部屋には袋の音だけが響き渡っていた。
部屋の外から、エリシアと取引先の営業部長の声が聞こえてくる。
「だから言ったでしょう、伊勢海老にしなかったのは正解ですわ。だってスペース——。」
「そうでしたね〜。確かに見た目は派手なんですけどね〜。」
和やかなやり取りが続く中、シスターの手は一瞬止まる。
外の会話に耳を傾けながら、袋に詰めた「高そうな」具材をちらりと見たが、特に後悔の色は見えない。そのまま静かに手を動かし始め、再び具材を袋に詰め込んでいく。
——ガサガサ
音は外の会話にかき消されるように、微かに部屋に響いていた。
シスターはスカスカになったおせちを誤魔化そうと、手際よく細工を始めた。
まず、立てて置かれていた伊達巻を横に倒す。これで少しはスペースが埋まったように見える。
続いて黒豆を散らして配置し、適度に隙間を埋める。さらに、数の子を半分に切り、それを横一列に並べた。
「……よし、こんなもんで。」
満足げに息をつきながら、おせちの蓋を静かに閉める。遠目にはほとんど変わらない見た目になったそのおせちを、元の位置に戻して何食わぬ顔で座り直した。
部屋の外では、エリシアと取引先の会話がまだ続いている。
「それで、今年の売り上げ見込みですが——。」
シスターはちらりとドアの方を見ながら、小さく微笑んだ。
ゴブリンが戻ってきて、ドアを開けるなり声を上げた。
「売り切れだったわ〜。ココアなかったから紅茶花伝でいい?」
シスターはにっこりと笑いながら手を差し出す。
「ありがとー。」
ゴブリンはペットボトルを渡しながら椅子に座り直し、ちらりとおせちの箱を見たが、特に異変に気づく様子はない。
続いてエリシアと工場長が、取引先との挨拶を終えて戻ってきた。
「ふぅ……とりあえず昼食ですわね。」
エリシアは椅子に腰を下ろし、軽く髪を整える。工場長も席につきながら、真剣な表情で言葉を添える。
「社長、一応出来栄えの確認ということで。」
シスターはその場に残ったまま、気まずさを感じさせる素振りもなく椅子に座っている。エリシア、工場長、ゴブリンの三人は、特に気にする様子もなく、おせちの箱に手を伸ばした。
——パカッ
蓋が開かれると、彩り鮮やかなおせちが姿を現す……が、どこかボリューム感が足りない。伊達巻は横に倒され、黒豆は妙に散らばり、数の子も半分にカットされている。
エリシアが箱をじっと見つめる。
「……この盛り付け、少し変ですわね?」
工場長が首をかしげる。
「確かに……どこか違和感が……?」
エリシアが箱の中をじっと見た後、突然工場長を睨みつけた。
「ちょっと!アワビはどこですの!?あと、カニの足も見当たりませんわよ!」
その鋭い声に、工場長はたじろいだ。
「あ、あれ、そんなはずは……!」
ゴブリンも隣で口をぽかんと開け、呆然としている。このおせちは出荷前にゴブリン自身が検品したものだったはずだ。
「仕様書!」
エリシアが鋭い声で叫ぶと、工場長は慌てて書類を持って駆け寄ってきた。
「すぐに確認いたします!」
工場長が仕様書と目の前のおせちを見比べる中、ゴブリンは冷や汗をかきながら考え込む。
(俺が最後にチェックした時は、ちゃんと具材が揃ってたはず……!一体、いつの間に!?)
その場には不穏な空気が漂い始めていた。シスターは、視線を避けながら静かに紅茶花伝を飲み続けていた。
工場長はすぐにスマホを取り出し、工場内に緊急連絡を入れた。
「ちょっと至急、ライン止めて検品してくれ!いいな!」
その声は焦りに満ちていて、周囲の空気をさらにピリつかせた。
「現場に異常がないか全部確認しろ!一つでも同じようなおせちがあったらすぐに報告だ!」
電話を切った後、工場長はエリシアに向き直り、汗を拭いながら言った。
「社長、必ず原因を突き止めます!ご安心を!」
エリシアは腕を組んだまま、厳しい目で工場長を見つめている。
「……当然ですわ。もしこれが出荷されていたら、信用問題になりますからね。」
ゴブリンはその場で硬直しつつ、脳裏に疑問が渦巻いていた。
(まさか俺が見落とした?それとも……?)
工場長がゴブリンを鋭く睨みつけ、怒声を上げた。
「ゴブリン!お前!ちゃんとチェックしたのか!!おい!」
ゴブリンはたじろぎながらも必死に言い返す。
「いや……確かに、俺がチェックした時には……。」
しかし工場長の声はさらに大きくなる。
「ねえじゃねえかよ!カニも!アワビも!ええぇ!?どこ行ったんだよ!?」
その声に部屋の空気は一層張り詰め、ゴブリンは視線をさまよわせながら頭を抱えた。
(確かにあったはずだ……でも、どうして……?)
一方、エリシアは眉間にシワを寄せ、冷静ながらも厳しい視線をゴブリンに向けている。
「ゴブリン、これは重大なミスですわよ。説明をきちんとしていただきますわ。」
ゴブリンはますます焦りながら何かを考え込んでいた。横でシスターは何事もないような顔で、紅茶花伝をもう一口飲んでいた。
ゴブリンはしどろもどろになりながら、「チェックしたんだってば!」を繰り返すだけで、何の説明もできない。
工場長は頭を抱えつつ苛立ちを隠せない様子で、手元のスマホに視線を向けた。そのとき、工場内から連絡が入る。
「……はい、こちら工場長。何か分かったのか?」
電話の向こうから報告が入ると、工場長は驚いた表情になった。
「全ての製品に問題なしだと!?本当に全部検品したのか?」
確認のやり取りを何度か交わした後、工場長は困惑しながら電話を切った。そして、エリシアとゴブリンに向き直る。
「全ての製品には問題がないってさ。おせちは全部、仕様書通りに揃ってるって。」
部屋の空気が一瞬静まり返る。
エリシアが鋭い目でおせちの箱を見つめた。
「じゃあ、目の前のおせちは一体何なんですの?」
工場長も困惑の表情を浮かべながら、ゴブリンに視線を向けるが、ゴブリンはただ呆然と立ち尽くしている。
エリシアが静かに口を開いた。だが、その声には冷ややかで鋭い響きが込められている。
「私と工場長が挨拶に行ってる間……おせちに……何かしましたの?……え?」
その言葉にゴブリンは慌てて首を振った。
「いや!何もしてません!」
エリシアは一歩前に出て、おせちの箱を指差す。
「でもないんですのよ。具材が。」
その言葉はどっしりと重く、部屋の空気を凍らせるかのようだった。
ゴブリンは視線を泳がせながら、必死に言い訳を続ける。
「俺が最後にチェックしたときは、ちゃんと全部あったんだ!本当だ!」
エリシアは冷静な表情のまま、さらに詰め寄る。
「そうですの?でも、現実にカニもアワビもここにはないんですのよ。じゃあ、どこに行ったんですの?」
その場に漂う緊迫感の中で、シスターだけが静かに微笑んでいた。彼女の鞄の中では、ガサガサと音を立てるビニール袋が収まっているのだった。
工場長は堪忍袋の緒が切れたようにゴブリンの襟を掴み、怒鳴りつけた。
「食ったか!?もしかして……つまみ食いだろ!」
ゴブリンは慌てて手を振り、必死に否定する。
「いやいやいや!そんなことしてませんって!本当だ!」
だが工場長の怒りは収まらない。
「あ〜あ〜!やっぱゴブリンだなぁ!お前しかいないじゃねえかよ!」
さらにゴブリンの襟を引っ張りながら、捨て台詞のように吐き捨てる。
「もっとマシな嘘つけよ!お前がやったって、誰が見たって分かるんだよ!」
ゴブリンは何も言い返せず、口をぱくぱくさせながら工場長を見上げる。その横で、エリシアは腕を組み、険しい顔で様子を見守っていた。
埒が明かなくなり、部屋の緊張感がピークに達したそのとき、シスターが静かに口を開いた。
「食べ物って不思議ですね。」
突然の言葉に、エリシアも工場長も思わず彼女の方に目を向ける。
「どんな安い食材でも、食べればお腹いっぱいになって興味がなくなる。」
彼女は机に視線を落とし、淡々と話を続ける。
「でも、お腹が空いている時に高級な食材を見ると……なんか自分が惨めになるっていうか。」
その言葉は妙に深く響き、部屋の空気が一変する。ゴブリンは唖然とした顔をしてシスターを見つめた。
「ゴブリンを許してあげてください。」
シスターがしっとりとした声でそう言った瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「えええええええぇええええええ!?」
ゴブリンが驚愕の声を上げる横で、工場長が蓋を手に取り、ゴブリンの頭を力強く叩いた。
——バコッ!
「やっぱお前やないか!」
さらにもう一撃、力を込めて叩きながら叫ぶ。
「やっぱお前やないかって!」
「いてぇ!そんな!ちょ!ええええぇえええぇ!」
ゴブリンは必死に身を縮めながら、抗議の声を上げるが、工場長は全く聞く耳を持たない。
エリシアは腕を組み、冷ややかな視線でゴブリンを見下ろした。
「見損ないましたわ……はぁ、私の財布から金を抜き取るだけでは飽き足らず……今度はおせちの具材をつまみ食いですって?」
ゴブリンは半泣きの顔で手を振りながら否定する。
「ち、違う!違うんだって!」
「奥さんだった方の前で恥ずかしくありませんの!?」
エリシアが鋭い声でゴブリンを叱りつける。
工場長も追い討ちをかけるように叫んだ。
「食い意地だけは一人前だなぁ!」
ゴブリンは揉み合いの中で必死に言い訳を続けながら、ふと視線を移す。
すると、そこにいるはずのシスターがいない。
「……え?」
思わず動きを止めて部屋を見回すが、シスターの姿はどこにもない。机に置かれていた紅茶花伝のペットボトルだけが、空になってポツンと残されていた。
(しれっと……いなくなりやがった!?)
ゴブリンは驚きと困惑の表情を浮かべながら、何も言えなくなっていた。