伝説のドラマー
ー/ー
エリシアはADとして録音現場に足を踏み入れた。
そこはピリッとした緊張感が漂う空間。今日は、あの伝説のバンドのドラマーが収録に臨む日だ。
エリシアは周囲を見回しながら、手伝えることを探していた。ふと、ドラムセットの近くに目を留めると、彼女は気を利かせて機材を運ぼうと手を伸ばした。
しかし——
「エリシアさん、しなくていい。」
横から声が飛び、スタッフが慌てて止めに入る。
「え? でも、手伝った方が早いですわよ?」
「いや、触らない方がいいんです。あのドラマー、関係ない人間がドラムに触るのを嫌うんです。」
エリシアは手を引っ込め、少し驚いた表情を浮かべた。
「まあ……さすがはプロ、ですわね。」
スタッフは申し訳なさそうに頷きつつ、機材を慎重に運び始める。エリシアはその様子をじっと見つめながら、軽く肩をすくめた。
「ふふ、職人みたいなものですわね。」
場の緊張感を壊さないよう、エリシアは大人しく端に立ちながら、プロの仕事を見守るのだった。
伝説のドラマーは壮年の男だった。
がっしりした体格に岩のように険しい顔つき。現場の空気は、彼の存在だけでさらにピリついていた。
彼は自ら機材に触れることはなく、全てを弟子に任せていた。しかし、その指示は容赦がない。
「だから距離が遠すぎるだろ!? 何回言ったら分かるんだ! おい!」
「はい、すいません!」
弟子は汗を滲ませながら急いでスタンドの位置を調整する。
——ガチャガチャ
「スネアの音、それでいいのか!? 音程合わせたか!?」
「ちょ、もう少し……」
弟子が慌てて調整を始め、慎重にスネアを叩く音が響く。
——タン……タタタタ↑、タタタタ↓
その音を耳を澄ませて聞きながら、ドラマーが低い声で指摘する。
「その『もう少し』が毎回なってねぇんだよ。もっと耳を使え。」
弟子は小さく「はい……」と答え、再び調整に戻る。
一方、エリシアはそのやり取りをじっと見守っていたが、ドラマーが彼女の方を向いて笑いかけた。
「いや〜すいませんね! うちの弟子が……。」
その顔はさっきまでの険しさとは別人のようだった。
「いえ、とんでもない!」
エリシアは慌てて礼を返すが、心の中でこう呟いていた。
(本物のプロって、厳しいものですわね……。)
セッティングが終わると、壮年のドラマーは先ほどの厳しさとは打って変わり、気さくな表情で話し始めた。
「いや〜、ニューオリンズから帰ったばかりでね。時差ボケがきついよ。」
「はっはっはっは。」
スタッフたちは場の空気を和ませるように愛想笑いを浮かべる。
「でもまぁ、向こうのジャムセッションはやっぱり最高だね。キャラバンのソロ演奏とかやったら盛り上がっちゃってさ。」
「キャラバンのソロ演奏はさすがでした。」
横で一人のスタッフがフォローすると、ドラマーは自信たっぷりに頷いた。
「あ〜、あれはもう十八番(オハコ)だからね。やれば確実にウケるやつさ。」
その言葉にまた笑いが広がるが、先ほどまでの緊張感が少しずつ解けていくのが感じられた。
エリシアはその様子を見つめながら、小さく微笑む。
(さすが伝説のドラマー……。やるべきことはしっかりやって、それでいて愛嬌もありますのね。)
場は和やかな雰囲気に包まれ、収録準備は順調に進んでいった。
ドラマーは収録に入る前に、弟子のミスを一瞬で修正して見せた。
「こうだよ、こうするんだ。」
その手際に弟子が「すみません」と小声で謝る中、彼は軽く笑って呟いた。
「収録の前にちょっと余興で。」
そう言うやいなや、スティックを手に取り、ドラムセットに座った。そして——
——タン、タタタタ、ドンッ!
演奏が始まる。
その音色に、現場にいた全員が息を呑んだ。
パワフルだが乱れが一切ない一打一打。音のわずかな違いですら素人の耳に届く。
まるで腕が四本あるかのような速さと正確さでスティックが駆け巡り、リズムを紡ぎ出す。
——ドンドド、タタタン、シャアァァン!
静と動のコントラストが鮮やかだ。
緩急がついたプレイに全員が目を奪われる。激しく打ち鳴らした直後に一瞬の静寂が訪れ、その後、繊細なブラシの音で空間を満たす。
「……すごい。」
スタッフの誰かが思わず呟いた。その声さえも演奏に溶け込むようだった。
演奏が終わると、ドラマーはスティックを軽く回してポンと膝に置き、気楽な笑みを浮かべる。
「こんな感じでどうだい?」
彼のプレイを目の当たりにした全員が、拍手も忘れ、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
収録が始まると、場の空気は一変した。
先ほどまで和やかだった現場が、一気に張り詰めた緊張感に包まれる。
ドラマーも表情を一変させ、まるで獲物を狙う猛禽類のような鋭い目つきで椅子に座った。
「では行きます。」
ディレクターの声が響き、カウントダウンが始まる。
エリシアも息を呑みながらその瞬間を見守った。そして、キューの合図!
——スタート!
本番開始と同時に、ドラマーは鋭い動きで椅子の下に手を伸ばし……何かを取り出した。
「え?」
エリシアが疑問の声を漏らす中、ドラマーが手にしたのはトライアングルだった。
——チーン。
一発の軽やかな音が響いた。
「はいお疲れ様でしたああああ!」
「いや、素晴らしい!」
「わざわざありがとうございます!」
ディレクターやスタッフが次々に拍手を送りながら立ち上がる。
「え、ちょ……えぇえええ?」
エリシアは完全に呆然としていた。
その間にも弟子がドラムセットを片付け始め、スタッフたちは帰りのタクシーを手配したり、録音データを確認したりと、忙しそうに動き回っている。
エリシアは誰にも相手にされず、再び声を上げた。
「あの……え、えええええぇ!?」
誰も答えないまま、収録はあっさりと終了。エリシアはその場に取り残された気分で、一人ぽつんと立ち尽くしていた。
後日、エリシアは何気なくテレビをつけていた。
そこで流れてきたのは、あの日収録した音を使った映像だった。
——チーン。
「お薬は用法用量を守って正しく服用してください。」
薬のCMの注意喚起の音声。その背景で流れる軽やかなトライアングルの音。
エリシアはテレビを見つめながら呟いた。
「これのためだったんですの……?」
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そこはピリッとした緊張感が漂う空間。今日は、あの伝説のバンドのドラマーが収録に臨む日だ。
エリシアは周囲を見回しながら、手伝えることを探していた。ふと、ドラムセットの近くに目を留めると、彼女は気を利かせて機材を運ぼうと手を伸ばした。
しかし——
「エリシアさん、しなくていい。」
横から声が飛び、スタッフが慌てて止めに入る。
「え? でも、手伝った方が早いですわよ?」
「いや、触らない方がいいんです。あのドラマー、関係ない人間がドラムに触るのを嫌うんです。」
エリシアは手を引っ込め、少し驚いた表情を浮かべた。
「まあ……さすがはプロ、ですわね。」
スタッフは申し訳なさそうに頷きつつ、機材を慎重に運び始める。エリシアはその様子をじっと見つめながら、軽く肩をすくめた。
「ふふ、職人みたいなものですわね。」
場の緊張感を壊さないよう、エリシアは大人しく端に立ちながら、プロの仕事を見守るのだった。
伝説のドラマーは壮年の男だった。
がっしりした体格に岩のように険しい顔つき。現場の空気は、彼の存在だけでさらにピリついていた。
彼は自ら機材に触れることはなく、全てを弟子に任せていた。しかし、その指示は容赦がない。
「だから距離が遠すぎるだろ!? 何回言ったら分かるんだ! おい!」
「はい、すいません!」
弟子は汗を滲ませながら急いでスタンドの位置を調整する。
——ガチャガチャ
「スネアの音、それでいいのか!? 音程合わせたか!?」
「ちょ、もう少し……」
弟子が慌てて調整を始め、慎重にスネアを叩く音が響く。
——タン……タタタタ↑、タタタタ↓
その音を耳を澄ませて聞きながら、ドラマーが低い声で指摘する。
「その『もう少し』が毎回なってねぇんだよ。もっと耳を使え。」
弟子は小さく「はい……」と答え、再び調整に戻る。
一方、エリシアはそのやり取りをじっと見守っていたが、ドラマーが彼女の方を向いて笑いかけた。
「いや〜すいませんね! うちの弟子が……。」
その顔はさっきまでの険しさとは別人のようだった。
「いえ、とんでもない!」
エリシアは慌てて礼を返すが、心の中でこう呟いていた。
(本物のプロって、厳しいものですわね……。)
セッティングが終わると、壮年のドラマーは先ほどの厳しさとは打って変わり、気さくな表情で話し始めた。
「いや〜、ニューオリンズから帰ったばかりでね。時差ボケがきついよ。」
「はっはっはっは。」
スタッフたちは場の空気を和ませるように愛想笑いを浮かべる。
「でもまぁ、向こうのジャムセッションはやっぱり最高だね。キャラバンのソロ演奏とかやったら盛り上がっちゃってさ。」
「キャラバンのソロ演奏はさすがでした。」
横で一人のスタッフがフォローすると、ドラマーは自信たっぷりに頷いた。
「あ〜、あれはもう十八番(オハコ)だからね。やれば確実にウケるやつさ。」
その言葉にまた笑いが広がるが、先ほどまでの緊張感が少しずつ解けていくのが感じられた。
エリシアはその様子を見つめながら、小さく微笑む。
(さすが伝説のドラマー……。やるべきことはしっかりやって、それでいて愛嬌もありますのね。)
場は和やかな雰囲気に包まれ、収録準備は順調に進んでいった。
ドラマーは収録に入る前に、弟子のミスを一瞬で修正して見せた。
「こうだよ、こうするんだ。」
その手際に弟子が「すみません」と小声で謝る中、彼は軽く笑って呟いた。
「収録の前にちょっと余興で。」
そう言うやいなや、スティックを手に取り、ドラムセットに座った。そして——
——タン、タタタタ、ドンッ!
演奏が始まる。
その音色に、現場にいた全員が息を呑んだ。
パワフルだが乱れが一切ない一打一打。音のわずかな違いですら素人の耳に届く。
まるで腕が四本あるかのような速さと正確さでスティックが駆け巡り、リズムを紡ぎ出す。
——ドンドド、タタタン、シャアァァン!
静と動のコントラストが鮮やかだ。
緩急がついたプレイに全員が目を奪われる。激しく打ち鳴らした直後に一瞬の静寂が訪れ、その後、繊細なブラシの音で空間を満たす。
「……すごい。」
スタッフの誰かが思わず呟いた。その声さえも演奏に溶け込むようだった。
演奏が終わると、ドラマーはスティックを軽く回してポンと膝に置き、気楽な笑みを浮かべる。
「こんな感じでどうだい?」
彼のプレイを目の当たりにした全員が、拍手も忘れ、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
収録が始まると、場の空気は一変した。
先ほどまで和やかだった現場が、一気に張り詰めた緊張感に包まれる。
ドラマーも表情を一変させ、まるで獲物を狙う猛禽類のような鋭い目つきで椅子に座った。
「では行きます。」
ディレクターの声が響き、カウントダウンが始まる。
エリシアも息を呑みながらその瞬間を見守った。そして、キューの合図!
——スタート!
本番開始と同時に、ドラマーは鋭い動きで椅子の下に手を伸ばし……何かを取り出した。
「え?」
エリシアが疑問の声を漏らす中、ドラマーが手にしたのはトライアングルだった。
——チーン。
一発の軽やかな音が響いた。
「はいお疲れ様でしたああああ!」
「いや、素晴らしい!」
「わざわざありがとうございます!」
ディレクターやスタッフが次々に拍手を送りながら立ち上がる。
「え、ちょ……えぇえええ?」
エリシアは完全に呆然としていた。
その間にも弟子がドラムセットを片付け始め、スタッフたちは帰りのタクシーを手配したり、録音データを確認したりと、忙しそうに動き回っている。
エリシアは誰にも相手にされず、再び声を上げた。
「あの……え、えええええぇ!?」
誰も答えないまま、収録はあっさりと終了。エリシアはその場に取り残された気分で、一人ぽつんと立ち尽くしていた。
後日、エリシアは何気なくテレビをつけていた。
そこで流れてきたのは、あの日収録した音を使った映像だった。
——チーン。
「お薬は用法用量を守って正しく服用してください。」
薬のCMの注意喚起の音声。その背景で流れる軽やかなトライアングルの音。
エリシアはテレビを見つめながら呟いた。
「これのためだったんですの……?」