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#115 邪なる雨 (カグヤ視点)

ー/ー



 雨が降っていた。
 赤黒い雲が夜空一面を覆い尽くし、禍々しい地獄色に染め上げている。


 ()せ返るような濃厚な臭気は、帝都の地下水路で感じた廃水や汚物のそれとは種類が異なる、腐敗した死骸から発されたもの。
 その臭いだけで、これまでの源泉の地で体験してきた以上だということが実感でき、闇属性魔法で鼻の感覚を遮断しなければ、とてもじゃないが耐えられない。


「あれが『リュミスの(あぎと)』……」


 聳え立つ岩山の上に立って、遠い景色を眺め見る。
 と言っても、見えるものなど何も無い。
 立ち込める瘴気で風景は見事に覆い尽くされており、どこへ眼をやってもただただ黒い、景色の無い景色ばかり。


「うおお……ッ!?」


 ズシャッ、バシャン、という音が背後で上がる。


「大丈夫ですか、ベリオさん?」
「あ~、畜生。鎧がベッタリだ……」


 ジェフの手を借りて起き上がったベリオの鎧は、真っ黒に汚れてしまっていた。
 しかし、その黒い汚れの正体は泥ではなくこの雨が地面に溜まったもので、そしてそれも只の雨水ではなく、墨汁を想起させる黒い雨粒で、パチャパチャと少し粘り気のある弾け音を立てている。


「『邪水雨(じゃすいう)』──闇属性を帯びたこの純黒の水『邪水』を浴びるほど、死体はアンデッド化し易くなり、アンデッドが浴びれば力が増す。死体を浄めてアンデッド化を防ぎ、アンデッドにダメージを与える『聖水』とは真逆の効果を持つ雨ですね……」


 オズガルドやエレノアが地属性魔法で簡素な屋根と柱を作ってくれたため、その下に居れば体に浴びることは無い。


「建物や服が黒に染まるだけでなく、多分に摂取すれば生きた人間も健康を害する。水や土に染み渡れば水産物や農作物も毒され、疫病や飢饉を招く。()(おぞ)ましき死の雨よ」


 瘴気の勢力が強過ぎるせいで激しい邪水雨が絶えること無く降り続き、増水した河川の氾濫が続いて辺りは湿地帯も同然の有様、地形全体がどす黒く染め上げられた、まさに死の領域。


 それが『リュミスの(あぎと)』が作り出すアンディアラ荒野の様相。
 今まで訪れた地獄の源泉地帯をも超える、まさに大地獄。


「立ち込める瘴気のせいで視界は完全に閉ざされて、激しい邪水雨のせいで音も搔き消されてしまう。足場も水浸しで悪い。これじゃ敵の接近にも気付けないし、攻めるにも逃げるにも動きが鈍くなる……」
「それにこの瘴気の濃度……『リュミスの(あぎと)』とここはおよそ二十キロ以上離れており、今までの源泉ならば充分に安全な距離でしたが、今は人体に致命的な影響を与えるほどに瘴気の濃度が高く、この吸気浄化マスクの処理能力のギリギリといった所です」


 私が瘴気を吸収しながら進んだとしても、皆に瘴気が向かっていかない訳ではなく、吸気浄化マスクも役に立たないのであれば、彼らが耐え切れず死んでしまうのは確実だ。


「カグヤよ。この過酷な実状を目の当たりにしても尚、君はまだこの地を救おうと考えるのかね?」
「……勿論、恐怖はあります。ですが、やはり私以外に成し得る可能性を持つ者が居ない以上、挑戦しない訳にはいかないでしょう」


 いつかは誰かが挑まなければならない。
 その「いつか」が「今夜」なのだと捉えている。


「カグヤ殿の『夜陰を急ぐ密行者(シークレット・エクスプレス)』ならば、源泉のすぐ隣に転移すればすぐに済むのでは?」


 ヴェセルがそう提案したが、


「残念ながら、魔素(マナ)や魔力の勢力が強過ぎる場所では、魔法を乱されて転移が叶わないのです。今までの源泉も可能な限り近い、転移可能なギリギリの地点を座標に設定していました。『リュミスの(あぎと)』の瘴気はそれをも上回っているため、今居るここが転移の限界地点なのです」
「それ(すなわ)ち、これ以上は『夜陰を急ぐ密行者(シークレット・エクスプレス)』では近付けない上、窮地に至っても転移で離脱できぬということでもある。それに瘴気に対して完全耐性を持つのは其方とダスクのみ。たった二人で巨大ドラゴンを倒し、『リュミスの(あぎと)』を鎮めるなぞ無謀の極みと思うが……」


 クレオーズがチラリとダスクを見遣る。
 私に唯一同行できる彼が反対すれば、考えを改めてくれるのではないかと期待しているようだ。


「……『リュミスの(あぎと)』については俺も知識がほとんど無いが、カルディス殿下もあそこには関わらない方がいいと言っていた」


 ダスクが同行しなければ私一人で全てをこなさなくてはならず負担が増える上、傍近くで誰も支えてくれないというのは精神的にも不安だ。


「だが、カグヤはもう決心しているようだ。彼女が考えを改めるとすれば、実際に挑戦してその困難を肌身で感じてからだろう。諦めさせるためにも、ここは一度やらせてみてもいいんじゃないか?」


 私の背中を押すためか、それとも言葉通り愚かな決意を改めさせるためか、どちらかは分からない。


「瘴気の勢力が強いってことは、(くだん)のドラゴンだけじゃなく、他の魔物も今まで遭遇したものとは比較にならないほど強いってことだよ? いくら君たちでも荷が重いと思うけど……」
「その通りだ。しかし瘴気で力が増すのは俺とカグヤも同じ。転移に頼れずとも、自分の足や魔法で逃げるくらいはできるだろう。何があってもカグヤは生きて帰す」


 最優先は私の生命。


「……分かった。そこまで言うのであれば、挑んでみるがいい」


 ただし、とオズガルドが二本指を立てる。


「二時間だ。二時間が経過したら、例え何があろうとその場を離れて帰って来ること。いいね?」


 通常規模の源泉であれば、順調に行けば一ヶ所につき三十分程度で吸収完了だったが、今回は現在位置から先で空間転移が使えないため、移動に時間と体力と魔力を費やすことになる。


「分かりました。二時間ですね」
「状況次第では少しばかり遅れるかも知れないが、その時は大目に見てくれ」


 向かうは生命無き魔境。
 待ち受けるは最強最大の龍。


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 雨が降っていた。
 赤黒い雲が夜空一面を覆い尽くし、禍々しい地獄色に染め上げている。
 |噎《む》せ返るような濃厚な臭気は、帝都の地下水路で感じた廃水や汚物のそれとは種類が異なる、腐敗した死骸から発されたもの。
 その臭いだけで、これまでの源泉の地で体験してきた以上だということが実感でき、闇属性魔法で鼻の感覚を遮断しなければ、とてもじゃないが耐えられない。
「あれが『リュミスの|咢《あぎと》』……」
 聳え立つ岩山の上に立って、遠い景色を眺め見る。
 と言っても、見えるものなど何も無い。
 立ち込める瘴気で風景は見事に覆い尽くされており、どこへ眼をやってもただただ黒い、景色の無い景色ばかり。
「うおお……ッ!?」
 ズシャッ、バシャン、という音が背後で上がる。
「大丈夫ですか、ベリオさん?」
「あ~、畜生。鎧がベッタリだ……」
 ジェフの手を借りて起き上がったベリオの鎧は、真っ黒に汚れてしまっていた。
 しかし、その黒い汚れの正体は泥ではなくこの雨が地面に溜まったもので、そしてそれも只の雨水ではなく、墨汁を想起させる黒い雨粒で、パチャパチャと少し粘り気のある弾け音を立てている。
「『|邪水雨《じゃすいう》』──闇属性を帯びたこの純黒の水『邪水』を浴びるほど、死体はアンデッド化し易くなり、アンデッドが浴びれば力が増す。死体を浄めてアンデッド化を防ぎ、アンデッドにダメージを与える『聖水』とは真逆の効果を持つ雨ですね……」
 オズガルドやエレノアが地属性魔法で簡素な屋根と柱を作ってくれたため、その下に居れば体に浴びることは無い。
「建物や服が黒に染まるだけでなく、多分に摂取すれば生きた人間も健康を害する。水や土に染み渡れば水産物や農作物も毒され、疫病や飢饉を招く。|実《げ》に|悍《おぞ》ましき死の雨よ」
 瘴気の勢力が強過ぎるせいで激しい邪水雨が絶えること無く降り続き、増水した河川の氾濫が続いて辺りは湿地帯も同然の有様、地形全体がどす黒く染め上げられた、まさに死の領域。
 それが『リュミスの|咢《あぎと》』が作り出すアンディアラ荒野の様相。
 今まで訪れた地獄の源泉地帯をも超える、まさに大地獄。
「立ち込める瘴気のせいで視界は完全に閉ざされて、激しい邪水雨のせいで音も搔き消されてしまう。足場も水浸しで悪い。これじゃ敵の接近にも気付けないし、攻めるにも逃げるにも動きが鈍くなる……」
「それにこの瘴気の濃度……『リュミスの|咢《あぎと》』とここはおよそ二十キロ以上離れており、今までの源泉ならば充分に安全な距離でしたが、今は人体に致命的な影響を与えるほどに瘴気の濃度が高く、この吸気浄化マスクの処理能力のギリギリといった所です」
 私が瘴気を吸収しながら進んだとしても、皆に瘴気が向かっていかない訳ではなく、吸気浄化マスクも役に立たないのであれば、彼らが耐え切れず死んでしまうのは確実だ。
「カグヤよ。この過酷な実状を目の当たりにしても尚、君はまだこの地を救おうと考えるのかね?」
「……勿論、恐怖はあります。ですが、やはり私以外に成し得る可能性を持つ者が居ない以上、挑戦しない訳にはいかないでしょう」
 いつかは誰かが挑まなければならない。
 その「いつか」が「今夜」なのだと捉えている。
「カグヤ殿の『|夜陰を急ぐ密行者《シークレット・エクスプレス》』ならば、源泉のすぐ隣に転移すればすぐに済むのでは?」
 ヴェセルがそう提案したが、
「残念ながら、|魔素《マナ》や魔力の勢力が強過ぎる場所では、魔法を乱されて転移が叶わないのです。今までの源泉も可能な限り近い、転移可能なギリギリの地点を座標に設定していました。『リュミスの|咢《あぎと》』の瘴気はそれをも上回っているため、今居るここが転移の限界地点なのです」
「それ|即《すなわ》ち、これ以上は『|夜陰を急ぐ密行者《シークレット・エクスプレス》』では近付けない上、窮地に至っても転移で離脱できぬということでもある。それに瘴気に対して完全耐性を持つのは其方とダスクのみ。たった二人で巨大ドラゴンを倒し、『リュミスの|咢《あぎと》』を鎮めるなぞ無謀の極みと思うが……」
 クレオーズがチラリとダスクを見遣る。
 私に唯一同行できる彼が反対すれば、考えを改めてくれるのではないかと期待しているようだ。
「……『リュミスの|咢《あぎと》』については俺も知識がほとんど無いが、カルディス殿下もあそこには関わらない方がいいと言っていた」
 ダスクが同行しなければ私一人で全てをこなさなくてはならず負担が増える上、傍近くで誰も支えてくれないというのは精神的にも不安だ。
「だが、カグヤはもう決心しているようだ。彼女が考えを改めるとすれば、実際に挑戦してその困難を肌身で感じてからだろう。諦めさせるためにも、ここは一度やらせてみてもいいんじゃないか?」
 私の背中を押すためか、それとも言葉通り愚かな決意を改めさせるためか、どちらかは分からない。
「瘴気の勢力が強いってことは、|件《くだん》のドラゴンだけじゃなく、他の魔物も今まで遭遇したものとは比較にならないほど強いってことだよ? いくら君たちでも荷が重いと思うけど……」
「その通りだ。しかし瘴気で力が増すのは俺とカグヤも同じ。転移に頼れずとも、自分の足や魔法で逃げるくらいはできるだろう。何があってもカグヤは生きて帰す」
 最優先は私の生命。
「……分かった。そこまで言うのであれば、挑んでみるがいい」
 ただし、とオズガルドが二本指を立てる。
「二時間だ。二時間が経過したら、例え何があろうとその場を離れて帰って来ること。いいね?」
 通常規模の源泉であれば、順調に行けば一ヶ所につき三十分程度で吸収完了だったが、今回は現在位置から先で空間転移が使えないため、移動に時間と体力と魔力を費やすことになる。
「分かりました。二時間ですね」
「状況次第では少しばかり遅れるかも知れないが、その時は大目に見てくれ」
 向かうは生命無き魔境。
 待ち受けるは最強最大の龍。