夜は、紙のように薄かった。
触れれば裂けそうな静けさの中を、俺はそっと身を滑らせる。
路地の石は冷えて、足の裏に冬の気配を染み込ませてきた。
そのとき、遠くに揺れる光。
自転車のライトが、風にゆらぐ炎みたいに近づいてくる。
俺は物陰に身を寄せ、耳を立てた。
しゃり、しゃり。
チェーンの擦れる音が夜を細く切り分ける。
ペダルを踏む老人の影が、路地の壁にのびる。
そして、不意に歌声が落ちてきた。
「なんで私を忘れたのー」
古い歌謡曲。
メロディは時代遅れかもしれないのに、声は不思議とあたたかかった。
かすれているのに、まっすぐで。
その声だけで、ずいぶん長い人生を背負っているように聞こえた。
俺は耳を澄ました。
歌詞の奥にある''誰か''を思う気持ちが、夜に溶けていく。
人間って、こんなふうに胸の奥を鳴らしながら生きてるのか。
そう思うと、胸のどこかがじん、と揺れた。
自転車はやがて角を曲がり、歌声も遠ざかる。
路地に戻った静けさは、さっきよりすこしだけあたたかかった。
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《自由詩》
忘れられた歌が夜に漂い、
小さな耳が静かに聴く。