ฅ0. 未生猫βの場合
ー/ー 私は猫である。名前はまだ無い。
というか、まだ生まれてもいない。したがって名前どころか、実際のところ猫であるのかどうかも今もって不明である。
しかしながら、私の身体はすでに、私を形作る程度には出来上がっており、その細胞たちが確信しているわけである。「我が胚は猫である」と。
では、私は何ゆえに猫たりうるのか。この細胞の元となっている、いわゆる親が猫であるからか。それは実に蓋然性の高い説である。しかし、それを真とするというなら、世界に猫を定義する際にその親が猫である前提が必要になる。その場合、その親は何ゆえに猫であるのかという疑問が生じ、振り出しに戻るのである。
かくして、私は思索する。私を猫たらしめる、言うなれば「猫性」とは一体何であろうか。細胞の語るところによると、私が歩むであろう姿が見えてくるが、そこに答えはあるのか。
四本の足で歩くことがそうか。否、それは猫だけではない。毛玉を吐くことがそうか。だが、それでは何らかの理由で毛玉を吐かなくなった瞬間に猫でなくなるというのか…根源的ではなさそうである。魚を好むことがそうか。ところが、それは性質によりけりではないのか。
ならば、「にゃあ」と鳴くことが、猫の本質だろうか。これも、可能性としては高そうだが、今のところ私は私の声を知らないので確かめようがない。そもそも鳴けないかもしれないし、あるいは「にゃあ」と表記できない鳴き声であるかもしれない。それらの場合、私は何になるのだろうか。
発想を変えよう。こうして、自分とは何者であるかどうか感じている、この疑念はどうだろうか。…ふむ、細胞も、猫は懐疑的な生物であることを否定しない。見知らぬものには慎重に近づき、安全を確認すると…その用心深さが、私をして自らの本質をも疑わしめている可能性がある。疑うことこそが私の本質──疑うゆえに私は猫であると言えるだろうか。
──否。そうであるとすると、猫以外の全ての生物は疑わないのか。それも疑わしい…却下だ。
ฅ
はて。ひとつ奇妙なことに気づいた。私はこれほど自分の猫性を疑っているが、私は少なくとも私が猫以外の何かであるという可能性を考えていないのである。すなわち、私は絶対的に猫であるとは呼べないかもしれないが、ある程度までは自分を猫かもしれないと規定して、この思考を行っているのだ。
当然かもしれないが、猫は猫として世界を見る存在である。視点、あるいは感性、対象への距離の取り方…それら、「猫らしい」視座こそが猫性の本質かもしれない。であるなら、この見方をしている時点で、私はすでに猫と言えるのではないか。
しかし、この論にも弱点がある。それは、私が自分を「猫かもしれないと思って世界を見ている」という前提が誤っているかもしれないからだ。なにせ、私には比較の対象がないわけだから、これまた確かめようがない。
かくして、私の思索は巡りめぐり旅を続ける。そうこうしている間に、私の身体は大きくなっていく。かくなる上は、とりあえずただの毛玉と思って生まれてみるしかあるまい。
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私は猫である。名前はまだ無い。
というか、まだ生まれてもいない。したがって名前どころか、実際のところ猫であるのかどうかも今もって不明である。
しかしながら、私の身体はすでに、私を形作る程度には出来上がっており、その細胞たちが確信しているわけである。「我が胚は猫である」と。
では、私は何ゆえに猫たりうるのか。この細胞の元となっている、いわゆる親が猫であるからか。それは実に蓋然性の高い説である。しかし、それを真とするというなら、世界に猫を定義する際にその親が猫である前提が必要になる。その場合、その親は何ゆえに猫であるのかという疑問が生じ、振り出しに戻るのである。
かくして、私は思索する。私を猫たらしめる、言うなれば「猫性」とは一体何であろうか。細胞の語るところによると、私が歩むであろう姿が見えてくるが、そこに答えはあるのか。
四本の足で歩くことがそうか。否、それは猫だけではない。毛玉を吐くことがそうか。だが、それでは何らかの理由で毛玉を吐かなくなった瞬間に猫でなくなるというのか…根源的ではなさそうである。魚を好むことがそうか。ところが、それは性質によりけりではないのか。
ならば、「にゃあ」と鳴くことが、猫の本質だろうか。これも、可能性としては高そうだが、今のところ私は私の声を知らないので確かめようがない。そもそも鳴けないかもしれないし、あるいは「にゃあ」と表記できない鳴き声であるかもしれない。それらの場合、私は何になるのだろうか。
発想を変えよう。こうして、自分とは何者であるかどうか感じている、この疑念はどうだろうか。…ふむ、細胞も、猫は懐疑的な生物であることを否定しない。見知らぬものには慎重に近づき、安全を確認すると…その用心深さが、私をして自らの本質をも疑わしめている可能性がある。疑うことこそが私の本質──疑うゆえに私は猫であると言えるだろうか。
──否。そうであるとすると、猫以外の全ての生物は疑わないのか。それも疑わしい…却下だ。
ฅ
はて。ひとつ奇妙なことに気づいた。私はこれほど自分の猫性を疑っているが、私は少なくとも私が猫以外の何かであるという可能性を考えていないのである。すなわち、私は絶対的に猫であるとは呼べないかもしれないが、ある程度までは自分を猫かもしれないと規定して、この思考を行っているのだ。
当然かもしれないが、猫は猫として世界を見る存在である。視点、あるいは感性、対象への距離の取り方…それら、「猫らしい」視座こそが猫性の本質かもしれない。であるなら、この見方をしている時点で、私はすでに猫と言えるのではないか。
しかし、この論にも弱点がある。それは、私が自分を「猫かもしれないと思って世界を見ている」という前提が誤っているかもしれないからだ。なにせ、私には比較の対象がないわけだから、これまた確かめようがない。
かくして、私の思索は巡りめぐり旅を続ける。そうこうしている間に、私の身体は大きくなっていく。かくなる上は、とりあえずただの毛玉と思って生まれてみるしかあるまい。