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276 予算オーバー

ー/ー



 藤城皐月(ふじしろさつき)明日美(あすみ)の住むマンションの前までやって来た。この時、皐月は初めて一人でここを訪れた時とは違う緊張を感じていた。
 プライベートの明日美と外出し、買い物をして外食をする。これではまるで大人の恋愛のようだ。皐月は期待と不安で気持ちが高まってきた。
 オートロックに部屋番号を入力した後、明日美に教えてもらった暗証番号を打ち込み、エントランスのロックを開けた。エレベーターに乗り込んで、10階で降りた。
 外廊下からは豊川稲荷(とよかわいなり)大本殿(だいほんでん)がよく見えた。この景色は栗林真理(くりばやしまり)のマンションから見える豊川(とよかわ)駅の構内に並ぶいい眺めだ。

 明日美の部屋の玄関のチャイムを押した。
「皐月だよ」
「今、開けるね」
 明日美の声が返ってきてからドアが開くまでのわずかな時間が一番ドキドキする。これは真理に会う時と同じ感覚だ。
「入って」
 明日美のあまりの美しさに皐月は息を飲んだ。芸妓(げいこ)姿の時や稽古の時とは違う、余所行きの大人の明日美だった。
 皐月は髪をまとめていない明日美を初めて見た。ラフで大きめのウェーブがかかったセミロングは上品で美しく、柔らかさや凛々しさを感じる。メイクはナチュラルだが、目と口に色気がある。香水もいつもと違い、子供の皐月には近寄りがたいものがあった。
「どうしたの?」
「あっ……うん。明日美って本当に世界一綺麗だなって思って……」
「ありがとう。久しぶりにその言葉を聞いたような気がする」
「そんなことないだろ……」
 昔のように明日美に抱き寄せられ、頬にキスをされた。以前ならこめかみあたりに口づけをされていたが、皐月の背は高くなっている。いつか背伸びをしてキスさせてやろうと思いながら、皐月は明日美の口にキスをした。
「これから出かけるんだから……」
 もう一度だけ軽く唇を合わせ、リビングに入った。

 相変わらず何もない白い部屋だ。皐月はこの無機質な部屋に居心地の悪さを感じている。
 明日美のコーデはトップスにオフホワイトのニットと、ティアードフリルのチェック柄のスカートだ。今日もリップの赤さが艶めかしく浮き上がっている。
「皐月が着ている服、百合(ゆり)姐さんが選んだの? いつもと雰囲気が違う」
「ママの選ぶ服はまだ似合わないと思うんだよね。なんか若々しくない感じがしてさ」
「そんなことないよ。似合ってるし、落ち着いて見えるよ。高校生って言っても信じちゃうかもしれない」
「俺、そういうのって好みじゃないんだよな……。もっと格好いい服が着たい」
 小百合(さゆり)が選んだ服を明日美が似合っていると言ったことが皐月には意外だった。自分では似合っていないと思っていただけに、皐月は服のセンスに自信が持てなくなった。
 冬でも半袖半ズボンが格好いいと自慢気に言った時、入屋千智(いりやちさと)に微妙な反応をされた時のことを思い出した。明日美との会話でその時のことを連想して、恥ずかしくなった。
「とりあえず座って。皐月、何か飲む?」
「ううん。今はいい」
「じゃあ私もやめておこうかな」

 皐月と明日美は隣り合って座り、皐月は小百合から預かっていた封筒をテーブルの上に置いた。
「これ、ママから。衣装代と食事代だって」
「いいよ。これは受け取れない」
「そんな……困るよ。俺、ママに怒られちゃう」
「じゃあ、私に渡したことにして皐月の修学旅行のお小遣いにでもしちゃえばいいのよ」
「ええっ……」
「服は最初から私が買ってあげるつもりだったのよ。それに、この日をずっと楽しみにしていたんだから。ねっ?」
 楽しそうに話す明日美の真意が皐月にはよくわからなかった。二人の年齢差を考えると、どうも子どもに服を買ってやるようにしか思えないからだ。自分に経済力がないので立場が対等ではないから、単純にプレゼントだと喜べない。
「いいのかな……」
「何? 急にいい子になっちゃって。私にこんなことする悪い子のくせに」
 明日美からキスをしてきた。明日美にキスをされるのは慣れていたが、明日美から唇にキスをしてくるのは皐月には初体験だった。
「あ〜あ。口紅が着いちゃった。塗ってあげるね」
 明日美が笑いながら、リップのついた皐月の唇を指でゴシゴシと擦った。皐月はもっとキスをしたかったが、明日美の無邪気な顔を見ていると、また後でいいやという気になった。今ここで変な気分になると、買い物どころではなくなってしまうからだ。

「ねえ、皐月。出かける前に行き先を確認しておきたいんだけど、どこか行きたい店はあるの? 私も一応調べてみたんだけど、まずは皐月の行きたいところを教えてもらいたいな」
 皐月はスマホを取り出して、明日美にマップを見せた。メンズ服で検索した時のリストの中に候補があるので、気になる店の検索結果をタップして、店舗情報を出した。
「俺はこの『コンパル』っていう服屋がいいなって思ったんだけど、ちょっと価格が高いんだよね。予算内で買えないから、ここはパス。あとは――」
「いいよ。ここにしよ」
「えっ! まだ他にも候補があるよ?」
「だって、皐月は『コンパル』がいいんでしょ? でも、お金のことで妥協したんだよね? それならここでいいじゃない」
 明日美の決断の速さに皐月は驚いた。
「……ここって上下セットで買うと4万も5万もするよ? 服代、1万しかもらっていないから、いくらなんでも予算オーバーし過ぎだよ」
「皐月はお金の心配なんてしなくてもいいの。お金は私が出すんだから」
「でも、買った服見せたら、ママだっておかしいって気付くよ」
「大丈夫だって。もし百合姐さんに気付かれても、何か言われるのは私だから。それに百合姐さんはそんなことじゃ怒らないよ。心配しないで」
「……うん」
「じゃあ、この話はこれでおしまい! さあ、行きましょう。皐月と買い物なんて楽しみだな」
 明日美が席を立ったので、皐月も母から預かった封筒をチノパンのポケットに突っ込んで立ち上がった。



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 |藤城皐月《ふじしろさつき》は|明日美《あすみ》の住むマンションの前までやって来た。この時、皐月は初めて一人でここを訪れた時とは違う緊張を感じていた。
 プライベートの明日美と外出し、買い物をして外食をする。これではまるで大人の恋愛のようだ。皐月は期待と不安で気持ちが高まってきた。
 オートロックに部屋番号を入力した後、明日美に教えてもらった暗証番号を打ち込み、エントランスのロックを開けた。エレベーターに乗り込んで、10階で降りた。
 外廊下からは|豊川稲荷《とよかわいなり》の|大本殿《だいほんでん》がよく見えた。この景色は|栗林真理《くりばやしまり》のマンションから見える|豊川《とよかわ》駅の構内に並ぶいい眺めだ。
 明日美の部屋の玄関のチャイムを押した。
「皐月だよ」
「今、開けるね」
 明日美の声が返ってきてからドアが開くまでのわずかな時間が一番ドキドキする。これは真理に会う時と同じ感覚だ。
「入って」
 明日美のあまりの美しさに皐月は息を飲んだ。|芸妓《げいこ》姿の時や稽古の時とは違う、余所行きの大人の明日美だった。
 皐月は髪をまとめていない明日美を初めて見た。ラフで大きめのウェーブがかかったセミロングは上品で美しく、柔らかさや凛々しさを感じる。メイクはナチュラルだが、目と口に色気がある。香水もいつもと違い、子供の皐月には近寄りがたいものがあった。
「どうしたの?」
「あっ……うん。明日美って本当に世界一綺麗だなって思って……」
「ありがとう。久しぶりにその言葉を聞いたような気がする」
「そんなことないだろ……」
 昔のように明日美に抱き寄せられ、頬にキスをされた。以前ならこめかみあたりに口づけをされていたが、皐月の背は高くなっている。いつか背伸びをしてキスさせてやろうと思いながら、皐月は明日美の口にキスをした。
「これから出かけるんだから……」
 もう一度だけ軽く唇を合わせ、リビングに入った。
 相変わらず何もない白い部屋だ。皐月はこの無機質な部屋に居心地の悪さを感じている。
 明日美のコーデはトップスにオフホワイトのニットと、ティアードフリルのチェック柄のスカートだ。今日もリップの赤さが艶めかしく浮き上がっている。
「皐月が着ている服、|百合《ゆり》姐さんが選んだの? いつもと雰囲気が違う」
「ママの選ぶ服はまだ似合わないと思うんだよね。なんか若々しくない感じがしてさ」
「そんなことないよ。似合ってるし、落ち着いて見えるよ。高校生って言っても信じちゃうかもしれない」
「俺、そういうのって好みじゃないんだよな……。もっと格好いい服が着たい」
 |小百合《さゆり》が選んだ服を明日美が似合っていると言ったことが皐月には意外だった。自分では似合っていないと思っていただけに、皐月は服のセンスに自信が持てなくなった。
 冬でも半袖半ズボンが格好いいと自慢気に言った時、|入屋千智《いりやちさと》に微妙な反応をされた時のことを思い出した。明日美との会話でその時のことを連想して、恥ずかしくなった。
「とりあえず座って。皐月、何か飲む?」
「ううん。今はいい」
「じゃあ私もやめておこうかな」
 皐月と明日美は隣り合って座り、皐月は小百合から預かっていた封筒をテーブルの上に置いた。
「これ、ママから。衣装代と食事代だって」
「いいよ。これは受け取れない」
「そんな……困るよ。俺、ママに怒られちゃう」
「じゃあ、私に渡したことにして皐月の修学旅行のお小遣いにでもしちゃえばいいのよ」
「ええっ……」
「服は最初から私が買ってあげるつもりだったのよ。それに、この日をずっと楽しみにしていたんだから。ねっ?」
 楽しそうに話す明日美の真意が皐月にはよくわからなかった。二人の年齢差を考えると、どうも子どもに服を買ってやるようにしか思えないからだ。自分に経済力がないので立場が対等ではないから、単純にプレゼントだと喜べない。
「いいのかな……」
「何? 急にいい子になっちゃって。私にこんなことする悪い子のくせに」
 明日美からキスをしてきた。明日美にキスをされるのは慣れていたが、明日美から唇にキスをしてくるのは皐月には初体験だった。
「あ〜あ。口紅が着いちゃった。塗ってあげるね」
 明日美が笑いながら、リップのついた皐月の唇を指でゴシゴシと擦った。皐月はもっとキスをしたかったが、明日美の無邪気な顔を見ていると、また後でいいやという気になった。今ここで変な気分になると、買い物どころではなくなってしまうからだ。
「ねえ、皐月。出かける前に行き先を確認しておきたいんだけど、どこか行きたい店はあるの? 私も一応調べてみたんだけど、まずは皐月の行きたいところを教えてもらいたいな」
 皐月はスマホを取り出して、明日美にマップを見せた。メンズ服で検索した時のリストの中に候補があるので、気になる店の検索結果をタップして、店舗情報を出した。
「俺はこの『コンパル』っていう服屋がいいなって思ったんだけど、ちょっと価格が高いんだよね。予算内で買えないから、ここはパス。あとは――」
「いいよ。ここにしよ」
「えっ! まだ他にも候補があるよ?」
「だって、皐月は『コンパル』がいいんでしょ? でも、お金のことで妥協したんだよね? それならここでいいじゃない」
 明日美の決断の速さに皐月は驚いた。
「……ここって上下セットで買うと4万も5万もするよ? 服代、1万しかもらっていないから、いくらなんでも予算オーバーし過ぎだよ」
「皐月はお金の心配なんてしなくてもいいの。お金は私が出すんだから」
「でも、買った服見せたら、ママだっておかしいって気付くよ」
「大丈夫だって。もし百合姐さんに気付かれても、何か言われるのは私だから。それに百合姐さんはそんなことじゃ怒らないよ。心配しないで」
「……うん」
「じゃあ、この話はこれでおしまい! さあ、行きましょう。皐月と買い物なんて楽しみだな」
 明日美が席を立ったので、皐月も母から預かった封筒をチノパンのポケットに突っ込んで立ち上がった。