街路灯
ー/ー 久しぶりに、趣味のサイクリングに興じてみようと思った。
時刻はすでに14時を過ぎていた。この季節、暗くなるのはあっという間だ。
だから、近場をぷらぷらとあてどなく走るポタリングにしようと決めた。
自転車にまたがる。
早速漕ぎ出そうとすると、チェーンがキャラキャラと鳴いた。
そういえば、最近まったくメンテナンスをしていなかったことを思い出す。
このまま騒がしく走行するのもなんだかみっともない。自身の怠惰を喧伝しているようなものだ。
そうして最低限の手入れをしてやると、時刻は15時を過ぎていた。
日が傾きつつある時間だ。私は急かされるように出発した。
もう数えきれないだけ通ってきた河川敷までの道を、あっという間に通過する。
そうして河川敷へと上がる急な上り坂に、勢いを保ったまま一気に侵入した。
久しぶりの立ち漕ぎに、やや息が上がる。登り切ると、血流が足に集まっている熱を感じた。
視界が開ける。
広がる田園風景と、彼方の山々。
朱と金の混ざった空が、どこまでも広がっていた。
「————」
熱を帯び始めた全身を、風が冷ます。
息を整える。
水分を2口だけ摂る間も、私の視線は動かなかった。
どこへ行こうかは、この時に決めた。
あの、彼方に見える山へ行こう。
行ったことはある。数年前だが、経験がある以上は行けないことはないはずだった。
それはもう、ポタリングとは到底言えない走行距離になる。
日が沈んだら帰ろうと決めていた私にとって、それは絶対に到達できない目標地点だった。
懸命に漕いだ。
息を弾ませて、とにかく漕いだ。
そうしているうちに、私はすこしずつ以前の自分を取り戻していた。
前後のギアも、今の自身に合わせられるようになってくる。
自転車とはそもそも長距離を行くものであるし、ギアは加速装置ではない。
速度を出したいから重くするのではなく、これは常に足の回転数を一定に保つために用いる道具だったことを、脚と指先が思い出していた。
力ではなく、呼吸で回す。
気持ちやや軽く感じる程度のギアで、くるくると。
常に一定。保ち続ける。
一定の力み。
一定の呼吸。
一定の休息と、その度に2口分の水分補給。
全てが調和したような無心の感覚が、身体の芯に確かに感じられた。
「……………………無理か」
点々と灯る街灯。
視線の先に、道はどこまでも続いている。
紺色のシルエットとなった山々と、一際美しい稜線を描く霊峰。
まだ行けるという執着に、私はあえて終わりを口にしなければならなかった。
数年前の記憶を頼りにここまで来た。
それでも、数年の間に思い出と現実には齟齬が生まれ、知らないものが建ち、心地よかったものは消えていた。
まるきり初めてのような、もしかするとそうでないような、そんな曖昧な道を進んできたために、私は疲労の割に山には近づいていなかったことを知るのだった。
視線を彼方から引き剥がす。
身体ごと反転すれば、もう完全に夜が追いついていたことに愕然とした。
皓々とした月が、コバルトブルーの空に浮かんでいる。
立ち止まったから以上に、風の冷たさに震えた。
ライトを点滅させる。
チカッ、チカッ————チカチカッ
一定の間隔で、視界に白い楕円形が浮かぶ。
チカッ、チカッ————チカチカッ
それを眩しいと思うこともなく、私は急かされるように来た道を辿るのだった。
ちゃんと帰れるだろうか————そんなおかしな不安がよぎった気がする。
————そうして、そこを進んでいた。
暗い、街路灯の一つもない、ただの一本道。
以前書いた小説で、主人公とその幼馴染が共に歩き、大切な時を過ごした河川敷。そのモデルとした場所だった。
ここは本当に暗い。
右も左も川に挟まれている、街から切り離されている空間。
遥か前方には、川を横断する大きな橋が架かっている。
遥か後方には、これまた川を横断する大きな橋が架かっている。
風だけが、街の息遣いのような車の走行音やサイレンの音を、夢のように遠い存在として届けてくれる。
それが一層に現実感を希薄化させ、ふわふわとした不思議な浮遊感を自覚するのだった。
チカッ、チカッ————チカチカッ
ライトだけが、道を照らす唯一の光源だった。
漆黒の中、この『チカ』の間だけ道が生まれているような、そんな錯覚が何よりも現実感を持っていた。
チカッ、チカッ————チカチカッ
見えた瞬間に道の状態を確認し、石があれば避け、路面が悪ければ衝撃に備える。
そんなことを、もうずっと……何年もやって来た気がする。
そう思ってしまったから、つい————
チカッ、チカッ————————
————つい、いや……遂に。
私はライトを消灯してしまっていた。
「————————」
道が、照らされていた。
うっすらと、しかしはっきりと。
空には一層に輝きを増す、月白色の孔がある。
道にはくっきりと、私の影ができていた。
今なら濃い木陰すらできるかもしれない。
「————————」
本当にしずかだった。無粋な走行音も、チェーンの微かな軋みもない。漕ぐのを、私はいつの間にかやめていたからだ。
漕いでなくとも、自転車は惰性で緩やかに進む。
誰もいないのを良いことに、私は前もろくに見ることなく、ただ月を見上げていた。
いくらかあったはずの雲すらが、あの月光に吹き散らされたのだと思った。
「ッ!?」
ガクンッ、という衝撃。
路面がひび割れていたらしい。
本当に久しぶりという気持ちで、私は視線を前へやった。
いくらか橋は近づいていた。
等間隔のオレンジ色の街路灯が、ふわふわぽわぽわと浮いて見えた。
それがとても幻想的に見えて、私はそこへ向かおうと決めていた。行こうと決意していた。
それは、思えば不思議なことだった。
そもそも私は家へ帰ろうとしている。
そのためにここを通り、そして当然、進行方向の先にあるあの橋へ至り、通過し、過ぎて去る。行くのは家であり、そのためのただの通過点が橋だった。
しかし、このときの私はその橋へ「行こう」と思っていた。目指していた。
腰をサドルへ落とす。立っていたらしい。
ハンドルのグリップを握り直し、私は再び冷えた足へ熱を送った。
自転車は音もなく、緩やかに加速した。
時刻はすでに14時を過ぎていた。この季節、暗くなるのはあっという間だ。
だから、近場をぷらぷらとあてどなく走るポタリングにしようと決めた。
自転車にまたがる。
早速漕ぎ出そうとすると、チェーンがキャラキャラと鳴いた。
そういえば、最近まったくメンテナンスをしていなかったことを思い出す。
このまま騒がしく走行するのもなんだかみっともない。自身の怠惰を喧伝しているようなものだ。
そうして最低限の手入れをしてやると、時刻は15時を過ぎていた。
日が傾きつつある時間だ。私は急かされるように出発した。
もう数えきれないだけ通ってきた河川敷までの道を、あっという間に通過する。
そうして河川敷へと上がる急な上り坂に、勢いを保ったまま一気に侵入した。
久しぶりの立ち漕ぎに、やや息が上がる。登り切ると、血流が足に集まっている熱を感じた。
視界が開ける。
広がる田園風景と、彼方の山々。
朱と金の混ざった空が、どこまでも広がっていた。
「————」
熱を帯び始めた全身を、風が冷ます。
息を整える。
水分を2口だけ摂る間も、私の視線は動かなかった。
どこへ行こうかは、この時に決めた。
あの、彼方に見える山へ行こう。
行ったことはある。数年前だが、経験がある以上は行けないことはないはずだった。
それはもう、ポタリングとは到底言えない走行距離になる。
日が沈んだら帰ろうと決めていた私にとって、それは絶対に到達できない目標地点だった。
懸命に漕いだ。
息を弾ませて、とにかく漕いだ。
そうしているうちに、私はすこしずつ以前の自分を取り戻していた。
前後のギアも、今の自身に合わせられるようになってくる。
自転車とはそもそも長距離を行くものであるし、ギアは加速装置ではない。
速度を出したいから重くするのではなく、これは常に足の回転数を一定に保つために用いる道具だったことを、脚と指先が思い出していた。
力ではなく、呼吸で回す。
気持ちやや軽く感じる程度のギアで、くるくると。
常に一定。保ち続ける。
一定の力み。
一定の呼吸。
一定の休息と、その度に2口分の水分補給。
全てが調和したような無心の感覚が、身体の芯に確かに感じられた。
「……………………無理か」
点々と灯る街灯。
視線の先に、道はどこまでも続いている。
紺色のシルエットとなった山々と、一際美しい稜線を描く霊峰。
まだ行けるという執着に、私はあえて終わりを口にしなければならなかった。
数年前の記憶を頼りにここまで来た。
それでも、数年の間に思い出と現実には齟齬が生まれ、知らないものが建ち、心地よかったものは消えていた。
まるきり初めてのような、もしかするとそうでないような、そんな曖昧な道を進んできたために、私は疲労の割に山には近づいていなかったことを知るのだった。
視線を彼方から引き剥がす。
身体ごと反転すれば、もう完全に夜が追いついていたことに愕然とした。
皓々とした月が、コバルトブルーの空に浮かんでいる。
立ち止まったから以上に、風の冷たさに震えた。
ライトを点滅させる。
チカッ、チカッ————チカチカッ
一定の間隔で、視界に白い楕円形が浮かぶ。
チカッ、チカッ————チカチカッ
それを眩しいと思うこともなく、私は急かされるように来た道を辿るのだった。
ちゃんと帰れるだろうか————そんなおかしな不安がよぎった気がする。
————そうして、そこを進んでいた。
暗い、街路灯の一つもない、ただの一本道。
以前書いた小説で、主人公とその幼馴染が共に歩き、大切な時を過ごした河川敷。そのモデルとした場所だった。
ここは本当に暗い。
右も左も川に挟まれている、街から切り離されている空間。
遥か前方には、川を横断する大きな橋が架かっている。
遥か後方には、これまた川を横断する大きな橋が架かっている。
風だけが、街の息遣いのような車の走行音やサイレンの音を、夢のように遠い存在として届けてくれる。
それが一層に現実感を希薄化させ、ふわふわとした不思議な浮遊感を自覚するのだった。
チカッ、チカッ————チカチカッ
ライトだけが、道を照らす唯一の光源だった。
漆黒の中、この『チカ』の間だけ道が生まれているような、そんな錯覚が何よりも現実感を持っていた。
チカッ、チカッ————チカチカッ
見えた瞬間に道の状態を確認し、石があれば避け、路面が悪ければ衝撃に備える。
そんなことを、もうずっと……何年もやって来た気がする。
そう思ってしまったから、つい————
チカッ、チカッ————————
————つい、いや……遂に。
私はライトを消灯してしまっていた。
「————————」
道が、照らされていた。
うっすらと、しかしはっきりと。
空には一層に輝きを増す、月白色の孔がある。
道にはくっきりと、私の影ができていた。
今なら濃い木陰すらできるかもしれない。
「————————」
本当にしずかだった。無粋な走行音も、チェーンの微かな軋みもない。漕ぐのを、私はいつの間にかやめていたからだ。
漕いでなくとも、自転車は惰性で緩やかに進む。
誰もいないのを良いことに、私は前もろくに見ることなく、ただ月を見上げていた。
いくらかあったはずの雲すらが、あの月光に吹き散らされたのだと思った。
「ッ!?」
ガクンッ、という衝撃。
路面がひび割れていたらしい。
本当に久しぶりという気持ちで、私は視線を前へやった。
いくらか橋は近づいていた。
等間隔のオレンジ色の街路灯が、ふわふわぽわぽわと浮いて見えた。
それがとても幻想的に見えて、私はそこへ向かおうと決めていた。行こうと決意していた。
それは、思えば不思議なことだった。
そもそも私は家へ帰ろうとしている。
そのためにここを通り、そして当然、進行方向の先にあるあの橋へ至り、通過し、過ぎて去る。行くのは家であり、そのためのただの通過点が橋だった。
しかし、このときの私はその橋へ「行こう」と思っていた。目指していた。
腰をサドルへ落とす。立っていたらしい。
ハンドルのグリップを握り直し、私は再び冷えた足へ熱を送った。
自転車は音もなく、緩やかに加速した。
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