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触れる

ー/ー




 それは、ただの思いつきだった。
 しかし、不思議と説得力のある思いつきだった。

 私は日々多くのものを見ている。
 子どもの頃と比して、視界に捉える情報は年々膨大になり、煩雑になり、常に意識して整理する必要を生じるほどに視覚を酷使している。

 それが年々甚だしくなっていく中で、私はどこか満たされないものを抱えていた。

 紅茶に傾倒し、慣れない香水にも手を出した。
 忙しい中にも、ふと見つける心地の良い景色に癒された。
 落ち着いた雨の音が好きだったし、遠く聞こえる街の音も好きだった。
 甘いのも辛いのも好きだったけど、最近甘いものを摂りすぎて自制の必要を自覚しつつもあった。

 それでも、なにか足りなかった。
 思いつきは、その“なにか”は触覚だと私に告げた。

 考えてみれば、日々の中で触覚に楽しみを持つ経験を、私はしていない。
 見ることも聴くことも味わうことも香ることも、それなりに楽しみを持っている。

 けれど、触れる楽しみを、私は持たなかった。

 私の手が、指先が、最も記憶しているもの。
 それはおそらく、スマートフォンの硬質な触感か、キーボードのそれだろう。
 通勤の往復3時間は、ほとんど吊り革に触れてもいる。
 大体この3つが、日々の触れる記憶だった。

 それを、不思議と哀れに思った。
 私がではなく、この手が。この感覚が。
 孤独に残されているように感じた。

 思いついてから、私はすぐに身近なものを意識して触れた。

 本のざらつきに触れた。ティーカップの金彩と白磁の境界に触れた。木製家具のなめらかさに触れた。塗り壁の微かな凹凸に触れた。大黒柱のたしかさに触れた。

 実感が湧いてくる。今目の前にあるものが、立体の映像ではなく、確かな実体であるという確信を得る。
 触覚を意識するだけで、たとえば電車や車の車窓に感じていた、『この窓はディスプレイで、世界は狭く閉じている』や『自分はどこにも移動していない』というような、窒息しそうな妄想は鳴りをひそめた。

 この手に、四季を教えてやりたいと思った。
 漫然と過ぎ去るのではなく、確かに季節に触れ、記憶させてやりたい。
 
 秋はもう教えてやれた。
 紅葉にも落ち葉にも秋の空気にも触れ、記憶した。

 冬は今教えている。
 冷えたベンチにも、暖かな暖炉や薪にも、蕾にも触れ、しっかりと記憶した。もうじき雪にも触れられる。

 季節が進めば、この手は春を知り、夏を知り、再び秋を知るだろう。

 朝の目覚め。
 障子に触れる。微かに透明度を増した障子は、いつもよりゴワゴワしている。
 白い眩しさに目を細め、意を決して開く。
 窓と障子の間で冷やされた空気が、床にこぼれたのを足先に感じる。
 眩しい。

 窓に触れる。痛いほどに冷たい。少し力を込めて開け放った。擦れるような音をたてて、部屋と外はつながった。

 室内の熱が、一瞬にして散らされる。
 寒いと思ったのも一瞬で、すぐに寒さと痛さが曖昧に溶け合った。
 外は静かで、遠い場所で車が走っているのがなんとか聞こえる程度。
 どこかで暖炉を使っているのだろう。空気に、煙の匂いが混ざっている。
 雨の匂いも強く残っていた。
 深呼吸すると、冷気そのもののような澄明な空気が、肺の中まで痛いほどに透き通らせた。

 白い吐息が朝に霞む。


 生きている────


 ────そう、思えた。

 


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 それは、ただの思いつきだった。
 しかし、不思議と説得力のある思いつきだった。
 私は日々多くのものを見ている。
 子どもの頃と比して、視界に捉える情報は年々膨大になり、煩雑になり、常に意識して整理する必要を生じるほどに視覚を酷使している。
 それが年々甚だしくなっていく中で、私はどこか満たされないものを抱えていた。
 紅茶に傾倒し、慣れない香水にも手を出した。
 忙しい中にも、ふと見つける心地の良い景色に癒された。
 落ち着いた雨の音が好きだったし、遠く聞こえる街の音も好きだった。
 甘いのも辛いのも好きだったけど、最近甘いものを摂りすぎて自制の必要を自覚しつつもあった。
 それでも、なにか足りなかった。
 思いつきは、その“なにか”は触覚だと私に告げた。
 考えてみれば、日々の中で触覚に楽しみを持つ経験を、私はしていない。
 見ることも聴くことも味わうことも香ることも、それなりに楽しみを持っている。
 けれど、触れる楽しみを、私は持たなかった。
 私の手が、指先が、最も記憶しているもの。
 それはおそらく、スマートフォンの硬質な触感か、キーボードのそれだろう。
 通勤の往復3時間は、ほとんど吊り革に触れてもいる。
 大体この3つが、日々の触れる記憶だった。
 それを、不思議と哀れに思った。
 私がではなく、この手が。この感覚が。
 孤独に残されているように感じた。
 思いついてから、私はすぐに身近なものを意識して触れた。
 本のざらつきに触れた。ティーカップの金彩と白磁の境界に触れた。木製家具のなめらかさに触れた。塗り壁の微かな凹凸に触れた。大黒柱のたしかさに触れた。
 実感が湧いてくる。今目の前にあるものが、立体の映像ではなく、確かな実体であるという確信を得る。
 触覚を意識するだけで、たとえば電車や車の車窓に感じていた、『この窓はディスプレイで、世界は狭く閉じている』や『自分はどこにも移動していない』というような、窒息しそうな妄想は鳴りをひそめた。
 この手に、四季を教えてやりたいと思った。
 漫然と過ぎ去るのではなく、確かに季節に触れ、記憶させてやりたい。
 秋はもう教えてやれた。
 紅葉にも落ち葉にも秋の空気にも触れ、記憶した。
 冬は今教えている。
 冷えたベンチにも、暖かな暖炉や薪にも、蕾にも触れ、しっかりと記憶した。もうじき雪にも触れられる。
 季節が進めば、この手は春を知り、夏を知り、再び秋を知るだろう。
 朝の目覚め。
 障子に触れる。微かに透明度を増した障子は、いつもよりゴワゴワしている。
 白い眩しさに目を細め、意を決して開く。
 窓と障子の間で冷やされた空気が、床にこぼれたのを足先に感じる。
 眩しい。
 窓に触れる。痛いほどに冷たい。少し力を込めて開け放った。擦れるような音をたてて、部屋と外はつながった。
 室内の熱が、一瞬にして散らされる。
 寒いと思ったのも一瞬で、すぐに寒さと痛さが曖昧に溶け合った。
 外は静かで、遠い場所で車が走っているのがなんとか聞こえる程度。
 どこかで暖炉を使っているのだろう。空気に、煙の匂いが混ざっている。
 雨の匂いも強く残っていた。
 深呼吸すると、冷気そのもののような澄明な空気が、肺の中まで痛いほどに透き通らせた。
 白い吐息が朝に霞む。
 生きている────
 ────そう、思えた。